波の気配、風の囁き

            1
 海は凪いでいた。
 空の果てまで青く澄みわたった秋空と同じ色合いで、海も透明な青に染まっている。その青は、オホーツク特有の凍りつくような冷たさを湛えている。
 その冷やかな青色をじっと凝視めていると、自分の中の哀しみや喜びや怒りなどのありとあらゆる感情が、透明な海の色に染められて影も形もなく消えていくような気がした。そして僕自身の体までもが、海と空の広がりの中に吸い込まれ、拡散していく。
 ふと気がつくと、僕の立っている防波堤の上を、ウミネコの甲高い鳴き声が重なりながら旋回している。時折、鳥の影が僕の視界を斜めに横切る。
「二週間前の天気が嘘みたいね」と、美幸の呟きが、僕の背後から伝わってきた。
「怜子の魂も、今はこんな安らかな気持ちになって、静かに眠っているのかもしれないな」
 何気なくそう言ってしまってから、自分って甘いと思う。二週間前の嵐の日に、自ら荒波の海に飛び込んで命を絶ってしまった怜子の魂が、そんなにたやすく安らぐ筈がないのだ。彼女を死へと追いつめた苦悩は、そのまま氷の結晶となって海の底に突き刺さっているに違いない。そしてそれは、僕の胸の底にも、深く突き刺さったままだ。
 僕は防波堤の端に寄って、わずかに揺れる海面へ花束を投げた。

 あの日、怜子が海に飛び込んだらしいという連絡を受けて、僕や美幸を含めて何人かの大学の仲間が、釧路から列車に乗ってこの港町へと向かった。
 列車の窓に激しく叩きつける雨粒が、斜めに幾筋もの線を作ってガラスの外を流れていた。窓の外はどんよりと暗く、木々の黒い影が、気でも狂ったように激しく揺れていた。
 僕らは誰しも無口で、レールの規則的に揺れる音だけが、怜子の死を確かめに行こうとしている現実の重みを伝えていた。
 あの列車の中で、僕は何を考えていたのだろう。怜子の死が間違いであってほしいと祈る気持ちよりも、これでよかったのかもしれないと安堵する思いのほうが強かったのではないだろうか。彼女が、この世の悩みや苦しみから逃れられたことを喜ぶ気持ちの方が強かったのではないだろうか。
 駅に着くと、怜子の叔父だという赤ら顔の男が待っていて、僕たちは町の駐在所へと連れていかれた。そこで僕たちは、防波堤に残されていたという濡れて色の判別もつかなくなったグレーのコートと、茶色のパンプスと、赤いショルダーバッグと、その中に入っている化粧品などの小物を確認させられた。
 それらは、間違いなく怜子の持ち物だった。
 僕たちは、激しい雨の中を、怜子らしい人影が飛び込んだという漁港の防波堤へとむかった。車を降りて、打ちつけのコンクリートの上を歩き始めると、横殴りの強い雨ですぐに衣服がずぶ濡れになった。防波堤に激しくぶつかって砕け散る波の飛沫も、風に煽られて飛んでくる。
 僕たちの先頭を歩いていた男が、唐突に立ち止まり、このあたりで彼女の遺品が見つかったのだと、指で差して教えてくれる。
 その場所に立って、僕は目の前の海へと視線を移した。
 激しく猛り狂う波。防波堤の壁に激突しては、飛散する飛沫。この海に、怜子が身を投じたとはすぐには信じられない。怜子のひっそりと暗い表情と、目の前の怒り狂う波とが、心の中でうまく結びつかなかった。
 海に飛び込む瞬間、怜子は何を考えていたのだろう。
 荒い波を見ていても、まだ怜子の死が信じられなかった。

 それから三日後に、怜子の遺体は、防波堤の底で発見された。学友の何人かが彼女の葬式に参列したが、僕は出なかった。

「昨日ね、真衣から電話がきたの。怜子が死んだなんて、まだとても信じられないって話したの。キャンパスを歩いていたら、ふと怜子に出会いそうな気がするって。背中をポンと叩かれて、振り返ったら、そこに怜子が立っているような気がするって……」と、花束が海に沈んでいく頃に、美幸が口を開いた。
「どうすれば、親しかった人の死に慣れることができるのかしら」
 僕は、何も答えなかった。
 死に慣れることなどできはしないと、僕は思う。時の流れとともに、その人の思い出が、夕暮れに溶けこむ影のように、少しずつ消えていくのを、ひたすら待つしかないのだ。
「池本君、あまり苦しまないでね」長い沈黙の後で、美幸がポツンと呟いた。
「怜子は、勝手に死んでしまった。……それは誰のせいでもないわ。ほんとうに怜子が、一人で勝手に死んでしまったんだから」
「僕は……」と言いかけて、胸の中の感情の昂りが、僕の言葉を詰まらせる。熱いかたまりが喉元でふるえる。
「怜子の死に対して、自分が無力だったことが残念なだけなんだ。それだけだよ」
「あなたは、じゅうぶん怜子の心の支えになっていたと思うわ。じゅうぶんすぎるくらい」

 

 

            2
「私の頭の中に、いろんな人が囁きにやってくるのよ」
 怜子は、時折、そう呟くことがあった。それはたいていセックスを終え、裸のままぼんやりと放心した状態でいる時のことだった。
 ぼんやりと薄明るい暗闇の中で、怜子の顔を見ると、彼女はぎょろりと大きな瞳を見開いて、暗闇の奥へ目を凝らしている。
 怜子の意識を、闇の向こう側の世界から、こちら側の世界へと連れ戻したいと思って、僕はできるだけ優しい口調で訊く。
「例えば、どんな人が?」
「死んだお爺ちゃんとか、首を吊って死んだ親類の叔母さんとか、小学二年生の時に海で溺れ死んだ男の子とか、それから見たこともない人もいっぱいやって来るわ」
「どんな事を囁くんだい?」
「それは決まってないの。他人の悪口だとか、これから起きる出来事だとか、失くした物のありかだとか、セックスに関する卑猥な言葉だとか、色々だわ」
「そんな時、どうする?」
「聞きたくない時は、心を閉ざすの。私には、何も聞こえないんだって自分に言い聞かすの。すると、聞こえなくなってしまう」
「今は、何か聞こえる?」
「ええ、……さっきまで聞こえてた」
「何て言ってた?」
「あなたは、私のこと見捨てて去って行ってしまう人だって……」
「僕が?……そんな事はしないよ」
 僕は、怜子のひんやりと冷たい体を引き寄せて、思い切り抱きしめる。彼女の細い腕が、やや遅れてゆっくりと僕の首に絡みつく。
「私も、嘘だと思ったわ」
「そうだよ」
「でも、もしかしたら……」
「もしかしたら?」
「去っていってしまうのは、私のほうじゃないかなって……」
 彼女の痩せた体が、僕の両腕から、闇の奥へと溶けていってしまいそうな気がする。どうすれば、彼女の心を、ここに抱きとめておくことができるのだろうか。
 彼女は、相変わらず両目を大きく見開き、闇の中へ視線を注いでいる。意識の脱けた空白の瞳で。
 僕は不安に怯えて、再び両腕に力をこめ、怜子の体を強く抱く。でも彼女の体は無反応だ。まるで怜子の影を抱きしめているようだ。
「もう、僕と別れたい?」と、僕は訊いてみる。
 五秒ほど過ぎてから、怜子はゆっくりと視線を僕に戻す。
「あなたには心から感謝しているわ。ほんとよ、心から」
「君を愛しているんだ。僕のできることだったら、何でもしてあげたいと思ってる」
「ありがとう……あなたの気持ちは分かっている」
 それから、彼女は再び顔を闇に向ける。そして、また魂の脱け殻にもどってゆく。

