あの夏の輝き、失われても

           1

 開港したばかりの帯広空港に、双発のYS11が飛来したのは、昭和四十年のことだ。
 その時、僕は小学校五年生だった。
 夏休みに入ってすぐに、僕は同じクラスのカズヤ、ヒロシとともに自転車を駆って、空港まで飛行機を見にいくことにした。はやめの昼食をすませ、正午のサイレンとともに、僕らは空港をめざして出発した。
 緑ケ丘の競技場あたりまでは、道路が舗装されていて、ペダルをこぐ足も軽快だった。しかし途中ジャリ道に入ってから、途端にスピードが落ちてしまった。朝から三十度近くもある暑い日で、車が横を通りすぎるたびに土埃が入道雲のように空高く舞いあがり、僕らは汗だくになりながら自転車を押して歩いた。額や首筋、そして背中を汗がとめどなく流れ落ちた。喉はカラカラに渇き、たまらなく水が飲みたかった。
 二時間ほどかかって、ようやく飛行場に着いた。お互いの顔を見ると、土埃のせいでみんなチビ黒サンボのように真っ黒顔で、汗の流れた跡がくっきりと白い線になって浮かんでいた。僕らは、お互いの顔を指さしながら、腹を抱えて笑いこけた。笑いすぎて、目から涙がこぼれてくる。その涙の跡が、さらに白黒のまだら模様を顔に作る。それがまたおかしくて、僕らは息も絶えだえになりながら、芝生の上で身体をよじって笑った。
 ようやく笑いがおさまってから、僕らは、正面玄関横の水道の蛇口で顔や手を洗い、手で水をすくって飲んだ。水道の水は生ぬるく、薬品の味がしたが、僕らはようやく人心地つくことができた。
 あとは芝生の上のベンチにでも座って飛行機が到着するのを待つだけだった。
 でも三十分しても、一時間が過ぎても飛行機は現れなかった。僕らは、かすかなプロペラ音も聞き逃さないようにと、じっと耳をすまして飛行機が現れるのを待った。
 しかし、いつまでたっても飛行機は飛んでこなかった。しかたがなく、誰かに到着の時間でもたずねようと僕たちは建物の正面ドアから待合室の中に入っていった。
 そこに人の気配はまったくなかった。大きなカバンを抱えた旅行者ふうの人達も、テレビで見たことがある細いラインの入った都会的な制服姿の人もいなかった。ただガランとした薄暗く広い部屋が、ひっそりと静まり返っているだけだった。
「どうして誰もいないんだろ?」とヒロシが言った。
「もう、飛行機は飛んでっちゃったんじゃないか?」と僕。
「また飛んでくるって。まさか午前中だけってことはないべや」とカズヤが自信ありげに答える。
「だったら、誰かいてもいいじゃないか。どうして誰もいないんだ?」と、なおも不安そうにヒロシが呟く。
「だいじょうぶだって。そのうち人も集まってくるさ。たぶん、一時間くらいしたらよ」とカズヤ。
「そうだべかなあ……」と僕。
「とにかく、あと一時間くらい待ってみるべや。だいじょうぶ、きっと飛行機は飛んでくるって。まちがいないさ」
「うん……」
 僕たちは、太陽が少しずつ傾きかける中を、外のベンチでさらに二時間ばかり待った。でも、けっきょく飛行機は飛んでこなかった。
 そろそろ家に帰らないと、晩ごはんの時間にまにあわないどころか、家に着くころには陽も暮れてしまいそうで、しかたがなく僕らは空港を出発することにした。すでに夕方の五時を過ぎていた。
 昼に家を出る時のワクワクと高揚していた気分はすっかり冷め、空しい疲れだけがしこりのように体に残っていた。
 ジャリ道を、やってきたときの二倍にも三倍にも重く感じる自転車を押しながら、僕たちは家路についた。お腹はすっかりへり、口を開く元気さえなかった。誰もが無口で、僕たちは長くのびた影を引きずりながら力なく歩いた。理由もなく泣きだしてしまいたいような悲しい気分で、無性に家が恋しかった。
 ようやくジャリ道が終わり、舗装道路にたどり着いたころだった。
「おい、どっからかプロペラの音が聞こえないか?」とヒロシが、突然高い声で叫んで、空をふり仰いだ。
「ウソ言うなって。そんなもん聞こえやしないよ」とカズヤが投げやりに答える。
「ホントだってば、聞こえるって」
 耳を澄ますと、腹に響いてくる低いプロペラ音が、空の高みから微かに伝わってきた。
 僕らは、自転車を歩道にとめて、あたりの空を見回した。
「おい、あそこだ!」と、ヒロシが南の空を指さした。
 あわてて、そちらに視線をむける。ほんのりと薄暗くなりはじめた濃紺の空を、黄金色に輝く細長い物体が、西に向かってゆっくりと高度を下げてくるところだった。
 僕らは誰も声を出さず、ただじっと息をこらしたまま、飛行機の影を目で追いつづけた。
 夕陽を反射して眩しく光る機体は、ゆったりとしたスピードで空を漂いながら、やがて丘の向こう側へと姿を消した。それからしばらくの間、飛行機の重いプロペラ音が僕らの立っている場所まで聞こえていた。
 僕は、細長くのびた滑走路にスピードを落とした飛行機がゆっくりと着陸していく場面を頭の中で思い描いてみた。飛行機が滑走路に着地する時の、車輪と路面とが擦れあう高い音が、かすかに耳の奥に聞こえたような気がした。
 しばらくの間、僕らは何も言わず、飛行機が消えていった丘のあたりをじっと凝視めつづけていた。
 もしもヒロシかカズヤのどちらかが「着陸した飛行機を見に、飛行場へ戻るべや」と言えば、すぐにでも引き返したいくらいだった。
 それほど心残りだった。
 でも、もうじき陽が沈もうとしていて、誰も飛行場に戻ろうなどとは言い出さなかった。
 しばらくした後で、誰ともなく自転車にまたがり、ふたたび僕らは家に向けてペダルを漕ぎはじめた。
 残念で、とても悔しかった。
 またいつか、飛行機を見にこようと心のなかで誓いながら、僕は疲れた足でペダルを踏んだ。

           2

 最初にキャンプをしようと言いだしたのが誰なのか、はっきりと僕は覚えていない。たぶんカズヤかヒロシのどっちかだと思う。
 僕ら三人だけでキャンプをしに出かけたいと母親に頼みこんだ時は、まったく相手にもされなかった。
