ヒョー・ヘー・ヒョク

「アンタ、いったいどうしたっていうのよ?」
 妻は、開いたドアから病室に入ってくるなり、ベッドに横たわっている僕の姿を凍りつきそうなほど冷たい視線で一瞥した。
 いったいどこから、どんなふうに説明を始めればいいんだ? 回らぬ思考をめぐらせているうちに、また妻の言葉が飛んできた。
「それで、医者はなんて言ってるのよ?」
「……ヒョー・ヘー・ヒョク……」
 僕は、吐く息とともに、小さな声でかろうじて答えた。
「ヒョ、ヒョウヘー……? まったく何言ってるのよ?全然わかんないじゃない。ちゃんと話しなさいよ」と微かに怒りをこめた口調で、妻が僕の口許に耳を近づけてきた。形のよい耳たぶに青いイヤリングが揺れている。
「ヒョー・ヘー・ヒョク」
 普通の発音に近づくように必死の努力をしながら、一語一語ゆっくりと呟いた。でも、鼻から喉の奥を通って胃まで突っ込まれたビニール管のせいで、きちんとした日本語が喋れない。その上、口を動かす度に、管が喉の奥を刺激して、強い嘔吐感がこみあげてくる。おまけに、下腹部のあたりは、腸がちぎれて飛び出しそうなほど激しい痛みが蠢いている。最悪の事態というのは、まさしく今の僕をさす言葉に違いない。
 こんな悲惨な状況で、ちゃんと喋れというほうが無理な話だ。妻が、いつもにまして地獄の鬼婆に見えてくる。
「ヒョーヘー……何?、もしかして、腸閉塞ってこと?」
 僕は、安堵感に浸りながら、フーッため息を洩らした。
「でも、……だったら、こんな小さい病院に入院しててもしょうがないじゃない。だって、ここ内科でしょ?腸閉塞だったら、腹を切って手術しなくちゃならないんでしょ?」
 妻は、上体をもとに戻しながら、ベッドの上から軽蔑の視線で僕を見下ろした。
 ここまでやってくるんだって死ぬほど大変だったんだぞ。胸の中でそう呟きながら、僕は、これまでの経緯を説明することさえ諦めて、ゆっくりと目をつぶった。 
 
  腹部に異常を覚えたのは、前日の昼過ぎのことだ。昼食を食べた後、普段にはない膨張感を覚えた。その膨張感が、だんだんと鈍い痛みに変わっていったのは、それから三時間くらいが経った頃のことだ。
 もともと胃腸が丈夫ではない僕は、いつもの腹痛程度に思って、ハンドバッグに入れて持ち歩いている消化薬を飲んだ。でも鈍い痛みは、おさまるどころかますます激しい痛みへと変化していった。
  部屋に帰ってから風呂に浸かって腹部を温めた。でも、痛みはいっこうに和らぐ兆しさえ見えなかった。
 こういう非常時の単身赴任者生活ほど情けないものはない。
 妻に電話して、現状を訴えようかとも考えた。でも、どうせ子どもの塾の送り迎えが忙しいとか、こんな真冬の夜道を二時間も車を走らせて来れないという妻のそっけない返事が予想されて、僕は受話器を取りさえしなかった。
 そうこうするうちに痛みはますます激しさを増していった。胃のあたりがもやもやして吐き気まで催してくる。ゲエーと喉の奥まで込み上げてきた物を吐き出さないように手で押さえながらトイレまで這いずっていった。便器に覆いかぶさるなり、胃の奥から消化途中の食べ物が勢いよく飛び出してくる。流れ出た涙と鼻水を掌で拭いながら、再び這って布団まで戻り、息も絶え絶えにエビの形に横たわる。
 そんなことを夜中じゅう何度も繰り返した。早く夜が明けないかとたびたび枕元の置き時計を眺めた。でも、時計の針は接着剤で固めたように、いっこうに進もうとはしなかった。じっと痛みをこらえ、ひたすら夜明けを待った。
 七時過ぎに職場の上司宅に電話を入れ、腹痛で今日は仕事を休ませてほしいと頼んだ。それからすぐに着替えをして家を出た。
 とにかく帯広まで出かけて、どこでもいいから病院に駆け込むつもりだった。腹痛と嘔吐感は相変わらずひどく、車を運転しながら何度も口許を押さえた。背中から額にかけて脂汗がじっとりと滲んでくる。視界が霞み、車が左右にふらつく。センターラインを越えないように必死でハンドルにしがみついていた。帯広の街外れまでたどり着いて、道路沿いに見えた病院の駐車場に、息も絶え絶えの状態で突っ込んだ。

