香織は、アップライトピアノに向かって、折れそうなほど細い指を巧みに動かしている。
文学部棟四階にあるピアノ練習室は、横長に四畳半ほどの広さがある。僕は、入り口横のパイプイスに座り、人形のように端正な香織の横顔を眺めながら、バイエルの曲を聴いている。
「ちょっと疲れちゃった」
ふいに、香織の声が聞こえた。
「お腹もすいたし、そろそろお昼にしない?」
「うん、いいよ。そうしよう」
僕たちは、窓に向き合うようにイスを横に並べてから、腰を下ろした。香織が、家で作ってきたサンドイッチを、膝の上に並べる。
窓の外は、冬の兆しを感じさせる透き通った青空が広がっている。
「昨日、久しぶりにパパが早く帰ってきてね、いい話を教えてもらったの」
「どんな話?」
「パパの知り合いのツテを使えば、ピアノ教室の指導員の仕事ができるかもしれないって」
「へえ、それはラッキーだ。でも就職なんて、まだ一年も先の話だよ」
「一年も先ではないわ。あと、たった一年しかないのよ」
「でも、そんなに慌てる必要はあるのかな」
「ほら、先んずれば人を制すって言うじゃない。なんでも早いほうがいいのよ」
「たしかにそうだけど。僕は、まだ就職のことなんて考えられないな」
年が明けたら、僕らは大学四年になる。そうなったら、そろそろ就職活動を始めなくちゃならない。でも、自分がどういう仕事に就きたいのか、それがまだ僕にはよく分かっていない。
サンドイッチを食べ終わって、僕らは部屋の片隅に移動した。そこは、入り口ドアの小さな丸窓から、死角になる場所だった。僕と香織は抱き合って、ゆっくりと口づけをした。
いつも香織は、柔らかい唇の動きで、僕の唇に吸いついてくる。すると不思議な快感が体の芯から湧き上がって、下半身が勃起してしまう。
もし香織を、僕のアパートに誘ったなら、彼女はついて来るだろうか? そんな考えが、口づけをしてる間中、いつも頭の隅に湧き起こる。
そんな行為に五分ほど没頭してから、僕らは、ゆっくりとお互いの顔を離した。
火照った体をゆっくりと冷まして、僕らは自分のバッグを持ち、ピアノ練習室を出る。そして、それぞれ午後の講義へと向かう。
その日の講義が終わり、アパートに帰るため、キャンパスの裏門に向かって歩いていた。五メートルほど先を行く女の子の後ろ姿が、目にとまった。ショートカットにまとめた髪、キャメル色のコート、すっと伸びた後ろ姿を見て、すぐに久美だとわかった。
声をかけようかと、少しだけ迷った。
大学に入学して、すぐに入ったワンゲル部で、僕は久美に出会った。彼女に一目惚れして、一方的に熱を上げた。でも、彼女の気まぐれな性格や、思わせぶりな態度にさんざん振り回されたあげく、僕の恋は、みじめな結末を迎えた。
それが二年生の夏のことだ。
僕がワンゲル部をやめた後は、ほとんど彼女と顔をあわせることもなくなった。そんな相手だった。
迷ってる間に、久美は裏門を出ると、左へと姿を消した。いつも乗ってるバス停に向かうためだ。僕は、心を決めると、駆け足で久美の背中に近づいていった。
「やあ、久しぶり」
久美は、振り向いて僕を見ると、「あら、三島くんじゃない」と、ちょっと驚いた表情を浮かべた。
僕は、彼女の横にならんで、おむろに歩き始めた。
どんな話題を投げかけようかと考えていると、久美の方から話しかけてきた。
「三島君、最近、女の子と楽しそうに歩いてるじゃない? 時々、見かけるわよ」
久美の口調に、どこか僕を嘲笑してるような響きを感じてしまう。
でも、彼女にそんな意図はないのだろう。たぶんこれは、フラれた側の被害妄想というものなのかもしれない。
「彼女とはさ、ひと月前くらいからつき合い始めたんだ」
僕は、ありのままを正直に答える。
「工藤香織さんでしょ? 私、彼女のこと、知ってるわよ。同じ高校だったから。顔を合わせたら挨拶くらいはするわ」
「へえ、そうだったんだ」
「三島くん、香織さんみたいな子が、タイプだったの? 知らなかったわ」
やっぱり久美の言葉には、悪意のようなものが込められてる。そう僕は確信して、少し苛立ちを覚える。
「タイプかどうかは、分からないけどね」
僕は、わざと言葉を濁した。
「香織さんって、見た目がお人形さんみたいに可愛いから、昔から男の子に人気があったのよ」
「ふうん……」
「香織さん、高校時代のこと、話したりしてくれないの?」
「話してくれないよ。彼女って、君みたいにお喋りタイプじゃないし」
「あら、お喋りで悪かったわね」
不満そうに言ってるけど、べつに腹をたててるわけじゃないことが、僕にはわかる。
「でも、女の子って謎が多い方が、魅力的だって言うから、べつにいいじゃない?」と、久美は口の中でフフッと笑った。
気がつくと、僕らは久美が乗るバス停に着いていた。久美はちょっと迷った風を見せてから、戸惑いがちに呟いた。
「ねえ、今池に美味しいスパゲッティー屋さんを見つけたの。よかったら、これから一緒に食べに行かない?」
久美の意外な誘いに、ちょっと驚いた。
新しい恋人ができた僕に、あえて食事を誘うなんて、久美は何を考えてるんだろう?
