創作のヒントⅡ~短編小説へアプローチ

帯広図書館文章教室

 始めまして、五嶋純有といいます。
 職業は、中学校の教員です。

 現在、帯広市図書館から発行されている「市民文藝」の編集委員長と、十勝毎日新聞の日曜日に掲載されている「郷土作家アンソロジー」の選考委員をさせていただいています。
 このような選考委員の仕事は、特にやりたくてやっているわけではないのですが、創作活動をしていく上で自分自身の刺激や勉強にもなりますし、またコツコツと執筆活動をされている管内の書き手の皆さんを支援していきたいし、何らかのアドバイスを通して創作への手助けになればと思って続けさせてもらっています。

 

 さて、1年前に「創作のヒント」というタイトルで「短編小説の発想から完成まで」について話をさせていただきました。このときは、浮かんできたアイデアというのもを核にして、どんな手法で物語を頭の中で作り上げ、そして実際に作品として仕上げていくかという作業の流れの観点から話をしました。そして、実際に仕上がった作品もその場で読み上げて、できるだけ創作の手順に沿った話をさせていただきました。
 今回も、実際の僕の作品を使いながら、短編小説の書き方について話をしてみたいと思います。ただし今回は、前回とすこしだけ視点を変えて、ストーリー展開の面白さに主眼をおいたエンターテイメント的な作品と、登場人物の人間性を浮き彫りにすることに主眼を置いた純文学的な作品の2作品を具体例として取り上げあげながら、小説へのアプローチの仕方といったものを話してみたいと思います。

 