 レントゲンの写真を見るなり、「うーん、どうもこれは腸閉塞だなあ……」と赤ら顔の医者がつまらなそうな口調で呟いた。
「まあ、とりあえずチューブでも入れとくか」という言葉で、すぐに透明なビニールの管が鼻から突っ込まれることになった。
「いいかい? 管を飲み込むようにするんだぞ。そうすれば楽に入るからな」と医者はいとも簡単そうに言う。でも、これがまたすぐには入らない。
 管の細い先端が喉の奥に達する前に、嘔吐感が込み上げてきて喉が塞がってしまう。そうすると、今度は管の先が気管の方へと入っていってしまう。吐き気どころか、窒息しそうで激しく咳き込んでしまう。
 二、三回と失敗を繰り返すうちに、医者がだんだんと怒り始めた。
「君は何をしとるんだ、ちゃんと管を飲み込めと言ってるだろう!」
 そんなこと言ったって、僕だってちゃんと努力してるよ……と涙で潤んだ目で医者を見つめるが、彼の怒りはちっともおさまりそうにない。
 四回目で、ようやく管の先端が食道へと下りていったときには、医者よりも僕の方が安堵したくらいだった。
  看護婦にメモを渡して妻の職場に電話を入れてくれるように頼んだのは、病室のベッドに横になってからだった。

「これから、どうしようかしら?」と妻が眉間にしわを寄せて考え深げに呟いた。
「オマヘニ、マカヘル……」
「とりあえず、医者の話を聞いてくるわ」と言うなり、スリッパの音を響かせて妻は廊下へと消えていった。
 三十分くらいして、妻は元気なさそうな顔つきで病室に戻ってきた。
「できればお腹を切らせたくないんですって…」と戸惑いがちの口調で呟いて、妻は力無く丸イスに腰を下ろした。
「腸がねじれて詰まっている場所の手前まで管を入れて、そこに溜まっている消化液なんかをうまく吸い出すことができれば、自然に腸が開くことがあるんですって。だから、二、三日はこのまま様子を見るって……まあ、医者がそう言うんだから、しばらくはここに入ってるしかないわね」
 あきらめ顔で呟くと、ちょっとタバコを吸ってくるわと言って、妻は再び姿を消した。
 
 妻が病室に戻ってきたのは、日が沈んで外がすっかり暗くなってからだ。
 両腕に大きな買い物袋を下げ、スリッパを高鳴らせながら颯爽とした足取りで妻は開いたドアから入ってきた。
「あなたにパジャマを買おうと思ってデパートに行ったら、とってもデザインのいいワンピースがあったから、ついでに買ってきちゃったわ」
  妻は買い物袋から、僕のパジャマやら洗面道具やらこまごましたものを取り出してロッカーに片付け始めた。
「ホナカ、イタイ……」
「何言ってるかわからないわ、なんだって?」と不満そうに呟いて、妻が耳を寄せてくる。
「ホナカ、イタイ……」
「腸がねじれて詰まってるんだから、痛いのはあたりまえでしょ。しょうがないんだから、ちょっと我慢しなさいよ」
「……ガマン、ヘキナイ」
「我慢できないの?困ったわね」
「ハンゴフ、ヨンデ」
「……わかったわ。看護婦、呼べばいいんでしょ?」
 妻が、枕元のボタンを押して事情を説明すると、ほつれ毛を額に垂らした疲れ顔の看護婦が五分ほどして現れた。彼女は使い捨ての透明な手袋をすると、手早い動作で僕のお尻から座薬を入れた。
「しばらくは、これで様子を見てください。あんまり強い薬を使いたくないんです。これでも痛みが治まらないようだったら、また先生と相談してみますから」
  看護婦は、素っ気ない口調で言うと、また忙しそうに廊下へ姿を消した。
 それから三十分くらいすると、激しい痛みは、ぼんやりとした鈍い痛みへと姿を変えていった。でも、完全に痛みが消えたわけではない。
 妻は、また明日の朝にくるという言葉を残して七時過ぎに帰っていった。
 鈍い痛みは強くなったり弱くなったりを繰り返しながら一晩中続いた。
 じっと息を凝らして、腹の痛みの変化を伺っているうちに、浅いまどろみに何度か陥った。無意識のうちに寝返りをしようと体を動かすたびに鼻の管が喉を刺激して、嘔吐感を覚えた。