いつもの気まぐれなんだろうか。
ただ、じつを言えば、僕の中にも、もう少し久美と話していたい気持ちがあった。
「いいよ」と、僕はおもむろに答えた。
久美が案内してくれたのは、今池の交差点から一本東へ入った裏通りの、白い塗り壁の洋風レストランだった。
僕らは、料理をつつきながら、山登りのこと、最近聞いてる曲のこと、読んだ本のことなどを、思いつくままに喋った。
食事が終わりかけた頃、久美が不意に、真面目な顔つきで僕を見た。
「ねえ、三島くん、香織さんのことなんだけど、ちょっと話してもいいかな?」
久美の神妙な目つきから、あんまり楽しそうな話題じゃないのが分かった。
「いいよ、どんなこと?」
「さっきも言ったんだけど、香織さん、お人形さんみたいに可愛い顔してるでしょ。だから、高校時代も、けっこう男の子にもてたの」
「うん、それはさっき聞いた」
「それで、一時期なんだけど、同時に複数の男の子とつきあったりして、女の子の間では、あんまり評判がよくなかったの」
やっぱりそんな話だったのかと、どこかで納得する思いがあった。
「二股っていうのは、僕もあんまり好きじゃないな」
「……二股っていうか、三人くらいの男の子と、同時につきあってたりしてた。べつに私が確かめたわけじゃないけど、そういう噂が流れてた」
僕は、何も言えずに、フォークをテーブルに置いて、久美の顔を見た。
「それで、まだ先があるんだけど、このまま続けてもいい?」
「もちろん。ここでやめたら怒るよ」
僕にとって、キツい話になるかもしれない。でも、最後までちゃんと聞こうと覚悟した。
久美は、考えをまとめるような表情を浮かべてから、また口を開いた
「でも、複数の男子とつきあってるのがバレちゃって、その子達から、相当強くなじられたり、問い詰められたりしたらしいの。
それで香織さん、それが原因で、体調を崩しちゃって一年ほど学校を休んだの。だから香織さんって、じつは私たちより一年先輩なの」
僕は、相づちを返せないまま、久美の顔をぼんやりと見ていた。
「知らなかったでしょ、そういう話?」
僕は、久美に向かって首を横に振った。
「うん、知らなかった」
どこか体の奥底が、ひんやりと冷めていくのがわかった。
そこまで喋ってしまうと、久美は、もう何も言おうとはしなかった。
しばらくして、ふと気になることが浮かんだので、僕は、久美に訊いてみた。
「ねえ、どうして、彼女の昔のことなんか、僕に話してくれたの?」
久美は、ちょっと驚いた表情を浮かべた。
「どうして、かしら?」
でも、それ以上、久美は何も言おうとしなかった。
アパートに戻ってからも、僕は、ずっと香織や久美のことを考えていた。
同じフランス学科に入学した三年前、女子学生の中に、フランス人形のように整った顔だちの女の子を見つけた。それが香織だった。
でも、彼女に特別な興味をもつこともなく三年生になった。たまたま九月の前期試験が終わった打ち上げコンパの席で、彼女と隣合わせに座った。ツンとしたお澄ましタイプかと思ってたのが、意外と気さくな態度で、楽しそうに僕との会話に乗ってくれた。
ちょうど久美に対する気持ちも整理できていた頃で、そろそろ誰か女の子とつき合いたいと思っていた。それで、なんとなく香織とつきあい始めることになった。
でも、と僕は自分に問いかけてみる。
僕は、香織のことが好きだったんだろうか。
たしかに香織と一緒にいると、とても楽しい。それは嘘じゃない。
ただし、久美に対するような、恋い焦がれる激情に駆られたことは、一度もなかった。
これって、どういうことなんだろう。
そんなことを色々と思い巡らせていると、朝まで眠れなかった。
翌週、月曜日の昼休み、僕と香織は、ピアノ練習室の中にいた。
「ピアノの練習の前に、ちょっと大事な話があるんだ」と香織に伝えて、僕と彼女はアップライトピアノの前に向かいあって座った。
香織は、神妙な顔つきで、じっと僕の顔を見ている。