 まず最初に取り上げるのは、「卒業式よ 永遠なれ」という小説です。
 これは2005年(平成17年)6月に十勝毎日新聞紙で発表した原稿用紙16枚の短編小説です。
 この小説は、端的に言って、起承転結の物語展開を楽しんでもらうためだけに書いた話です。読者にハラハラ、ドキドキ感を味わってもらう。この先、主人公に、いったいどのような出来事が待ち受けているのか、そういったことへの読者の興味、関心を煽り立てて、最後まで一気に読んでもらう。そういうことを主目的に書いた小説です。
 そのために、最後のどんでん返しを読者にちらつかせながらも、あえて明確に書かないといったテクニックを使ったりもしています。他に、エンターテエメント的な手法としては、会話のやりとりといったものを、リズミカルになるように、また掛け合い漫才のような突っ込みあいの楽しさがあるように工夫しています。
 登場人物の人間味だとか深みだとか、心の襞だとか陰影だとか、そいういったもとは、2の次、3の次に置いていて、一読したときの楽しさ面白さを最優先します。
(中身がないと言えば、そういう指摘も当たっていると思います)
 さて、それでは、今回の「卒業式よ 永遠なれ」という小説ですが、高校の卒業式において、卒業生の主人公が、自分の好きな女の子の名前を、ステージ上から大きな声で告白しちゃう、というハチャメチャな場面を描けないだろうか、といった発想が最初にありました。
 ここが、創作のスタート地点です。
(昔のテレビ番組で、校舎の屋上から、生徒が、好きな女の子の名前を大声で告白する「V6の学校へ行こう」なんて番組がありました。あれがヒントになっていたような記憶があります)
 作者として次にすることは、どういった経緯から、在校生、先生方、保護者も列席している厳粛な高校の卒業式の会場で、ステージ上から、自分の好きな女の子の名前を告白するような状況に至ったのか、という経緯、原因を考えていくことになります。
 皆さんだったら、どういった理由、状況を考えますか。
 クライマックスを先に決めて、その場面に話を持っていくために、一見ばかばかしいように思えるアイディアを色々と出してみたり、煮詰めていくといったことも、小説家にとって大切な作業のひとつです。
  主人公の男の子は、何らかの理由によって自分から積極的に告白しようとしたのだろうか。あるいは誰かに脅迫されるか脅されるかして、やむを得ず告白せざるを得ない状況に至っってしまったのか。それとも、誰かと賭け事でもして、負けた罰として告白することにいたったのか? そんないくつかの選択肢が浮かびます。
 まず自ら積極的に告白するとした場合、告白する場面だけを描くのであれば、それなりに面白い話が書けるかもしれません。でも、そこに至る紆余曲折のあるドラマとしては成立しにくいものです。2番目の、誰かに脅かされて告白する、なんてなると物語自体が、あまりに深刻で、暗くなってしまう。いちおう高校生を主人公にした爽やかな青春小説ですから、明るくカラット行きたい。
 ということで、3番目の原因、友人と賭をして負けたことの罰ゲームとして告白することになったという設定にしました。
 であれば、主人公は、誰と、どういった賭をしたのか。という細かな設定に入っていきます。
 賭ですから、主人公が負ける場合と、逆に勝つ場合がある。罰ゲームは、お互いにフィフティ・フィフティじゃなくてはなりません。それでは、どんな賭がいいのか?
 というふうに考えていって、僕が至った結論は、自分が勝てば相手が好きな女の子の名前をステージで告白する。相手が勝てば自分が告白する。そんな罰ゲームにしてはどうか。
 ただし、告白するとしても、卒業式に誰でも彼でもステージ上に乗る訳ではありません。答辞を読む生徒とか、学級を代表して卒業証書を受け取る生徒とか、ある程度範疇が限られてきます。登場人物は、そういった立場の二人に決めました。
 それでは、賭の内容はどういったものがいいのか。あんまり深刻な内容の賭にしたくはありません。大学受験期の高校3年生だから、希望の大学の合格、不合格というものを、賭に使ってはどうだろうかというのが、ありふれてはいるけれど、使えそうな内容だと考えました。
 主人公は、親しい友人から賭の誘いを受ける。友人が志望の大学に不合格だったら自分の好きな子の名前をステージ上から告白するから、逆に合格したら、主人公に好きな子の名前を告白すれと言う。
 と、いうように、少しずつ登場人物の立場だとか、背景となる状況を具体的に煮詰めていきます。
 主要な登場人物の立場、背景の環境が煮詰まってきたら、じゃあ、どういうふうに、ストーリーを展開させていくかという具体的な物語展開の構成に入っていきます。
 主人公の高校3年生。卒業を間近に控えて、好きな女の子に告白する決心を固め、下校する彼女を追いかける。でも、ストーカーと誤解されて、告白できないまま落ち込んでいる。そんなところに、主人公の友人がやってくる。友人は、高校卒業に向けて、何か楽しいことをやってみないかと誘ってくる。(校舎に大きないたずら書きのペイントを描くとか、ストリーキングをやるとか、等々)でも、落ち込んでいる主人公は、それに対して全く反応しない。そこで、友人が賭を申し出る。自分の希望する大学に不合格だったら、自分がステージ上で好きな子の名前を告白するから、逆に自分が合格したら、主人公に好きな子を告白するように誘う。
 主人公は、最初は賭に乗るつもりなんてなかったけれど、友人が大学に不合格になると確信してるから、ついつい賭に乗ってしまう。
 ここが、小説の展開の上で、重要なターニングポイントになっています。
 ところがどっこい、なんと主人公の予想に反して、相手の友人は大学に合格してしまう。さあ、なんと主人公は、卒業式の答辞の後に、ステージ上から好きな子の名前を告白しなくちゃならない状況に陥ってしまう。
 ・・・その結果、どうなるのか? といった具合です。
 賭に負けたから、主人公はステージ上から告白することを決断しなくちゃならない訳だけれど、はいそうですかと従順に進めていくだけじゃ話としてはつまらない。一発逆転で、相手の友人に、一矢報いなくては主人公の面目が立たない。
 であれば、二転三転していくストーリー展開を、作者として、どんなふうに考えていくか。
 併せて、エンターテインメント小説の手法の一つですが、展開の途中で、主人公が、一矢報いる策を練っているらしいという雰囲気を、読者に対してもそれとなく見せてくことも必要です。そんなふうに、いったい何が起こるんだろうと読者の興味をかき立てながら最後の場面まで物語を引っ張っていく。そういった手腕というのが、エンターテエメント系の小説には求められます。
 その一矢報いる策は、皆さんにはここで話しませんね。読者の立場になって、後ほど楽しんでもらいたいと思います。
 一発逆転のどんでん返しまでアイディアが煮詰まったら、いよいよパソコンの画面に向かって、キーボードを叩き始めます。
 初めて書く場合は、それぞれの場面を、だいたい何枚くらいというふうに事前に割り振りしておくのもいいかもしれません。
 それから、実際に書いていきながら、常に前後の描写の繋がりを調整しながら、話にずれがないように配慮していきます。もちろん、書き終わった部分を何度も読み直して、もっと適切な表現がないのか、効果的な書き方がないのか、直せるところは、どんどん直しながら、先を書いていくという作業になります。