 自殺する二週間ほど前のことだった。
 怜子が大学に顔を見せなくなってから、ひと月以上が過ぎていた。僕が、怜子のアパートを訪れると、彼女はカーテンを降ろしたまま、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読んでいた。怜子の顔色は蝋人形のように白く、頬も痩せこけていた。僕を見上げて浮かべた微笑は、空気のように希薄で、部屋の向こう側までも透けて見えそうだった。幽霊の微笑だと、その時、僕は思った。
「部屋から一歩も出られないの。外へ出ると、人の放つエネルギーがあまりにも強烈すぎて、息ができなくなっちゃうのよ」と、彼女は辛そうに囁いた。
「体によくないよ。少しは外の空気を吸わないとだめじゃないか」
「誰かが一緒にいてくれないと、死ぬほど不安で、とても出かけられないわ」
 僕は怜子を連れて、歩いて十分ほどの釧路の街を見晴らせる高台の公園へ行くことにした。柏や白樺や桜の木々を通る小道を、僕は怜子の歩調に合わせてゆっくりと歩いた。午後の日差しが、刈ったばかりの芝生に木漏れ陽を作っていた。
 僕と肩を触れ合って歩いている怜子の表情が和やかで、僕はそれだけで幸せな気分になった。
「最近、よく人間の個別性について考えるの」と、彼女は、ちょっと苦しそうに息を弾ませながら話しはじめた。
「個別性って?」
「例えば、今、私と池本君が見ている風景も、別の肉体の、別の瞳を通り、別の網膜に映り、それが別の視神経を通って、別の脳で見ているものなのよ。だから、ほとんど同じような姿で見えているかもしれないけれど、厳密に比較すれば、きっと別物の風景を見ているってことになるの。そういうことを、あらゆることに敷衍していくと、一人一人の感情とか思考とか経験とか感覚とか、要するに全ての現象が、実は個人の中で完結してしまっているってことになるの。つまり、私たちって、狭い壺の中で生きている蛸みたいなものなのよ。個別性って、そういうこと」
「その壺から出ることはできないのかい?」
「無理よ。死なない限り、永遠に」
「だとすると、セックスも、お互いの壺の中で快感を感じているだけなんだろうか?」
「そうよ。壺の中のエクスタシー」
「でも、みんな意思の疎通をはかって生活しているよ」
「お互いの壺に、石をぶつけ合っているだけよ」
「なんか哀しい話だな」
「でも、それが真実なんだわ」
「真実かもしれないけれど、そういうこと考えていても、なにも楽しくなんかないよ」
「生きてるって、なにも楽しいことではないわ」
 こんなにすがすがしく気持ちのよい景色なのに、真夜中の闇のように暗い怜子の心のことを思うと、僕までが暗澹とした気持ちになる。
「僕は、こうして君と歩いているだけで幸せだけどな」と僕は、わざと明るく装う。
 でも、そう呟いてしまってから、さらに哀しさが募ってくる。まるで夕暮れの野原に、たった一人で佇んでいるような孤独感だ。
 怜子のアパートに戻ってから、僕は彼女を抱いた。
 でも、その日のセックスからは、まるで壺の中の自涜のように、切なくわびしい快感しか伝わってはこなかった。

 怜子がアパートから消えたのは、それから十日ほど後のことだ。

 

            3
 暗く狭い室内にマイルス・デイビスの掠れたトランペットの囁きが響いていた。僕がリクエストした『カインド・オヴ・ブルー』だ。哀切なトランペットの音色が僕の心に滲みてくる。
 美幸は、僕をこのジャズ喫茶に呼び出しておきながら、何も言わず、ただぼんやりと窓の外ばかり眺めている。
 釧路川の堤防の木々は、すっかり葉が落ち、骸骨のように無残な姿で夕暮れの空に佇んでいる。
「昨日、怜子の夢を見たの。……怜子が遊びに来いっていうから、彼女の部屋を訪れてみたら、がらんどうで何もないの。家具もカーテンも何も。ただの空き部屋なの……」と、窓の外を向いたまま、美幸が低い声で独りごちる。
 僕は、頭の中で何もない怜子の部屋を思い描いてみる。
 黄ばんだ畳と薄汚れた壁紙。カーテンのはずされたガラス窓。空虚な空間。主人を失った部屋は、写真を剥がされた古いアルバムと同じだ。記憶も過去もすべてが失われている。
「どうして怜子は自殺したのかしら……?」
 美幸の言葉は、自殺の理由を尋ねるというよりも、ただなんとなく、そんなセリフが口から出てきてしまったというふうだった。
「……怜子が死ぬひと月ほど前に、彼女、私のアパートに来たことがあるの。夜中を過ぎた頃で、ひどく酔っぱらっていたわ。私、彼女に水を飲ませてから、二人いっしょに布団に入ったの。帰りたくないって言うから。怜子、私に抱きついてずっと泣いてた。まるで駄々っ子みたいな幼い泣き方だったわ。それから私たち、暗闇の中でずっと抱き合っていたの。うまく説明できないけれど、私たち、そうやって抱き合っていると、とても安心できた。男の人に抱かれているのと、また違った安心感があった。そして、そのまま夜が明けるまで色んなことを話したの。お互いの小さい頃の思い出とか、初恋のこととか、男の人のこととか、それから……」
 美幸は、相変わらず窓の外へ顔を向けたまま、ひっそりとした口調で話し続けた。まるで窓に映る自分の影にでも話しかけているように。
「それから、怜子は、あなたのこととか、彼女が愛している男の人のことも私に話してくれた……」
 美幸はゆっくりと顔を戻して、正面から僕を凝視めた。
「この話、もっと続けていいかしら?」
 これ以上聞くと、きっと傷つくだろうという迷いがあった。でも、気がつくと僕は小さく頷いていた。
「怜子に七つ年上のお兄さんがいるのは、知っているでしょう?
 この釧路市内で、大きな電気屋さんに勤めているんだけど、そのお兄さんのことを、怜子は物心ついた頃からずっと愛していたそうなの。お兄さんと一緒にいると何も話さなくてもいいし、自分を飾る必要もないから、とても安心できるって言ってた。
 そのお兄さんに抱かれている時は、ありのままの自分に返ることができるって幸せそうに喋ってたわ。……そんな関係が、彼女が大学に入った時から、ずっと続いているそうなの。でも最近、そのお兄さんの奥さんという人が、二人の関係に気づいたらしくてね、お兄さんに離婚するって脅しをかけたり、その日は、怜子のところに、お兄さんと会うのをすぐに止めるようにって、すごく恐い顔して言いに来たんだって。やめないと、ひどいことになるぞって」
 美幸の話を聞いていると、胸のあたりが息苦しくなってきた。
「あなたには、とっても悪いことをしているって何度も言ってた。一度はお兄さんとの関係を絶って、あなたに賭けてみようって真剣に悩んだこともあるそうよ。でも、結局はできなかったって。あなたは優しい人だし、心から愛してくれているのは分かるけど、やっぱり他人なんだって。血の魔力ってあるのかもしれないって彼女言ってたわ。だから、お兄さんとは死んでも別れられないって」
 そこまで話すと、美幸は再び黙り込んだ。あたりからは音が消えていた。マイルスのトランペットも、窓の外の街の音も、何も聞こえなかった。美幸の言葉だけが、頭の中で繰り返し反響していた。何度も、繰り返し。
 怜子のお兄さんという人物とは、釧路市内で何度か会ったことがある。痩せ細った怜子の顔つきとそっくりの、やさしそうな顔だちをしていた。目を細め、思いやるような温かい眼差しで妹の怜子を見ていたのを覚えている。
「……話そうかどうしようか、ずいぶん悩んだの。あなたがこの店に入ってきてからも、まだ迷ってた。でも、あなたが怜子の死に一人で責任を負って、苦しんでいるのを見て、本当はそうじゃないんだって教えてあげたかったの……」
 僕は黙ったまま、小さく頷いた。頷くと同時に、視界が揺らめき、熱い滴が頬を伝って流れていくのを感じた。
 怜子を失った時よりも、兄との関係を聞いた今でさえ、強く怜子を欲している自分が、哀れで愛しかった。
「……ごめんなさい。いま私、すごく後悔してる。こんなこと、あなたに話すべきじゃなかったわ。……私、きっと嫉妬しているだけなんだわ。死んでもあなたの心を独り占めにしている怜子に嫉妬しているだけなんだわ」
 店を出てから、美幸と夜の埠頭を歩いた。
 コンクリートを踏む二人の足音が、倉庫の壁に反響して、暗い海へ吸い込まれていった。あたりは冷え冷えとした冬の兆しに包まれている。
 遠く沖合を見ると、大型フェリー船の窓の灯が、遠い暗闇をゆっくりと移動していた。
「池本君、これからどんな人生送りたいって考えている?」と、隣を歩いている美幸の声が聞こえた。
 すぐに答えられなかった。以前ならば、怜子と一緒だったらどんな人生でも構わない、と答えていたかもしれない。
「たぶん、どこか田舎の中学校の先生になって、転勤を続けながら、だんだんと年老いていくんだろうな」
「そう答えるんじゃないかなって思ってた。……でも、それは、あなたが本心から望んでいる生き方なの?」
「さあ……」と僕は、頭をひねってみる。いつから僕が、教師を自分の職業としてめざすようになったのか、はっきりした記憶はなかった。
「怜子が死んで、私が一番ショックだったのは、とても当たり前のことなんだけれど、私たちは死ぬっていう事実だったわ。一生懸命、自分の好きなことに打ち込んで生きていっても、逆に、まわりの状況に流されて納得できないまま生きていっても、ある時間がきたら、私たちの人生は打ち切られるんだって。私にも死が訪れれる時が来るんだって痛切に感じたの。
 最近、このまま教員になることが、本当に自分の納得できる生き方なんだろうかって、なんか分からなくなってきてるの」
 美幸は、立ち止まると、遠い目つきで暗闇の海を眺めた。
「今、君に言われて思い出したよ。高校の頃、東京に出てって、雑誌に自分の文章を載せるような仕事をやってみたいって、漠然と夢に描いていたことがあった。いろんな人に会って取材をしたり、インタビューをしたり、それからエッセーのような読み物を書いたり、そしていつかは小説なんかを書いて自分の本を出せたらいいなって、そんな馬鹿げた夢を描いていたこともあったな」と僕は、美幸の背中に話しかけた。
「何も馬鹿げているとは思わないわ」
 僕と美幸は、立ち止まったまま、小さな光の揺れる暗い海をいつまでも眺めていた。
 その夜、僕は美幸を抱いた。
 お互いに心がひどく淋しかったのだろう。でもセックスをしても、お互いの孤独感が癒されることはなかった。

