さらば夏の日

 

 

 バレーボールの白球が、勢いよく飛んできた。一メートルほど先だ。
 僕は、低く構えていた姿勢のまま、上半身から前に飛び込んでいった。右手を思いっきり遠くに伸ばす。ぎりぎり届きそうな直前、ボールが地面を跳ねた。
「ドンマイ!」
「もう少し!」
 コートのまわりに立ってる仲間から、大きなかけ声がかかる。
 すぐに立ちあがり、僕は次の球に身構える。
 ネットの向こう側で踏み台に乗った監督が、青空高く白い球を放り上げる。右腕を振り上げた直後、バシンと衝撃音が鳴る。その瞬間、ボールは眼前に迫っている。今度は左側だ。両腕を左側へ突き出す。両手首に激しいショックを受ける。ボールはゆるやかな円弧を描いて、後方へと舞い上がっていった。
「おしい!」
「ガンバ!」
 僕は、「さあ、もういっちょう、こい!」と怒鳴り声を上げて、次の球に身構える。
 ネットの上から、思いがけず、ちょこんと弾いただけのフェイント・ボールが落ちてきた。三メートルほど先だ。
 僕は、思いっきり左足を蹴って、遠く前方へと宙を飛ぶ。ボールの動きが、スローモーションに見える。なんとか間に合いそうだ。でも僕の体が地面に落ちる前に、ボールの方が先に地面を跳ね返っていた。

 休憩時間になり、僕らはグラウンド端の水飲み場まで歩いて行った。強い日差しの下、二時間以上も、ぶっ続けで練習していたせいで喉はカラカラだ。その上、身体は頭からつま先まで土埃で真っ黒。髪の毛を払うと、土の粉がサラサラと落ちてくる。
「おい、お前の顔、まるで西部劇のインディアン!」
 横を歩いていたアキラが、僕の顔を指さしてゲラゲラ笑う。 
「ふん、お前こそ、モスラ映画に出てくる、南海の原住民だべ」
 アキラの顔は、全体が土で黒く汚れ、目だけが白くギョロリと覗いている。
 でも、笑えない。きっとオレも同じような顔をしてるんだ。ああ、こんな顔は、あの子にだけは見られたくないな。
「おい、こんなキツい練習して、オレたち、上手くなってんのかなあ」と、僕の後ろを歩いていた同じ二年のヒロシが小さな声でポツリと呟く。
 その声を無視したまま、僕は黙って歩き続けた。同じような疑問を、僕もずっと抱いている。来る日も来る日も、毎日二時間以上は練習してる。土曜の午後や、今日みたいに日曜日の午前中は四時間以上もだ。でも、本当に自分は上手くなってるんだろうか。
 アキラみたいに、小学校から運動神経のよかったヤツは別だ。あいつは、ソフトボールをやったって、ドッヂボールだって、水泳だって、なんでも学級一番だった。今は二年生の中で、レシーブもオーバーパスも一番上手い。
 それに比べ、僕は昔から運動オンチだった。ソフトボールは、いっつも補欠だったし、ドッヂボールだって逃げ回ってる方だった。
 中学生になって、なんとなくバレー部に入ったけど、今でも速いボールは正確にレシーブできない。一年生で、僕より上手にプレイきる奴がいるくらいだ。
 こんなんじゃ、夏の大会もレギュラーは無理かな。そんな気がした。
「おい」と言いながら、アキラが右肘で僕の横っ腹をつついた。
 グラウンド東端のテニスコートで、白いショートパンツをはいた女の子たちが、ボールを軽やかに打ち合っていた。風に乗って、華やかな声が聞こえてくる。
 まるで夢のような世界だ。土まみれのオレたちとは違う。
 サツキがいないか、横目でさりげなく探した。見つけた。二つ目のコートの、向こう側にいた。細く締まった小麦色の足を軽快に動かして、白いボールを追っている。ラケットを振る瞬間、背中まで伸びた三つ編みが、フワリと風を切って揺れる。
 そんなサツキの姿を遠くに眺めてるだけで、胸がドキドキと痛くなる。この苦しさを、どうやって言い表したらいいんだろう。
 他の男子も、横目でテニスコートの女子を眺めながら、わざとゆっくりと歩いてる。時折、誰かのクスクス笑いが聞こえる。
 まもなく僕らは、水飲み場に到着する。三年生が先に水を飲み、次が僕ら二年生だ。「飲み過ぎんなよ」と、キャプテンが僕らに声をかける。
「はーい!」と威勢よく返事をする。でも、僕らは上向きにした蛇口から、冷たい水を思いっきりガブ飲みする。
 水飲み場の横で、三年生がテニスコートの方をニタニタ笑いながら眺めてた。
「おい、タカコのおっぱいって、ばかデカイと思わん? ユラユラ揺れてる」
「ホント、すっげえ!」
「オレ、抱きつきたい」
「バーカ、それは恋人になってから言えって」
 そんな言葉を交わしながら、お互いの頭を嬉しそうに叩き合ったり、オオカミのような唸り声を上げてる。 
 