「何を言ってるの。子供だけでキャンプなんかできるわけないでしょう。どうやって荷物を運ぶのよ。どうやってゴハンを作るのよ。何か事故があったらどうするのよ。ダメよ、そんなバカみたいなこと」といったぐあいだ。
 後で会ってみると、結局三人とも同じようなことを、それぞれの母親から言われたということだった。
「やっぱり無理かあ」と僕はため息をついた。
「でも、そんなに簡単にあきらめられないべ。やってもいいって言ってくれるように、ちょっと計画を変えてみるべや」と、粘り強い性格のカズヤの言葉で、僕らは、大幅に計画を見直すことにした。
 場所は僕の家の裏の空き地。準備、テント作り、火おこし、ゴハンしたく、後かたづけ、全部自分たちの手でおこなう。親の助けは絶対に借りない。何かあったら、すぐに家の親に連絡する。そんなふうに計画を直し、もう一度頼むことにした。
 最初はしぶっていた親から、なんとか許しをもらい、ようやくキャンプにたどり着いたのは、暑い盛りも過ぎ、夏休みもまもなく終わろうとしているころだった。
 その日は朝から天気がよく、高く晴れ渡った青空に、ちぎれ雲があちこちに浮かんでいた。風はほんのりと涼しく、深く息をすうと秋の香りがした。
 昼ゴハンがすんで、すぐに僕たちは家の裏の空き地に集まった。まず初めにしなくてはならい仕事はテントを建てることだった。僕らは、地面に穴を四つ堀り、その上に近くから見つけてきた古い木材を立ててテントの骨組みにした。できあがった骨組みの上からゴザをかぶせ、紐で縛りつけて手製のテントは完成した。
 僕らは嬉しくてしかたながく、ワクワクした気分で、できあがったテントに出たり入ったりした。
 テントができると、次に僕らはテントの横に穴を堀り、そのまわりに大きな石を組んでカマドを作った。
「ねえ、あんたたち、何やってるよの?」
 石を組み直しているところで、背後から声をかけられた。振り返ると、いかにも夏らしい白地に青い水玉模様のワンピースを着たアキコ姉ちゃんが眉間に皺をよせ、ちょっと訝るような目つきで僕らを見下ろしていた。
 『アキコ姉ちゃん』というのは、帯広第一中学校の三年生で、僕らが勉強を教えてもらっている近所の塾の娘だった。
 アキコ姉ちゃんは、目鼻だちのはっきりした酒井和歌子風の美人で、ややつり上がった大きな目が、彼女の勝気な性格をそのまま映していた。曖昧なことが嫌いで、僕らが言葉を濁すような物言いをすると、「男の子ならハッキリしなさいよ」と、すぐに怒るようなところがあった。
 でも、小学生の僕らが勉強している茶の間にぶらりと入ってきては、算数や理科の問題などをていねいに教えてくれる面倒みのよい優しい面もあった。
 僕は、突然のアキコ姉ちゃんの出現と、彼女の白い素肌もあらわで涼しげな姿にドギマギしながら立ち上がり、
「今夜、ここでキャンプするんだ」と、小さな声で答えた。
「キャンプ……こんなところで?」と、彼女は腕をくんだ姿で、横目づかいに僕らが作ったテントを一瞥した。
「これ、あんたたちが作ったの?」
「うん、そうだよ」とヒロシが大きく頷いた。
「これからゴハンを作って、今夜はここに泊まるんだ」と、僕のそばに寄ってきたカズヤが自慢げに答える。
「あんたたち、ゴハンなんか炊けるの?」
「そんなもん簡単さ」とカズヤ。
「ほら、ちゃんとハンゴウだって家から持ってきてるんだぜ」と、ヒロシが、いかにも得意そうな微笑を浮かべて、薄汚れてデコボコにへこんでいる古いハンゴウを指さした。ハンゴウの目盛り通りに米と水を入れれば、僕らにだってちゃんとご飯くらい炊ける筈だという自信があった。
「へえ」と、なかば感心するような、なかばバカにするような口調で、アキコ姉ちゃんが小さく頷く。
「でも、こんなテント、強い風でも吹いたら簡単に吹き飛ばされちゃうんじゃない? それに雨が降ったらすぐに雨もりしちゃいそうよ」
「だいじょうぶだって。雨なんてきっと降らないし、それに少しくらいの風じゃ飛ばされないように頑丈に作ったから」と、カズヤが自信ありげに答える。
「そう……」と、そっけなく答えてから、ふたたびテントをチラリと一瞥する。
「まあ、暗くなったら気をつけたらいいわ。最近、夜になると、このあたりを野良犬が何匹もうろついているから。……それに」
 アキコ姉ちゃんは、フッと呼吸を止めると、すぐ先の帯広川の方へゆっくりと視線を移した。
「ほら、むこうの帯広川で溺れて死んだ女の人の幽霊が、夜中になると助けを求めて、このあたりまでやってくるっていうから、女の人の声が聞こえても絶対にテントからは出ないことね」
 その言葉を聞いたとたん、僕の横に立っていたヒロシが一瞬息を止めた。
「そんな話、聞いたことないよ。ウソだろう?」とカズヤ。
「そうだよ。帯広川で溺れて死んだ女の人の話なんて聞いたことないよ」と、僕もカズヤの反撃についていこうとした。でも頭の中では、すでに夜中にやってくるという女の幽霊が明確なイメージを形作っていた。
「あら、知らなかったの。二年前の大水の時に、水に流されて女の人が死んだじゃない」とアキコ姉ちゃんは、じつにさらりと答えてから、
「じゃあキャンプ、せいぜいがんばってね。夜中に女の幽霊が現れたら、よろしく伝えておいてね」と言ったまま、いかにものんびりとした歩調でどこかへ去っていってしまった。
 アキコ姉ちゃんが姿を消してから、十分くらい、僕らは誰も口を開こうとはしなかった。
「さあ、火をおこそうぜ」というカズヤのかけ声で、僕らは我にかえった。そうだ、こんなことなどしていられないのだ。
 僕らは、なんとか気を取りなおし、石で組んだカマドにタキツケと新聞紙を突っ込んで火をつけ、カマドの上にハンゴウを乗せた。
 誰もが、それぞれの作業に熱中しているふりをしていたが、心の中は『夜中に現れる女の幽霊』のことでいっぱいだった。
 幸いゴハンはメッコめしにはならなかったけれど、逆にオカユのように柔らかくなってしまった。それでも僕らは、誰の手も借りずに自分たちの力だけで炊き上げたゴハンが嬉しくて、それぞれが家から持参してきた『のりたまのふりかけ』やうめぼしなどを載せて、「こりゃあ、うめえ!」などと大声を張り上げながらすぐにたいらげてしまった。
