チョコレート・メモリーズ

 

 

「お前、チョコレートが好きなのか?」
 口ひげを生やした赤ら顔の医者が、ぼくの体に出た発疹を診察してから、蔑むような口調で呟いた。
 ぼくは、まだ小学三年生だった。
 医者の年は、五〇か六〇くらいだろうか。皺のないパリッとした白衣が、でっぷりと太った体を包んでいた。
 チョコレートが嫌いな子供なんて、いるわけがない。みんな好きに決まってる。そんなことを考えながら、ぼくは小さく頷いた。
「この子ったら、最近、おやつにチョコレートばっかり食べてたんですよ」
 背中から、母親の声が聞こえた。
 ぼくを非難するその口調に、微かな苛立ちと罪の意識を覚えた。
 昭和三十年代の後半。どの家も貧しかった。衣服も食べ物も、あらゆるものが質素で地味だった。食事は、ご飯とみそ汁と漬け物と、おかずが一品。靴下は、穴が開くと、それを繕ってはき続ける。そんなふうに暮らすのが、当たり前の時代だった。
 小学校から帰ると、祖母から、お小遣いとして一〇円玉一個をもらう。それを片手に、近所のお店屋さんへ走って行き、風船ガムかキャラメルかせんべいを買って食べた。
 チョコレートは、ぼくのお小遣いでは買えない高級菓子だった。
 ところが前の日曜日、家に顔を出した知り合いの伯父さんが、パチンコで儲けたとか言って、大きな袋いっぱいのチョコレートを置いていった。
 袋の中には、アーモンドの粒が入ってるもの、ジャムが詰まっているもの、ピーナッツ・クリームがサンドされたもの、ウエハースを包んだものなど、様々な種類のものが二〇枚以上も入っていた。
 祖母がその紙袋を茶箪笥の一番高い引き出しにしまうのを、ぼくは見逃さなかった。
 それから三日間ばかりの間に、ぼくは家族の目を盗んで、一人で全てのチョコを食べ尽くしてしまった。自分にしてみると、贅沢この上ない至福の日々だった。
 ところが、チョコレートを食べた翌日になって、手の甲に赤い発疹が現れた。それはまたたく間に腕からお腹、背中へと体じゅうに広がっていった。
「あのな、口から食べたものは、胃や腸っていう内臓を通っていくんだ。でも、お前の胃や腸の壁には、溶けた黒いチョコレートの塊がベッタリとくっついてるんだ。そのせいで体中に湿疹が出てる。そのチョコレートが、ぜーんぶ体の外に出ていかないと、お前の病気は治らないんだ。わかるか?」
 医者は、まるでぼくに死の宣告をするかのように大袈裟な抑揚をつけて言った。
 その瞬間、ぼくの脳裏に、おぞましい映像が浮かんできた。
 溶けたチョコレートの塊が、ヒルの群のようになってお腹の内側の壁に貼りつき、グニョグニョと蠢いている。
 ぼくは形容のできない恐怖に襲われた。
「はい」と答えながら、ぼくは小さく頷いた。
 医者の診察が終わり、年寄りの女性看護師に皮下注射を打たれてる最中、突然吐き気を覚えた。
 気がつくと、ぼくの口から飛び出た茶色い嘔吐物が、床一面に広がっていた。
        *   *   *
 高校二年生の冬。ボクと響子は、帯広駅前の純喫茶『ブルボン』のテーブル席に向かいあって座っていた。
 響子は、隣のイスに置いた赤いバッグから、金色のリボンのついた小さな箱を取り出すと、ボクにむかって差し出した。
「はい、これバレンタインのチョコレート」
 少し照れたような笑みが、彼女の口許に浮かんでいた。
「どうもありがとう」と、ボクも照れながらその箱を受け取り、コーヒーカップの横にそっと置いた。
 ガールフレンドからバレンタインのチョコレートをもらうなんて生まれて初めてのことだった。だから、その場で包装紙を解いて中身を確認したほうがいいのか、そのままにしておいたほうがいいのか、よくわからなかった。
「この前の日曜日ね、藤丸の地下にチョコレートを買いに出かけたの」
 ボクにチョコのプレゼントを渡し終わって気持ちが少し落ち着いたのか、響子は朗らかな口調で話し始めた。
「うん」と相づちを打って、ボクは楽しそうに話し続ける彼女の笑顔を見た。
「わたし、昔からバレンタインのチョコはモロゾフにしようって決めてたの。だから、エスカレーターで地下に下りて、モロゾフの売り場に真っ直ぐ行ったわけ。そしたらガラスケースの上に、バレンタイン用に包装されたチョコの箱が5種類くらい積んであったの。どれにしようかなあって迷っていると、同じ歳くらいのバイトの女の子が、ガラスケースの向こう側にやって来たのね。それで、わたしが注文するのをずっと待ってるの。わたしは、しばらく迷ってから、種類の違う箱を一つずつ選んで、この三つを下さいって頼んだわけ。そしたら、そのバイトの子、急にわたしのことジロッと睨みつけてくるの」