「君は、英米学科の杉田久美って子、知ってるよね。君と同じ高校だったっていうから。
この前、部屋に帰ろうと裏門に向かって歩いてた時、たまたま久美と顔を合わせたんだ。それで、一緒に夕食でも食べようかって話になって、二人で今池まで出かけたんだ」
僕は、いったん口をつぐんで、心の中にある気持ちを確かめた。
全て打ち明けたら、香織をひどく傷つけることになるだろう。でも、そうなったとしても正直に話さなくてはならない。僕は、そう自分に言い聞かせた。
「じつは久美と僕は、一年の時からワンゲル部で一緒に活動してたんだ。僕は、彼女のことが好きで、二年の夏に、つきあってほしいって告白したんだ。でも、うまくはいかなかった。
つまり、久美って、僕にとって、そういう相手なんだ。
それで、ひさしぶりに久美と顔を合わせて、二時間くらい夕食を食べながら、色々と雑談したんだ。本の話だとか、音楽の話だとか、そんなありきたりの話さ。べつに特別な話なんて、何もしなかった。
それで、アパートに帰ってきてから、じつは、あることに気づいたんだ。僕は今でも、久美に惹かれてるのかもしれないなって。彼女のこと、もう諦めたつもりだったんだけど、もしかしたら、まだ彼女に未練を持ってるかもしれないって。そういう自分の気持ちに、気づいたんだ」
そこまで話をして、僕は香織の顔を見た。
彼女の顔に、感情の動きは表れていない。
「それで、こんな気持ちのまま、君とつき合い続けるっていうのは、もしかすると君を騙すことになるんじゃないかなって、そう思ったんだ。不誠実なんじゃないかって」
僕は、またひと息ついた。
「それで、色々と悩んで、僕は、君とのつき合いをやめるべきだろうって考えた」
香織は、その無表情を変えようとしない。
僕は、「ゴメンね、申し訳ない」と言いながら、香織に向かって深く頭を下げた。
香織が、わかったよと言ってくれるまで、いつまでも頭を下げているつもりだった。
三十秒くらい過ぎた頃だった。突然、老婆のような低く嗄れた声が聞こえた。
「嘘言うんじゃない。本当のこと、言いなさいよ!」
憎悪がこもった声音だった。
「私と別れたいのは、ホントはそんな理由じゃないんでしょ!」
僕は、俯いてた頭を、ゆっくりと上げた。
見ると、人形のように整った香織の顔つきが、大きく崩れていた。眉は吊り上がり、両目は大きくギョロリと見開いている。小さく開いた口から、赤い舌先が覗いて見えた。
「ホントは久美から、私の昔の話を聞いたんでしょ。そうなんでしょ。だから、私が嫌になったんでしょ!」
香織の口から、老婆の声が吐き出される。なにか別のものが、香織に取り憑いて、喋らせてる。そんな感じだった。
僕は、何も言えないまま、小さく首を横に振った。
「私が、たくさんの男子とつきあってたとか、妊娠して高校を休学したとか、病院に入院してたとか、そんな話を聞いたんでしょ。だから、私に嫌気がさしたんでしょ!」
「そんな話、久美から聞いてないよ」
僕は、素知らぬふりで答えた。
「また嘘ついてる。私には、ちゃあんとわかってるのよ!」
「久美から、君の昔の話は、何も聞いてないよ。僕は、ただ自分の正直な気持ちに気づいて、これ以上君とは付き合えないって思っただけなんだ」
「そんなデタラメ、言っても、ちゃんと私にはわかるよの!」
大きく見開いた黒目が、くるりと裏返って白目になった。
香織は、ヒィーっと、獣のような高い唸り声をあげると、不意に両手で顔を覆い、低い声で泣き始めた。
僕は、呆然としながら、ただイスに座っていた。彼女の中で、いったい何が起こっているのか、まるで訳がわからなかった。
十分ほど、香織は泣き続けた。
泣くのをやめると、香織は、のっそりと顔を上げた。生気の抜けた、まるで死人のような表情だった
香織は、ゆっくりとした動作で立ち上がった。それから、自分のバッグを持ち、おもむろにドアを開けて、部屋から出て行った。