 空き地の端にあるポンプの水を汲みあげて、ハシや皿などを洗っているうちに、あたりに夕闇が降りてきた。
 外が暗くなると、もうすることは何もなかった。僕らは、カマドの残り火に水をかけて火を完全に消し、家から運んできた毛布をテントの中に敷いて、その上に横になった。
 屋根がわりのゴザを降ろしてしまうと、密閉されたテントの中の狭い空間が、帯広の街から果てしもなく遠く、どこか世界の果てにでもきてしまったような気がした。懐中電灯に照らされたお互いの影濃い顔が、昼間とは別人のように不気味に見えた。
「なあ、ウリカリ川の話知ってるか?」と、突然カズヤが、大事な秘密でも打ち明けるかのように声をおとして囁きはじめたとき、僕は、またオバケの話かと思って、内心うんざりした気持ちになった。
「なに、またユウレイの話かあ?」と、ヒロシもいやいやそうに呟いた。
「ちがうってば、大人の男と女の話だ」
「オトナのオトコとオンナ? なんだ、それ」とヒロシが素っ頓狂に高い声をあげる。
「しっ……大きな声出すなって。これだからガキは困るんだよ、なんにも知らないんだから」とカズヤが急に大人びた口調で言う。
「お前ら、どうやって赤ちゃんが生まれてくるか、知ってるか?」
「そりゃあ、母さんのお腹の中からだろう」と、僕は自信満々に答える。
 僕の隣で、ヒロシが「そんなのあたり前だべやあ」と相づちを打つ。
「だからよぉ、その、お腹のどっから出てくるか知ってるかってことだよ」
「そりゃあ、お腹を切って赤ちゃんを取り出すんだ」とヒロシ。
 僕も、そうだと思った。
「アホだなあ。もしそうだったらお母ちゃんのお腹に、手術で切った跡があるだろう。そんなもん、あるか?」
 ヒロシが首を横にふる。僕も首を横にふった。
「だったら、どうやって赤ちゃんがお腹から出てくるんだよ」とヒロシ。
「……いいかあ、よく覚えとけよ。赤ちゃんは女の人のオマンコの穴から出てくるんだぞ」とカズヤが力をこめて呟いた。
 一瞬、言葉を失った。そんなの嘘だと思った。
「まったぁ、そんなの無理だよ。だってオシッコが出てくるちっちゃい穴から、どうやって赤ちゃんが出てくるんだよ?」と、ヒロシも、とうてい信じられないといった口調で訊きかえす。
「オレも、そこんとこは不思議でならないんだけどよお」と、カズヤの返答がしどろもどろになる。
「でも、もしそれがホントだったらよ、赤ちゃんを生んだ後の女の人って、オシッコなんか、がまんできないべや、オシッコの穴が広がりすぎていてよ」とヒロシが考えぶかげに囁く。
 僕は、何に、どう相づちを打っていいものやらわからず、ただカズヤとヒロシの顔を交互に眺めているだけだ。
「……それで、ウリカリ川とオマンコの穴が、どう結びつくんだよ?」とヒロシ。
「いいか、じつはこっからが大事なところなんだ」とカズヤが、さらに声をひそめて、僕とヒロシの顔を見る。
「じゃあ、どうやったら女の人のお腹に赤ちゃんができるか、お前ら知ってるか?」
 僕とヒロシはお互いの顔を凝視めあった。そんなことは、今まで考えたこともなかった。赤ちゃんがほしくなったら、自然に女の人のお腹に赤ちゃんができるものだとばかり考えていた。
「じつはな、男のチンポを、女のオマンコの穴に突っ込んで、赤ちゃんをつくるんだ」
 これは、さらに衝撃的だった。一瞬、頭の中が真っ白になった。
 ヒロシも言葉を失ったまま、目を大きく見開いてカズヤの顔をじっと凝視めていた。
「男のチンポが、女のオマンコの穴になんか入るのか?」しばらくした後で、ようやく我にかえったヒロシが訊いた。
 僕も、同じことを訊いてみたい気持ちだった。オシッコをするため以外にチンポの使い方があるなんて、とうてい信じられなかった。
「うん、間違いない。入る。……いや、べつにオレが自分で確かめたわけじゃないんだけどよ」と、カズヤが真面目くさった顔で答える。
「それで、ウリカリ川の話にいくんだけどよ、あすこの川って畜大のそばを流れてるべ。それで夏になるとな、畜大の学生が女の子を連れていって、ウリカリ川の岸のところで、裸になってヤルらしいんだ」
「ヤルらしいって……?」と僕が訊きかえす。
「だからよ、女のオマンコの穴に、男のチンポを入れるってことだよ」
「川の岸辺でそんなことしてたら、他の人に見られちゃうじゃないか」とヒロシ。
「ウリカリ川をずっと上流のほうにあがっていくと、森になってるんだ。そこの誰も人のいない場所をさがして、畜大の学生が、女とヤルらしい」
 ヒロシがごくりと唾をのんだ。
「でも、そんなことしたら、赤ちゃんができちゃうって、さっき言ったじゃないか。その畜大の学生と女は赤ちゃんを作るためにヤッてるのか?」と、僕は心に浮かんできた疑問をそのまま口に出してみた。
「そこんところがな、じつはオレもはっきりとわからないんだけどよ……でも人の話によるとさ、長い間チンポを入れてると赤ちゃんはできるけど、入れてもすぐに抜くと、赤ちゃんはできないらしいんだ」
「ふうん……」と、僕とヒロシは、カズヤの知識の奥深さに納得のためいきをついた。
「おい、今度、ウリカリ川まで行ってみるか」とヒロシが、思いついたようにポツリと言った。
「そうだ、行ってみるべ」とカズヤの威勢のいい声。
「でも、飛行場よりも遠いんだべ。もういいよ、あんなに遠くまで自転車で行くのは……」と僕は迷いながら答えた。たまらなく興味はあるけれど、あえて行こうという気にはなれなかった。
 僕の言葉で、カズヤもヒロシもだんだんと行く気は失せてしまったようだった。
 テントの屋根を眺めながらぼんやりしていると、男と女の裸体が抱きあっているイメージが頭の中に浮かび上がってきた。急に、わけもなく胸が苦しく切ない気持ちになってきた。
 裸体の女に、ふとアキコ姉ちゃんの顔が重なってくる。水玉模様の白いワンピースからすらりと伸びていた白い腕や足などが色鮮やかに僕の脳裏によみがえってきた。
 アキコ姉ちゃんも、好きな男の人ができたら、自分のオマンコの穴に男のチンポを入れさせたりするんだろうか?