 

 

            4
 釧路の大学を卒業した後、怜子の生まれ育った港町の中学校に、英語の教員として赴任することになるなんて、誰が予想できただろう。
 正直なところ、怜子の死を経てから、僕は教員になるなんて、どうでもいい事のひとつに過ぎなくなっていた。生きるということに対して、投げやりな気持ちだった。教員採用試験に合格しているという事も、すっかり忘れていたくらいだった。
 でも三月の末になって、教育局から赴任先が知らされた時、驚きとともに、とりあえず教員になって彼女の故郷に住んでみようかと、心が揺り動かされた。
 怜子から何度も聞かされていた、その港町の様々な場所を訪れ、自分の目で見たり、手で触れてみたいと思った。怜子が子どもの頃に遊んだという漁港の防波堤や、神社の裏の紅いハマナスの花が咲くという砂浜や、海岸に屹立している「熊岩」という名の岩や、それから真冬に接岸する流氷などを、この目で見てみたいと思った。そこに行けば、怜子の温もりが今でも残っているような気がしてならなかった。
 僕は、怜子の霊魂にでも引き寄せられるように、その港町へ行く決心をした。
 今から振り返ってみると、僕は単に、怜子の死に魅入られていただけなのかもしれない。でも怜子の死は、どこまで追いかけて行っても、星も見えないほどの暗く淋しい闇夜でしかなかった。
 でも、その事に気づいたのは、ずっと後になってからだった。

 四月の上旬に、僕は地の果ての港町に赴任した。
 木造の、建て付けの悪くなった古い家が、僕の住み家になった。アパートの六畳間にあった荷物を、四つの部屋に分散して片づけると、がらんとした空虚な空間に、自分の居場所を失うほどだった。 引っ越しした翌日のことだ。少しずつ陽が翳り、夕暮れが近づいてきた頃、僕は家の中に閉じこもっているのに堪えられなくなって、外に出ることにした。
 玄関の戸を出たとたん、凍りつくような冷たい空気が僕を包んだ。まるで冬に逆戻りしたようなオホーツク海の底冷えだった。
 見上げると、空は、哀しいくらい透明な藍色に澄んでいる。
 道路の端に残っている薄汚れた雪を避けながら、僕は海岸に向かって歩いた。古びた住宅地を過ぎ、十分ほど歩いて、なだらかな坂道を下ると、目の前に真っ青な水平線が横たわっていた。
 砂浜に出て、その無限の広がりを眺めていると、まるで遠い記憶の風景にでも再会したような甘く懐かしい感情が、心の底から溢れてきた。怜子も、この海を何度となく眺めたのだろうと思うと、眼前の風景すべてを、この胸に抱きしめたかった。
 人も漁船も何もない凍てつく冬の砂浜に沿って、僕はゆっくりと歩いた。冴え冴えとした静寂を背景に、砕ける波の音とウミネコの鳴き声だけしか聞こえてこない。
 しばらく行くと、空に向かって屹立している大きな岩の姿が目に入ってきた。
 あれが熊岩かと納得する気持ちで、僕は近づいて行った。
 怜子が話していた通り、まるで梯子のように傾斜の急な階段があり、手すりに掴まりながら、僕はようやく頂上まで登った。
 展望台に立った途端、視界が天空の果てまで開けた。僕は視界いっぱいの大海原の中心に浮かんでいた。遙かな水平線が僕を取り囲んでいる。
 僕は、息をのんで見とれた。
 眼前に広がる海は波ひとつなく、まるで鏡の表面のように静かだった。遙か沖合の、空と海が接するあたりには、白い流氷が不連続な線を作って横に並んでいた。
 空は、上にのぼるにしたがって、藍色から青色、淡い紫色、ピンク色、そしてオレンジ色へと輪郭をぼかしたルノアールの油絵のような色彩となって虚空を染め上げている。
 鏡となった海面も、空と同じく藍色からオレンジ色へと変幻する色彩に染められている。白い流氷線を線対称とした夢幻の世界が、僕の視界いっぱいに広がり、秒刻みに変化していた。
 僕は、ふと怜子のことを想った。
 言いしれぬ哀しみが凝縮して一滴のしずくとなり、夢幻の鏡となった心の表面に、ポツンと波紋を広げて落ちてくるような気がした。