 

 それでは、実際の完成された作品を読みます。

 

 さていかがでしょうか。まあ、特別たいした中身のある小説ではないので、単純に物語展開が楽しめたのなら、それで作者の意図が達成されというふうに考えます。
 僕が、この小説を実際に書き進めながら、特に配慮したのは、3点あります。
 1つは、友人のアツシが現れて、主人公に賭を誘いかける場面です。二人の会話口調が軽妙でリズム感に溢れていることが大切だと考えました。
 逆に会話のやりとりが、平凡で、ありふれていて、中身も月並みだと、その段階で読者は興味を持って先を読み進めていこうという気持ちをなくしてしまいます。会話のリズム感、お互いの突っ込み合い、軽妙さ、この感覚を大切にしたいと思います。
 それと同時に、二人の会話を通して、どうして主人公が賭をする羽目になったのか、という経緯を、読者に納得させなくてはなりません。読者の腑に落ちるように、そういうことであれば賭をしてしまった主人公の気持ちも理解できるというように書き進めなくてはなりません。そのためには、何度でも書き直したりして、上手く繋がるように工夫しなくてはなりません。
 2つは、先ほどから話しているように、友人のアツシに一矢報いる策をどのようなものにするか。これは、僕も主人公になりきって真剣に悩み、考えました。
 悩んだ末に、アツシの好きな女の子の名前も、一緒に告白しちゃうという窮余の策を思いついたわけです。これは結構悩んで考えました。
 窮余の策については、前日の夜中に思いついたとだけ書いておいて、それについては読者にも、卒業式の場面までわざと明かさな方法をとりました。そうやって、読者の結末を早く知りたいという気持ちを最後まで引っ張っていく。これもテクニックのひとつです。
 3つめはエンディングですが、これも、エンターテイメント小説らしく、最後の最後に、もう一回どんでん返しをしたいと考えました。つまり、友人のアツシは、好きな女の子とつきあい始めることになったけど、自分は、好きな子とは全く進展がなかった、という落ちです。友人のアツシに一矢報いたつもりが、実は相手の恋愛を手伝う結果になってしまったという最後。どんでん返しの更なるどんでん返し。
  こんなふううに2転3転させる面白さは、これはエンターテイメント系の小説を書く上でのポイントだと考えます。
  こういうふうに二転三転していく物語展開を考えているだけで、創作って楽しいなという気がします。(楽しいのは、アイディア通りにうまく小説が仕上がった場合だけですが・・・)