 響子は、いったん口を閉じると、テーブルの上のグラスを手にとって水を飲んだ。
 ボクは、グラスを持つ細くて長い指をじっと見ていた。若い女の子のきれいな指を見るなんて、初めてことだった。彼女の白い指が、なにか特別な生き物ように見えた。
 響子は、グラスをテーブルに置くと、また話の続きを始めた。
「その子、わたしからお金を受け取る時も、紙袋とおつりをわたしに渡す時も、ずーっとブスッとしてて、つっけんどんなの。まるでわたしに腹を立ててるみたいに」
「へえー」と相づちを打ちながら、ボクは頭を少し傾けて彼女を見た。
「ねえ、スギモト君、どうしてだと思う? どうして、あの子は、わたしにあんな不機嫌な態度をとったんだと思う?」
 響子は、焦げ茶色の澄んだ目を大きく見開くと、真正面からボクを見つめた。
 その瞳の輝きが眩しすぎて、ボクは呼吸をするのも苦しくなった。 
「さあ、どうしてなんだろう」
 ドキドキと打つ心臓の音を意識しながら、さりげなくコーヒーカップを持ち上げた。
 響子がボクを見つめてたのは、ほんの五秒くらいだった。でもそれは、まるで五十年くらにい長く感じられた。
 小さな吐息をつくと、彼女はまた口を開いた。
「色々と考えたんだけど、きっと彼女は誤解したんだと思うの」
「ゴカイ?」
「わたしは、あなたと、自分のお父さんとお兄ちゃん用にってチョコレートを三つ買ったのね。でもあの人、わたしが三人のボーイフレンドに渡すために買ったんだって勘違いしたのよ。
 ねえ、わたしって、そんな二股も三股もかけるような悪どい女に見える?」と言うと、響子は、楽しそうに笑い声をあげた。
 彼女の笑い声につられて、ボクも声を出して笑ってみた。
 声を出して笑ってみると、可愛い女の子と向かいあってる緊張感が、少しだけほどけてきた。でも後から考えると、その気のゆるみがよくなかった。
「あのさ、チョコレートって言うと、じつは忘れられない思い出があるんだ」
 無意識のうちに、勝手に口が喋っていた。
 響子は「へえー、どんな思い出なの?」と、興味深そうな表情を浮かべてボクを見た。
「小学三年生の時のことなんだけどさ……」
 ボクは、すっかり調子に乗って、体中に発疹が出た話をペラペラと喋ってしまった。医者の話を聞いて、黒いヒルの群が胃腸の内側をグニョグニョと蠢いている映像を頭に思い浮かべたことも、処置室の床に嘔吐してしまったことも。さらに、それがトラウマになって、全くチョコレートが食べられなくなってしまったことまで話した。
 ボクの話を聞く彼女の表情が、少しずつ強ばっていくのを、ボクはまったく気づいていなかった。
 全てを語り終わり、あらためて響子の顔を見ると、まるで蝋人形のような無表情に覆われていた。
 三日後に、響子からお別れの手紙が届き、ボクたちの特別な関係は終わった。
 彼女の手紙を読んだ後、ボクは意を決してチョコの包み紙を解いた。そして、さんざん迷ってから、ダークブラウンの粒を一つ摘まみ、ゆっくり口の中に押し込んだ。
 九年ぶりのチョコは、濃密な甘みと、ほんのり塩辛い味がした。 
        *   *   *
「勤務地の場所、どこかわかったかい?」
 狸小路に面した狭い喫茶店のカウンターに、僕と加奈は肩を並べて座っていた。
「ええ、昨日、教育局から電話がきたわ」と答えると、加奈は大きなため息を洩らした。
「で、どこだった?」
「天売島」
「あの? 道北の?」
 加奈は大きく頷くと、「ダメ。わたし、あんな離れ小島に行ったら死んじゃう」
 僕は、加奈の横顔を見ながらコーヒーを啜った。
「だから、教員になるのはやめようかなって思ってる……昨日、家でそう言ったら、お父さんにメチャクチャ怒られちゃった。お前、働くってどういうことなのか、わかってるのかって」
 加奈は肩を落として、またため息をついた。
「ねえ、スギモト君は、どこだったの?」
「知床半島の羅臼町。ヒグマがよく出るらしい」
「そっちも遠いわね。まあ、ヒグマに食べられないように、せいぜい気をつけることね」
 僕も彼女も、昨年秋の教員採用試験には合格していた。未確定だった勤務地が、三月末の今になって、ようやくわかったのだ。
 僕は、明日の二十五日に札幌のアパートを引き払い、いったん帯広の実家に帰る予定だった。
