卒業式よ永遠なれ

 昼メシが終わった後の休憩時間だった。
 僕は、三階にある教室の窓から、ため息をつきながら、国道を行き交う車の群をぼんやりと眺めていた。
 繰り返し僕の脳裏によみがえってくるのは、前日の放課後に起きた醜態のシーンだ。本当に、昨日は人生最悪の日だった。

 

 前日、僕は授業が終わるやいなや、疾風のごとく走って、生徒玄関に向かった。そして、廊下との角に寄りかかりながら、隣のC組の安住香織が現れるのをじっと待った。
 彼女が現れたのは、十五分ほどしてからだ。彼女は、他の女子生徒と仲良さそうにお喋りをしながら下駄箱で外靴に履き替え、そのまま玄関の外へと出て行った。
 もちろん僕もすぐに靴を履き替えて、忍者のごとく彼女の後ろを歩き始めた。
 ひと月ほど前、僕は彼女を密かに追跡したことがあって、彼女の帰宅するルートも、自宅の場所も承知していた。
 ただ前回と異なるのは、彼女が自宅の玄関に入る直前に、僕が彼女の前に颯爽と登場して、次のように自分の気持ちを男らしくキッパリと告白することだった。
「僕ぁ、君を愛してるんだ」
 このセリフにしても、三週間近く、迷いに迷ったあげくに決めたものだった。

 当初は「僕は、一年前からずっと君のことが気になっていて、これは恋だってことを自覚したのは、実は二ヶ月ほど前のことで、それで気持ちを打ち明けようかどうしようかずっと迷っていたんだけれど、卒業式も近いことだし……」と長ったらしく弁解がましいものを考えたけれど、結局は、憧れの加山雄三のように男らしくひと言で自分の気持ちを告白すること決めたのだった。
 帯広神社の前で、安住香織は友達と別れると、一人で東三条を真っ直ぐ南に向かって歩いていく。彼女の家は、東一条十丁目あたりの、裏通りに面した一軒家だった。
 僕は、さも自分も下校の途中だという何気ない振りを装って、ひたすら彼女の後ろを追い続けた。
 予想外の状況は、東三条の通りから十丁目の角を右に曲がったところで勃発した。角を曲がったところで、彼女が僕を睨みつけるようにして突っ立っていたのだ。
「あなた、なんで私の後なんかついてくるのよ?」彼女の声は、明らかに不安感と怒りを帯びていた。
 意表をつく展開に、僕の気持ちは、すっかり動転してしまった。
「……あ、……いや……その」
「あなた、ひと月くらい前も、私の後をついてきたでしょう?」
「……え?……あー、うーんと……」
「あなた、ヘンタイ?」
「はぁ?……ヘン……」
「これ以上、私の後ついてきたら、大声で叫ぶわよ」
「……あ、あの……」
「気持ち悪いわね!」
 そう言うと、彼女は敏捷な動作で振り返り、自宅に向かって、足早に僕の前から立ち去っていった。
 それは、ほんの一瞬の出来事で、僕の方といえば、身動き一つできないまま、ただ呆然とその場で立ちつくしているだけだった。
 意識の中では「僕ぁ、君を愛してるんだ」というセリフだけが、虚しく空回りしていた。

 