 家に戻り、夕食を作って食べた。
 後片付けをすると、もう何もすることはなかった。僕は、炬燵テーブルに頬杖をついたまま空疎な時間を過ごした。
 怜子の思い出や、夕暮れの海の風景や、これから始まる教員の仕事のことなどが、何の脈絡もなく意識に浮かんでは消えていった。家の中は、どこの部屋もひっそりとした静寂があたりを支配していた。屋外からも物音ひとつ聞こえてこない。自動車の音も、人の囁く声も、海の音も、何も聞こえない。
 そんな時、玄関のあたりから、ガラス戸が叩かれる音が聞こえたような気がした。ほんの微かな、さざ波のように空気を伝わってくる音。
 僕は、気のせいかと思った。
 しばらくの間、じっと身動きもせず、耳をそば立てていた。
 再び、コツコツと戸が叩かれる音。今度は耳鳴りではなかった。時計を見ると、夜の八時を過ぎている。赴任したばかりの僕に、こんな時間に訪ねて来る人などいる筈がなかった。
 訝る気持ちでゆっくりと立ち上がり、僕は、玄関へ通じる戸を静かに開けた。
 玄関のガラス戸の外の暗闇に、怜子の顔が浮かんでいた。
 一瞬、心が凍りついた。でも、怖いという気持ちは起きなかった。それよりも、多分、こんなふうに怜子と再会することを、心のどこかで待ち望んでいたような気がした。
 怜子の体が、玄関のガラス戸をすっと通り抜けて、家の中に入ってくるのを待っていた。しかし、彼女は入って来なかった。
 しばらくして怜子は、闇の中で小さく頷くように微笑んだ。
 その時になって初めて、僕は、それが怜子によく似てはいるものの、別の人物であることに気がついた。怜子よりも僅かに丸顔で、左の頬にえくぼができている。年もやや下で、どことなく幼さが残っている。
 僕はあわてて玄関の鍵を外し、戸を開いた。
「池本さんの、お宅ですか?」と、怜子にそっくりの少女は、闇の中に立ったまま不安そうに訊いた。
「ええ」と僕は戸惑いながら答える。
「よかった。ずいぶん探したんです。暗くて分からなくって。私、飛鳥怜子の妹で、薫っていいます。姉が以前、色々とお世話になりました。……夜遅くなって申し訳なかったんですが、姉の大学時代の友達が引っ越してきたって聞いて、うちの母が、今日のうちに届けてこいって言うものだから……」
 その少女は、新聞紙の包みを僕に手渡しながら、
「魚の乾物が入ってます。よかったら食べて下さい。それから一度、家の方に夕食でも食べに来て下さいって母が言ってました」
「……はい」とだけ僕は答える。
「じゃあ、これで失礼します」と言うと、少女はペコリとお辞儀をして、怜子そっくりの笑顔を残したまま、再び闇の奥に消えて行った。
 自分でも説明のつかない奇妙な感慨を抱いたまま、僕は玄関に立ちつくしていた。

 

            5
 親が食料品店を営んでいるせいか、薫は、獲れたての新鮮な魚や貝などを、その後もひんぱんに持って来てくれた。
 薫は、玄関で新聞紙の包みを僕に手渡して、ちょっとした言葉を交わすと、そのまますぐに帰って行った。
 笑った時に薄く目を閉じるところや、話している最中に眉毛に皺を寄せる癖など、はっと息を飲むほど怜子そっくりで、僕は、薫と向かい合っていると、ひどく切ない気持ちになった。
 薫は、とても礼儀正しく、丁寧な話し方をしたが、それが却って僕には他人行儀で冷たい印象となって映ることもあった。
 姉を愛していたからといって、妹の方ともすぐに親しくなれるわけではないという当たり前の事実を、僕は、やや哀しい現実として思い知らされたに過ぎなかった。

 初めて中学校の教壇に立った時は、緊張で足が震えた。教室の生徒たちの顔も見えないくらいだった。でも、失敗や戸惑いを重ねながら、しだいに教員という仕事に慣れていった。
 二百人近い生徒を相手に授業をするということは、それだけで果てしなくエネルギーを消耗してしまう肉体労働だ。相手が、ひとりひとり個性を持った生身の人間であれば、なおさらそれは当たり前のことだった。家に帰ると、僕はくたくたに疲れ果て、夕食の準備をする気力もなく、そのまま布団に入って眠ってしまうこともよくあった。
 そんな風にして、僕の教員生活は始まっていった。

 学校の疲れが出たのか、七月に入って風邪をひいた。
 朝、目が覚めて起きようとすると、部屋の天井がぐるりと揺れた。背筋にざわざわと悪寒が走る。体がだるく、熱っぽかった。これでは学校に出かけられないと思い、休みの連絡を入れるため、居間に置いてある電話のところまで行こうとしたが、体が自由に動かなかった。ふらつく体で起き上がり、なんとか畳を這って行ったような記憶もあるが、夢なのか現実なのか分からない。
 気がつくと、僕は大学時代のアパートの部屋に寝ていて、枕元に怜子が座り、心配そうに僕を見下ろしていた。
「やあ、遅かったじゃないか」と、僕は回らぬ舌で呟く。
「ごめんなさい。街で兄と会ってきたものだから」と、怜子が、僕の心に囁きかけてくる。
「まだ、つきあっているのかい?」と僕はやり切れない気持ちで訊く。
「そんなこと心配しなくっていいのよ。それより、ぐっすり眠って早く風邪を治さなくっちゃ」と怜子がやさしく微笑む。
「氷枕、作ってくれないか?」と僕は頼む。
「待ってて」と答えて、怜子が視界から消える。
 しばらく、うとうとと眠った後で、誰かに頭を持ち上げられ、氷枕が差し入れられる。それから濡れたタオルが額に乗る。ひんやりと気持ちのいい冷たさだ。
「ありがとう」と僕は目を瞑ったまま言う。
「いいの、気にしないで。ゆっくり眠るのよ」と怜子の声が聞こえてくる。
「うん。……どこにも行かないで、ここにいてくれよ」と、僕は布団から右手を差し出す。怜子のほんのりと温かい掌が、僕の手に触れる。
 その手を、僕は離したくないと思う。
「一人じゃ、とても淋しいんだ」
「分かってるわ」と、怜子のやさしい声。
 僕は、安心して、ふたたび眠りに落ちた。
 目が覚めた。汗で下着がベットリと濡れている。部屋の中は、夕暮れの薄闇に沈んでいる。
 台所で、誰かが炊事をしている音が、微かに耳に届く。
「怜子……」僕は、ゆっくりと彼女の名前を呼んでみる。
 返事がない。
 もう一度、僕は怜子の名前を呼んだ。
 戸が開き、そこに高校の制服姿の怜子が立って、僕を見下ろしていた。
「だいじょうぶ?」と心配そうに怜子が訊く。
 いや、よく見ると怜子でない。妹の薫の方だ。意識がもうろうとしていて、夢と現の境がよく見分けられない。
「だいじょうぶって、ここで何してる?」と僕は訊いた。
「何って、ずっと池本先生の看病をしてたのよ」と怒ったような口調で薫が言い返す。
「ずっとって、いつから?」
「朝からよ。登校する途中、お魚を届けに寄ったの」
「……どうやって入った?」
「もちろん玄関からよ。鍵、かかっていなかったわよ」
「今日は、高校はどうした?」
「休んじゃったわよ。仕方がないじゃない、だって池本先生の様子がとても心配だったんだもの」
「そう……氷枕、作ってくれたのも君か」
「怜子姉さんが作ってくれたと思ってたでしょう?」
 薫の顔に、意地悪っぽい微笑が浮かぶ。
「どうして、そう思う?」
「だって、うなされながら、怜子、怜子って何度も姉さんの名前、呼び捨てにしてたもの。それに、私を見て、『怜子、どこにも行かないで、ここにいてくれよ』って私の手を握ったのよ」と、薫は、大袈裟に誇張する口調で言った。
「……夢を見てたんだ」
「ねえ、池本先生、うちの姉さんの恋人だったの?」
「どうして、そう思う?」
「勘よ。女の勘」
「……ただの友達だよ」
「ふうん」
「どうして、そんなこと知りたい?」
「あんなに性格が暗くて偏屈な女の、どこがいいのかなあって思っただけよ。私が男だったら、絶対あんな女、好きにならないわ」
 そう言いながらも、彼女は嬉しそうに微笑んでいる。
「……今日の君は、いつもと少し違うな。なんか、ずいぶん生き生きしてる」
「いつも生き生きしてるわよ。お姉さんとは正反対の性格だから……今までは、池本先生がどんな人か分からなくて、ちょっと猫を被っていただけよ」
「こっちの方が何倍もいい」
「お世辞でも嬉しいわ……ねえ、余計なお世話だと思うけれど、早くお姉さんのことは忘れて、新しい恋人を見つけたほうがいいんじゃない?」
「どうして?」
「風邪ひいた時に困るから」
 それから薫は、夕食の支度を終えると、お母さんに叱られるわ、とぼやきながら帰っていった。
 僕と薫が親しくなれたのは、その事があってからだ。