 十二時に練習が終わった。
 僕とアキラは、帰り道が同じ方向なので、途中まで一緒に歩いていく。
 十勝大橋のたもとにあるグラウンドから、帯広警察署の横を通り、国道を渡って、西二条通をまっすぐ南に向かう。しばらく歩いて行くと、三十メートルほど先に、テニス部の女の子たちを見つけた。ちょうど黄金湯のあたりだ。五人ほどが、立ちどまってお喋りしてる。
 その中にサツキの姿があった。彼女は、こんがりと日に焼けた顔に、ニコニコと楽しそうな笑みを浮かべて話している。
 僕らが近づいていくのに気づいたらしい。横目でチラチラとこっちを見てる。
 とたんに僕の心臓は、バクバクと激しく打ち始める。
 気が動転して、今までアキラと何を話してたのか、全くわからない。女の子たちの横を通りすぎることだけで、僕の頭はいっぱいだ。
 できるだけ何気ないふうを装って、女の子たちの横を歩く。それまでお喋りに盛り上がっていた女の子たちも、ピタリと口を閉ざす。
 通りすぎた直後、女の子の誰かが小声で囁き、その直後キャーッと嬌声を上げる。
 僕らは、そんな様子を無視したまま、ひたすら黙って歩き続ける。
 背中に、女の子たちの視線が突き刺さってくるのがわかる。額や首筋からダラダラと汗が流れ落ちてくる。
 帯広川にかかる西二条橋を渡ったところで、後ろを振り返った。
 女の子たちは、まだ黄金湯の前あたりで立ち話を続けている。
「おい、中学生の女って、いったい何考えて生きてるんだろう?」と、アキラがひとりごとのように呟く。
「さあ、オレには、よくわからん……たぶんジュリーとか、ショーケンとか、そんな連中のことじゃないかな?」
「ああ、やっぱりそうか」と、妙に納得した口調でアキラが答える。

 居間で晩ご飯を食べてから、僕は二階に上がり、自分の部屋に入る。
 いつものように机の上のカセットレコーダーのスイッチを入れる。サイモンとガーファンクルの「スカーボロ・フェア」が、静かに流れてくる。僕の一番のお気に入りだ。二人の美しく透明なハーモニーをを聞いてると、心の中が清々しく澄んでくる。僕は、目をつぶって曲に聴き入る。
 サツキの笑ってる顔が、目の前に浮かんできた。胸が、苦しくなってくる。あの笑顔で真正面から見つめられたら、僕の心臓は間違いなく破裂しちゃう。
 サツキのことは、小学校まで何とも感じてなかった。その辺にいる、ただの女の子だった。それが最近はこのザマだ。自分の中で何が起こってるのか、サッパリわからない。
 もし、この気持ちをサツキに伝えたら、何て言われるんだろう?「アンタ、バカじゃない?」で終わってしまうんだろうか。それとも、僕の気持ちをわかってくれるだろうか?
 色々と考えていると、よけいに息苦しくなってきた。もう気が狂いそうだ。このモヤモヤ、なんとかしてほしい。
 気がつくと、カセットの曲は変わって、ヴィッキーの「恋はみずいろ」が流れていた。
 歌詞はよくわからないけど、フランス語の鼻にかかった歌声がロマンチックだ。僕は、ヴィッキーにあわせて、『ドゥー・ドゥー・ラムー・エー・ドゥー』と、適当なフランス語で口ずさんでみる。
 ため息をついてから、「恋はみずいろかあ」と、口の中で小さく呟いた。やっぱり、この気持ちを思い切ってサツキに伝えてみようか。いやいや、そんな勇気なんて、とてもない。
 その時、ふと素晴らしい考えがひらめいた。
 もしも僕が、夏季大会のレギュラー選手に選ばれて、さらに僕らのチームが優勝できたら。そんな奇跡が、もしも本当に起きたら、思い切ってサツキに告白してみようか。よーし、オレは決めたゾ。ゼッタイ告白するゾ。
 僕は自分に向かって、力強くそう断言した。

 自分の中で、バレーボールに対する気持ちが、ほんのちょっとだけ切り替わった。
 七月上旬に開催される夏季大会の一週間前、レギュラー選手の名前が監督から発表された。九名の最後に僕の名前も呼ばれた。後衛レフトだ。僕は、「ヒャッホー!」と心の中で叫んだ。とりあえず第一条件はクリアだ。
 大会の会場は、緑が丘公園内のバレーボールコートだ。サツキが出場するテニスも、同じ緑が丘公園だった。優勝したら、すぐにその場で告白できる。

 

