流れる雲の行方



 目が覚めて階下におりていくと、居間には誰もいなかった。家の中はしんと静まりかえっている。父も母も、仕事に出かけてしまったんだろう。
 たいしてお腹は空いていない。とりあえず冷めたご飯と味噌汁を少しだけ食べた。
 ぼんやりしているうちに時間が過ぎていく。ふと掛け時計を見上げると、もうすぐ十時になろうとしていた。そろそろ図書館が開く時間だ。参考書や問題集、ノートなどを入れたショルダーバッグを持って玄関ドアから外に出た。
 空は青く澄んで、あたりには春らしい陽光が降り注いでいる。深く息を吸い込んでみる。若芽が萌える甘い香りがかすかに感じられた。春なんだと思った。
 玄関脇の郵便受けを覗いてみる。葉書に混じって、僕宛ての封書が入っていた。裏返して差出人の名前を見る。丸っぽい字で、「浅田香織」と書いてあった。鼓動がドキドキと早くなった。すぐに封を開けて、何が書いてあるか確かめてみたいと思った。でも不安感で、封を開けるだけの勇気はない。とりあえずショルダーバッグ入れた。気持ちが落ち着いたら読むことにしよう。そう自分に言い聞かせて歩きはじめた。
 家を出て、西二条通から帯広川の堤防沿いをゆっくりと歩く。
 真正面に、真白い雪に被われた日高山脈が目前に迫って見える。山の雪が消えるまでに、まだひと月以上かかるだろう。
 天気はいいけれど、気持ちは暗かった。就職試験の勉強が、うまく進んでいないからだ。思ったように頭が働かなくて、専門用語も覚えられない。公務員試験と教員採用試験まで、あとひと月しかないというのに。


 西五条通に出て、南にむかって歩き始めたところで、舗道脇に車が止まった。見ると、車体に「帯広エネルギー」というロゴ文字が入っていた。何だろうと思っていると、助手席のウィンドウがスルスルと下がってきた。
「おい、村上じゃないか。こんなところで何やってるんだよ?」
 車の中から、見覚えのある顔が僕を見ていた。高校時代に同じクラスだった和田という男だった。
「……今から図書館に行くところなんだ」
「図書館?」と、和田はわけが分からないといった表情を浮かべた。
「なんか調べものか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
「……仕事は?」
「今、失業中なんだ。色々あって、東京から引き上げてきた」
 無意識に、苦笑いを口許に浮かべていた。
「……へえ、そうなのか」と、和田は不思議そうな目つきで僕を見た。
「よかったら図書館まで乗っけて行ってやるよ。今、配達で回ってるとこなんだ」
 一度は断ったけれど、彼の強い誘いのまま助手席に乗りこんだ。
「たしか東京で、雑誌の編集者をやってたはずだよな。誰かに聞いた記憶がある」
「ああ、五年ほどやってた。でも、体を壊しちゃって。それで、こっちに帰ってきたんだ」
「へえ。雑誌の編集者って仕事がハードだっていうからな……それで、図書館で何やってるんだよ?」
「勉強さ。来月に公務員と教員の採用試験があるんだ。そんなもんでも受けようかなって考えてる」
「ふうん」
 車内にしばらく沈黙が漂った。
「……『帯広エネルギー』って、もう長いのか?」と、僕から彼に訊いてみた。
「ああ、親のコネだったけど、大学卒業してからずっと働いてる」
「どんな仕事してるんだよ?」
「外回りさ。お得意さんの営業をして回ってるよ。別に給料はよくないけど……去年赤ん坊が生まれたんで、まあ、まじめに働いてるよ」と言って、口の中で小さく笑った。
 家族を持っている和田と、失業中の自分を比べてしまう。自分が、一周遅れでトラックを走っているイメージが浮かんできた。
 車は、すぐに図書館に着いた。
「サンキュー、助かったよ」と言いながら、助手席から下りた。
「公務員試験、うまくいくといいな」
 和田は、すぐに車を出さず、少し考え事をする素振りを見せた。
「……あのさ、村上。オレ、お前のこと、スゴイ奴だなあって感心してたんだ」
「感心してた……?」
「お前って、高校の時は文芸部に入って活動してたし、大学は文学部に進んだし、東京で雑誌の編集者になったって聞いて、着実に自分の夢に向かって進んでるんだなあって感心してたんだ。オレみたいに行き当たりばったり生きてる男には真似できないなって」
 僕は、何も言えないまま視線をそらした。
 和田は、僕の反応に気づいたようだった。
「つまらないこと喋っちゃったかな。悪かった。じゃあ、また」と呟いて、和田はすぐに車を出した。