 さて、2作目は、「溶けていく記憶」、十勝毎日新聞、2011年(平成23年8月に掲載された作品です。これも原稿用紙16枚となります。
 これは、先ほどの「卒業式よ永遠なれ」とは、まった逆のタイプの小説です。
 つまりストーリー展開の楽しさや面白さもなければ、会話の軽妙さもありません。もちろん、どんでん返しなんてものもありません。
 そういったストーリー展開そのものに小説の面白さ、楽しさを求めるのではなくて、話が進んでいくに従って登場人物たちの置かれている辛い立場、悲しい過去、憎悪を含んだ人間関係などが、じわじわと透けて見えてくるといった小説です。
 物語展開ではなく、登場人物たちの、多様な人間性だったり、心の襞だったり、人としての弱さだとか陰影を浮き立たせることが、純文学的な小説の主な狙いとなります。(純文学というカテゴリーを、どのように押さえるのかというのは、決まった定義がないのですが、僕なりには、そのように押さえています。また、前回の芥川賞の黒田夏子さんの「abさんご」など、これまで誰も挑戦したことのない新しい文体で小説を書いて、小説の世界を広げるという作業も、純文学のひとつの役割だと思います)
 さて、この小説の着想のきっかけですが、特別養護老人ホームに入っている自分の母親と僕のやりとりといったものがエピソードとしてベースになっています。
  母は、今年88歳になるのですが、10年ほど前に脳梗塞で倒れ、以後、自宅で父の介護を受けて生活していたのですが、父も体調があまりよくなくなって、3年ほど前から特別養護老人ホームに入って、お世話になっています。
 毎日、ホールのような場所の長椅子に座って、他のお年寄りとも会話もなく過ごしているので、少しずつ老人性の痴呆症なども進行していってます。
 僕や兄や父も、時々お見舞いに行くわけですが、母親と話をしてみると、母親自身の幼少時代のことだとか、母がまだ若くて、バリバリと働いていた時代のことは、結構覚えているのですが、ここ最近の10年から20年くらいの出来事というのはあまり覚えていません。最近の記憶ほど忘れる傾向にあります。
 併せて、短期記憶の能力が劣ってきているので、つい5分ほど前に話したことなども、どんどんと忘れていきます。ですから、5分から10分くらいのサイクルで、同じ話題が堂々巡りに際限なく繰り返されます。
 まあ、息子としては、そういったことにも優しく付き合って、堂々巡りの会話を行うわけです。でも、ことらも人間ですから、母親と会話していて、気持ちのどこかでは、何とも形容しようのない絶望的な空しさがつきまとうわけです。そ
 痴呆がかかり始めた母親を小説の題材に使うなんて、かなり残酷なことだと思うのですが、そんな自分と母親の会話を主体にして、全ての人に訪れる老いというものを描いてみたい、また親の老いを見守る子供の辛さ、空しさ、その屈折した思いを書いてみたいと思ったのが、まず最初のアイディア、発想のスタート地点でした。
 さて、いくら純文学的な小説だからと言って、堂々巡りの同じ会話を繰り返すだけでは、読み物としての面白みだとか、深みといったものにはなりません。
 それで、何かの話題を持ってきて、同じ会話を繰り返す物語に、多少の味付けをしたいと考えました。
 そこで僕が考えたのが、母親と、その息子である主人公との過去に起きた事件を通して、母と息子の対立関係、愛と憎しみといったものを浮き彫りにしたいと考えました。
 息子は、時々母親の老人ホームに、見舞いに定期的にやっては来るが、過去の出来事で、どうしても母親を許せない感情をずっと引きずっている。そういった話にできないか。そういった過去の傷を、少しずつ小説の中で掘り下げていく。
 となると、母親と息子の間で過去に何があったのかという、その設定を考えなくてはなりません。
 ここから先は、小説家としての創造活動の分野に入っていきます。
 現実の自分と、実の母親の間に、忘れられない憎悪が横たわっているのなら、それを材料にして書くという方法もあるかもしれませんが、残念ながら、まあまあ良好な親子関係を維持していたので、僕自身の実体験として、小説にするような材料はありませんでした。(と言っておきましょう)。それに、実体験というのは、得てして、家族や周囲に色々とさしさわりが出てきますので、あんまり生々しく書けないということもあります。
 さて、皆さんでしたら、どういった過去の親子関係を作り出しますか?
 ちなみに16枚の短編小説なので、あんまり複雑に絡み合った愛憎劇は不向きです。それに、痴呆症に陥っている母親との会話ですから、そんなに難しい話は通じません。
 ご婦人向けのお昼の連続ドラマでは、過去に母親と息子に肉体関係があっただとか、母親が再婚していて、新しい父を挟んだ愛と憎しみの関係があっただとか、想像をふくらませば、色々な過去を作り出せることはできるかもしれません。
 僕の場合、そこまで深くはない、世間でもありがちな話題を持ってきました。つまり、母親と、主人公の嫁との対立関係です。これくらいでしたら、まあ世間でもありがちな話で、読者も突飛な印象は持たないだろうと考えました。
 かつて年寄り夫婦と、息子夫婦は2世帯住宅で、一緒に住んでいた。ところが、母と嫁の対立が始まり、母親の嫁いびりで、主人公の妻は子供を連れて家を出て行かざるを得なくなった。
(後から冷静に考えてみれば、妻が子供を残して一人で出て行ったという状況の方が、より現実的だったかと考えましたが、小説を書いているときはそこまでは考えませんでした。これは反省点として残っている課題です)
 次に考えたことは、対立の過去といったものを、痴呆症の母親と、中年の主人公の間の会話の中に、どのようにして組み入れていくかという問題でした。
 僕が考えたのは、同じような会話の繰り返しの途中で、母親が、無意識のうちに、「どうしてお前の嫁は、お前と一緒にここに見舞いに来てくれていないんだ?」と、ついつい息子に質問をしてしまう。
 その質問をきっかけに、息子が、母親と嫁との対立の過去を説明し始める。
 母親は、そういった過去をすっかり忘れているのか、あるいは多少は覚えているかもしれないが、忘れたふりをしている。そこで、主人公の男が嫁と母親との過去を説明するという手法をとることにしました。
  この小説は、前の「卒業式よ 永遠なれ」とは違い、起承転結のあるストーリー展開が主眼ではありません。ですから、綿密な場面構成をするということはしませんでした。だいたいの物語展開の流れといったものを頭の中でイメージして、そのままパソコンに向かって書き始めました。
 母親と息子の堂々巡りの会話の話題についてですが、息子が現在住んでいる場所の話題、昔、経営していた店の従業員のこと、父親のこと(母にとっては自分の夫のこと)、自分が今どこにいるのか、息子の嫁について、自分の膝の痛みについて、だいたいこういった5つ、6つくらいの話題を堂々巡りさせていこうというくらいまで、事前に考えていました。(これらは、実際の私と母との会話にしばしば登場する話題でもあります)
 あわせて、母親と息子の堂々巡りの会話ですが、同じ話題を2回ぐるりと回すくらいで小説を終わらそうとも考えました。

