溶けていく記憶

 二〇センチほど開いた窓から、頬に触れてくる風の気配が感じられた。やや湿気のこもった室内では、心地のよい微風だ。 窓の外は、初夏らしい薄い青色が広がっている。雲のかけらひとつない青空だ。

 その青色に、一瞬ぼんやりと見とれていた。心も頭も、からっぽだった。

「ねえ、ちょっと寒くないかい?」

 弱々しい母の声で、空白だった意識が戻ってきた。

 僕は、窓外の青から、ベッドの上に横になっている母へと視線を戻す。頬がこけて青白くやせ細った母が、助けを求めるような視線で僕を見つめている。

 母の身体には、羽毛の夏布団と厚手のタオルケットが二枚かけられている。でも、八十を過ぎた母には、屋外から入ってくる爽やかな初夏の風が肌寒く感じられるらしい。

「わかったよ、窓を閉めるからね」

「悪いねえ……」と答えながら、母は申し訳ないといった笑みを浮かべる。半袖姿の僕に、多少の遠慮を覚えているのだろう。

 僕は丸イスから立ち上がり、窓をそっと閉める。窓の下の駐車上に、ジリジリと強い日差しが降りそそいでいるのが見えた。

「ねえ、お前は、いまどこで勤務してるんだったっけ?」

 口の中で舌が絡まったような母の声が聞こえた。この部屋に来てから、同じ質問を受けるのはこれで三度目だ。何度同じことを説明しても、母は五分もすると忘れてしまう。

「釧路だよ……釧路の営業所だって、さっき言っただろう」

 僕は、窓から離れ、ゆっくりとした動作でイスに腰を下ろす。

「ああ、そうだったっけねえ……今しがた聞いたことでも、すぐに忘れちゃうんだ。頭が、パアになっちゃってるからねえ」と呟きながら、母は自嘲的に微笑む。

「釧路は霧の街だから、こっちに比べると、ずっと寒いんだろう?」

 このセリフを聴くのも、これで三度目だ。

「まあ、そうだね」

「……昔、ウチの店で働いてた店員さんで、釧路にお嫁にいった人がいたなあ……あの人、名前なんて言ったっけなあ」

 母は睨むような目つきで天井を見る。

「ワ……ワ……」

「ワタナベさんかい?」

「……い、いや、ワタナベじゃなくて、ワ……ワ……」

 母は、十秒ほどモゴモゴと小さな呟きを繰り返していたが、思い出すのを諦めたらしく、唐突に口を閉じた。

 しばらく天井をぼんやりと眺めていたが、ふと頭を回して僕を見た。

「ねえ、父さんは、今どこにいるの?」

『父さん』、つまり僕の父であり、母の夫である男は、いま末期ガンを煩っていて、市内の大きな病院のベッドに横たわっている。身体中にガンが転移していて、もう長くはないと担当医から言われている。もったとしても、あとひと月くらいだろうと。

 父が、この老人ホームに最後に顔を出したのは、半年も前のことだ。

「家にいるよ。今朝、電話をしたら、昨日ここに来たって言ってたよ。今日も、午後には顔を出すつもりだってさ」

「あら、そうだったのかい。もうずっと顔を見てないような気がしてたんだけど」

「いや、そんなことはないよ。毎日ここに来てるって言ってたから」

 僕は、さりげなく、でも有無を言わせない口調で言い切る。

 母は、記憶の回路が、ほとんど壊れてしまっている。だから僕は、その記憶の曖昧さを逆手にとって、わざと嘘をつく。僕が『父は毎日ここに来てる』と繰り返し言えば、母は『父は毎日ここに来てる』と思いこむはずだ。

 夫は毎日来てると思いこんでる方が、母にとっても幸せにちがいない。「何か父さんに用事があったかい?」

「……父さんが、私を老人ホームに入れるって言ってたんだけど、その後どうなったのかなあと思ってね」

「今、母さんが寝ているこの部屋が、老人ホームの中なんだよ。母さんは、もう老人ホームの中に入ってるんだ」

「ええ? 嘘でしょう? ここが老人ホームだってかい?」と呟きながら、母は、訝るような疑惑の目つきで、部屋の中を見渡す。

 この仕草も、これで三度目だ。

「そうだよ、ここは老人ホームなんだよ」と僕が念を押すと、母は照れ隠しと失望がないまぜになった笑みを口元に浮かべた。

「じつはね、老人ホームには入りたくなかったんだ。やっぱり自分の家がいいからね。でも、そうだったのかい、もう老人ホームに入ってたんだね」「ここに入って、もう十ヶ月くらいが経つんだよ」

