ありふれた夕景

「残念な話なんですが、お父さんの胃ガンは、もう末期に至ってます。今度、患部から出血したら、どれくらいの大出血になるか、予想もできません」

 三十五前くらいの若い医者が、迷いを振っ切るように喋ってから、僕と妻の顔を睨んだ。いや、睨んだわけではないのかもしれないが、僕にはそんなふうに見えた。

 それから医者は、僕の隣で背中を丸め、補聴器をはめた耳を医者に傾けている父親の顔を申し訳なさそうに眺めた。

「大出血すると、これまでのように出血してる部分を内視鏡で焼いて止血できるかどうかわかりません。もう、それくらい危険な時期を迎えてるってことなんです」

 僕の右隣に座っている父の顔を横目でチラリと見てから、再び医者は僕の顔を睨みつけた。

 親父は、今どんな気持ちで、この医者の言葉を聞いているんだろう。そんなことが、頭の片隅に引っかかっていた。

 自分が、こんな死刑の宣告みたいな言葉を突きつけられたら、たぶん生きていく気力なんて失くしてしまうだろう。そんな残酷な宣告を、どうして年寄りに突きつけるんだろうか?

 そんなことを考えなから、僕はぼんやりと医者の顔を見ていた。

「それで、お父さんの今後の治療方針についてなんですが、ご家族で決めてもらいたいことが二つあります。 ひとつは、今度胃の患部から大出血した時に、どこまでの延命措置を望まれるかっていうことです。 輸血をしたり、薬剤を打ったりして、一日でも一時間でも長くお父さんの命を生かすようにとことん手を尽くすのか。 あるいは、お父さんの寿命の限界といったものを受け入れて、一定程度の治療でやめるのか。そのあたりの治療方針を決めていただきたいんです。それが一つです」

 生死の狭間を選択をするような、こんな重大な選択なんて、そう簡単に決められることではない。今の話を聞いただけで、すっかり気が滅入っていた。

 他にもまだ話があるのかと思うと、更に気が重くなってきた。

「もう一つは、『血をサラサラにする薬』、専門的には抗凝固薬っていうんですが、これを今後も飲み続けるかどうかお決めいただきたいってことです。

 半年前にお父さんが心筋梗塞を起こされた時、血管の細い箇所に二本の金属製ステントが入れられました。ステントが入った箇所は血が詰まりやすいので、循環器科の先生から抗凝固薬が処方されています。

 でも、この薬を飲んでいると、血がサラサラになるせいで胃ガンの患部から、少しずつ出血が続きます。そして、お父さんの胃は間違いなく近いうちに大出血します。

 この薬は、私たち消化器の医者に言わせると、お父さんの出血を促進してる元凶なんです。だから、本当は止めてほしいというのが、私たち内科医の考えです。

 それで、この薬を本当に今後も継続するのか、きちんと判断していただきたい。これが二つめです」

 そこまで喋ってから、医者はまた一息ついて、再び僕ら三人の顔を、ゆっくりと眺め回した。

 「私がお聞きしたいこと、ご理解いただけましたでしょうか」

 僕は、小さく医者に向かって頷いてから、隣の父に向かって声をかけた。

「父さん、今お医者さんが話したこと、わかったかい? わからないことがあったら、今ここでちゃんと訊いておくんだよ」

 病室に戻ってから医者の話を、改めて父に説明したくはなかった。こんなに重くて暗い話題は、なおさらのこと。

「……ああ、だいたいは」

 父は、感情の失せた目で医者を見ながら、ゆっくりと頷いた。

 

 医者との話が終わり、病室に戻ってから、僕はベッドに横になった父に向かって声をかけた。

「もう一度訊くけど、さっきの医者の話は理解できたんだね?」

「……ああ」

 僕は、一呼吸置いてから、思い切って次の言葉を口に出した。

「だったらさ、悪いんだけど、こんな難しい問題、俺なんかに決められないから、父さんが自分で決めてほしいんだ。頼んだよ」

 逃げてるという意識はあった。でも、やっぱり僕が決めるようなことではない。これは父自身の生死の問題なんだ。だから、父が自分で結論を出すべきだ。

 父は、僕の話を聞くともなく、窓の外をぼんやりと眺めている。

「今日や明日に、すぐ結論を出せってわけじゃないみたいだから、時間をかけてゆっくりと考えたらいいよ……」

 父が、何も喋ろうとはしないので、僕も口を閉じたまま、窓の外へ視線を移した。

 カーテンが開け放された窓の外は、今まさに日高山脈の陰へと夕陽が沈んでいくところだった。濃紺の空には半欠けの月が浮かんで、白っぽい色を放っている。

 眼下には帯広の街が広がっていて、あちこちの住宅やマンションの窓に、室内の蛍光灯の明かりが灯り始めていた。

 ちょうど病院の前に鉄道の高架がかかっていて、二両編成のジーゼル車がゆっくりと西へ移動していく。灯りの点った電車の中は、制服姿の高校生たちでいっぱいだった。

 何の変哲もないありふれた夕暮れの風景だ。でも、医者から死を宣告された父には、ありふれた風景には見えないのかもしれない。もう自分とは絆が切れてしまった遠い世界の夕景。