 

 それでは、実際に仕上がった小説を読んでみましょう。

 

  私の両親は、昔に帯広市内で洋品店を出していました。母親と会話をしていて、僕が赴任している町村の名前を言うと、昔、その町出身の店員さんがいたたという話は、実際のエピソードから持ってきています。
 それから、自分の夫が、最近自分の見舞いに来てくれているのか、あるいは来てくれていなのか。そういった記憶も不確かなものとなるので、これも、実際の話をベースにしています。(ところで僕の父はまだ存命です)
 それから、自分の生活している場所が、病院なのか、老人ホームなのか、わからなくなるという会話ですが、お年寄りは空間の認識能力が落ちてきているので、これも実際の僕と母の会話をベースにしています。
 自分の体の痛い部分を、繰り返し繰り返し訴えると言うエピソード、これも実際の会話から持ってきました。老人ホームに入っているお年寄りは、特別に何の事件やハプニングも起きない、退屈で平板な日常を送っているので、自分の体の不調な箇所ばかりに、意識が向いてしまいます。そういった実態を書いてみました。
 さて、完全に創作したのは、嫁のアキコは、どうしてここに来ていないんだというセリフと、母親と嫁との過去の関係です。
 僕が、特に力を入れて、何度も書き直しをしながら作り上げていった場面は、最後に、息子と母親が、家を出て行った嫁のアキコについて、会話をするところです。
 息子は、過去の母親とアキコの経緯を説明しながら、今まで母親に対して必死に押さえてきた憎悪の感情といったものが、どうしても押さえきれずに、ついつい表面に出てしまう。
 ただし、息子の感情を、あまりに激しく描きすぎると、追求される母親が可哀想になってしまう。だからといって息子が自分の感情の高ぶりを、ただ押さえているだけでは、小説としてのドラマ性に面白みが欠けるます。そこで、多少の盛り上がりをつけました。
「母さんが、アキコに家から出ていけって言ったんだよ」
「母さんが、アキコに向かって、お前の作る料理は年寄り向きじゃない・・・」
「母さんが、近所中にアキコの悪口を言いふらして・・・」
「母さんが、アキコを無理矢理追い出したんだよ」
 このあたりのセリフは、何度も何度も書き直して、どういった描写いいのか、悩みながら時間をかけて仕上げました。ここが失敗すると、物語すべてが平坦になって、つまらない、深みのない小説になると考えました。
「不意に、僕は絶望的な哀しみを覚えて口を閉ざした」
 この小説の、最大のポイントとなる文章です。
 いくら母親を責めたところで、過去を取り戻すことはできないし、痴呆症に陥って、その時の状況を覚えていない母親を責めるという行為自体への空しさ。その空しさの前で、絶望的な哀しみに落ちてしまう主人公の姿。
 絶望に陥っている主人公の目に、窓の外の青さが映る。
 清々しい6月の空の青色。切ないほど澄んだ青色。それは、主人公が抱えているもの哀しい心の色、そのものなのです。
 主人公の心情を、青く澄んだ空の色で表現したわけです。
 そして、エンディングですが、膝の痛みを訴える母親に対して、心の中で「なんともならないよ。母さんは死ぬまで、この痛みに耐え続けなければならないんだ」と心の中でつぶやきます。この冷たい言葉は、主人公の母親への冷たく突き放す気持ちが、一番強く表現される場所だと思います。
 その後「なんとか、なるといいねえ」と口先では、母親を慰めてはいますが、主人公の心の葛藤といったものが、読み手に印象づけれれば小説として成功なのかなと考えました。

