1982年の下北沢



「さあ、入って」
 僕は、川端さんの後についてアパートの狭い玄関に足を踏み入れた。彼女が脱いだ明るい萌葱色のハイヒールの隣に、履きつぶしたコンバースのスニーカーを並べる。
 玄関を入ると小さなキッチンがあり、その奥が八畳あまりの『シモキタ・タウン』編集部だった。
 午後の陽光がいっぱいに射している部屋の壁にはコンサートや芝居のポスターがたくさん貼ってあった。部屋の中央に置かれた広いデスクには、筆記用具や原稿用紙、黒い電話機などがきちんと並べて置かれている。
「今、ちょうど四月号の記事を仕上げているところなの」と言って川端さんは、アイボリー色のコートを脱いだ。
 コートの下は、ピッタリとした黄色のセーターと、オレンジ色のタイトスカートを身につけていた。ほっそりと痩せた彼女の体躯にとてもよく似合っている。
 彼女が本棚のラジカセのスイッチを入れると、サザンオールスターズの『YaYaあの時代を忘れない』が流れてきた。
「本棚の横にパイプイスがあるから、勝手に広げて座ってね」
 間もなく川端さんは、湯気の漂うコーヒーをキッチンから運んできた。テーブルにカップを置くと、僕と向かいあわせに座った。
 襟首のあたりできれいに切りそろえた髪が、コーヒーを飲むたびに軽く前後に揺れた。
「会社をクビにされたんですって?」
「はい……編集長に、お前は編集者としての能力がないから、すぐにやめろって言われました」
「それって、かなりショッキングなセリフね……で、理由は何だったの?」
「本の企画力がないって」
「そう」
「じつは、二ヶ月ほど前、何でもいいから売れる本のアイディアを出せって言われたんです。それで、ひと月ほどかかって三つほど考えました。僕なりに、いい企画だと思ったんですが、どれもクズだって言われました。こんな本じゃ売れるわけがないだろうって」
 軽蔑するように僕を見た編集長の冷たい視線が、今でも胸深く突き刺さっている。あの時、僕は人間としての価値そのものが、クズだと断言されたような気がした。
「で……これからどうするの?」
「今、渋谷の職業安定所に通って編集の仕事を探してます。でも、なかなかいいのが見つからなくて」
「雑誌の編集って、そのへんに転がってるような仕事じゃないしね」
「ええ……」
「クビにされたこと、あんまり気にしない方がいいわよ」と言って、川端さんは僕を見た。
「なるべく気にしないようにしてます。でも、あんなふうに強く言われちゃうと、やっぱり気になりますね」
「だめよ、弱気になっちゃ。たまたまいいアイディアが出なかっただけよ」
「……ええ」
「また、きっといい仕事が見つかるわ」
 僕は、すぐに返事ができなかった。

 

 四年前、札幌の大学を卒業して、すぐに東京に出てきた。
 若かった僕は、雑誌の編集者をしながら小説でも書いてたら、すぐに文芸誌の新人賞を取れるようなつもりでいた。そして自分の本が出せるようになったら、編集者の仕事をやめるんだと考えていた。
 でも現実は、そんな甘いもんじゃなかった。
 最初に僕が勤めたのは下請けの編集プロダクションだった。仕事は過酷なほど多忙で、帰りはいつも終電だった。休みもほとんど取れなかった。印刷所に原稿を入れる締め切り間際になると一週間くらい徹夜が続いた。
 そんな生活が三年ほど続いた。もちろん小説なんてひとつも書けなかった。
 やがて慢性的な睡眠不足と疲労過多で体の調子が悪くなった。それで、その編集プロダクションは自分から辞めた。
 ちょうどそんな時、小さなSF出版社で編集者を探しているという話を聞いた。
 そこの編集長と会って話をすると、すぐに来てほしいと言われた。それで、退職した翌月から、その出版社で働き始めた。
 新しい職場は、前のような殺人的な忙しさはなかった。徹夜の仕事も、せいぜい月に二、三度くらいだった。若い小説家やマンガ家とのつきあいもあったりして、仕事は楽しかった。
 ところが、ちょうど一年が過ぎた先月の末、編集長から呼び出されてクビを言い渡された。予想もしてないことだった。

 