 僕の言葉を聞いて、母は深い溜息をついた。

「……そうかい、もう老人ホームに入ってたんだ……」

 焦点の合わない目で、母はぼんやりと天井を眺めている。

「ねえ、ところでアンタの奥さんの……なんて言ったっけねえ……そう、ア、アキコさんって言ったっけ……アキコさんは、どうしてアンタと一緒にここに来ていないんだい? 久しぶりに会いたかったのに」

 これも三度目の質問だ。だから、僕は三度目の説明を始める。

「アキコとは、もう五年も前に別れたよ。だからアイツは、ここには来ないよ」

「あら、そうだったのかい?……あんたたち別れたのかい……アンタ、どうして、アキコさんと別れたんだよ?」

 母は、素朴な表情で僕に問いかけてくる。

 そんな母の顔つきを見ながら、半ば呆れつつ、半ばやり切れない憤りを覚える。

 両親と、僕ら家族が二世帯住宅で一緒に住むようになって、間もなくアキコと母の仲が険悪になった。母もアキコも、もともと勝ち気で、他人の意見に従うより、他人を自分の思い通りに動かしたい方の性格だった。  そんな二人が、長い期間、同じ屋根の下で仲良く暮らせるわけがない。もともと無理な話だったのだ。なんとかなるだろうと甘い気持ちで二世帯住宅を建ててしまった自分が愚かだったというわけだ。

 それでも一緒に住み始めて半年ほどは、二人とも仲のよい姑と嫁の役を演じていた。でも食事のことが原因で、一気に二人の本音が表面化してしまった。

 二年以上もの間、母はアキコの悪口をあたり構わず吹聴し続けた。家の中では父と僕に、家の外では近所の奥さん方に向かって。それも朝から晩まで一日中。

 結局、アキコが、二人の子供を連れて、札幌の実家に帰って行くことになった。他に、事態を解決する方策は見あたらなかった。

 それが今から五年前のことだ。 アキコを家から追い出した当の本人であるにもかかわらず、母はそのことをまったく覚えていないようだ。その記憶は、他の、どうでもいい記憶の断片と同じように、母の脳から溶け出してしまっている。

「母さんが、僕にアキコと別れるように強く言い張ったんだよ。そのことは覚えていないのかい?」

「ふうん、そうだったかい……どうして、私が、お前にアキコさんと別れろなんて、そんなヒドイことを言ったんだろうねえ……」

 母は、両目を大きく開き、驚いたような表情で僕をまじまじと見つめた。でも、しばらくすると何事もなかったかのように、無表情の顔を窓の方へと向けた。

「膝がねえ、ひどく痛むんだよ。シクシクと、とっても痛むんだ。この痛み、なんとかならないかねえ」

 これも、いつものセリフだ。

 母は、アキコが家を出ていった翌年、買い物に出かけたデパートの階段を踏み外して、コンクリートの角に膝を激しく打ちつけた。すぐに救急車で病院まで運ばれ、レントゲン写真を撮った。すると右膝の皿も関節も骨折していることがわかった。翌日、金属製の棒と人工関節を、骨にボルトで固定する手術が施された。

 手術は問題なく終わったが、その後の経過が良くなかった。骨そのものはついてるのに、母は積極的にリハビリを行おうとしなかったのだ。部屋から出ることも億劫がり、一日中ベッドに横になっていることが多かった。

 寝てばかりいるうちに足腰が日に日に弱くなり、記憶や思考の混濁も徐々に現れるようになった。

「痛み止めの薬は毎日飲んでるんだよ。だから、痛みは押さえられてる筈なんだ。多少の痛みがあったとしても、今の薬より強い薬に変えることはできないんだよ。副作用が強すぎて、体に悪い影響が出てくるからね」「……そうなのかい、でも、膝がシクシク痛むんだよ。この痛み、なんとかならないもんかねえ」

 「なんとかなると、いいんだけどね」と、僕は同情と憐憫を覚えながら相槌を打つ。

「朝から晩までシクシクと痛むんだよ……」と、繰り返し母の愚痴は続く。「夜も眠れないくらい痛むんだ」

「そうなのかい……ところで母さん、食事は、ちゃんと食べてるのかい?」 僕は、わざと別の話題を母に振り向ける。膝の痛みの話を聞いていても、どこまでも終わることがない。エンドレスなのだ。