 純文学的な小説というのは、最初に読んだエンターティメント系の小説よりも、より強く、作者の人間性や、人生観といったものが、にじみ出てくる小説なのだろうと、僕なりに捕らえています。
 もっと突っ込んで言えば、作者一人一人の人生観、死生観、幸福感、審美感、そういったものを、登場人物の思考や行動やセリフ、また周囲の情景描写を通して、思い切って書いてしまった方が、小説として、より面白いものに仕上がるのではないかと考えます。その方が、より個性的な作品に仕上がるというわけです。
 ですから、こういった純文学的な小説を書く場合は、常識的な立場にたって、表面的につくろったり、無難できれいな小説を書こうなどと考えずに、もしかすると主人公の気持ちや考え、また言動などが、読者から厳しく批判されるかもしれない。それくらいの覚悟をもって書かなくては、いい小説は書けないのかもしれません。。
 つまり、普段の生活では、そっと隠している自分の本音だとか素顔だとかいったものを、小説の中で思い切って晒してしまう。そういった勇気というか覚悟といったものが、小説を書くときには必要なのです。
 万人にいい顔を向けようなんて、いい子ちゃんぶっていては、人の心を深く揺り動かす小説は書けません。そういうことなのです。
 作品そのものから、話題はずれてしまいましたが、小説家としての覚悟についても話をさせてもらいました。

 

 作品の修正、書き直し(推敲)についても、少し話をさせていただきます。
 20枚前後の短編小説でしたら、早い人でしたら2、3日くらいか、1週間程度で、初稿の原稿は書き上げてしまうと思います。僕も、30代くらいの若いときは、朝から夕方までかかって初稿を書き上げたことがあります。
 でも、早く書き上げることは何の自慢にもなりません。自分なりに完成したと思い込んでも、しばらく冷却期間を置いて、第三者の立場になって再度読み直してみると、物語の辻褄が合っていなかったり、説明部分が少なくて物語の本筋が読み手に正しく理解できなかったり、描写の流れそのものがスムーズではなかったり、そいういった欠点がいろいろと見つかるものです。
 きちんと作品を完成させるためには、しばらく時間をおいた上で、また読み直し、徹底的に推敲していく必要があります。
 初稿を書き上げるのに1週間ですんだものが、書き直しに手間取って、きちんと完成まで1ヶ月くらいかかるなんてこともあるかもしれない。
(僕自身、最近そういった経験をしました)
 推敲作業の具体的な内容ですが、語彙の選択の見直し(別な単語に入れ替える)、文章や表現の仕方そのものを全面的に書き直す(もっとインパクトのある別な表現方法がないか考える)。前後の文章の並び(順序)はこれでいいか。前後の段落の並びは(順序)はこれでいいか。
ほかには、登場人物のセリフは、このままでよいのか。もっと話の流れにマッチする、もしくはインパクトを与える、別のセリフがないのか、どうか考える。
それから、結末(エンディング)は、これでよいのか。別の結末にした方が、より読者の心を揺り動かしたり、葛藤させたりできるのではないか。あるいは、登場人物たちの、結末後の展開を、色々と推測させるような終わり方にならないか・・・等々、エンディングは、やっぱり大切ですし、作者のテクニックが最も発揮される部分だと考えます。
 さて、推敲することで、ありふれたレベルの平凡な作品が、作家の個性が際立った作品へと生まれ変わっていくということも、よくあることです。推敲による書き直し作業が、小説を磨き上げる作業だと考えてください。
 作品として最高のものに仕上げるためには、時間と労力の手間を惜しんではいけません。時間をかけ、徹底して推敲を行ってください。手を抜いて、楽をして、面白い、人を感動させる小説を書こうなどという安易な考えは捨ててください。
 誤字、脱字が、頻繁に見つかるような作品は、もうその時点で、市民文藝だろうが勝毎アンソロジーだろうが、選考委員の人たちの読もうという意欲は完全に低下しています。時折、手書きの原稿で、二重線で誤字の部分を書き直したままの原稿を送ってくる人がいますが、作品に対する執着というか、愛着というか、愛情というか、そういったものが感じられません。
 最高の仕上がりで応募していただきたい。それくらい、自分の書いている作品に愛情を持って仕上げていただきたいということです。
 作品の完成度は、作品への愛情の高さ、仕上げるのにかけた時間に応じて決まると思います。選考委員の先生方は、それは、市民文藝でも、十勝毎日新聞の選考委員の方々も、皆さん小説については熟練の読み手ばかりですから、そういった手抜きの小説は、一読して見抜いてしまいます。
 心を込めて、手間暇をかけて、時間をかけて、自分の最高の作品を仕上げてください。