「俺は……」

 五分ほどして、父が唐突に口を開いた。

「……もう十分に長生きした。だから、いつ死んだっていいんだ……」「それは、あれかい? 延命治療は不要だってことなのかい? 今度大出血した時、少しでも長く生きられるように治療しなくてもいいってことなんだね?」

 父は、窓の外を見たまま、何も応えようとしない。

「じゃあ、医者にそう言っておくから……それから、例の血をサラサラにする薬の方はどうする? 続けるのかい、それとも止めてもいいのかい?」

「……止めたら、どうなる?」

「血をサラサラにする薬を飲まないと、血管に入っている金属の部分で、血液が詰まりやすくなるんだ。今度その場所で血管が詰まったら、かなり危険な状態になるだろうって、循環器の医者が言ってただろ……だから、そういう可能性が高まるってことだよ」

 喋りながら、自分はなんと残酷な現実を、平気な顔をして喋ってるんだろうと思った。でも、訊かれたからには、ありのままに説明するしかない。

「……そういうことか」

「内科の医者も、循環器の医者も、患者には自分が治療している病気で死んで欲しくないってことなんだろうな、きっと」

 そう言った途端、余計なことまで喋ってしまったと後悔していた。

 父は、少しだけ哀しげな顔つきを浮かべ、また三分くらい、じっと口をつぐんでいた。

「俺は、もう十分に長生きした。あやうく死にかけたこともある。それが、どういうわけか今まで生き伸びてしまった。だから、もうこの世には何の未練もない」

「それは分かったけど、だから薬はどうしたらいいんだい?」

 父は、何も喋ろうとはしない。

「じゃあ、しばらく時間をかけて考えてから結論を出したらいいよ……あのさ、俺たち、ちょっと一階の喫茶店でコーヒーでも飲んでくるわ。喉が渇いちゃったし」

 そう言って、妻に目配せしてから、僕はイスから立ち上がったた。
 廊下に出た途端、妻が僕を睨んできた。

「あなた。お父さんに、あんなあけすけな言い方しなくてもいいじゃない」

「だって、はっきり言わないと、親父だって結論が出せないだろう?」「あれじゃ、お父さんにどうやって死ぬか、自分で選べって言ってるみたいじゃない。それって、ちょっと残酷だわ」

「もう十分に長生きしたっていうのが親父の本音だから、別にいいんだよ」

 今年九十になる父は、二十歳の時に、召集令状を受け取って満州に出征した。終戦後、ソ連軍の捕虜となり、三年間シベリアに抑留された。大勢の仲間が飢えと寒さで死んでいく中、父はなんとか生き延びて日本に帰ってきた。

「本当だったら、俺もあの時、シベリアで死んでたんだ。仲間の兵隊たちは、腹を空かして半分くらいが死んだ。俺も、あやうく死にかけた。助かったのは、たんに運がよかったからだ」

 僕が小さかった頃、そんな話を父から何度か聞かされた。

 抑留体験について、父はそれ以上詳しく語ることはなかった。多分、思い出したくないほど過酷で悲惨な出来事だったんだろう。

 父が「十分に長生きした」という言葉を使う時、じつはもう一つ別の事件も指している。

 父は、交通事故で妻を(つまり僕の母を)亡くし、あやうく自分自身も死にかけたことがある。

 あれは、僕が札幌の大学に進んだ連休のことだった。父が母と車に乗って、札幌の僕のアパートまでやってきた。二人は僕の部屋に泊まり、翌日十勝に向かって帰っていった。

 日勝峠を下りてから、父は国道を逸れて、走りやすい農道へと入った。多分、走り慣れた裏道だったんだろう。清水町から芽室町へ入ったあたりの交差点で、左から走ってきた大型トラックに側面衝突された。