 でも、最後に、もう一度だけ加奈に会って、自分の気持ちをきちんと伝えておきたかった。それで、彼女を喫茶店に呼び出したのだ。 僕と加奈は、三〇分ばかり、四月から始まる教員生活について、不安や夢などを気ままに喋りあった。話題が途切れたところで、加奈は、僕の横顔を軽く睨みつけると、ひと言ずつ区切るように言った。
「ねえ、あなた、わたしに何か話したいこと、あったんじゃないの?」
「……うん、まあ……」と答えてから、僕は心を決めて口を開いた。
「あの、四月から、それぞれ遠く離れた場所に勤務することになるんだけど、もしよかったら、ぼくとつきあってもらえないかなと思ってさ。……じつは君のことが、ずっと前から好きだったんだ、本当を言えば」
 話している間じゅう、突き刺さってくるような強い視線を横顔に感じていた。
 加奈は、私の話が終わると、一分ほどじっと黙り込んでいた。やがて小さなため息をつくと、おもむろに口を開いた。
「スギモト君の気持ち、ずっと前からわかってたわ。ただ、あなたには悪いんだけど、わたしって、あなたみたいに真面目で優しすぎる人って、あんまりタイプじゃないの。だから、ずっと気づかないフリをしてた。
 わたしって、ちょっと強引だったり、やんちゃで目立つタイプの男の子に惹かれちゃうの。そのこと、あなただってわかってたでしょ? わたしが、この四年間つきあってきた男の子たちのこと、そばで見てたんだから」
 僕は、彼女の言葉に小さく頷いた。
「それに、わたしって、気まぐれでわがままな女だから、あなたみたいな人とつきあったって、すぐに飽きちゃうと思うの」
 そこまで一方的に話してしまうと、加奈は、また押し黙ってしまった。
「あのさ、これっぽっちの可能性もないのかな? ぜったい無理だってことなのかい?」
「あなたには悪いけど、やっぱりムリね。だから本当にごめんなさい」
 なかば予想していた返事とはいえ、地獄に突き落とされるような痛みがあった。
 加奈は、同じ大学の英語教育コースで四年間いっしょに勉強してきたクラスメートだった。そのうえ、同じ歌声サークルに所属して、仲間としても活動もしてきた。
 スタイルがよく、声質もきれいな加奈は、リードボーカルを取ることが多くて、サークルの中でも目立つ存在だった。
 それにくらべ僕といえば、ステージの隅っこでギターを弾いたり、最後列でバックコーラスを歌ってるような地味な存在だった。
 僕の隣で黙りこくっている加奈の横顔を眺めているうちに、ふと珍妙なアイディアが僕の頭に浮かんできた。
 こんな提案をしたって、どうせ笑われるだろうと考えながらも、思い切って口に出してみることにした。
「ねえ、たった一度だけでいい、僕に最後のチャンスをくれないか。今から一万円を持って、向かいのパチンコ屋に行ってくる。一時間で、これを三万円まで増やせることができたら、ぼくとつきあってくれないか?」
 一瞬、加奈は、まるで正気を疑うような目つきでじっと僕を見た。そして五秒ほどたって、プッと激しく吹き出した。
「スギモト君、あなた、頭おかしくなったんじゃない? でも、そのヘンテコな提案、バカげていて面白いから乗ってあげるわ」
 彼女の返事を聞いて、僕の方がかえって驚いた。僕は、すぐに自分の財布から一万円札を抜き取ると、その財布を彼女に手渡した。そして席を立って、向かいのパチンコ屋へと歩いて行った。
 一時間後、僕は手ぶらのまま喫茶店のカウンター席に戻ってきた。加奈の隣のイスに腰を下ろし、オーバーのポケットから板チョコを一枚取り出し、彼女に差し出した。
「これ、何?」
「今日の戦利品。結局これだけだった」
「三万円持って帰ってくるんじゃないかって、一パーセントくらいは期待してたのに」
「これを半分わけして食べたら、店の前で別れよう」
「そうね……せいぜい味わって食べるわ」
 半分に割った板チョコをカリカリと囓っていると、チョコレートにまつわる二つの出来事が、記憶の底から蘇ってきた。
「ねえ、昔のことなんだけどさ……」
 ぼくは、小学三年生の時と、高校二年生の時の忌まわしい思い出を彼女に語り始めた。
 加奈は、僕の話を聞きながら、涙を流すほど激しく笑いこけた。
 彼女の笑いがおさまってから、僕らは店を出た。
「来年のバレンタインデーは、スギモト君に食べきれないくらいチョコを送ってあげるわ。楽しみにしててね。じゃあ、またいつか会いましょう」
 そう言うと、加奈は雑踏の奥に向かってゆっくりと歩き始めた。まもなく彼女の後ろ姿は、人混み紛れて見えなくなった。
 それが、加奈と会った最後になった。
 予想していたことだけど、翌年、加奈からバレンタインデーのチョコレートは届かなかった。