若き小説家の肖像

「ねえねえ、お父さん、遊ぼうよ」

 娘に肩を揺すられて目が覚めた。

「……ああ」と応えながら、あたりを見回した。窓の外は、藍色の薄闇に沈んでいる。

 いつ眠ってしまったのか、まったく記憶がなかった。七歳の娘と四歳の息子が、居間の床に座りこんで、ビデオの「となりのトトロ」を観ていたところまで覚えている。

 台所の方から、妻が夕食の支度をしてる物音が聞こえてきた。

 もうそんな時間だったのかと考えているうちに、少しずつ意識が冴えてきた。

「ねえ、お父さんったら……」

「よし、わかった。何して遊びたい?」と言いながら、おもむろに上半身を起こした。

「ボールぶつけ!」と娘が嬉しそうな声ではしゃぎたてる。

「いいよ、じゃあボールぶつけだ」と答えた途端、娘と息子がワアーイと声を上げながら畳敷きの寝室に向かって駆けだした。 遊ぶ前に、寝室の八畳間の中央に布団とマットレスを山のように積み上げる。

 その周囲を走り回ってビーチボールをぶつけあう。その遊びを、僕の家では「ボールぶつけ」と呼んでいた。ボールをぶつけられたら、その者が鬼となって、残りの二人を追っかけてボールをぶつける。息子と娘はボールを手で持ってもいいけれど、僕はハンディキャップとして、足しか使えない。

 僕が鬼になると、娘と息子はキャーキャーと奇声を発して逃げまどう。三、四〇分も、追いつ追われつしながら走り回っているうちに汗が噴き出してきた。

「お父さん、休憩しよう。疲れちゃったわ」という娘の言葉に、息子は「ボクも、疲れちゃった。お水が飲みたい」と台所に駆けていった。

 もうやめようかと、娘に声をかけると、次はミニバレーがしたいと言う。

 布団を片付け、マットレスを折って部屋の中央に立ち上げた。これをネット代わりに使う。

 僕と息子がチームを作り、娘を相手にゲームを始める。娘にも息子にも、ボールを打てるチャンスを作ってやりながらゲームを進める。うまくボールが打てて得点となり、息子は「ヤッター!」と笑顔満面で何度もジャンプする。娘はしかめっ面で、弟を横目で睨みつける。

「なによ、今度はわたしが、アタック決めちゃうからね!」

 勝ち気の娘は、弟の活躍が許せない。

 娘が、うまくアタックを決め、ボールが息子の顔面を打って、床に落ちた。

「お姉ちゃんが、わざと顔にぶつけたあ!」と息子が半泣きになる。

「わざとじゃないよ。……ゲームなんだから、それくらいで泣くんじゃない!」

 楽しかった遊びが、一気に修羅場の様相を帯びてきた。

 そんな時、「ご飯の支度ができたわよ」と台所の妻から声がかかった。

「よーし、ミニバレーはここまで!」と、泣いてる息子をなだめ、ムキになってる娘を落ち着かせて居間に移動した。

 汗でびしょ濡れになった下着を取り替えてから、座卓テーブルを取り囲んで座った。

 テーブルの上は、中央の皿に鶏肉やエビ、豚肉などの唐揚げが山盛りになっている。唐揚げは息子の大好物だ。

みんなで「いただきます」をしないうちに、もう息子はエビの唐揚げを口に押し込んでいる。

「いただきますをしないで食べたらダメなのよ!」と、娘が息子を叱っている。

 息子は、娘と反対の方を向いて、必死に口をモグモグと動かしてる。

「はい、じゃあ、いただきます」と声をかけて、僕も鶏肉の唐揚げに箸をのばした。

「お父さん、ちゃんと叱ってよ!」と娘は不満いっぱいだ。

 でも、食べ始まってしまうと、娘もすぐに機嫌を直した。

 食事が終わり、食器の後片付けが済んでから、みんなで「ちびまる子ちゃん」を観た。

 息子は、物語そのものよりも、エンディング曲の「おどるポンポコリン」がお気に入りで、この音楽が流れ出すと、手足を自由に振り動かして踊り始める。好き勝手に手足を動かす即興ダンスを眺めながら、僕も妻も娘も手を叩いて大笑いをする。それが嬉しくて、息子はさらに奇妙な身振りで踊りまくる。

 八時を過ぎると、風呂の時間になる。娘と息子と一緒に入って二人の体を洗うのが僕の役目だ。

 洗い終わり、湯船でしっかりと二人の体を温める。それから最初に息子、次に娘の順番で浴場から出す。

 脱衣場で、バスタオルを広げて待ちかまえるのが妻の役目だ。

 僕らの後に風呂に入った妻は、そのまま風呂の残り湯を使って洗濯を始める。

 僕は、娘と息子を連れて、布団を敷いた寝室に入る。

 寝る前に、子供たちに絵本を読んであげるのが決まりだ。今日は、息子のお気に入り「おしいれのぼうけん」を選んだ。本文そのままでは息子に難しいので、やさしく作り替えながら読んでいく。セリフの部分をわざと誇張して読むと、娘と息子は、怯え声を出したり、奇声を発して反応する。