 そんなことを考えていると、鼓動が早まり、さらに息が苦しくなってくる。
 誰も、なにも言わなかった。
 その時だった、テントの中に激しい音が響きわたった。テントの屋根が大きく波うって揺れた。あまりに突然のことで、心臓がとまるかと思うほどほどびっくりした。ヒロシが「うわあぁー!」と大声で叫んで、なおさら驚いた。僕は息をとめたまま、あたりの気配をうかがった。
 外は、強い風が吹き始めているようだった。木の葉や枝がこすれあう音や、トタン屋根がバタバタと風にあおられる音が聞こえてくる。空の灯油缶が風に吹かれてガランガランと高い音を響かせて転がっていく。
 テントの屋根が、ふたたび激しい音とともに大きくあおられたが、今度はそれほど驚かなかった。
 じっと息をひそめていると、風の音にまじって犬のかぼそい鳴き声がどこからか伝わってくる。アキコ姉ちゃんの言っていた野良犬だろうか。
「なんだ風だったのかあ。でもビックリしたなあ」とカズヤが、テント内の緊張しきった雰囲気をやわらげるように、いかにも作った明るい声で言った。
「いやあ、心臓がとまるかとおもったべやぁ」と僕も、わざとおおげさに言ってみる。
 僕は横目でちらりとヒロシをうかがう。ヒロシは、背筋をぴんと伸ばし、正座の姿勢のまま、飛びだすほどに大きく見開いた目で、じっとテントの屋根を凝視めていた。僕らの言葉など、まったく耳に入っていないようだ。
「おい、ユウちゃん。やっぱりウリカリ川、行ってみるべや」とカズヤが僕にむかって声を張りあげる。
「そうだなあ、どうしようかあ。なあ、ヒロシ。ウリカリ川、行ってみるか?」と、僕はヒロシにも誘いの声をかける。
 でもヒロシの反応はない。まるで石膏で固められたようにピクリとも動かない。
 ふたたび風の音がうなる。テントが激しく波うつ。テントの中に空気が凍りついたような静かな緊張感がもどってくる。
 風の音にまじってどこからか地面を擦る乾いた足音が聞こえてきたような気がした。じっと息をひそめて、耳をすます。風が吹いている音ではない。何か物が転がっている音でもなさそうだ。かすかな足音が、まちがいなく僕らのテントに近づいてきている。
 その足音は、テントの出入口のそばまでくると、ぴたりととまった。誰かきたのだろうか。でも、そうだったら声をかけてくるはずだ。
 三人して、持っている懐中電灯の光を、出入口のあたりにむけた。ヒロシが目玉だけをギョロリと動かして、僕とカズヤを交互に見る。カズヤも不安そうな目で、足音が止まったあたりを凝視めていた。
 帯広川で死んだ女の人が、とうとうやって来たのだろうか。以前に映画館で見た『お岩さん』のおぞましい顔が脳裏によみがえってきた。あんな恐ろしい顔をした女の人が、テントの外に立っていたらどうしようか。耳の後ろで、鼓動がドクドクと打っていた。
 遠くから、風の甲高い叫び声が聞こえてくる。
 突然、出入口のゴザが大きくめくれあがった。暗闇の中を、懐中電灯の光を浴びて、白い着物を着た女の人が浮かんでいた。
 心臓が、一瞬とまった。悲鳴も何も出てこなかった。
 暗闇の中で、女の人がニタリと笑った。僕の背筋を、ビリビリと電気が突き抜けていった。もうこれで一巻の終わりだと思った。
「ひゃああぁぁぁ……!」とヒロシが、狂ったような叫び声を上げた。
 ヒロシの悲鳴につられて声を上げそうになった時、その女の人がアキコ姉ちゃんによく似ていることに、ようやく僕は気がついた。
 女の人の顔が、クスリと笑う。
「びっくりしたぁ……?」
 まちがいない。アキコ姉ちゃんの声だ。
 生き返ったような安心感で、ドッと全身から力が抜けていった。腹の底から大きなため息がもれた。
 ヒロシは、まだアキコ姉ちゃんだということがわからないらしいく、両手で顔をおおい、叫び声とも泣き声ともつかない唸り声を発しつづけている。
「おい、アキコ姉ちゃんだよ」とカズヤがヒロシの肩をゆする。でも、ヒロシはいやいやをするように首を大きく左右にふり、激しい声で泣きじゃくっている。
「ちょっとおどかしすぎたかしら……?」と言いながらアキコ姉ちゃんが、ヒロシと僕とカズヤの顔を交互に見る。
「当たり前だよ、やりすぎだよ~」と不満そうなため息を吐いて、カズヤがごろんと毛布の上に横になる。ヒロシの叫び声は、少しずつ弱々しい泣き声にかわってきていた。
「まったく、おどかさないでよぉ」と呟いて、僕も毛布の上に横になった。安心したら、だんだんと腹が立ってきた。
「風もでてきたし、心配になったから、何やってるのかと思って様子を見にきてあげたのよ」とアキコ姉ちゃんがばつの悪そうな顔で呟く。
「オレ……もう家に帰りたいよお」と、ヒロシが、しゃくりあげながら言う。
「そんなこと言わないで、いっしょに泊まってくべや」とカズヤがヒロシの肩をたたく。
「そうだよう。せっかくここまで三人でやってきたのに」と僕。
 ヒロシは大きく肩を振りながら、
「いやだぁ、もう帰るよぉ……」
 僕もカズヤも、ヒロシに家に帰ってほしくなかった。三人いればなんとか寂しさもまぎらわすことができるが、僕とカズヤの二人だけになったら、とても心細くて今夜一晩ここで過ごすことができるかどうか自信がない。
「なあ、泊まっていけよ。だいじょうぶだって。ほんもののユウレイなんて出やしないからさ」とカズヤが、哀願する口調で言う。
「家に帰る……」とヒロシは、首をふりながら立ち上がると、アキコ姉ちゃんを押しのけるようにしてテントの外へ出た。 アキコ姉ちゃんも、とまどった顔つきでヒロシの様子を見ている。
 ヒロシは自分のズック靴を見つけると、何も言わずに暗闇の奥へと駆け出していった。
 僕らは、ヒロシの足音が消えていく闇の彼方を、ぼんやりと眺めていた。
「アキコ姉ちゃんがおどかしたりするから、ヒロシの奴、家に帰っちゃったじゃないか」とカズヤがアキコ姉ちゃんに不満をぶつける。
「そうだよ。どうしてくれるんだよ」と僕も文句を言う。
「……ごめんなさい。こういうスリルもあったほうが楽しいキャンプになるんじゃないかなあって……ちょっと思っただけなんだけどなぁ……」とアキコ姉ちゃんが申し訳なさそうに呟く。
「……どうする。今晩、二人だけでここに泊まる?」と、アキコ姉ちゃんが僕とカズヤの顔を見て訊く。
 その時、強い風が吹いて、近くの物置のトタン屋根が哀しそうな悲鳴を上げた。
 アキコ姉ちゃんが、ビクッと驚いてあたりの闇を見まわした。
「……って言っても無理かなあ……この風じゃあねえ」
 アキコ姉ちゃんは、どうしたらいいか困っている様子だったが、しばらくしてから、意を決するような顔つきに変わると、