 車は、左側半分がペシャンコに潰されたまま、道路下の畑へ吹っ飛ばされた。

 助手席の母はほぼ即死状態で、助かった父も頭蓋骨が陥没するほどの大怪我を負い、一週間ほど意識が戻らなかった。

 それでも、父はなんとか生きのびた。

 あやうく死にかけた二度の体験。

 そんな父の過去を知ってる僕は、父の言葉を何の疑いもなくそのまま受け止めている。

 父は、もう十分に生き伸びたのだ。胃ガン末期の父は、もうこれ以上生きていたいなんて微塵も望んではいない。

「……でも、本当にそうなのかしら」

 一階の喫茶店で、コーヒーを飲みながら、僕の説明を聞いた妻が、納得のいかない顔つきでポツリと呟いた。

 「口先ではもう十分に生きたと言っていても、それが本心かどうかは分からないわ」

「それ、どういう意味だよ?」

「人って、何度死にかけても、いくら歳をとっても、やっぱり生に執着するものじゃないかしら? 歳をとって病気になったからといって、いつ死んでもいいって思うとは限らないわ。自分がこの世から消えちゃうことに、何の恐れも未練も抱かない人なんていない筈よ。私だったら、死ぬその時まで、まだ生きていたいって望むわ、きっと」

「そうだろうか?」

「そうよ。あなた、お父さんの言葉、そのまま鵜呑みにしない方がいいわよ」

 

 喫茶店で二〇分ほど話をして、病室に戻った時、父の姿がベッドの上から消えていた。

 どうせトイレにでも行ってるんだろう。そんな軽い気持ちでしばらく待っていた。でも、十分たっても、十五分たっても、父は戻ってこなかった。

 僕は、先ほどの妻の言葉を思い出して、急に不安を覚えた。もしかすると父は何らかの行動を起こしたのかもしれない。

 不意に、僕はこんな事態になることを、心のどこかで予想していたような気がした。

 ジリジリと死に追い詰められていくなんて、いくら歳をとったとしても、僕には耐えられないだろう。それよりは、まだしも一気に自分の命を絶ってしまった方が楽というものだ。もしも僕が父の立場だったら、そんな決断をするかもしれない。

 妻に声をかけて、すぐに父を探すことにした。妻には、この階の病室を北側から順に見回り、女性トイレの中も確認するように頼み、僕も廊下を反対側に向かって進んでいった。一つ一つ病室を覗き、食堂も男性トイレの中も覗いたが父の姿はなかった。

 妻とナースステーションの前で落ち合った。父の姿が消えたことをすぐに看護士に伝えるように妻に頼み、僕は、エレベーターに乗り込んで一階まで下りることにした。

 父は、どうやって自分の命を絶つつもりなんだろう。車の前に飛び出すか? 首を吊るか? あるいは飛び降りか?

 そんなことばかりが頭の中でグルグルと回っていた。

 エレベーターから降りて、とりあえず正面玄関に向かった。二重になった自動ドアの外に出て、あたりの様子を伺った。父らしい姿は見えないし、近所で何か事故が発生している様子も見られない。

 病院の大きな建物を、鋪道からから見上げた。屋上にあがったんだろうか?

 玄関口から待合室ホールに戻り、再びエレベーターに向かって歩きかけた時だった。

 灰色のジャンパーを羽織った老人が、待合室の隅の長いすに腰掛けている姿が、視界の片隅に写った。立ち止まってよく見ると、それは父に間違いなかった。

 父は背中を丸め、膝に両腕をつき、うなだれるような格好のまま、じっと身動きもせずイスに座っていた。

 どんなふうに声をかけようか。少し考えたけれど、何も思い浮かばなかった。

 僕は、ゆっくりと父の背中から近づいていった。

「こんなところにいたんだ」

 そう言いながら僕は父の隣におもむろに腰を下ろした。

 父は黙ったまま、何も答えない。

「……あちこち、探したんだよ。急に姿が見えなくなったから」

 父は、相変わらず黙ったままだ。

 「何してたんだよ?」

 しばらくしてから、父は口を開いた。

「……喉が渇いて」

 「喉?」

「喉が渇いて、久しぶりにサイダーが飲みたくなったんだ。それでエレベーターで下におりてきた。でも、売店にも自動販売機にも、サイダーなんて売ってなかった」

 そう呟き、父は口の中で力なく笑った。

「そんなもの、言ってくれれば、すぐに買ってきてやったのに」

 父は、膝の上に置いた両手を、組んだり、開いたりしていた。

「……父さん、さっきの医者の話のことなんだけどさ……」

 話しながら、皺だらけの父親の横顔を見た。若い頃に比べて、頭の大きさが一回りも二回りも小さくなっているような気がした。

「これからどうしていくか、俺も、一緒に考えるよ。親父にとって、どうするのが一番いいのかさ……」

 僕の隣で、父が微かに頷くのが見えた。