 

 

           6
 列車の窓の外を、真夏の緑が流れていく。僕らの乗った列車は、濃緑の森を通り過ぎようとしていた。
 低い灌木の林が途切れると、なだらかな丘陵のうねりが遙か地平線まで広がり、牛たちは木陰に寝そべって休んでいる。草原の上には、天の高みまで盛りあがった積乱雲が、大地を威圧する迫力で被いかぶさっている。
 開け放たれた窓からは、生ぬるい風しか流れ込んでこない。
 でも目の前で薫の白いブラウスが、窓からの風に波うつのを眺めていると、暑さは感じられなかった。ブラウスに透けてみえる下着の白いラインが、目にも鮮やかで清々しい。
 風になびく髪を気にする様子も見せず、うっとりと目を細めて外を眺めている薫に、僕は声をかけた。
「君は、将来、何になりたいって考えてる?」
 薫は、僕の質問に可笑しそうな表情を浮かべて、僕を見た。
「シンガー・ソングライターよ」
「シンガー・ソングライター?」と僕は、彼女のあまりに自信ありげな口調に、思わず訊きかえしてしまう。
「そう。シンガー・ソングライターよ」
「自分で歌を作って、ギターを弾きながら歌うやつかい?」
 薫は軽く目を閉じる仕種で、こくりと頷いた。
「必ずしも自分でギターを弾くとは限らないけれどね」と、ちょっと僕をばかにしたように微笑む。
「物心ついた頃からの私の夢なの。普通は、きれいなお嫁さんになりたいとか、テレビのアイドルになりたいとか、ケーキ屋さんになりたいとかって言うでしょう? それが私の場合は、シンガー・ソングライターだったの」
「でも、自分で詞を書いたり、作曲もしなくちゃならないんだろう?」
「私にできないって、考えているんでしょう?」
「そういうわけじゃないけど」
「私、これまでにもう五十以上も曲つくってるし、去年は高校の学校祭に一人で歌ったのよ。ステージで、三曲……おかげで、いろんな人から変な目で見られたり、逆にちやほやされたり、仲のよかった友達が離れていったり、知らない男から何通もラブレターが来たりで、てんやわんやだったわ。
 それにお姉さんの事もあったでしょ。家の中では、誰も口をきかなくなるし、お母さんは何週間も寝込むし、もうあの頃は死にたいくらい最悪だった。家にも学校にも、どこにもいたくなかったわ」
 レールの音をBGMに、僕は、黙って薫の話を聞き続けた。
「今ではもう慣れっこになったけど、あれから学校では、すっかり『変わり者』扱いされるようになっちゃって、つくづく思ったわ。こんな田舎にいたら、私のような女は、嫌われて無視されるか、逆にお世辞でちやほやされてそれっきりだって。田舎は、ほどほどの力を小出しにしながら、他人と同じ歩調で目立たないようにひっそりと生きてゆくには、とてもいい場所なのかもしれないけど、私みたいな人間の住む場所ではないって」
「じゃあ、高校を卒業したらどうする?」
「とりあえず、どこかの大学にでも入るわ……あの町から出るには、一番もっともな口実でしょう?」
「それから?」
「どこかのアマチュア・バンド・コンテストに出て、グランプリ賞か何か取って、それからアルバムを出すの。……大変かもしれないけれど、きっといつかは実現してみせる。私、自信があるの」
 薫の口ぶりに、若さからくる気負いは、あまり感じられなかった。それどころか、まるで未来の自分の姿を見ながら語っているような落ちついた口調だった。
「……そうそう、今年も学校祭のステージで歌うつもりなの。九月三日の日曜日よ。ぜったい見に来てね」
 薫の褐色の瞳が、窓の外の緑を映して、生き生きと光り輝いていた。そういう薫を傍らから見ていることは、とても心が慰められ、励まされることだった。
 僕の中ですでに死んでしまった何かが、薫の中では、はじける勢いで躍動している。それが、僕の心に電流のようにぴりぴりと伝わってくる。
 思い返してみれば、姉の怜子の方は、暗い闇に溶け込み、まるで死人のように生きている女だった。
 ほとんど生き写しの容姿を持ちながら、別な性格を持ち、別の夢を抱き、別の人生を送っている二人の姉妹が、何かとても奇妙だった。そして、その二人の姉妹と出会い、それぞれの異なった人生を、傍らから見ている僕自身という存在も、とても不可解だった。

 夏休みの始まったその日、僕と薫は釧路行きの列車に乗っていた。釧路で買い物をしたいので、一緒に行ってもらいたいという薫の頼みだった。
「うちのお母さんには、『池本先生』という名前は、絶大な信頼感があるの。だから、池本先生と一緒に行くって言ったら、その場でOKだったわ」と薫は嬉しそうに話した。
 春以来、何度か薫の家を訪れ、夕食をごちそうになったりして、家族とも親しくなっていた。
 釧路の街で、僕たちは楽器屋と本屋をまわり、それから薫の希望で、僕や怜子のいた大学を訪れることにした。
 卒業したばかりの大学というのは、淋しさと懐かしさの入り交じった妙な感慨を抱かせる。気持ちのどこかでは、自分はまだ学生の気楽な身分でいるような錯覚がある。でもそこは、二度と帰ることのできない遠い夢の脱け殻なのだ。
 夏休みに入っていたせいか、キャンパスにほとんど学生の姿はなかった。僕と薫はライラックの並木道に沿って構内を通り抜け、柏の木陰の芝生にすわって休んだ。
 薫と並んで、ぼんやりとキャンパスの建物を眺めていると、怜子と過ごした日々の思い出が、まるで映画のシーンのように色鮮やかに脳裏に蘇ってきた。
「池本先生は、姉さんが自殺した原因を知ってるんですか?」と薫が、突然硬い表情を浮かべて僕に訊いた
 僕は、遠い怜子との思い出から、突然芝生の上の現実へと呼び戻された。見ると、薫は睨むような目つきで、遠くのグランドを凝視めている。僕は微かに緊張した。
「……遺書が出てきたわけではないし、姉さんの友達も、大学の先生方も、何も特別なことは教えてくれなかった。誰も、自殺の理由なんて知らなかったのかもしれない。でも、私は納得できないの。何か自殺の理由があった筈だって。確かに、姉さんは内気な性格だったかもしれない。多少はノイローゼ気味になっていたかもしれない。でも私が知るかぎり、理由もなく死ぬような人ではなかったわ、ぜったいに」薫は、小さい声ではあるけれど、断固とした口調で言った。
「池本先生は、姉さんとつきあっていたから、……本当は何か知ってるんじゃないんですか?」
 薫は、振り返ると、食い入るような目つきで、僕を凝視めた。
 どこまで話すべきなんだろうと迷う気持ちで、僕はおもむろに口を開いた。
「……怜子自身は、直接僕に何も話してくれなかった」
「なんにも?」
 僕は、頷いた。
「怜子と……君の姉さんと僕は、確かにあの頃つきあっていた。僕は彼女のことが好きだった。でも君の姉さんは、僕のことが本当に好きだったわけじゃない」
 それを言うと、哀しみのかけらが、どこからか落ちてきた。
「怜子は、……ほかに愛している人がいたんだ」
「ほかに愛している人?」と驚いたような声。
 僕は、ため息をついた。
「奥さんがいて、子どもがいて、そういう男の人さ」
「不倫?」
 僕は、再び頷いた。
「後になって、怜子の友達から聞いたんだ」
「その人と、うまくいかなかったの?」
「たぶん、そうだったんだろうと思う」
 薫も僕も黙ったまま、芝生の草を見ていた。
「でも、そんなことくらいで、自殺しなくてもよかったのにね」と、ひどく淋しそうに薫が呟いた。
「ああ」と僕は答えた。
「わがままよね。好きな人との関係がうまくいかなくなったからといって、勝手に思いつめて自殺しちゃうなんて。残された私たちが、どんなに淋しい思いをするかって、考えなかったのかしら。酷すぎるわ」
 途中から、薫は涙声になっていた。