「決めた。私もあんたたちと一緒に、ここに泊まってあげるわ。家で着替えてくるからちょっと待っててね」と言いおいて、すぐに姿を消した。
 本当に泊まるつもりなのか、それとも、あれは家に帰るための口実だったのかと考えているうちに、Gパンにはきかえたアキコ姉ちゃんが毛布を抱えて闇の中から戻ってきた。
 テントの中に入ってくると、アキコ姉ちゃんは「ごめんね」と言いながら、僕とカズヤの間に自分の毛布を敷いた。
「なんか狭いテントねえ」
 それまで気にもならなかったが、中学生のアキコ姉ちゃんが入ってくると、確かにテントの屋根は低く、中は狭くて窮屈だった。でも、アキコ姉ちゃんが入ってきたとたんに、華やいだ温かい雰囲気がテントの中に溢れてきた。安心感が、僕らの心にも満ちてくる。ヒロシのかわりにアキコ姉ちゃんがいっしょに泊まるなんて考えてもみなかったけれど、内心はとても嬉しかった。
 強い風が吹いていても、女の幽霊がやってきても、もうこれで安心だと思った。
「さあ、遅いからもう寝るわよ」
 彼女が狭いテントに膝を抱える格好で横になると、彼女の背中とお尻が強く僕の体に押しつけられた。
 ちょっと緊張して腰をずらそうかと考えたが、しばらく迷ってから、僕はそのまま動かさないことにした。
「明日の朝になって目がさめたら、テントの屋根が風に飛ばされてなくなっているかもしれないわね」と、暗闇からアキコ姉ちゃんの声がこえた。
「夜中に、僕らをおいて家に帰らないでよ」と僕が言うと、
「バーカ。そんなことするわけないでしょ」
「夜中に、女の人の幽霊がやってきたら、どうする?」とカズヤ。
「何言ってるの。あれは私が作ったお話に決まってるでしょ。さあ、早く寝なさい」
 外は、相変わらず強い風が吹いていたが、もう僕らはそんなことなどまったく気にもならなかった。
 しばらくすると、闇の奥からカズヤとアキコ姉ちゃんの規則的な寝息が聞こえてきたが、僕は、しばらく眠りにつくことができなかった。
 僕の体に押しつけられているアキコ姉ちゃんのお尻の柔らかな感触のせいもあったし、カズヤから聞いた「男のチンポを女のオマンコの穴に入れる」という衝撃的な話のせいもあった。
 今、僕と体を接して眠っているアキコ姉ちゃんのオマンコの穴に、自分のチンポを入れたらどんな感じがするんだろうか。そんなことを想像していると、体が燃えるように火照ってきて、息は苦しく、ますます目は冴えてくるばかりだった。

          3

 キャンプをした二日後、夏休み最後の日曜日は、地域の盆踊りの日だった。場所は、僕の家から二百メートルと離れていない、帯広川沿いにある永祥寺の広い境内だった。
 境内の中央に櫓が組まれ、その櫓のまわりを二重、三重に輪を作って踊るだけの盆踊りだ。華やかな衣装も仮装もない。子供も大人も普段着か、せいぜいが浴衣姿で踊るだけの質素なものだった。
 でも境内には色とりどりの灯りに照らされた夜店が軒を並べ、僕ら小学生は、盆踊りよりも、親からもらったお小遣いを片手に、夜店めぐりをするのが何よりの楽しみだった。
 僕は早めの夕食をすませると、カズヤやヒロシと誘いあってお寺の境内に集まった。柏の巨木が立ち並ぶ薄暗い境内を囲むように夜店の電灯があたりをぼんやりと照らしていた。まだ踊りが始まる時間には早かったが、すでに夜店のまわりを小学生や中学生の姿がうろつきはじめていた。
 僕らは、わずかな小遣いをできるだけ大事に使うため、夜店の下見をすることにした。
「まず、何する?」とカズヤが、僕とヒロシの顔を見回しながら訊いた。
「オレは、射的をやってみたい」とヒロシがすかさず答える。
「あれはやめといたほうがいい。値段が百円もして高すぎるし、それにコルクの玉が当たっても、的を重くしてなかなか倒れないように細工がしてあるから、景品はもらえないぞ」とカズヤが思案深げに言う。
「ユウちゃんは何をしたい?」
「オレかい?……オレは、まず型抜きからでいいよ。あれは三十円だし、それにたっぷり時間つぶしもできるからな」と僕はじっくりと考えながら答えた。
「よし、まず型抜きから始めるべ」とカズヤ。
「射的は?」とヒロシが不満げに呟く。
「それは、お金があまったら、また後でやればいいって」とカズヤがヒロシをなだめながら、型抜きの夜店へむかって歩きはじめる。
 型抜きの夜店では、すでに何人かの小学生がベニヤ板の台にむかって、虫ピンの先を舐めながら型抜きに熱中していた。台の上につるされた裸電球のまわりには、蛾や小さな虫がたくさん集まって、激しく飛び交っていた。
 僕らは、それぞれ代金を支払って、箱の中から好きな型を選んだ。僕が選んだのは、魚の形をしている単純なものだった。僕は、それまで、まだ一度も型抜きに成功したことがなかった。たいていは半分ぐらいまで進んだところで、動物の足の先とか、尖った角といった細い部分を折って、型抜きに失敗してしまっていた。でも、じっと息を凝らすようにしてピンの先端に全神経を集中し、少しずつ型を抜いていく作業自体は、とても好きだった。
 最初に型抜きに失敗したのは、やはりヒロシだった。取り組み始めてから、まだ五分とたっていなかった。ヒロシは他にすることもなく、僕とカズヤの間にすわりこんで、二人の作業を眺めはじめた。ヒロシにじろじろ見られているかと思うと、虫ピンの先に意識が集中できなかった。でも、どこかよそへ行ってくれとも言えない。まもなくヒロシは、見ることにも飽きてしまうと、「おい、まだ終わらないのかよお」と僕らをせかしはじめた。すると、まもなくカズヤが失敗し、それから二分もしないうちに、今度は僕が魚の胸ヒレを折ってしまった。
 でも楽しいひと時を過ごせてよかったと自分に言い聞かせながら、僕は折れた型抜きのお菓子を口に放り込んで、カリカリと囓った。
 気がつくと、境内はすっかり深い闇に包まれていた。さきほどまで疎らだった人影が、あたりに群れをなすほど集まってきている。
 櫓の上では、着物をきた女の人や、日本手拭いで鉢巻きをした太鼓打ちの男の人が何やら打合せをしている様子だった。まもなく盆踊りが始まるようだ。
 僕らは、次の夜店をさがして、さらに境内の奥へと移動を始めた。
 ふと見ると、太い柏の巨木の影に、紺色の浴衣をまとった見覚えのある女の人の姿が目に映った。闇に目をこらしてよく見ると、それはアキコ姉ちゃんだった。声をかけようかと思った途端、言葉が喉の奥でつまった。アキコ姉ちゃんは、隣に立っている背の高い痩せた男にむかって、楽しそうに笑顔を浮かべ、なにか一生懸命に話をしているところだったからだ。相手の男も、アキコ姉ちゃんの言葉に何度も頷きながら、柔らかい笑みを返している。