「押し入れまで帰ってこれてよかったなあ。でも、やっぱし、ねずみばあさんはおっかないよ!」と息子。

「お父さんの声が、怖すぎるの!」と娘。

「よーし、じゃあ、もう寝る時間だよ」

 部屋の電気を消し、僕ら三人一緒に布団に入って目をつむる。十分もしないうちに、息子も娘も、心地よさそうな寝息を立て始める。 二人が完全に寝入っているのを確かめてから、僕はゆっくりと起き上がり、居間に戻った。

 妻は、ちょうどハンカチやズボンなどにアイロンをかけているところだった。

「子供たち、寝た?」

「うん、遊んで疲れたんだろう。すぐに眠っちゃったよ」

 僕は、キッチンテーブルのイスに腰を下ろし、妻がてきぱきとアイロンをかけていく様子を、ぼんやりと眺めていた。

「あら、今日は小説、書かないの?」と妻が、僕の方を見て、軽く微笑んだ。

 毎晩、子供たちを寝かしてから夜中の十二時頃まで小説を書くことにしている。半年ほどかかって書き上げた小説は、中央の文芸誌の新人賞に応募する。今、取りかかっている小説は、もう六十枚近くまで書き進んでいた。

「……うん」と生返事をして、西側の洋間に入り、書棚から一冊の文芸誌を持ってきた。ページを広げ、妻の横に投げ捨てた。

「それ、見てみなよ」

「何よ、これ?」と、アイロンを傍らに置いて、妻は開いたページをじっと見ている。

「新人賞の予選通過作品の一覧だよ」

「あら、あなたの名前、どこかにあるの?」

 妻は興味津々といった表情を浮かべて、熱心に見開きのページを睨んでいる。

「残念だけど僕の名前はどこにもないよ。去年の小説は、一次予選までは通ったけど、今年のは一次も通らなかった」

「ふうん、そうなの……」

 僕は、軽くため息をついてから、妻の方を見た。

「今年のは、去年のよりもいい出来だと自分では思ってたんだ……」

「そう……それは残念だったわね」

 妻は、しばらく間合いを置いてから、独り言のように小さな声で呟いた。

「……ねえ、小説の世界って、よくわからないんだけど、投稿するのって中央の文芸誌じゃないとダメなの? 十勝にだって地元の文芸誌があるじゃない。そういう地元の文芸誌だったら、あなたの小説、載せてくれるんじゃないかしら?」

「……中央の文芸誌で新人賞を取るのが、昔からの夢だったんだ。そのことを目標に、今までずっと頑張ってきた。……だから今さら地元の文芸誌に投稿する気にはなれない」

「そうなの……」

 妻は、アイロンを手にとって、おもむろに作業を始めた。

「最近、どんな小説を書けばいいのか、自分でもよくわからなくなってきた」

 そう呟いてから、小さく口の中で笑おうとした。でも、うまく笑い声が出てこなかった。まるで子犬が鳴いてる声みたいだった。

 妻は、アイロンの作業を続けながら、ゆっくりと口を開いた。

「あなたが何ヶ月もかけて書き上げた小説が予選を通過できなかったのは残念だと思うわ……でも、たとえ文芸誌の新人賞くらい取れなくたって、あなたの人間的な価値が下がるわけじゃないわ。あなたは、中学校の教員として頑張って働いてるし、家では娘や息子の面倒をみてくれて、とってもいいお父さんだし……私には、申し分のないダンナさんよ」

 そういうことじゃないんだと、心の中で呟きながら、僕は部屋の壁に貼ってあるラピュタのカレンダーを眺めていた。

「今日だって、あなた、寝室で子供たちと一緒に遊んでくれたでしょ。あの子たち、あなたと遊んでいる時って、普段とぜんぜん違うのよ。あんなに楽しそうな声を上げるのは、あなたと遊んでるときだけだわ」

「僕にとって、子育てと小説とは、ぜんぜん別のことなんだ!」

 自分でも思いがけないくらい強い口調になっていた。妻は、僕の言葉に、不意に黙り込んでしまった。

「ごめん、大きい声、出しちゃって」

 とりあえず謝った。でも、気持ちは別のところにあった。

 妻は、軽く息をついてから、ゆっくりと口を開いた。

「……私が言いたかったのは、たとえあなたの書いた小説が文芸誌の一次予選なんか通過しなくたって、子供たちにとって世界一のお父さんだってこと。だから、そんなことくらいで落ち込んだり、クヨクヨしないでほしいの。私が言いたいのはそれだけよ」