「最近、小説は書いたりしてるの?」と、川端さんが僕に訊いてきた。
「少しずつ書いてますが、なかなかうまく進みません。思ったように書けなくて……」
 川端さんは、口の中で小さく笑った。
「小説がスラスラ書けるんなら、みんなプロの作家になってるわ」
「川端さんの方は、どうなんですか? 新しい小説は、進んでますか?」
「私も、ボチボチといったところね」
 じつは彼女は七年前、文芸誌『群衆』の新人賞佳作賞を受賞して、作家としてデビューしていた。村上龍が「限りなく透明に近いブルー」で新人賞と芥川賞を取った翌年のことだ。
 僕は、帯広の高校を卒業して、札幌の大学に進んだばかりで、大学の図書館で、その小説を読んだ。同じ大学生の女の子が、こんなに生々しく衝撃的な小説を書いたことに、強いショックを受けた。
 後になって知ったのだけど、当時彼女は、同じ札幌市内の女子大生だった。
 佳作賞を取った彼女の小説は、ざっとこんな内容だった。
《高校二年生のごく普通の女の子が、好きな男の子とセックスをして、思いがけず妊娠してしまう。彼女は、家族にも友達にも恋人にも妊娠を相談できないまま、密かに堕胎の決心を固める。大きな石でお腹を激しく叩いたり、冷たいプールに飛び込んだり、小山の崖から身を投げたりしたあげく、公園の薄汚いトイレで、赤い血にまみれた小さな肉の塊を産み落とす。でもそのことをきっかけに、彼女は少しずつ心を病み、果てしのない暗い狂気に取り憑かれていく。》

 

 川端さんと知り合ったのは二年前のことだった。たまたま友達のフリーライターに誘われて出かけていった若い編集者たちの飲み会に、彼女も顔を出していた。
 彼女は、赤いセーターと黄色いフレアスカートを纏い、上品な笑みを浮かべて、誰とも和やかに会話を楽しんでいた。
 落ち着いた大人っぽい雰囲気の彼女に、僕は一目で心を奪われてしまった。 
 フリーライターの友人から、「この女性、大学生の時に、『群衆』で佳作賞を取ってるんだぞ」と紹介された。
「もう遠い昔の話よ。あの後、一つも作品を発表してないんだから」と、川端さんは、困ったように小さく微笑んだ。その上品で軽やかな笑みは、間近から正視できないくらい眩しかった。 
 飲み会が終わる頃、僕の様子を察した友人が、そっと耳打ちしてきた。
「彼女には、金持ちのパトロンがついてるんだ。だから諦めた方がいいぞ」
「パトロンって?」
「雑誌のオーナーだよ」
 冷静を装って聞き流したが、気持ちが一気に落ち込んだ。でも、やっぱり彼女を諦められなかった。
 その後、僕は月に二、三回、下北沢にある『シモキタ・タウン』の編集部を訪ねるようになった。
 彼女とは、編集の話をしたり、好きな作家の話をしたり、時には仕事のグチを聞いてもらったりした。書きかけの小説の原稿を彼女に読んでもらったこともある。
 川端さんは、まるで世話の焼ける弟の面倒でもみるように、いつも優しい笑顔を浮かべて僕の話を聞いてくれた。 
 いつだったか、川端さんに、どうして次の作品を発表しないのかと尋ねたことがある。
 その時だけ、彼女はほんの少し辛そうな顔を浮かべて僕を見た。
「あなたって、相手の気持ちも考えずに、何でもズケズケと訊いてくるのね」
「僕、なんか変なこと訊きましたか?」
 彼女は、苦笑いを浮かべたまま、遠くの方をぼんやりと眺めた。
「佳作賞の後、五つほど作品を書いてるの。でも、全て編集部でボツにされちゃったわ……この業界で新人作家が作品を発表し続けていくって、けっこう大変なことなの」
「それは知りませんでした。すいません、変なこと訊いちゃって」
「いいのよ、気にしないで」
「でも、新人賞を取ったというだけで、川端さんは僕には神様みたいなものです」
「神様みたいなものって、それ何よ? それに、私は単なる佳作賞よ。新人賞じゃないわ」
 彼女は、考え深げな目つきを浮かべ、不意に口を閉ざすと、窓から外の景色を眺めた。

 