 

 最後に、市民文藝や、文学界といった一般の文芸誌で募集している80枚~100枚程度の作品を書くときの、基本的な書き進め方について、簡単にお話をさせていただきます。
(ただし、これは、あくまで五嶋の場合ということでご理解ください)
 まず、最初に全体的な物語のイメージを立てます。主人公がどういう人物で、彼が(彼女が)、どういう人と、どういう関わりを持ち、どういう経験を経ることで、どういった感情やら気持ちを味わい、最後にこういう結末にいたる、というざっくりとした物語の全体像です。私の場合は、これくらいの段階は、頭の中で漠然と考えてることが多いですが、もちろんメモ書きにしてみるのもいいでしょう。
 ただし、この段階で消えていく物語というのはたくさんあります。10個思いついたうちの、7つか8つくらいは、そのまま消えていってしまいます。
 その物語に、止むに止まれぬ興味というか、心に引っかかるものが感じられないと、私の場合、頭の中から、そのまま消えていってしまいます。でも、それはそれでいいんです。消えるべき物語だったんです。でも、何日たっても消えない物語というのが、時々現れます。1週間たっても、2週間たっても消えない場合は、この物語は、自分にとって何かあると感じ始めます。
 で、書いてみようかなと心に決めてから、頭の中で物語の構想というものを、色々と練っていきます。
 それで、大枠の物語ができあがってきたら、私の場合は、それを、5つから6つくらいの章立てにしながら物語の構成を立てていきます。一つの章には一つの場面といった割り振り方をします。分量的には一つの章に原稿用紙で10枚から20枚程度の中身とします。たとえば、最初の章では、主人公の男の子が路上で女の子と出会う場面、2つめの章で、その女の子が転校生として、彼の学級にやってくる場面。3つめの章では、たまたま学校の帰り道その女の子と一緒になって、彼女を家まで送っていく場面、4つめは、彼女を本格的にデートに誘うために、自分の部屋であれこれと作戦を練る場面、・・・といったふうに、物語の進行に合わせて、場面を章毎に割り振っていきます。
 このときには、さすがに私も、ノートにメモ書きをします。
 それができあがったら、後はもう書き始めていきます。
 ある程度長い小説は、構想ができたら、もう書き始めた方がいい。じっと構想ばかり練っていたら、構想だけで完成した気持ちになってしまって、結局書かないことになってしまう。だから、ある程度の構想を立てたら、書き始めちゃう。
 書き始めたら、集中力と、持続力です。もうそれしかありません。1日に原稿用紙でせいぜい2枚、3枚。前日に書いたものを書き直し、その続きの場面を書き進めていく。それを、くる日もくる日も、ひたすら繰り返して、主人公の行動を地道に丁寧に辿っていくのです。
 中編小説が短編小説と最も異なる点は、描写の密度が濃密で、物語の進行がじっくりと進んでいくという点にあります。一つの場面を描くにしても、その場所の描写、あたりの風景、登場人物たちの服装や、表情、また一人一人の会話のやりとりにあわせて、どのような表情を浮かべたとか、どういう動作を伴ったとか、また相手の言葉を聞いて、どういった気持ちになったかだとか、そういったことを一つ一つ、丁寧にすくい取って描きます。そんなふうに一つ一つの場面といったものを、じっくりじっくりと書き込んでいく。
 そうやって一つの章を仕上げ、また次の章に進む、というように、粘り強く時間をかけて書き進めていくのが中編小説です。
 一つ一つの場面(章)の中においても、物語に緩急をつけて、山や谷を作るように意識する必要があります。もちろん、物語全体を通じて起承転結を考え、途中に谷となる章をどれにするか、後半に山となって盛り上がっていく章をどれにするかも、考えなくてはなりません。
 一つの作品を仕上げるのに、2ヶ月、3ヶ月くらいかけるつもりで、じっくりと取り組まなくては、中編小説は書けません。
 実は昨年の5月くらいから、今年の5月ころまでかかって、150枚ほどの小説を仕上げました。実は昨年度の10月くらいには、いったん仕上げて、そのまま寝かしておきました。それを今年の4月になって再び引っ張り出してきて、全部で13章あった小説を、1章書き足して途中に挿入したり、また最後の章は、完全に新たに書き起こしたり、そんなことをやって1年がかりで仕上げたのですが、それだけの労力をかけた分、自分なりに達成感というか、満足感のいく仕上がりになりました。(ほかの人がどのように、僕の小説を評価するのかという問題、とりあえず横に置いておきます)
 短編小説は、物語の構想さえ固まれば100m走のように一気に駆けていくことができますが、中編小説は、42.195キロのフルマラソンのように、一歩一歩じっくりじっくりと走っていかなければなりません。そういった気構えで、長い作品にも取り組んでいただきたいと思います。
 そんなふうに苦労して、ようやく100枚の小説が完成したときの達成感というのは、短編小説の時とはまたひと味違う、心の底から湧いてくるような深い喜びを味わうことができるはずです。ぜひとも中編小説や、長編小説にもチャレンジしてみてください。
なお、市民文藝では、30枚、50枚、80枚というクラス別に小説を募集しているので、あえて最初から80枚といった長い作品に固執しないで、30枚程度の小説を目標にして、仕上げていく方が無難なやり方だと思います。