 ドキンと心臓が高鳴り、僕は、何か見てはいけないものを見てしまった罪悪感に突然おそわれて、あわてて視線をそらした。
「今度は何にする。射的に行くか?」と横からヒロシの声が聞こえた。
「スマートボールもやってみたいな」とカズヤ。
「よし、スマートボールにするべ」と、僕が声を張り上げて応える。自分の声が、いかにも作られた明るい声音であることに自分で気づき、僕は内心うろたえてしまう。
「射的は、いつになったら行くんだよお?」と、ヒロシがふてくされたように呟く。
「いいから、まずスマートボールに行くべって」と、カズヤがヒロシの肩を組んで闇の奥へ誘う。
 僕は、アキコ姉ちゃんの立っている場所を心の片隅で意識しながら、スマートボールの夜店へむかって歩いた。
 スマートボールは五十円で三ゲームできた。お金を四十過ぎの小母さんに渡すと、木札をくれる。木札一枚で一ゲームできる。打ったボールが穴に一列並ぶと、木札を余計に一枚くれる。並ばなかったら、ゲームをするたびに木札が一枚ずつ減っていくことになる。
 僕は、途中木札を一枚もらっただけだった。カズヤは三ゲームだけで終わった。ヒロシは、何度か列ができて木札を貰っていたが、それでも二十分もしないうちに全員のゲームは終了した。
 櫓の上からリズム感溢れる太鼓の音が響いてきたのは、ちょうどその頃だった。まもなく合いの手の掛け声が入り、それに続いて、「ホッカーイー、メーイーィーブーツ」と北海盆唄の歌声が、スピーカーを通じて境内に大きく響きわたった。
「どうする、踊るか?」と僕は、カズヤとヒロシの二人に訊いた。
 前の年は別な友達と二人で踊りに参加していた。踊りの輪に入る時はけっこう勇気がいるが、いったん踊り始めてしまうと何も気にならなくなる。それどころか踊りの輪の外側から見物している観客が逆にばかみたいに見えてくる。歌声と太鼓のリズムに合わせて手足を動かしていると、体の奥底から爽快な悦びが湧きあがってきて、何時間でも踊り続けていたくなるから不思議だ。
「もうちょっと夜店を回ってからにするべ。まだ始まったばかりだしよ」とカズヤ。
「オレ、踊るのいやだなあ。あんなの面白くないよ。それに、人に見られるの、恥ずかしいしよ」とヒロシ。
「そんなことないって。踊ってるとけっこう楽しいぞ」と僕は、やっきになってヒロシを説得しにかかる。
「まあ、あせることないべ。それに、踊りたくない奴には無理に踊らせることもないしよ。さあ、次はどこへ行く?」
 僕は、ヒロシに踊ることの楽しさを教えてやりたかったが、自分の気持ちは簡単に通じそうになかった。
 僕らは、地面から盛り上がっている柏の根につまずかないように注意しながら、あちこちの夜店を巡り歩いた。
 さきほどアキコ姉ちゃんが男の人と立っていた場所を通りかかったが、二人の姿はもうそこにはなかった。踊りの輪の方へ移動したのか、それとも僕らと同じように夜店回りをしているのか、あるいはどこか二人だけになれる場所に移動したのか、それはわからなかった。あの二人はどういう関係なんだろうかと考えると、哀しいような見捨てられたような侘びい気持ちになってくる。
「おい、お前ら。ちょっと話があるんだけどよ」と声をかけられたのは、オデンでも食べようかと言いながら歩いている時だった。
 最初は、自分たちに声がかけられたということがわからなくて、そのまま通り過ぎようとした。
「おい、話があるって言ってるべや」と僕の右腕が誰かにギュッとつかまれた時になって初めて、自分たちに声がかけられていることに気づいた。
 振り返って見ると、僕よりやや大柄の少年たちが四、五人かたまって、僕を取り囲むように並んでいた。薄暗くてはっきりと顔は判別できなかったが、どこかで会ったことのある連中のようだった。背の高さからみると、たぶん中学二、三年生くらいだ。
 ヒロシとカズヤは、そのまましばらく歩き続けてから、僕が隣にいないことにようやく気づき、僕の方を振り返った。それから驚いた表情を浮かべ、おもむろに僕のところまで戻ってきた。
「なあ、悪いんだけどよぉ、ちょっとお金をかしてくんないかなぁ」と、真ん中の、角刈り頭で体格のがっちりした少年がふざけているような軽い口調で言った。
「オレの親友がさぁ、お金を落としちゃってさぁ、ちょっと困ってるんだよぉ。だから、少しでいいからさぁ、お金かしてくんないかなぁ」と僕の肩に手をおいた。
 いつのまにか、僕ら三人は、彼らにぐるりと取り囲まれる格好になっていた。ヒロシは不安げにあたりを見回したが、大人はみんな盆踊りの輪のほうに移動してしまっているらしく、あたりに助けを求めることができそうな人影はなかった。
 カズヤは、口を一文字に閉じ、やや怒ったような目つきでまわりの少年たちを睨みかえしていた。
 僕は、このままお金を渡してしまった方が、殴られたりするよりずっとましだろうと思った。でも負けず嫌いのカズヤが、そのままおとなしくお金を渡す筈がない。
「今度会った時には必ず返すからさぁ。嘘言わないよ、ホント。誰もそのまま貰ってしまおうなんて言ってないんだからさぁ。なあ、お前ら、証人になってくれるだろう?」
 その少年の言葉を聞いて、まわりに立っている連中が下卑た笑い声をたてながら、「おう、証人になってやるぞ。今度会った時にお金は返すんだよなぁ」と言い、口の中で、クックックと含み笑いを洩らした。
「それで君たち三人いるからさぁ、一人百円ずつ出してもらって、全部で三百円っていうのはどうかなあ。百円っていうのは、ちょうどキリもいいしさぁ、覚えやすい金額だろう?」
 まわりの連中も「おう、そうだなぁ。あったまイイ!」と笑い声を上げる。
 ヒロシは、怯えたような目でまわりを窺いながら、すぐにポケットから財布を取り出そうとした。
「おう、兄ちゃん、話がわかるねえ」と、角刈り頭がヒロシに声をかける。
 僕のサイフには、百円札一枚と十円玉が二、三枚くらいしか残っていないはずだ。百円札を渡せば、もう今夜は何もすることができない。でも、こういう状況では、お金は渡すしかなさそうだった。僕もあきらめてポケットから財布を取り出そうとした。
「ちょっと待てよ」とカズヤが僕とヒロシの行動を制止するように両腕を横に広げた。
 やっぱりきたかと、僕は目の前が真っ暗になるような気持ちになった。もしかすると、殴りあいにでもなって前歯の二、三本くらいは折られるかもしれない。僕は最悪の事態を心の中で思い描いた。
「なんだよう兄ちゃん」と角刈り頭がカズヤにむかって凄んだ声をあげた。
「このまま、黙って金を渡しちゃおうよ」と、僕はカズヤの耳元に小声で囁いた。
「そうだよ、それが一番いいって」と角刈り頭が薄ら笑いを浮かべる。
