北岳頂上にて

「台風の直撃を受けそうだって、みんな噂してるよ!」
 深い山霧の奥から、いつになく不安そうな顔つきで、ミケが僕らの休んでる岩場に急ぎ足で戻ってきた。
「ホントかよ?」と声を上げながらも、ずっと気になっていた悪い予感が、やっぱり当たったのかと気持ちが一気に落ち込んだ。
「私たちどうなっちゃうの? このまま、ここで遭難しちゃうの?」と更にヒステリックな声音でミケがメンバーを見回す。
「心配ないよ。遭難なんて、そんなことはないからさ……」とミケを宥めながらも、内心激しく動揺していた。
 一週間前に今回の山登りを始めてから、ずっと短波放送の気象図は聞き取っていたし、沖縄南方から台風が少しずつ本州に近づいてきているという情報も掴んではいた。
 でも、よりによってこの北岳山頂で台風の直撃を受けるなんて、まったく予想もしていないことだった。いや正直に言うと、そういう可能性にずっと目をつぶってきたと言ったほうが正しいのかもしれない。
 台風接近の情報は、リーダーのノリオ先輩だって以前から知っていたことだ。でも、彼にしても「大丈夫だって、台風なんてこっちにはやってこないさ」と、悪い方の可能性を無視する楽観論を繰り返していただけのことなのだ。
 でも今、まさに望んでいなかった事態が、黒々とした不気味な姿で僕らの眼前に立ちはだかってきた。
「ノリオ先輩、どうします?」と、僕はメンバーに動揺を与えないように、できるだけさりげなく後ろを振り返った。両足をだらしなく広げ、小さな岩に寄りかかって休んでいるノリオ先輩の、すっかり疲れ切った表情が、否応なく僕の目に飛び込んでくる。
 いや疲れているのは、もちろん彼だけではない。朝二時半から起き出し、途中食事を挟んで、ほぼ四時間半、二十五キロ前後のキスリングを背負って必死に急登を上りつめてきて、ようやく北岳の山頂に立った僕らは全員くたくたに疲れ果てていた。 
「とにかく天気図を取ってからじゃないと何とも言えないな…」とノリオ先輩が戸惑いの目つきを浮かべたまま口ごもる。
 僕は腕時計の文字盤に目を走らせた。十一時四十分過ぎだ。今日のテント設営場所は、山頂から一時間ばかり下ったところにある北岳小屋付近のサイト場だ。
 それにしても、こんな山の上で台風の直撃を受けたら、僕らのテントなんてひとたまりもないだろう。遮るものの何もない高地では、地上の何倍もの速さで風が走る。二本のポールと数本の紐で支えられた布製のテントなんて、強い風が吹けばあっけなく吹き飛ばされてしまう。もしも小屋に余裕があるのならば、そこに泊めてもらうことも考えなくてはならないし、このまま一気に麓の広河原まで下りることだって、台風を回避する方法として考えに入れなくてはならない。
 どっちにしても、目標としていた北岳山頂に着いたからといって、のんびりと感慨に浸ってなんかいられない。
「ノリオ先輩、とりあえず北岳小屋まで降りませんか?」
「うん……そうしようか」
 僕は、あたりに休んでいるメンバーに声をかけながら右手でキスリングを勢いよく持ち上げた。

 僕の入っていた大学のワンダーフォーゲル部では、パートリーダー制の夏合宿が行なわれていた。リーダーとなる三年生が登りたい山の名を告げ、下級生の僕たち部員が、それぞれ参加したいパーティに加わるという方法だ。北アルプスの剣岳だとか八ヶ岳に登ろうというパーティもあったが、富士山に次ぐ日本第二の高峰という、ただそれだけの理由で僕は南アルプスの北岳登山のパーティに参加することに決めたのだった。
 メンバーは、リーダーのノリオ先輩と僕の他に二年生の女子のタラ、それに一年生の男女一名ずつの計五人だった。
 後から考えてみると、僕らのパーティは最初から微妙に息が合っていなかった。リーダーのノリオ先輩は、根っからの山男タイプだが全てに大ざっぱで、リーダーとしての指導力だとかメンバー一人一人の気持ちを思いやるといった細かな配慮に欠けるところがあった。それにもう一人、ワンゲル部一のトラブルメーカーがいた。一年生のミケだ。彼女は、とりあえず僕らの部に入ってきたものの、やれキスリングが重すぎるだとか、やれ休憩の時間が短いだとか、何事につけ周りに不満をぶつけずにはいられない我が儘な女の子だった。その上、夏合宿登山が終わったら、部をやめるつもりだと最初から公言してもいた。
 サブリーダーの僕は、リーダーやミケへの不満をなんとか抑えながらパーティを上手くまとめていくのに最初から気苦労が絶えなかった。
  夏合宿は出発日からずっと好天が続いていた。僕らは広河原を出発してから、北沢長衛に二泊し、甲斐駒ヶ岳までピストン登山をして、仙丈岳に登り、そのまま稜線沿いに両俣へと下山してきたのだった。