 図書館の学習ルームで、二時間ほど一般教養の問題集を解いた。集中力が続かなくて、すぐに嫌気がさしてきた。他に教職教養だとか専門教科の勉強もしなくちゃならない。でも、やる気が湧いてこなかった。
 いくら夢が大きくたって、途中で挫折してしまったら、なんの意味もない。ゼロからやり直しだ。そんなことを繰り返し考えていた。


 少しお腹も空いてきたので、図書館を出て、向かいの総合病院に出かけた。一階の売店でおにぎりと飲み物を買い、そのまま中央公園まで歩いて行った。
 ふと、自分は抜け殻だと思った。
 編集者をやめて、東京から引き上げてきた時点で、僕は、かつての自分ではなくなってしまった。見かけは同じだが内側はカラッポだ。もう今の自分には、夢も、意欲も、希望も、何も残っていない。単なる空洞だ。
 こんな空しい気持ちを抱えたまま、無駄に勉強しても、公務員試験も教員試験も受からないだろう。
 中央公園は、白っぽく枯れた芝生が広がってるだけだった。人の姿なんて、ほとんど見えない。
 舗道のそばの薄汚れたベンチに腰を下ろして、おにぎりを食べた。何の味もしないし、お腹も膨れなかった。
 十分ほど、ぼんやりと雲の動きを眺めていた。輪郭の曖昧な雲が、西の空から少しずつ東へと動いていく。移動しながら、絶えず形を変えていく。それが不思議な気がした。
 心を決めてから、思い切ってショルダーバッグを開け、香織の手紙を取り出した。
 封を指先で丁寧にちぎる。深くを息を吸い込み、心を整えて読み始めた。


《村上くんへ
 返事が、遅くなってごめんなさい。あなたの手紙を読んでから、どんなふうに答えを出したらいいのか、ずっと考えていました。
 あなたの誘いに乗っかって、今の仕事を辞め、北海道に行くのもアリかなと思いました。地下鉄のない暮らしだとか、半年間も雪に閉ざされちゃうとか、そんな北国の生活も楽しいかなって考えました。私って意外と順応力が高い方なので、一年もしたら、まるで北海道生まれのような顔をして暮らしているような気がします。
 でも、五年かかって、やっと雑誌編集者としての足場を築いてきたのに、それをあっさり投げ捨てちゃうのは、やっぱりもったいな気がしてます。
 確かに、きついことや辛いこともめちゃくちゃ多いし、やめたいと思ったことも一〇回や二〇回どころじゃありません。
 でも、もう少しここで頑張ってみたいなって、今は考えてます。
 これが、今の私なりの結論です。
 もしかすると、今から二年もしないうちに、北海道へ行っちゃえと心変わりしてるかもしれないけどね……。先のことは自分でもよくわかりません。
 あなたは今頃、公務員試験の勉強に打ち込んでるんでしょうね。東京の空の下から、あなたの合格を祈ってます。(ダークスーツ姿のあなたなんて、まったく想像できないけど)
 あなたの意に添えなくて、ごめんなさい。
               浅田香織
PS 私がこんな結論を出したことと、あなたがあんなふうに編集部をやめちゃったこととは、まったく関係ありません。そのことだけは、誤解しないでね。    》

 香織の手紙を読み終わって、大きくため息が洩れた。やっぱりかと思った。
 こういった返事が来ることは、なんとなく予想していた。でも香織に、こうきっぱり書かれると、やはりそれなりの衝撃力があった。
 追伸の中で、あんなふうに書いてあったけれど、香織は僕への信頼感なんて、まったく持ってないんだろう。そんな気がした。
 あれは去年の十二月のことだ。
 年末を目前に、僕らは一月号の入稿作業と、二月号の取材を同時に進めていた。いつもの二倍は忙しく、編集部内もごった返していた。
 そんな中、僕は新年一月号の特集五ページを、どうしても仕上げられなかった。取材も終わり、写真も集まっているのに、誌面の構想がまとまらなかった。印刷所に入れる最終締め切りを、二日過ぎてもまだ手が付けられず、ページは空白のままだった。
 副編集長から、「何ボヤボヤやってるんだ!」と怒鳴られた夜、机に向かっていると、突然激しい腹痛に襲われた。七転八倒の苦しみで病院に担ぎ込まれた。その場で腸閉塞だと診断され、翌日手術を受けた。
 見舞いに来た同僚に、空白の五ページがどうなったのか訊く勇気がなかった。
 僕の中で、雑誌の編集者を続けていくだけの自信はすっかり消え失せていた。自分が無能に思えて、もう二度と編集部に顔を出せないと思った。
 同じ編集部の同僚でもあり、この一年ほど恋人としてつきあってきた香織とも、今までの関係を続けていく自信はなかった。
 ひと月後、退院した僕は、アパートの荷物をまとめて、逃げるようにして東京を去った。