 大会当時の朝、布団の中で目が覚めた時から、心臓がドキドキ鳴っていた。試合前の緊張なのか、初告白に向けての不安なのか、自分でもわからなかった。
 朝から夏らしい青空が広がり、気温はぐんぐん上がった。陽光を浴びてると、肌がチリチリと焼け焦げていく。
 第一試合の相手は、帯広六中だ。何度か練習試合をやっていて、一度も負けたことはない。予定通り、二対〇の圧勝だった。僕のドライブサーブも見事に決まって、連続で五点も取れた。レシーブの方もまあまあで、相手の強いアタックを三球は拾った。僕としては最高の出来だ。
 第二試合の相手は、三中だった。ここは強豪チームで、練習試合でも勝ったり負けたりを繰り返してる。でも、この相手を打ち負かさなければ、決勝戦には進めない。負けたら、僕の初告白もコートの土煙のように消えてしまう。
 第一セットは、敵の一方的な試合だった。相手キャプテンのスパイクが、次から次と決まった。後衛レフトの僕の守備範囲にも、強烈なスパイクが立て続けに飛んできた。僕は、レシーブするどころか、一歩も足を動かせなかった。自分のミスだけで、五点以上は取られた。途中で泣きたくなってきた。
 セット間の休憩時間、監督に呼ばれた。失敗続きだから、きっと一年生とメンバー交代させられるんだろうと覚悟した。それは仕方がないことだ。悪いのは僕なのだ。
 監督は、僕の顔を真正面から睨みつけた。
「あれくらいのスパイクに、なにビビってんだ。取れなくたっていいから頭から突っ込んでいけ。それくらいの気迫を敵に見せてやれ。お前は、気持ちで負けてるんだぞ。わかるか、このバッカモン!」
「はいっ!」と大声で返事をした。
 監督から『バッカモン』と怒鳴られて、気持ちがスッキリした。
 二セット目も、敵キャプテンの強烈スパイクが、立て続けに僕のところに飛んできた。僕は、とにかく必死に頭から地面に突っ込んでいった。体じゅう土まみれになった。まったく拾えなかった。でも、何も気にならなかった。思いっきりプレイできている自分が嬉しかった。
 そんなことを繰り返していると、たまたまボールが右手に当たって、うまく上がった。そのまま味方のアタックに繋がり、得点になった。僕らはみんなで盛り上がってハイタッチし合った。チームのムードがよくなったのは、それからだ。第二セットは二十一対十九で、ギリギリ勝った。第三セットもデュースの末、ようやく競り勝った。
 体はクタクタだったけど、やり遂げた充実感で心は大満足だ。
 これで、ようやく決勝戦だ。相手は帯広四中。帯広市内最大の強豪チーム。ここに勝てば、僕の初告白が待っている。この敵だけは、何としてでも打ち破らなくちゃならない。
 いったん昼休みに入ったので、木陰でアキラと並んで弁当を食べることにした。
 アキラが、「オレ、四中には勝てるような気がするんだ」と言いながら、おにぎりに食らいついた。
「オレも死んだ気になって、どんなボールも拾ってやるさ」と、アキラの顔を見て言った。僕らは二人で大きく笑いあった。
 その時だった。白いTシャツにスコート姿の女の子が二人、僕らの目の前に現れた。いつもサツキと一緒にいる女の子たちだ。困ったような表情を浮かべ、アキラに「ちょっと来てほしいんだけど」と声をかけた。
 彼は戸惑いながらも立ち上がると、二人の後についていった。
 なんとなく気になって、僕もそっと三人の後を追いかけることにした。三人は、灌木に挟まれた小道を抜けて、ボート乗り場がある池の方へと歩いていった。
 池の端に着くと、スコート姿の女の子が立っていた。僕は灌木の陰に身を潜めながら、そっとその子を盗み見た。三つ編みの髪を背中に垂らした彼女の顔を見た瞬間、心臓が止まりそうになった。
 彼女はアキラの前に立つと、俯き加減の素振りで何かを話し始めた。アキラは彼女の話を聞きながら、時折小さく頷いている。
 二人の女の子は、三メートルほど離れたところで、二人の様子をぼんやりと眺めていた。
 二人の話は終わり、アキラが振り返って、こちらに歩き始めた。
 僕は、慌てて元の場所に戻った。弁当を広げているところでアキラが帰ってきた。嬉しそうな気持ちが、体全体から溢れている。
「どうした?」と、できるだけ平静を装って訊いてみた。
 でも、本当はアキラの返答なんて聞きたくなかった。
「それがさあ」と言ってから、アキラはニタニタ笑いを口許に浮かべた。「オレ、告白されちゃったさ。こんなの、生まれて初めてだよ」
「へえ、スゲエ!」と、大げさに驚いてみせた。でも、相手が誰かは訊かなかった。いや、訊けなかった。
 僕は、入道雲の浮かんだ夏空を見上げた。
 胸のあたりがシクシク痛くて、泣きたい気持ちだった。