「スギモト君は、雑誌の新人賞で、最終選考まで残ったりしたことはないの?」
「僕は、まだ一次選考も通ったことはありません」
「そう、それは残念ね」
「もしかしたら、僕には小説を書く才能なんてないのかもしれなせん」
 彼女は、何か考えごとでもするように、ぼんやりとコーヒーカップを眺めていた。
 ラジオからは、中島みゆきの「悪女」が聞こえてきた。
「ねえスギモト君は、どうしてそんなに小説にこだわるの?」
 突然の質問に、僕はすぐに答えられず、しばらく彼女の顔を見ていた。
「そもそも小説家なんて、狭い部屋に閉じこもって、ひっそりと原稿用紙に文字を埋めるだけの地味で目立たない職業よ。
 それに書く内容って言ったら、人が目を背けたくなるような人間の赤裸々な姿だったり、神経を病んだ暗い心だったり、だいたいそんなところよ。それなのに、どうしてそんな仕事に憧れるの?」と川端さんが、珍しく感情のこもった口調で言った。
 もしかしたら川端さんは、心のどこかに、何か強い屈折を抱えているのかもしれない。そんな気がした。
「書くのが好きだからとしか、うまく答えられません」
「……スギモト君、私が佳作賞を取った小説のモデル、誰だか知ってる?」
「以前その話をしたとき、モデルは高校時代のクラスメートだと言いましたよね」
 彼女は、何も言わずに、じっと僕を見ていた。戸惑う影が、瞳の中で揺れていた。
 三十秒くらい、彼女は黙っていた。それから、心を決めるような目つきを浮かべ、ゆっくりと口を開いた。
「……それって、じつは嘘なの。あのモデル、本当は私自身なの」
 そう言って、川端さんは、再び遠くを見るような目つきになった。
「あの話は、私自身が体験したことなの。それをありのままに書いたの。
 あの出来事の後、私、本当に心を病んでしまって、毎週母親に連れられて病院に通っていたわ。人に顔を見られないように大きなツバのある帽子を被ってね。あの頃は、まるで骸骨みたいにガラガラに痩せてた。担当の医者から、作業療法の一つとして、胸の中にあるものを全て吐き出してみないかって言われた。それで、あの小説を書き始めたの」
 彼女の言葉に、僕は何も言えなかった。
「小説が完成して『群衆』に投稿したとき、まさか佳作賞を貰えるなんて思ってもいなかったわ。
 ……受賞式の時に、選考委員をしていた作家から、小説家として本当の勝負は二作目からだって言われた。私自身も、その通りだって思った。でも、それからずっと行き詰まったままってわけよ」
 川端さんは、ゆっくりとコーヒーを啜った。
 ラジオからは、五輪真弓の「恋人よ」が流れてきた。

 

 僕らは、編集部を出て、夕暮れ間近の下北沢の街に出た。昼間よりもいくぶん気温は下がっているものの、初春らしい爽やかな風がゆるやかに流れていた。
 僕と川端さんは、ブラブラと散歩でもするように歩きながら、通り沿いの本屋を覗いたり、雑貨屋に入って小物を手にとったりしながら、少しずつ駅の方へと向かった。
 まもなく僕らは、南口の改札前まで来た。僕と川端さんは、向かい合うような格好で立ち止まった。すぐ横を、大勢の通行人がひっきりなしに通り過ぎていく。
 川端さんは、少し迷うような目つきを浮かべ、しばらく僕を見つめていた。そして、おもむろに口を開いた。
「ねえ、スギモト君。あなた『シモキタ・タウン』の編集に興味ないかしら?」
 僕は、川端さんが何を言おうとしているのかわからず、ポカンとした顔を浮かべたままじっと彼女を見ていた。
「私の後釜に入って、雑誌の編集をやってみる気はない? 一人で雑誌を作らなくてはならないから大変なこともあるけど、アイディア次第で雑誌を好きなように変えられるし、やりがいのある仕事よ」
「僕がシモキタ・タウンの編集をやるとなったら、川端さんはどうするんですか?」
「アナタが引き継いでくれるなら、私は、今の仕事を辞めるわ」
「辞めて、何をするんです?」
「さあ、何をしようかしら……」と言って、川端さんは、弱々しい笑みを浮かべた。
「何もしないで、ぼーっとしてるのも楽しいかもね」
 川端さんは、夕暮れの紺色の空を仰ぎ見るような仕種で、ゆっくりと顔を上げた。
 ゆるく吹いてきた春風に、柔らかな髪の毛が軽くなびく。右目にかかってくる髪を、左手で何度もかき分けた。
「実は、もう半年くらい前から、ずっと考えていたことなの。そろそろ東京の生活にケリをつけるべきじゃないだろうかってね。こんなところで編集者の仕事をしながら、片手間に小説を書いていてもダメなんじゃないだろうかって。私だって特別な才能がある訳じゃないし、本腰を入れて小説に打ち込まないと、このさき永遠にちゃんとしたものが書けないような気がするの」
 そこまで言ってから、川端さんは小さく溜息をついた。
「それは札幌に帰るってことですか?」
「まだ決めてはいないけど、そういうことになるかもしれないわね……」
 この女性だけは絶対に失いたくない。そんな強い想いが、電撃のように僕の体を激しく揺さぶった。
「川端さんが札幌に帰ってしまうのなら、『シモキタ・タウン』の仕事は引き受けません」
 彼女は、口の端で哀しげな笑みを作って僕を見た。 
 無意識のうちに僕は、彼女の左腕をコートの上から掴んでいた。彼女は、驚いたように僕を見た。
 この左腕は、明日の朝まで決して離さないと、僕は心に決めた。