「あらぁ、もしかして村上くんじゃない?」
 ベンチに座ってぼんやりしていると、突然、声をかけられた。 
 あわてて声の相手を見た。
 髪を明るい茶色に染めて、化粧を厚く塗った若い女性が、僕の目の前に立っていた。彼女は、右手で紺色のベビーカーを押していた。よく見ると、彼女の右足に抱きつくようにして、三歳くらいの小さな女の子も立っていた。
「私のこと、わかんないでしょう? 中学校卒業して以来だもんね」と、彼女は悪戯っぽい笑顔を浮かべた。化粧が上手いせいか、とても可愛い女性に見える。
 しばらく彼女の顔を見つめていたけど、顔も名前も思い出せなかった。
「私、中学校時代は少し太っていたからね、昔の面影は、全然ないと思うわ。それに今は化粧もしてるしね。……私、渡辺奈緖子よ。中学校の二、三年生で同じクラスだったでしょう?」
 姓は、すぐに思い出した。でも、当時の顔つきはまったく思い返せない。
 たぶん僕が怪訝そうな顔つきを浮かべていたからだろう。僕の顔を見て、彼女はカラカラと明るい声で笑った。   
「村上くんって、学級委員長とかやって活躍してたけど、私は勉強もスポーツもできなかったし、もともと目立たない方だったから、覚えてないのね?」
「そんなことはないけど……」と口ごもりながら、頭を掻いてごまかした。
 彼女の足に抱きついてる女の子が、じっと僕を睨んでいる。
「君の子どもかい? すごいな、もう二人もいるんだ」
「ちょうど手がかかる年頃でね、大変よ。今日は、たまたま仕事が休みで、天気もよかったから散歩に出てきたの」
 そう言いながら、彼女は、少し疲れたような仕草で僕の隣に腰を下ろした。
「そのあたり、走ってきていいんだよ」と自分の娘に声をかける。
 女の子は、用心深そうにあたりを見回しながら、ゆっくりとした足取りで枯れた芝の上を歩き出した。
「仕事が休みってことは、働きながら子育てしてるのかい?」
「そうよ。ダンナが、って言っても元ダンナなんだけど、二人目の子どもがお腹にできた途端に、どっかの女と逃げちゃってね。それで、しょうがないから私一人で育ててるってわけ」
「そりゃあ大変だな」
「まあね。年取ってるんだけど、母親がまだ生きてるんで、子どもの面倒をみてもらったり、助けてもらってる。そうじゃないと、こんな小さな子どもを二人も抱えて、とても働けないわよ」
 そう言って、またカラカラと明るく笑う。
「ところで村上くんは、何してるの? こんなところで」
 不思議そうな顔つきで、僕をじっと見る。
「じつは、今失業中なんだ……大学卒業してから、ずっと東京の出版社で雑誌の編集者をやってたんだけど、体を壊して帰ってきたんだ。それが半年前。今は、療養しながら就職試験の勉強をしてる。来月に、公務員と教員試の採用試験があるんだ。家にいてもやる気が起きないから、昼間は図書館に通って勉強してるんだ」
「へえ、そうなんだ。東京で苦労したんだね。それで、もう体はよくなったの?」
「うん、まあだいたい回復した」
「そりゃあ、よかった。……でも村上くん、羨ましいわ。私なんか、何があったって、のんびり図書館で勉強してる余裕なんてないもの。母親は年金でぎりぎりの生活だし、とにかく私が働かないと、親子三人その日から飢え死にしちゃうからね」
「……そうかい」
「昼間はスーパーのレジ打ちで、夜も週末はスナックの手伝いをしてるの。のんびり休んでる暇はないわ」
「頑張ってるね」
「私、村上くんと違って、昔から頭悪かったでしょう。だから仕事の選り好みなんてできないの。どんな仕事だろうと、お金になるんだったら、なんでもしなくちゃ。公務員だとか教員だとか、そんなこと言ってられないわ」
 彼女の娘は、枯芝の上を、行ったり来たりしながら走っている。久しぶりに春の陽光を浴びて、表情が生き生きしている。
 娘の様子を眺めている奈緖子の表情も、とても穏やかで、幸せそうに見えた。  
「まあ、そもそも、ヘンな男に引っかかっちゃった私が悪いんだけどさあ」と、またカラカラと笑った。
 奈緖子の話を聞いているうちに、僕の中で黒く澱んでいた何かが動き出す気配があった。それが何なのか、よくわからなかった。でも、奈緖子の笑い声につられて、僕も一緒にカラカラと笑ってしまいたい衝動が湧き上がってきた。
 ためしに僕は、大きな笑みを作ってみた。