「オレは、あんたたちが誰だか知らないし、それに知らない奴にお金なんか貸す気なんてないよ」とカズヤが断固とした口調で言い切った。
 僕は、取り出しかけたサイフを、また半ズボンのポケットに戻した。もうこうなったら、腹を決めるしかなかった。
 殴り合いのケンカは、ちょうど二年前にたった一度だけ経験したことがあった。あの時は、顔の腫れがひくのにひと月ちかくかかり、親や学校の先生からさんざん説教され、そのうえ警察にまで連れていかれて「事情聴取」というものも受けたり、さんざんな目にあったのだった。
 僕らを囲んでいた連中が輪をせばめて僕らに接近してくる。角刈り頭がカズヤの胸ぐらをつかんで、「いいのかい、そんな口たたいてさぁ?」と威嚇する口調で呟いた。
 カズヤがギュッと右手の握り拳を作った。
 ヒロシは、すっかり怯えきった弱々しい目つきで、カズヤと角刈り頭の様子を凝視めている。
 僕は、ヒロシをひっつかんでどちらの方向へ逃げてったらいいか、あたりにすばやく視線を走らせた。大声で叫びながら、盆踊りの輪のほうへ逃げていけば、あるいは助かるかもしれなかった。
「ちょっと、あんたたち! そこで何やってるのさ!」と、叫び上げるような鋭い女の声が闇を裂いた。
「お前ら、中学二年生だろう! 小学生相手に、何やってるんだ!」という太い男の声が、その後に続いた。
「やばい! 逃げろ!」というかけ声とともに、僕らを取り囲んでいた連中は、一瞬のうちに夜の闇の奥へと消えていった。
 振り返ると、アキコ姉ちゃんと、さっき柏の木のところで見かけた背の高い男の人が二人並んで駆け寄ってくるところだった。
「何があったの」とアキコ姉ちゃんが、緊張した口調で訊いた。
「お金を貸してくれって言われたんだ」とヒロシが、安心したらしく急にポロポロと涙を流しながら答えた。
「それで、お金とられたの?」
「いや、カズヤがお金は貸せないって言って、それで、まだ渡してはいなかった」と僕も、大きく息をつきながら震える声で答えた。
「知ってる連中なのかい?」と背の高い男の人が訊いた。
「多分、僕らの小学校の卒業生だとは思うけど、暗くて顔はよく見えなかった」とカズヤが俯きながら小さな声で答える。
「とにかく、お金は取られなかったし、何もなかったみたいだから、まずはひと安心ね」と言いながら、アキコ姉ちゃんは、涙を流しているヒロシの背中を軽く叩いた。
「多分、もうあいつらは戻ってこないと思うけど、用心のために君たちは今夜はもう家へ帰ったほうがいいよ」と、男の人が優しい口調で言った。
「そうねえ。私もそうしたほうがいいと思うわ」
「でも……まだ盆踊り、踊っていないよ」と僕は小さな声で呟いた。
「仕方がないじゃない、こんなことになってしまったんだから。もう、あの連中には会いたくないでしょう。盆踊りは、また来年になったら踊ればいいじゃない」
「そうだけど……」と僕。
「私が、みんなを家まで送っていってあげるから、今晩はもう家に帰ろうね」というアキコ姉ちゃんの言葉に従うしかなかった。

 背の高い男の人をお寺の境内に残して、アキコ姉ちゃんが僕ら三人を家まで送っていってくれることになった。遠くから順番にということで、最初にヒロシ、次にカズヤ、そして最後が僕の家だった。
 ヒロシとカズヤの家を回り、最後に僕の家へ向かうまでの間、僕はアキコ姉ちゃんと二人きりになった。
 街灯のほとんど灯っていない薄暗い通りを、僕はアキコ姉ちゃんと並んで歩いた。見上げると、満天の星空が、僕ら二人におおいかぶさってくるように広がっている。ほんのりと頬をなぜて通りすぎる生温かい夜風が、頬に心地よかった。黒々とした家並みの遠くから、風に流されて太鼓の音やら歌声が微かに伝わってきた。ふと、なんとも言えない嬉しさが胸の奥からこみあげてきた。アキコ姉ちゃんの浴衣姿だとか、涼しい音をたてる下駄の音などが、僕の心に柔らかく染みこんでくる。
「盆踊り、踊れなくて残念だったわね。踊るの、好きなの?」
「うん。去年友達と初めて踊って、とても楽しかったから、今年も踊るつもりだったんだ」
「そうだったの。……でも、お金取られたり、殴られたりしなくてよかったわ。森田君が……私と一緒にいた男の人だけど、彼があなたたちのこと見つけてくれたのよ、あすこに集まっている連中、なんか様子が変だって。森田君が気がつかなかったら、今頃大変なことになっていたわね」
「あの人、とても優しそうな人だね。なんか、頼れる兄ちゃんって感じがする」
「……そう思う?」とアキコ姉ちゃんが嬉しそうに答える。
「うん……」
 それから、ちょっとだけ勇気をふりしぼって、次の質問を口に出してみた。
「あの人、アキコ姉ちゃんの恋人?」
「コイビト?……まさかあ、ただのトモダチよ。ただのオトコトモダチ」
「ふうん」と僕は、アキコ姉ちゃんの言葉に信用できないものを感じながら相づちを打った。
「でも、今晩、あの人と二人でいたってこと、うちのお母さんには内緒にしておいてね、お願いよ。ほら、変に誤解されても困るでしょう?」
「うん、わかってるって」
「お母さんには、クラスの女の子といっしょに盆踊りに見に行くって言ってあるのよ」と言いながら、アキコ姉ちゃんは、片目をパチンと閉じた。
 僕は、右手の親指と人指し指で丸を作って、了解の合図を返した。
 気がつくと、僕の家の玄関まで来ていた。アキコ姉ちゃんと二人だけの夢のように楽しいひとときは、もうおしまいだった。
「夏休みは終わりね。明日から、また学校が始まるんでしょう。そしたら、うちにも勉強しに来るのよ」
「わかってるって。火曜日から行くよ」
「そう。じゃあ、さようなら。おやすみなさい」
 アキコ姉ちゃんは軽く微笑んで振り返ると、ふたたびお寺に通じる道を歩いていった。
 境内で待っている、あの森田という男のところに行くんだろうと思うと、自分一人だけが取り残されたようで、ちょっとだけ寂しかった。
 僕は、アキコ姉ちゃんの澄んだ下駄の音が、盆踊りの囃子の歌声に紛れて少しずつ闇の奥に消えていくのを、じっと玄関の前に佇んで聞いていた。

          4

 八月末の、あの激しい雨が降った夕方のことは、何年たっても忘れることができない。あの時、僕の脳裏にやきつけられた情景は、きっと死ぬまで消えることがないだろう。

 夏休みも終わり、毎週火曜日と木曜日の夕方に、僕はアキコ姉ちゃんの家に通い始めた。
 アキコ姉ちゃんのお母さんは、以前小学校の教員をしていた人で、その頃、自分の家の茶の間に近所の子供を何人か集めて、塾のようなものを開いていた。でも塾とは名ばかりで、学校で出された宿題や、次の日の予習などを、それぞれが勝手に教科書やノートを開いてやり、小母さんはそれを傍らから眺めているといった程度のものでしかなかった。自分の力で解けない問題にぶつかったときに、小母さんに尋ねると、やさしい笑みを浮かべながら、問題の解き方をていねいに教えてくれるといった具合だった。