「一日中ベッドに寝てるだけだからねえ、たいしてお腹は減らないよ」

「でも、ちゃんと食べないと、元気にならないよ」

「いくら食べたって、どっちみち、もう元気にはならないよ」

「そんなことはないさ。ちゃんと食べてたら、また元気になれるはずだから」

「お腹が減らないから、少ししか食べられないんだ」

「でも、頑張って食べないとね…」

 この話題も、そろそろ限界だ。

 母は次に何を尋ねてくるんだろう。そんなことを考えてると、母が訊いてきた。

「ねえ、お前はいま、どこで勤務してるんだったっけ?」

「釧路だよ、釧路の営業所。……説明するの、これで四回目だよ」

「あら、そうだったかい。聞いてもすぐに忘れちゃうんだ、頭がパアになっちゃってるからねえ……釧路は霧の多い街だから、夏だって涼しいんだろう?」

「そうでもないよ、暑い日には、半袖だって着ることがある」

「あら、そうなのかい。……そう言えば、昔、ウチの店で働いてた店員さんで、釧路にお嫁にいった人がいたなあ……あの人、名前なんて言ったかなあ……ワ……」

「ワタナベさんかい?」

「い、いや、ワタナベじゃない、そうではなくて、ワ……ワ……」

「ワダさん?」

「い、いや、ちがうなあ、……でも思い出せないなあ、あの人、名前なんていったっけ」

 僕は黙ったまま、母が考えこんでいる顔を眺めている。一分も経たないうちに、母は考えるのをやめる。

「ねえ、父さんは、今どこにいるの?」

「家にいるんじゃないかな? 今朝、電話をしたら、昨日、ここに来たって言ってたよ。今日も、午後には顔を出すってさ」

「あら、そうだったのかい。もうずっと長い間、顔を見てないような気がしてたんだけど」

「いや、そんなことないよ。毎日にここに来てるって言ってたから……何か父さんに用事があるのかい?」

「いや、父さんが、私を老人ホームに入れるって言ってたんだけど、その後どうなったのかなあと思ってね」

「何言ってるんだよ。お母さんは、もう老人ホームの中に入ってるんじゃないか」

「……ええ? 嘘でしょう? ここが老人ホームだってかい?」

「そうだよ、ここは老人ホームの中なんだ」

「……じつはね、あんまり老人ホームには入りたくなかったんだよ。やっぱり自分の家が一番いいからねえ。でも、そうだったのかい、もう老人ホームに入ってるんだねえ」

「ここに下見に来たら、建物も施設も新しいし、父さんにこれ以上面倒をみてもらうのも心苦しいからって、母さんが自分からここに入りたいって言ったんだよ。そのことも忘れちゃったのかい」

「あら、私、そんなこと言ってたのかい? もう頭がパアになっちゃってるから、何にも覚えてないんだよ」

「覚えてないかもしれないけど、母さんは、自分からここに入りたいって言ったんだよ」

「そうだったのかい。……ねえ、ところでアンタの奥さんの……なんて言ったっけねえ……そう、ア、アキコさんって言ったっけ……アキコさんは、どうしてアンタと一緒にここに来てないんだい? 久しぶりに会いたかったのにねえ」

「アキコとは、もう五年も前に別れたじゃないか」

「あら、そうだったのかい?……あんたたち別れたんだ……アンタ、どうして、アキコさんと別れたんだよ?」

「母さんが、アキコに家から出ていけって言ったんだよ。だから、あいつは子供を連れて出ていったんだ」

「あらあ、そんなヒドイこと、私が言ったのかい?……ぜんぜん覚えてないよ」

「母さんが、アキコに向かって、お前の作る料理は、年寄り向きじゃないから、何も食べるものがないって文句をつけたのが、そもそものきっかけだったんだよ」

 母は、じっと僕の言葉に聞き入っている。さっきまで、自嘲的な笑みを浮かべていたが、それも顔の表面からは消えていた。

 「母さんが、近所中にアキコの悪口を言いふらして、もうアキコが、これ以上家にいられないようにしてしまったんだ」

 母は、少しずつ顔を窓の方へと振り向けていく。

「母さんが、アキコをむりやり追い出したんだよ。『お前なんか、この家から出ていけ』って、アキコに向かって言ったんだ」

 不意に、僕は絶望的な哀しみを覚えて口を閉じた。

 窓の外の青空を見た。初夏の眩しい青空が窓いっぱいに広がっていた。まだ六月なのに、なんて清々しい青色なんだろう。切ないほど澄んだ青が、目の奥に突き刺さってくる。

「膝がねえ、ひどく痛むんだよ。シクシクと、とっても痛むんだ。この痛み、なんとかならないかねえ」

 訴えかけるような目つきで、母は僕を見上げている。

「痛み止めの薬は毎日飲んでるんだよ。だから、痛みは押さえられている筈なんだ。多少の痛みはあったとしても、今の薬より強いものに変えることはできないんだよ。副作用が強すぎて、母さんの体に悪い影響が出てくるからね」

「……そうなのかい、でも、膝がシクシクと痛むんだよ。この痛み、なんとかならないもんかねえ」

 なんともならないよ。母さんは死ぬまで、この痛みに耐え続けなければならないんだ。

「なんとか、なるといいねえ」

 できるだけ優しい口調で、僕は母に言った。