 そして今日、北岳山頂を目指して急登を一気に登ってきたのだ。
 出発以来、空が曇ることすらなく、ずっと太陽の激しい日差しに肌を炙られながら歩いてきた。それが、この北岳山頂まで辿り着いたところで台風にぶつかるなんて……。

  北岳山頂を後にして、深い霧の中を手探りするように、僕らは北岳小屋への細い登山道を降りていった。足許の小岩や石は、濃い霧のせいで表面が黒く濡れ、とても滑りやすかった。キスリングの重みが肩にズシリと喰い込み、足にはもう力が入らず、膝はガクガクと笑い続けている。僕は何度も小岩の表面で転びそうになりながらゆっくりとパーティの先頭を下りていった。
 北岳小屋に着いて、更に僕らを愕然とさせる状況が待っていた。小屋の周囲にあるサイト地は、すでに所狭しとテントが密集していたからだ。とりあえずリーダーの指示で僕らはキスリングを登山道の脇に置き、手分けしてテントが立てられそうな空き地を探すことにした。
 間もなく、僕と同じ二年生のタラが、狭いけれどちょっとしたスペースが見つかったと僕らを呼びに来た。
 その場所に行ってみると、ようやくテントがひとつ立てられるくらいのわずかなスペースがサイト地の隅に残っていた。僕らはとりあえず、そこにキスリングを置いて場所の確保を図ることにした。
 小屋の様子を見てきてくれないかというノリオ先輩の指示で、僕はすぐに小屋まで出かけていった。
 小屋の入り口付近には、足許にキスリングを置いてぼんやりと突っ立っている十数人もの登山者の姿があった。僕は彼らの間を縫って小屋の入り口に近づいていった。木作りの厚いドアを押して小屋の中を覗くと、そこにも登山者が何人か立ち並んでいる。
「満員だから、もうこれ以上誰も泊められないってよ」と青色のヤッケを着た浅黒い顔の男が、僕にむかって不満そうに呟いた。
「台風が来るんじゃ、みんな競って小屋に泊まりたがるよな」と、別な男が相づちを打つように応える。
「本当に台風が来るんですか?」と僕は、そこに立っている誰かれとなく声をかけた。
「ああ、このあたりは今夜から大荒れになるって話だよ。強い風が吹くっていうから、テトなんかは軽く吹き飛ばされちゃうだろうなあ……」と、また別の一人が力無げに答える。
「この小屋の管理人さんはいないんですか?」と訊くと、僕の目の前の別の男が、奥の方を指さして教えてくれた。
 僕は、再び登山者をかき分けながら、赤いセーターを着た四十がらみの髭面の男に近づいていって声をかけた。
「すいません。今夜、外にテントを張って泊まったとして、夜中に風が強くなってテントがつぶれそうになったら、雨宿りだけでも、この小屋の中に入れてもらえますか?」
 髭面の男は、暗い表情で小屋の中を指し示すそぶりを見せてから、
「俺はかまわんけど、あたりの連中がみんなして一気にこの小屋に押し寄せてきたら、果たして全員がこの狭い中に入れるかどうか、自信はないけどな」と、苦々しい笑みを口許に浮かべて僕をチラリと見た。
 それ以上何も訊けなくなり、僕は挨拶だけして小屋を出た。
 すぐにキスリングを置いてある場所に戻って、ノリオ先輩に小屋での話を伝えた。 
 僕の報告を聞いて、しばらく彼は押し黙ったまま、足許のあたりをぼんやりと眺めていた。それから、おもむろに顔を上げると、大きなため息を洩らした。
 ノリオ先輩を囲んで立っているパーティの全員が息を凝らして彼の言葉を待っていた。
「どうする? とりあえず、テントを立てるか? それとも今からでも思い切って山を下りるか?」
「……さあ、どちらがいいんでしょう?」と僕は口の中で呟いた。
 僕は、改めて腕時計の文字盤を見た。すでに午後一時半を過ぎている。
 当初の予定では、明日、五時間ほどかけて麓の広河原まで下山する予定になっている。これから無理をして下りようと思えば下りられない時間ではない。でも、途中五キロばかり続く大雪渓を越えなければならない。みんなすっかり疲れ切っているし、滑落の危険性も高いだろう。下山している最中に雨が降ってきたり、陽が沈んだりしてしまっては、事故に遭う危険性は更に高くなる。そんなことを考え合わせれば、今から下山することは、決してよい判断とは思えない。
「……今夜は、なんとかここでやり過ごすか……? どう思うスギモト?」
 しばらくしてから、ノリオ先輩がポツリと僕にむかって呟いた。
  僕と同じ考えだ。それにこのパーティのリーダーとしての判断でもある。その考えに従おうと僕も心を決めた。
「それでいいと僕も思います。……だったら、すぐにテントを立てしょう」