「おい、生きとるか?」という威勢のいいセリフとともに、肩のあたりがドスンと叩かれた。
 窓の外から視線を戻して、おもむろに背中を見上げると、アツシが僕を不思議そうな顔で見下ろしていた。
「……あ?」
「何が、『あ』だ?目の焦点があっとらんぞ」
「……ふん、ほかっといてくれ」
 タカシは、僕の横のイスにドスンと座り込んだ。
 彼は、小学校時代からの悪友だ。高校卒業後は、札幌の教育大を目指しているが、まだ結果は出ていない。将来は中学校の教師になりたいと言ってるが、彼に教えられる子どもが可哀相だ。
「卒業まで、あとひと月だなぁ。高校時代にやり残したことはないか?」
「……やり残したことばっかりだよ」
「今日は、ずいぶんと絡むなぁ」
「もともと、こういう性格なんだ」
「それにしてもよ、このまま高校卒業しちゃうなんて、なんかつまんないと思わんか? 何か、面白いことするべや」
「いいよ、別に面白いことなんてなくても」
「そういう投げやりな気持ちでは、人生、何も開けてこんぞ。……そうだな……例えばよ、校舎の壁に、三階までのでかいペイントを描いちゃうとかよ……卒業式の後に、玄関から正門まで裸で疾走するとか」
「アホか。お前一人で勝手に走れよ。オレはちゃんと制服を着たまま学校におさらばするから」
「……まあ、たとえばの話だよ」
「そうのはいい。オレは、静かな気持ちで高校を卒業してく」
「そんな寂しい話はしないでよ……そうだ、こんなのはどうだ?……お前、卒業生を代表して答辞を読むことになってるだろう。答辞の最後に、自分の好きな人の名前を大声で告白するってのは」
「そんなことしたら、式の後で担任からボコボコにされちゃうよ。それに、なんでオレ一人がそんな恥ずかしいことしなくちゃならないんだよ。だったら、お前は、何をやるんだよ?」
「ほら、オレは、クラス代表で卒業証書を受け取ることになってるだろう。だから校長先生から卒業証書を受け取って、席に戻るときに、大声で告白するってのは?」
「二人して、そんなバカくさいこと、やってられねえよ」
「それじゃあよ、賭けをして、負けた方が、卒業式で告白をやるってのはどうだ?」
「賭けって、何をするんだよ?」と、尋ねた瞬間に、アツシの策にはまり込んでいる愚かな自分に気がついた。
「じゃあよ、オレが第一志望の札幌教育大に合格したら、お前が負け。不合格だったら、オレが負け。これだったらどうだ?」
「そんなもん、オレが勝つに決まってるだろう。……よしわかった。その賭け、乗ったぞ!不合格の後で、そんな賭け、してなかったなんてなんて絶対言うなよ」
「言うわけないべや。男と男の約束だ!」
「よおし、決まりだぞ」
 ……と、これが愚かな賭けをしてしまったあらましだ。
 その時の僕の心の中に、安住香織に気持ちを伝えられなかった前日の失態を、卒業式になんとか一発逆転してやりたいという捨て身の気持ちがなかったとは言えない。
 ただし、高い確立でアツシは札幌教育大を落ちるだろうし、だとすれば厳粛な卒業式で、前代未聞の恥ずべき告白をするのは、あいつ方に決まってるという確固たる自信もあった。
  実際のところ、僕は、アツシとそんな賭けをしたことなんて、その日の夕方には、もう忘れてしまっていた。安住香織への失恋の痛手と、自分自身の大学進学のことで頭がいっぱいだったのだ。

 

 アツシと賭けをしてから、十日ほど経った夕方に、突然彼から電話がかかってきた。
「おい、今日、札幌教育大から書留が届いてよ、『貴殿は、めでたく本校に合格しました』だとよ。やったねぇ! それでさぁ、悪いんだけど、賭けはオレの勝ちってことだからな」
「……はあ?」
「まさか、賭けのことは忘れてなんかいないよな。卒業式の告白、約束通りやってくれよ。楽しみにしてるからさ」
「……おい」
「『おい』じゃなくて、『はい』だろう。男と男の約束、きっちり守ってもらうからな。じゃあ、卒業式、楽しみにしてるから」
「……あ、あのよぉ……」と喋りかけたところで、電話は一方的に切れてしまった。
 受話器を置いて、自分の部屋に戻ってから、僕は自分がやろうとしてることの重大さを、じわじわと意識し始めた。
 卒業生が答辞の最後に、好きな女子生徒への告白をするなんて、これは開校以来の最悪の事件だ。
 担任から怒鳴られるどころか、親父とお袋が学校に呼ばれて、校長先生から叱責を受けるなんて事態も、実にありそうなことだった。
 式での告白そのものも勇気がいるが、その後の展開を予想すると、気が滅入ってくるばかりだった。
 告白をしないで済ます方法を色々と考えあぐねてみたが、アツシが許してくれない限り、逃れる方法はないということが分かった。
 その後、学校でアツシに会ったときに、賭けの話を二度ほどしてみたけれど、彼は頭を横に振るばかりだった。
 こうなれば、オレも男だ。やるっきゃないと腹を決めたのは、卒業式の二日前になってからのことだった。
 それにしても、自分一人だけが赤っ恥をかくなんて断然つまらない。どうやったらアツシの奴に一泡吹かせてやれるか、僕は、ない智恵を振り絞って考えあぐねた。
 そして、とうとう前日の真夜中すぎに、僕は奇襲の策を編み出したのだった。あとは翌日の卒業式を待つばかりとなった。

 