 そんな塾とも呼べないものであったけれど、僕ら小学生にしてみれば、家の中でたった一人で勉強しているよりも、同じ年頃の連中が集まり、時には雑談などしながら勉強しているほうがずっと楽しく、そして集中もできたのだ。
 その日、昼間は雲ひとつなく晴れわたり、真夏を思い出させるほどの暑さだったが、午後の三時ころから急に黒い雲が空をおおってきて、断続的に強い雨が降ったりやんだりしていた。
 まだ四時前だというのに夕暮れのように薄暗い雨模様の中を、僕は傘をさしてアキコ姉ちゃんの家にむかった。狭い玄関から入ると、茶の間にはすでにヒロシと五、六年の女子が三人ほど、座卓の上に教科書やノートを広げて黙って勉強をしていた。あまり勉強が好きではないカズヤは、夏休みが開けてから、まだ一度も顔を出してはいなかった。
 アキコ姉ちゃんが、中学校の白いセーラー服姿で、息を切らすように玄関から飛び込んできたのは、それから間もなくのことだった。顔はバケツの水でも浴びたようにびっしょりと濡れ、三つ編みをして背中まで伸ばした髪や紺色のスカートの先から、雨の滴がしたたり落ちていた。
「失敗しちゃったわあ、傘を持ってけばよかった」と、タオルで顔を拭いながら、アキコ姉ちゃんが茶の間を通り、奥の自分の部屋へと入っていった。
「だから今朝、傘を持って出なさいって言ったのに」と小母さんが苦笑いを浮かべながら奥の部屋に向かって声をかける。
「だって、朝はあんなにいい天気だったのよ。傘なんて持っていったら、友達に笑われちゃうわ」
「でも、そんなにべしょ濡れになるよりは、ましでしょう?」
「そうだけどさあ」
 そんな会話を交わしながら、Gパンとオレンジ色の半袖シャツ姿に着替えて、スッキリした顔のアキコ姉ちゃんが茶の間に戻ってきた。
 そして僕の横にしゃがみ込むと、
「なんの勉強してるの?」と小声で囁くように訊いた。
「算数。この応用問題なんだけど、いくら考えてもさっぱりわからないんだ」と、僕はわざとふてくされたように言った。
 アキコ姉ちゃんは、「どれなの?」と聞きながら、僕の指さした問題にさっと目を通した。それから、この問題は何を尋ねているのかということと、解き方をてきぱきとわかりやすく説明してくれた。
 小母さんに教えてもらうよりも、アキコ姉ちゃんに説明してもらったほうが、ずっとわかりやすかった。
 そのままアキコ姉ちゃんに横にいてもらって、いつまでも教えてもらいたかったけれど、
「悪いけど、夕飯のおかずの買い物に行ってきてくれないかい」という小母さんの言葉で、アキコ姉ちゃんはおもむろに立ち上がった。
「また、戻ってきたら、教えてあげるわね」と言いながら、アキコ姉ちゃんは台所にむかって歩き始めた。
「戻ってくるまで、ちゃんと自分で考えておくのよ」
「うん、わかってるよ」
「そこの買い物籠の中に財布と買い物のメモが入っているから、頼むわね」と、小母さんが、アキコ姉ちゃんに声をかけた。
 アキコ姉ちゃんは、買い物籠の中のメモを確かめると、
「長靴はいて行こうっと」と一人でつぶやきながら、傘を片手に玄関の引き戸を開けた。
 激しく地面を打つ雨だれの音が、茶の間まで響いてきた。窓ガラスの外は、ほとんど夜のように暗かった。
「傘さしていっても、また濡れちゃいそう」というアキコ姉ちゃんの声が、土砂降りの音にまじって微かに聞こえてきた。
「雨が小降りになるのを待ってから、出かけてもいいのよ」と、小母さんが玄関に向かって大きな声で言ったが、もうその時には引き戸が閉じられた後だった。
 僕は、雨垂れの音をぼんやりと聞きながら、次の応用問題を解こうとしていたが、いくら考えても解き方も計算の仕方もさっぱりわからなかった。時間の流れが、重く澱んでいるような奇妙な感覚があった。
  時折、激しい音を立てて、雨粒が屋根や窓にぶつかってきて、静かな茶の間を雨の音で満たした。小母さんや友達の話し声も掻き消されるくらい強い雨粒の音だった。 
 どれくらい時間が過ぎただろう。二十分か三十分くらい経っていただろうか。
「アキコ、ずいぶん遅いわね」と小母さんが、壁のかけ時計を見上げながら何気ない口調でポツリと呟いたときだった。
 玄関の引き戸が激しい力で叩きつけられるように開いた。
「大変だぁ! アキちゃんが車にはねられたぞ!」
 男の太い怒鳴り声が家の中を切り裂いた。
 小母さんは、ハッと緊張した表情を浮かべて立ち上がったかと思うと、次の瞬間には、はだしのまま玄関から雨の中へ飛びだしていた。
 僕たちは、お互いの顔を見合わせてから、あわてて玄関に走り、長靴に足を突っ込んで、小母さんの後ろを雨の中へと駆けだした。
 雨は、小降りになっていた。
 見ると、五十メートルほど先の西二条通りの真ん中に、まばらに人の影が佇み、その横に青っぽい乗用車が止まっていた。小母さんは、もうほとんどその人の輪のところに着こうとしていた。
 僕らも、夢中でその場所にむかって突っ走った。
 近づいていくと、人の輪のすき間から、道路に横たわったアキコ姉ちゃんに、ほとんど抱きつくような格好で、「アキコーッ! アキコーッ!」と必死に叫んでいる小母さんの姿が目に入った。
 仰向けに横たわっているアキコ姉ちゃんの顔は、むこうを向いていて僕からは見えなかった。後頭部のあたりから赤黒い血が流れ出し、オレンジ色のシャツに赤い染みが見る見るうちに広がっていった。腕は力なく横に投げ出され、右足の爪先は、まるで誰かに強い力で捩じ曲げられたかのように逆側を向いていた。
 突然、膝がガクガクと震えだし、僕は立っていられなくなった。鼓動は、まるで太鼓を打ち鳴らすように激しく脈打ち、歯の根がガチガチと鳴った。
 軽い眩暈におそわれて、僕は雨粒の打ちつける道路にそのままペタリとすわりこんでしまった。
「おい、救急車はまだかあ!」と誰かが遠くで怒鳴っていた。
「電話で連絡したから、もうすぐ来るべ」と別な男が切迫した声で答えていた。
 救急車のサイレンは、いつまでたっても聞こえてこなかった。時の流れが、その場所だけコールタールのようにベトリと固まっているみたいだった。
 アキコ姉ちゃんは、頭から赤黒い血を流しつづけ、救急車はいつまでたってもやって来ない。
 まるで悪夢のようなこの場面が、永遠に続いていくような気がしてならなかった。
 そのまま永遠にいつまでも……。

 

【帯広市図書館「市民文藝」第40号2000年発行 掲載】