 僕らはすぐにキスリングの紐をほどいて、テント設営の準備を始めた。
 そんな時のことだ。
「ねえ、あんたどこに行くのよ!」と甲高く叫ぶタラの声が背中から聞こえた。
 あわてて振り返ってみると、ミケがキスリングを背負って、登山道へ戻ろうとしている姿が視野に映った。今度は、いったい何が起きたんだと腹立たしい思いで、僕はすぐにミケとタラの後を追った。
 登山道を五メートルばかり戻ったあたりで二人に追いついた。
「いったい、どこに行くつもりなんだよ?」と訊いても、ミケは僕の声を無視するように押し黙ったまま歩いていくばかりだ。
「山を下りるってきかないよの」と、彼女の後を追って歩いているタラが答えた。
「今から、一人でなんて山を下りられないよ。途中大雪渓だってあるし、滑落なんかしたら助けてくれる人は誰もいないし……」
「このまま、ここにいても、小屋には入れないし、台風が近づいてくればテントだってひとたまりもないんでしょう?それだったら、山を下りた方がよっぽど安全だわ」
「大丈夫、いざとなったら小屋で雨宿りくらいさせてもらえるし、余計な心配はしなくてもいいんだよ」
「ここにいたら、大丈夫なんてことは絶対にあり得ないわ」
「でも、一人で下山する方がよっぽど危険だよ。山登りは、パーティみんなで行動した方が安全なんだ。さあ、戻ろう」
「いいから、私のことは、ほっといてよ!」  ミケのこの言葉で僕の感情が切れた。
 僕はミケのキスリングの肩ひもを左手で掴むと、彼女の体を力ずくで振り向かせた。それと同時に、右手で彼女の左の頬を思いっきりひっぱたいていた。
 一瞬、右掌の先がじいんと痺れた。
 ミケは、頭をのけぞらせたまま一、二歩後退すると、そのままペタンと登山道に座り込んだ。そして、大きく目を見開き、今の出来事がまだ信じられないといった表情で僕を見上げていた。
「いいか、よく聞くんだ!僕らは小学校の遠足でここに遊びに来てるわけじゃないんだ。万一メンバーの誰かが事故にでも遭ったら、その責任はリーダーが取らなくちゃならならないんだ。だからリーダーが、ここでテントを張ろうと判断したからには、僕らパーティのメンバーは全員彼の指示に従わなくちゃならないんだ。分かったかい?……この夏合宿が終わったら、ワンゲルをやめるやめないは君の自由だ。でも、まだ登山は終わっちゃいない。だから、まだ君に勝手な行動をとらせるわけにはいかないんだ!」
  ミケは、呆然とした表情で、僕の言葉を聞いていた。
 彼女の様子を見ながら、僕は、ちょっと強く言いすぎたかなと内心後悔しかけていた。ミケは、強い不安感で、自分でもどうしたらよいのかわからなくなっていたんだろう。
「……僕だって、本当は不安なんだよ。台風が来たらどうなるんだろうって……でも、メンバーみんなで協力すればなんとかなるよ。だからさ、みんなのところに戻ろう……一人で行動するより、みんなと一緒にいる方がよっぽど安全だよ……だから、ね?」
 僕を見ていたミケの目から、突然涙がボロボロと溢れてきた。タラが、ミケの横に屈み込んで、何かを話しかけ始めた。
 もう大丈夫だろうと判断して、僕は荷物を置いた場所に戻っていった。
  テントはすぐに立った。僕は、他のメンバーに手伝ってもらい、緊急用の細引きを何本か使って更にポールの補強をした。それから、登山道から大きめの石を四、五個運んできて、入り口の脇に並べた。夜中に風が強くなって、もうこれ以上テントがもたないと判断した時には、テントを倒して、その上に重しとして載せるつもりだった。
 早めの夕食を終わらせ、僕らは夜七時半過ぎにテントの中に入った。
 外は間もなく漣のような風が吹き始めた。二時間ほどして、少しずつ風が強まってきた。ゴーと地鳴りのような音が麓から湧き上がってきたかと思うと、テントが激しく波打って揺れた。しばらく間を置いて、また地鳴りが湧き上がってきて強い風が吹く。その間隔がだんだんと狭まってきて、夜半過ぎには雨も降り始めた。テントはひっきりなしに激しく揺さぶられ、雨がバチバチと鋭いを立てて突き刺さってくる。ポールはギリギリと悲痛なうめき声を上げる。僕は、入り口のポールを掴んで、何度もこれで限界かと観念しかけた。腕時計で時間を確認すると、まだ一時過ぎだ。
 それから二時間くらいの間、テントは絶え間なく激しく揺れ続け、ポールはギリギリと呻り声を上げた。
 風が少しおさまってきたのは、ようやく空が明らんできた頃のことだ。
 台風が、進路を北向きに変えて、近畿地方から日本海へと抜けて行ったと知ったのは、翌朝の天気図でのことだった。

【十勝毎日新聞 2001年(平成13年)2月11日 掲載】