 

 

            7
 暗幕で覆われた高校の体育館の中は、人いきれで蒸すほどの熱気がこもっていた。フロアーいっぱいを黒い人の影が埋め、会場内は地鳴りのようにざわめいている。
 僕は、体育館のやや後方の左端にすわって、眩いライトに浮かんだステージを眺めていた。
 ストーリー性も何もないギャグだらけの劇と、下手くそなロックバンドと、女子生徒だけのコーラスが終わり、次は薫の番だった。まるで自分の恋人の出番でも待っているような緊張感と不安感と期待感が入り交じった気持ちを僕は味わっていた。
 洗いざらしのジーンズとオレンジ色のトレーナー姿の薫が、肩からギターを下げてステージに現れた。僕よりも小柄な体躯なのに、ステージ上の薫は、ずいぶんと大きく堂々と見えるから不思議だ。 場内から拍手と口笛と野次と喝采がわき起こって、体育館の中に充満する。
 薫はマイクの前でペコリと頭を下げると、何も言わずにギターを奏ではじめた。軽やかで優しいが、鋭く尖ったような弦の音だ。
 と、そのギターの音に重なって薫の囁きが入ってきた。甘く哀しげな声。そして、だんだんとしなやかに流れる力強さへと高まっていく歌声。ギターの伴奏を乗り越え、まるで風の音のように彼女の歌声は天空へと登っていく。
 歌詞は、大自然の偉大さと美しさと厳しさを讃える内容のものだった。歌詞の内容と、薫の伸びやかで清らかな声が共鳴しあい、体育館に響きわたった。
 僕は、感動していた。ステージ上の薫は、いつも会って世間話をしている普段の薫ではなかった。全くの別人。歌うために、この世に降りてきた天使だった。薫は、歌声のエネルギーそのものとなってステージの上で光り輝き、その眩いオーラで暗い場内を包み込んでいる。会場全体が、薫の歌声から発する波に呑み込まれ、酔いしれていた。
 一曲目が終わった。場内に拍手がわき起こる。
 茫然とした気持ちで、僕は拍手するのも忘れていた。
 薫は、歌った曲の名を紹介してから、次の曲のタイトルを言って、再びギターを弾きはじめた。
 二曲目は、静かで切ないラブ・ソングだった。水が砂に吸い込まれるように、薫の歌声が僕の心にしみ込んでくる。愛する人を失った哀しさが、素直に表現されているメランコリックな曲だった。一曲目とはまるで違う内容だが、薫の歌声はのびやかに響いていた。 二曲目が終わり、拍手が止んでから、
「最後は『姉へ』という歌です」と薫がマイクに向かって言った。 ドキリとした。どんな曲なんだろうと不安になった。
 曲が始まった。歌詞の内容は、姉といっしょに遊んだ子どもの頃の楽しい情景がいくつか続き、そして今も、どれほど姉をこよなく愛しているか、といった内容のものだった。薫の、姉への限りない愛情が、歌声に満ちていた。そこに、姉の死を匂わせるような言葉はひとつも含まれていない。薫の姉が自殺していることを知らない人が聞けば、そのようなことなど想像もつかない歌詞だった。
 僕は、じっと目を瞑り、薫の歌声に身を任せていた。薫の、姉への愛が痛々しいくらい切実に、僕の胸へ押し寄せてくる。怜子を愛する僕の気持ちを、薫が代わりに歌ってくれているような気がした。
 気がつくと、涙が頬を伝って流れていた。
 曲が終わり、ふたたび会場の中に拍手と口笛と喝采が充満した。僕は、そっと涙を拭ってから、薫に声をかけるために、観客を縫ってステージの脇へと歩いていった。
 薫は、ギター・ケースを下げ、何人かの男の子や女の子に囲まれて歩いてくるところだった。そして、暗闇の中に立っている僕を見つけると、嬉しそうに微笑んだ。
 僕は、右手を挙げ、薫に微笑み返す。
 それから彼女は、僕の横を通って、仲間とともに体育館の出口へと歩いていった。

 その日、久しぶりに熊岩へ出かけていったのは、胸から溢れんばかりに高まった感動のうねりを、自分ひとりの力で静めることができなかったからだ。誰もいない海辺で、冷たい潮風にでも吹かれ、火照った心と体を冷まそうと思った。
 海辺は、思ったよりも風が強く、白い波頭が泡立ちながら潮風に吹き飛ばされていた。海の上を、低く黒いちぎれ雲が、風下へと見る見るうちに移動していく。風の甲高い叫び声が、耳元で唸っている。空には、飛んでいる鳥の姿などない。
 僕は、いつものように手すりに掴まりながら、頂上をめざした。途中、何度か激しい風にあおられて体が左右に揺れた。僕はその場に屈みこみ、風が去るのを待ってから、再び登り始めた。
 展望台は、さらに激しい風が吹いていた。時折、突風が体にぶつかり、あやうく吹き飛ばされそうになる。眼下の海も、遙か彼方まで荒い波におおわれていた。高い波が繰り返し岩に激突し、あたりからは、大地を揺るがすほどの低い地響きが伝わってくる。
 猛り狂う大自然のエネルギーの激しさに、僕は恐ろしくなって、すぐに階段をおりることにした。
 体にぶつかってくる風は、相変わらずすさまじかった。僕は、手すりをがっちりと握り、体を屈め、おそるおそる足で踏み段を確かめながら降りた。
 その時、思いもかけない激しい突風が、僕の体にぶつかってきた。体がフワリと浮く。両足が完全にステップから離れた。僕は、なんとか手すりに掴まろうとしたが、激しい風の勢いに耐えきれなかった。僕の体は、滑るように手すりの外へ飛ばされていった。それは一瞬の出来事だった筈だが、僕の目には、全てがスローモーションで、実にゆっくりと映った。
 右手で掴んでいた鉄製の赤い手すりが、僕の手から遠くへと離れていく。刷毛で重ねたような荒々しい雲を背景に、熊岩の茶褐色のゴツゴツとした頂上付近が見えた。岩の角が、背中に当たり、体がバウンドする。感触だけで、痛みはない。視界が回転する。紺碧の海原と、岩に衝突して砕け散る白い波が斜めに見えた。
 このまま死ぬのかもしれないという予感が、脳裏を横切った。でも不思議と恐怖感はなかった。
 意識の一部で、僕は、ふっとあることを思った。
 僕は、思い切り生きてはこなかった。薫が、文化祭のステージで、あんなにも激しく美しく輝いていたのに比べ、それこそ僕は自分の力を小出しにしながら、他人と足並みをそろえ、目立たずに生きてきた一人に過ぎなかった。決して危険なことに挑戦しようとか、能力以上のことにチャレンジしてみようということはなかった。
 そうだ、と僕は思った。もしも再びこの世に生を受け、新たな人生を送ることができたならば、僕は、もっと別の、生き生きと光り輝く人生を送ってみたい。悔いのない、前向きの人生を……。
 そんなことを、ぼんやりと考えていた。でもそれは、ほんの一瞬の間のことだった。
 軽い衝撃があり、視界と意識が途切れた。