 卒業式が始まった。
 会場の体育館には、卒業生から在校生、教職員、そして卒業生の保護者まで、身動きできないほどびっしりと混雑していた。保護者席には、カメラを持った親父とお袋も来ている筈だ。二人のことを考えると、気持ちは最悪だった。でも、ここまできたら、もう後戻りはできない。
 式は教頭先生の開式の言葉に始まり、式歌斉唱、卒業証書授与、学校長式辞、来賓祝辞、祝電祝辞の披露と、式次第通りに順調に進んでいった。
 在校生送辞。これは、後期の生徒会長をしている二年生の阿部明子だ。しっかり者の彼女は、ひと言ひと言が明瞭ながらも、流れるような口調で朗々と文章を読み上げていく。
 このあたりから、僕の心臓はドクドクと激しく鳴り始めた。鼓動の音で、送辞の言葉が聞こえなくなるくらいだった。
『……卒業生の皆さんの今後のご活躍をお祈り申し上げ、送辞といたします。在校生代表 阿部明子』という最後のフレーズだけが耳に届いた。彼女が軽やかな足取りでステージから降りていく。
  とうとう、この時がきた。次はオレの番だ。「卒業生式辞、代表、三年D組 杉本悠貴」
「はい!」と元気よく声を出した。自分に気合いを入れるエールのつもりだった。
 立ち上がり、ステージに向かってイスの列を抜けていく。何度も左右に並ぶクラスメートの体にぶつかってしまう。そのたびに、僕はフラフラとよろめいてしまう。緊張のせいで、真っ直ぐ歩けないのだ。
  ようやくイスの列を抜け、階段を上り始めた。つま先がステップの角に引っかからないように、それだけに気をつけて高く足を上げる。ここでコケたら、大爆笑ものだ。
 演台の前に立ち、答辞の巻紙を置いた。それから改めて気をつけの姿勢を取って、会場内に視線を向けた。
  フロアーを埋める黒い人の群が、僕に視線を集中してしている。その迫力に、僕は目眩を覚えそうなほどだ。起立の姿勢を取っているのがやっとなくらいだった。
 僕は、深々と礼をしてから、演台に近づき、巻紙を開いた。読み始める前に、ゆっくりと息を吸う。
〈よし、行け! あとは、気合いだ!〉そう自分に言い聞かせてから、口を開いた。
「答辞。春の兆しが感じられる……」
 喋り始めると、あとは意外とスムーズだった。早すぎず、遅すぎず。ひと言ひと言明瞭に、それでいて滑らかに。平板にならず、抑揚と強弱に気をつけて。
「これまでお世話になった先生方、両親、教育関係者の皆様方にお礼申し上げ、答辞といたします。卒業生代表 杉本悠貴」
 答辞の部分は、無事に終わった。僕は、巻紙を畳紙に包みなおし、演台の右側に置いた。
 本来なら、礼をして、これで終わる答辞。でも、今日のメーンイベントは、これからが始まりだ。
 僕は、そのまま横に移動して、演台の脇に立った。
 予想外の僕の行動を、会場内が戸惑いの様子で見ている。前から五列目の入り口近くで、ニヤニヤしながら僕の行動を見ているアツシの顔が目に飛び込んできた。
 そうやって笑っていられるのも今のうちだ。そう胸の中で悪態をついてから、僕は再び大きく深呼吸した。そして、思いっきり声を張り上げた。
「告白しまぁーす! 僕はぁ、 以前からぁ、三年A組のぉ、安住香織さんのことがぁ、大好きでしたぁ! よかったらぁ、僕とぉ、つきあってくださーい!」
 言い終わった瞬間、目の前がクラクラした。深く息をしながら、僕は会場内を見回した。
 あたりは異様な静けさに、シーンと静まりかえっている。その時、本当に「シーン」という音が聞こえてきそうなくらいだった。
 生徒席でアツシが、口許を押さえて笑っているのが分かる。教員席では、担任の横野先生が、顔を真っ赤にし、怒った目つきで僕を睨んでいる。
 僕は、そんな情景を一切無視して、再び大声を張り上げた。
「それからぁ、もう一つ告白がありまーす!三年C組のぉ、鈴木敦君はぁ、同じC組のぉ、斉藤恵子さんのことがぁ、大好きでーす!ぜひぃ、つきあってあげて下さーい!」
 その時、アツシが自分のイスから激しくコケるのを、僕の視線は、しっかりと捉えていた。
 僕は、深々と礼をすると、不気味に静まりかえった場内を、自分の席に向かってゆっくりと歩いていった。

 

 卒業式が終わった後の出来事を、少しだけ書いておこう。
 式が終わるなり僕は職員室に呼ばれ、担任の横野先生から「お前は、本校前代未聞のバカ卒業生だ。合格した大学は、すべて入学辞退だぞ!」と怒鳴られ、その後には、教頭先生と校長先生からも、「あなたは、本校の恥ですね」と、優しい口調の中にも、きついお叱りの言葉を頂戴した。
 幸運にも、両親が学校に呼ばれるという最悪の事態には至らなかった。しかし、その夜、食卓テーブルに僕の夕食はなかった。
 卒業式の翌日、アツシの家に斉藤恵子から電話がかかってきて、僕が話したことは本当かと尋ねられたそうだ。
 その電話がきっかけで、二人のつきあいが始まったというのだから、男と女の関係というのは、本当にわからないものだ。
 残念なことに、安住香織から僕の家に電話がかかってくることはなかった。
  それが、今でも悔しくてならない。

【十勝毎日新聞 2005年(平成17年)6月19日 掲載】