 

最後に、よい作品を書くための、究極の話をして、この講座を終わりたいと思います。
よい作品を書けるようになるためには、自分自身の中にある、作品(小説)を見る(評価する、分析する)定規の精度を、自分の中で、少しでも高めていかなくてはならない、ということです。どれだけ推敲し、書き直しをしていくにしても、よい作品を見る視線を高めておかなければ、いい方向に書き直しができないからです。
じゃあ、どうすれば、作品を見る精度を高められるかということなのですが、とにかく沢山の文章を書いて、そして書き直すという経験を積み重ねる以外にはないのではないか、ということです。
あともう一つ、強いて言えば、文章の上手な人の作品を、沢山読んで、自分の中に取り込んでいくということも、大切だと思います。
それと、これも究極的な話なのですが、よい作品は、作者の全人的な人間性に、最後は帰着するのではないか、ということです。善人になれということではありませんよ。善も、悪も、両方を自分の内側に包含できるような、人間性の幅の広さがなければ、様々な個性を持った登場人物を描けません。
 ただし、最後は、人としてこう生きるべきだという、揺るがない生き方のようなものがなければ、人の心を感動させられる小説を書けないのかもしれませんね。

 

村上春樹の最新作「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」の、終わりの方で、こういった文章があります。そのまま読ませてもらいます。

「そのとき彼はようやくすべてを受け入れることができた。魂のいちばん底の部分で、多崎つくるは理解した。人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない許しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ」

最近の世間の風潮は、安易な調和であったり、安易な受容であったり、安易な許しでしかありません。そういった、非常に表面的で薄っぺらな調和、受容、許し、そういったものが、当たり前のように謳歌されている現代日本です。
 でも、この村上春樹の文章を読んで、真の意味での調和だとか、受容だとか、許しというのは、血を地面に流すような、痛切な痛みを通過した向こう側にくるものなのだと、改めて理解させられました。

僕自身も、真の意味での調和、受容、許しを、小説の中で描くことができればいいなと思って、今日も下手くそな小説を書いています。
以上、つたない話ですが、最後まで聞いていただき手感謝しています。