 

 

            8
 岩場に倒れている僕を、地元の人が見つけてくれて、僕は隣町の総合病院に救急車で運ばれた。そこで脳波の検査と、頭蓋骨のX線検査が行われたが、まったく異常は見つからなかった。つまり、一時的に脳震盪を起こして、意識を失っていたにすぎないということだった。
 ひどく頭が痛く、気がついたら僕はベッドの上に横になっていて、隣に母親と中学校の校長先生がイスに坐って話をしていた。
 再びうとうとと眠り、意識がはっきりしてきたのは、事故から二日後のことだ。
 薫が、病室に顔を出してくれた時、たまたま僕の母は町に買い物に出かけていて、他に誰もいなかった。
 窓の外からは、夕陽のオレンジ色の光が射してきて、病室の壁に窓枠の形に影を作っていた。
「歌、とてもよかったよ。感動した」と僕は、染みが滲んで薄汚れた天井を見あげながら言った。
「ありがとう、嬉しいわ」
「特に、あの『姉へ』という最後の曲がよかったな。涙が流れてきて止まらなかった」
「ほんと? 正直言って、あの曲、歌おうかどうしようか、ずっと迷っていたの。ステージに上がってからも迷っていた。だから別の曲の譜面も用意していたくらいなのよ。池本先生の気持ちを傷つけたらどうしようって」
「あの曲がいちばんよかった。……思ったよ、あの曲を聴きながら。僕は、君のお姉さんに愛されていなかったかもしれない。でも、君の姉さんを愛していてよかったって。君のお姉さんと出会えてよかったって、心からそう思えた」
 薫が、大きく頷くのが見えた。
「君が、あの曲で歌っていた気持ちは、僕の想いと同じだって。まるで自分の気持ちをそのまま詞にして、君に歌ってもらっているような気がした。そして、とても嬉しかったんだ」
 僕は、そこまで言って、大きく息をした。
「歌って本当によかった」とポツリと薫が呟いた。
「……ねえ、まだ誰にも言ってないんだけれど、決心したことがあるんだ。君に、初めて打ち明ける」
「どんな事?」と薫が興味深げに訊く。
「教員を辞めることにした。……すぐにじゃないけど、来年の春くらいに。そして、東京に出ていくんだ」
「東京に?……東京に出ていって、何をするの?」と薫が驚いた声で尋ねる。
「まだ細かいことは分からない。でも出版社か何かそんなところで本や雑誌をつくる仕事をやってみたいんだ」
「本や雑誌を? でも……急に、どうして?」
「……本当は高校時代の夢だったんだ。でも、とうてい叶わないことだろうと、大学に入った頃からは忘れていた。無理だと思って諦めて、忘れていたんだ。でも、君がステージで歌っているのを見て思ったんだ。君はあんなに輝いている。まるで地平線に昇ってくる朝日のように眩しく光り輝いている。それは君が、やりたいことに全力で取り組んでいるエネルギーの輝きなんだ。……でも今の僕は輝いていない。特に怜子が死んでからは、まるで僕の心も怜子といっしょに死んでしまったようなものだった」
 薫が、じっと僕の目を凝視めていた。薫の瞳に、夕陽が映って光っていた。
「だから、もう一度はじめから、自分の人生をやり直したいんだ。自分の夢に挑戦してみたいんだ。そして歌っている時の君のように、僕も輝きたいと思ってる」
 薫は、何も言わず目を伏せてから、窓の外へ視線をそらした。
「私、先生に自分の歌なんか聴かせなければよかったな」と、薫は小さな声で呟いた。

 僕は、冬休みを待って東京に出かけて行き、就職情報誌を片手に、小さな出版社や編集プロダクションをいくつか訪れた。その中のひとつから採用内定の通知を貰ったのは二月に入ってからのことだった。

 

 

            9
 二月の中旬、流氷が接岸した。
 冬の底冷えが、いちだんと厳しさを増した。昼間から、まるで冷凍庫の中にいるような寒さだった。どの家も、壁に白い霜がびっしりと貼りついている。
 よく晴れた日曜日、僕は流氷原を見るために、海岸まで出かけていった。
 透明に澄み渡った青い空の下に、純白に輝く雪原が遙か彼方まで広がっていた。青い空と白い流氷原が、横に真っ直ぐに伸びた水平線を境に接している。青と白の鮮やかなコントラスト。
 怜子が話していた言葉を思い出し、僕は海辺に接岸した流氷の塊へと歩いて行った。近づくにつれて、ひとつひとつの氷の塊が、でこぼこに重なりあい、激しい力で押し合っている荒々しさが伝わってきた。氷の群れが、海岸に屹立し、海辺に倒れこんできそうな姿勢のまま静止している。
「流氷の写真って、とってもきれいに見えるでしょう。ロマンチックで、幻想的で。でも違うのよ。あれはウソ。流氷って、私の背丈以上もある巨大な氷のかたまりなの。色はちょっと青みがかった灰色で、まるでこの世のものとは思えないほど不気味で、狂おしい力が伝わってくるの。流氷のそばで、そっと耳を澄ませていると、お互いの身を切り刻むギリギリという重苦しい音が聞こえてくるの。まるで、氷の中に閉じ込められている何かが、苦しみもがいているみたい。私ひとりでは、とっても怖くて、流氷には近づけなかったわ」
 それを話してくれたのは、ちょうど真夏の暑い昼下がりに、怜子の部屋でセックスをした後のことだった。
 そこで流氷の話をされても、まったくピンとこなかった。でも、こうして実際に近づいて見てみると、彼女の言いたかったことがよくわかるような気がした。