 自分の気持ちが、うまく妻にわかってもらえない苛立ちを抱えたまま、僕はじっと妻の横顔を眺めていた。

 「……お前が、そう言ってくれることは有り難いと思ってる。それは、ウソじゃない」

 妻は、横目で僕の方をチラリと見てから、何も言わずにアイロン掛けの作業に戻った。

「ちょっと外の空気でも吸ってくる」と言い置いて、僕はダウンジャケットを羽織り、玄関から表に出た。

 外は、雪が降っていた。教員住宅前の広いグラウンドには、もう十センチほどの雪が積もっている。

 僕は、じっと立ちすくんだまま胸一杯に夜の冷気を吸い込んだ。肺の奥が、ひんやりと冷たくなっていくのがわかる。

 そのまましばらく、雪の降る様子を眺めていた。

 僕が中央の文芸誌へ小説の投稿を始めたのは大学時代のことだった。ちょうど村上龍が、「限りなく透明に近いブルー」で群像新人賞と芥川賞を取った頃のことだ。大学時代に三作ほど続けて応募したけれど、一次予選さえ通過しなかった。

 大学を卒業して、教員になってからも二、三年あまり投稿を続けた。たった一度だけ、一次予選を通過して二次予選まで進んだたことがある。天まで昇るくらい嬉しかった。新人賞の手前までたどり着いたような気がした。

 でも、二次予選通過なんて、それっきりのことで、その後、一次予選さえ通過しなくなった。

 もしかすると自分には、小説家になる才能なんてないのかもしれない。そう思い始めた頃、同じ職場で今の妻と出会った。彼女とつきあい始め、もう小説家になる夢なんて諦めようと心に決めて、彼女と結婚した。

 まもなく二人の子供が生まれ、五年ほどの間、子育てに夢中になって取り組んだ。

 ところが二年ほど前、また小説に対する意欲がむくむくと蘇ってきた。それは村上春樹の新作「ノルウェイの森」を読んだのがきっかけだった。

 赤いカバーの上巻のページをめくり始めた途端、「僕」と「直子」と「緑」が織りなす物語世界に、激しい勢いで引きずり込まれた。読み終わった後も、心がひりひりと焼け付く感覚が、しばらく胸から消えなかった。

 それと同時に、この小説を書いた村上春樹への強い羨望と嫉妬を抑えることができなかった。

 僕も、僕自身の「ノルウェイの森」を、なんとしてでも書かなくてはならないと切実に感じた。

 それで再び小説の筆を取るようになった。

 ただ、なんとかして小説家になりたいといった気持ちで創作に向かったわけではなかった。

 もともと現在の結婚生活に不満なんてなかったし、教師としての仕事もまあまあ順調だった。生徒や保護者からの評判だってそんなに悪くはなかったし、家庭生活だってうまくいっていた。妻は心の優しい女性だし、僕のことをとても大切にしてくれている。娘や息子だって、とてもいい子に育ってる。

 でも、「ノルウェイの森」に匹敵する小説を書き上げて、中央文芸誌の新人賞を取らなければ、自分の存在意義といったものを自分自身で確かめられないような気がした。

 降り続く雪を眺めながら、僕は何度も深呼吸を繰り返した。白い息が切れ切れに、粉雪の舞う暗闇の奥へと消えていった。 そうしているうちに、高ぶっていた気持ちが、少しずつ静まってきた。

 僕は、妻が僕に言ってくれた言葉を思い出し、そっと口の中で呟いてみた。

『子供たちにとって世界一のお父さん』
 家に入ると、妻は床に座ってテレビを観ていた。

 僕は、羽織っていたダウンジャケットを脱いでハンガーに掛けた。それから西側の洋間に置いてある富士通製のワープロを持ってきて、キッチンテーブルに置いた。

 昨年までは原稿用紙に万年筆で小説を書いていた。でも今年からは、妻に買ってもらったワープロを使って小説を書いている。

 電源を入れ、昨日まで書き進めてきた部分を画面に呼び出した。そして、一字一句嘗めるように読み返しながら、気になった箇所を書き直していく。

 このまま書き進めていけば、まあまあいい作品に仕上がるような気がした。うまくいけば、どこか中央文芸誌の一次予選くらいは通過するかもしれない……

 でも……今回は妻の言葉に従って、地元の文芸誌に投稿してみるのもいいかもしれない。僕の小説くらいだったら、どこか掲載してくれるところもあるだろう。

 妻が言うように、いつまでも中央の文芸誌にこだわる必要もないのかもしれない。

 そんなことを考えていた時、ドアの開く音が聞こえた気がして、ゆっくりと振り返った。

 寝室のドアに、娘が目を擦りながら突っ立っていた。

「……オシッコ……」 妻はテレビに熱中していて、娘に気づいていない。

 僕はイスから立ち上がり、娘のところに近づいていった。

「ちゃんと目が覚めたんだね。偉いよ」と声をかけながら手を差し出した。

 娘の小さな手が、僕の手を、ギュッと強く握ってきた。