 その夜、布団に入って目を閉じていると、流氷のさざめきが、闇の彼方から微かに伝わってきた。
 僕は、暗い部屋の中で息を殺し、じっとその音に耳をそばだてた。夜の闇の底で、青白い流氷の群が海の上を揺れている様子が、目に浮かんできた。
 怜子も、冬になるたびに、この流氷の呻き声を聞きながら眠りについたのだろうか。
 すでに自分の未来の死を予感し、暗い人生に怯えながら目を閉じていたのかもしれない。それとも、兄への狂おしい愛に煩悶し、眠れぬ夜を過ごしたのだろうか。
 暗闇に目を凝らし、流氷の囁きを聞きながらそんなことを考えている時だった。玄関の戸をたたく音が聞こえた。僕は部屋の電灯をつけ、玄関に出ていった。
 薫が厚いオーバーを着込み、ボッコ手袋で口許をおおう格好で立っていた。僕の顔を見て、大袈裟に寒そうな表情を浮かべる。
「どうしたんだよ? こんな時間に」と僕は玄関の戸を開けながら薫に訊いた。
「部屋で流氷の音を聞きながら勉強してたら、どうしようもなく夜の流氷が見たくなっちゃったの。でも一人じゃ恐いから池本先生に一緒に行ってもらおうと思って」
「……何、考えてるんだよ。夜中の十二時だよ。高校生の女の子が一人でうろうろする時間じゃないだろう。お母さんが心配するから、すぐ家まで送っていくよ」と、内心腹を立てながら僕は言った。
 薫に玄関の中で待っているように伝えて、僕はすぐに着替えを始めた。しかし、僕が流氷の音を聴きながら怜子の思い出に浸っていたように、薫もまた姉のことを思い出していたのかもしれないと考えると、このまますぐに家に帰らせるのは可哀相な気がしてきた。
 玄関に戻ると、相変わらずにこやかな笑顔の薫が、
「ねえ、先生、今夜の月はとっても綺麗なのよ。夜の流氷を見るにはうってつけの月夜だと思うけどなあ」と残念そうに呟く。
「……よし、わかった。でも、ちょっとだけ見たら、すぐに家に送っていくからね」と、僕はわざと不機嫌を装って答える。
「わあ、先生、ありがとう」と薫は顔を崩して僕に抱きついてきた。
 外に出ると、満月に近い月が、まるで夜空に貼りつけられたように、ひっそりと銀色の澄んだ光を放っていた。
 月光を反射して、雪の表面も、ぼんやりと浮き上がったようなプラチナ色に光り輝いている。
 あたりは静寂の底に眠っていた。車の音も人の声も、何も聞こえない。聞こえるのは、僕たちの雪を踏む足音と、二人の息の音だけだった。
 歩き始めると、寒気のせいで、すぐに耳が痺れるほど痛くなってきた。息を吸うたびに、肺の中に凍りつくような冷たい空気が入ってくる。明日の朝は零下二十度以下になるだろう。
「どうやって家から出てきた?」と、僕は横を歩く薫に訊いた。
「堂々と玄関からよ。ただし、音をたてない秘密のテクニックというのがあるんだけどね」
「そうやって、時々家を抜け出しているんだろう」
「まあね。でも悪いことは何もしてないわよ。まだ純情可憐な、正真正銘の処女ですからね」
 神社の横の狭い道を抜けると、青白い光に輝いている流氷原が眼前いっぱいに広がっていた。青っぽい闇夜の底で、白銀色の流氷が、無数に折り重なりながら遙か地平線まで続いている。
 まるで月世界の表面にでも立っているような錯覚を覚えるほどだった。
 耳を澄ますと、流氷どうしがキリキリと互いの身を削り合っている鈍い叫びが、闇夜の底から響いてくる。
 しばらく息をのんで、僕と薫は、夢幻の世界にみとれていた。
「ねえ寒いわ」と、薫がポツリと呟いた。
「じゃあ、家まで送っていくよ」と、僕は振り向いた。
「ねえ、とっても寒いの。我慢できないくらい」と言いながら、薫の目が、僕をのぞき込むように凝視めていた。薫の瞳の表面に、月の輝きと、流氷原の広がりが青白く映えていた。
 薫が目を閉じる。
 僕は、薫の顔を両手で挟み、自分の唇を薫の唇に重ねた。

 その夜、僕は怜子の夢を見た。
 流氷原の上に広がる満天の星空の中を、天使の羽をつけた怜子が、風に漂っていた。

 

 

            10
 猛吹雪だった。大粒の雪片が、激しい風にあおられて、ホームに立っている僕たちや、駅舎の板張りの壁に容赦なくぶつかってきた。あたりの家も、向こうの林も、白い風にさえぎられて何も見えない。あたりは純白の世界だった。
 せっかくの僕の出発に、この天気はないと思った。五メートル先も見えない猛吹雪は、僕の未来の暗示だろうかと不安に思ってから、こんな弱気では東京の編集者生活などやっていけないと、あわてて自分を戒める。
 ホームに止まっている二輌編成の列車は、さっきから低いエンジン音で唸っていた。
 わざわざ見送りに来てくれたものの、黙ったまま列車のドアの前に突っ立っている薫に、僕は言う。
「三月の末にもなって、こんな吹雪になることがあるんだな」
「仕方がないでしょう。ここは東京じゃないのよ。地の果てなんだもの」と、薫が可笑しそうな顔を浮かべる。
「五月に入ってから、雪が降ったことだってあるわよ」
 僕は、軽く微笑みながら
「信じられないな」と、わざと驚いてみせる。
 それから、しばらく戸惑うような沈黙が漂う。残されたわずかな時間に、お互い何を伝えればいいのだろうか。
「ねえ、後悔していない?」
 僕は、ドキリとして薫の顔を凝視める。薫と会えなくなることは、正直言って淋しい。
「後悔って、何を?」と僕は訊いてみる。
「教員を辞めて、東京へ出ていくことよ」
「後悔するかしないかは、姿勢の問題だと思うんだ。たとえ東京での仕事がうまくいかなくても、後悔しないことに決めたんだ……そういうふうに君が教えてくれた」
 答えながら、僕はもう後悔し始めているような気持ちになる。
 薫は、軽く頷いてから、独り言のように
「なんて言ったらいいのかな……本当は喜ぶべきことなんだろうけど、でも池本先生がいなくなっちゃうと、ちょっとだけ淋しくなるわ」と駅舎を振り返りながら言う。
 真白い世界を背景に、薫の横顔が、とてもすっきりと美しく映えて見える。黒く長い睫毛の先に、雪のかけらが付いている。
 僕は、薫を、とても愛しいと思う。
 薫の横顔を凝視めている自分の気持ちとか、激しく吹きつけてくる雪のようすとか、駅舎の古い建物だとか、ジーゼルエンジンの音だとか、これら全てを、今のままの姿で永遠にとどめておきたいと、僕は哀しいくらい切実に願う。
「また、どこかで会えるさ」と、僕はうそぶいてみせる。
「ねえ、私がシンガー・ソング・ライターでデビューするまで、ちゃんと東京で編集者やってるのよ。有名になったら、池本先生だけにインタビューさせてあげるからね、特別に。独占記事よ」
 薫が、淋しそうな笑顔で、ちょっとだけ笑う。
「あてにしてるよ」
 ホームに発車のベルが鳴る。その音が、切れぎれに吹雪の彼方へと吸い込まれていく。
 僕は、列車のステップに足を乗せる。
「ねえ」と薫の思いつめた声が、背中から聞こえる。
「なに?」と僕は振り返る。
 薫が、僕を恐れる目で凝視めている。何かを迷っているような、怯えているような眼差し。それから意を決して口を開き、
「今でもお姉さんのこと、愛している?」
 僕は、風に揺れる薫の髪を見ていた。
 今では君の方がずっと好きだよと、僕は心の中で呟く。
 僕は微笑を浮かべ、軽く頷いてみせる。
 それを見て、薫が、哀しそうな笑みを浮かべる。
「……ありがとう。お姉さんのこと、いつまでも忘れないでね」と切ない声で、薫が訴える。
 列車のドアが、空気を圧縮する音とともに閉まる。
 ディーゼル・エンジンの音が唸り声をあげ、それから軽いショックとともに、ゆっくりと窓の風景が移動し始める。
 薫が、列車といっしょに歩きながら、肩の上で大きく手を振る。
 僕は、右手を高くかざし、ファイトのポーズをとる。
 だんだんと列車はスピードを上げ、薫の姿はドアの窓から消えていく。そして駅のホームも後方に消え去り、窓は純白の世界に染められる。

 

【帯広市図書館「市民文藝」第37号1997年発行 掲載】