 翌日も症状に特別な変化はなかった。
 鼻の管を通って赤黒い液が少しずつ出てくるが、量はそれほど多くはなかった。
 昼前の回診で、医者がビニール袋に溜まった液の量を眺めて、顔を曇らせた。
「どうも管の先が、ちゃんと腸の方まで入っていないのかもしれないな。……少し様子を見て、また入れ直すとするか……」
「ハア……?」と返事をしながら、またあの地獄の苦しみを繰り返すのかと思うと、少々気が重くなった。  
  お腹の痛みは相変わらずひどく、どうしても我慢できなくなったら、看護婦に頼んで座薬を入れてもらった。

「ここの医者はさ、内科では腕が立つって有名なんだけど、専門以外では、あんまり評判がよくないみたいだよ……?」
  隣のベッドの患者が、週刊誌をめくっている僕の妻にそっと声をかけてきたのは午後のことだ。
「俺はさ、実は糖尿病でここに入院してるんだ。運動すれって言われて病院の中を毎日歩いてるんだけど、たいして病気はよくならないしさ、薬も変わるわけじゃないし、本当言えば困ってるんだよ……退院したいって言ったら、あの医者、もう後のことは責任持てんぞって、すぐに怒るしさ……」
「そうなんですか……?」と妻が雑誌から目を上げて、考え深げに答えた。
「ここだけの話だけどさ、アンタの旦那さん、あんまり長いとこ、ここに置いておかないほうがいいんじゃないかなあ……手遅れにならないうちにさ、大きい病院に連れて行った方がいいよ……」
 彼は、あたりを伺いながら囁くように言うと、「さあ、ちょっと歩いてくるかな」と、元気よく病室のドアから出ていった。
「オイ……ホレモ、ソフ、オモフ。ハヤク、シュシュツ、シナヒト、シニソフ……ヒタクテ、モウ、タヘラレナヒ……」 
 しばらく俯いたまま押し黙っていた妻が、「ちょっと先生とこに相談にいってくるわ」と言って、戸惑いがちに病室を出ていった。

「明日、胃カメラを使って、管を胃のもっと奥まで入れてみるって。それで、どうしてもうまくいかなかったら、大きい病院を紹介してくれるって……」
 細い管でさえ、鼻から入れるのに、あんな苦しい思いをしたっていうのに、今度は胃カメラと鼻の管の両方をいっぺんに突っ込む?妻の言葉を聞た途端、目の前が暗くなった。

「いいかい? 肩の力を抜いて、ゆっくりと呼吸をするんだよ。」
 ベテランふうの看護婦が僕の背中から肩を押さえた。医者の方に横向きになったまま、僕は深く息を吸い込んでから口を開いた。マウスピースが口に当てられる。
「それではカメラを入れるからね」
 マウスピースの穴から、カメラの先が喉元に押し入ってくる。ウッと胃の底から吐き気が湧き上がってくる。マウスピースを思い切り噛み、必死で嘔吐感に耐える。
「はい、力を抜いてね。吐き気も我慢するんだよ。喉に力が入ると、カメラが奥に入っていかないからね」
 どうやって吐き気を我慢すれと言うんだ?
グイグイと胃カメラの太い管が押し込まれてくる。そのたびに、激しい嘔吐感に襲われる。苦しくて、目から涙が溢れてくる。
「はい、カメラは胃まで入ったからね。それじゃ、次に鼻から管を入れるよ」
 鼻から細い管が突っ込まれてくる。胃カメラに比べたら、細いだけ楽なような気もするが、苦しさに変わりはない。
 息をするたびに、のどの奥でゼイゼイと掠れた音がする。口からは涎が絶え間なく流れてくる。
「はい、二本とも胃に入ったからね。これからカメラを見ながら、細い管を腸の方に入れていくよ」
 僕は、返事もままならないまま、吐き気と呼吸困難にひたすら耐えているだけだ。
「ううん、なかなかうまく奥に入っていかないなあ……」
 喉の奥を、胃カメラの管とビニールの管が入ったり出たりする。吐き気を我慢するのに、涙は流れっぱなしだ。時間が無限に長く感じられる。早くしてくれと何度も心の中で叫ぶ。
 そうこうしているうちに、喉の奥でビニールの管が絡まりだした。息をするのも苦しい。「はい、少しずつ管が腸の方に入っているからね。もう少しの辛抱だよ」
 看護婦が、口から流れ落ちる涎を何度も拭ってくれる。視界は涙で潤んで何も見えない。
「はい、奥まで入ったよ。それじゃ、胃カメラを抜くからね」
 ゆっくりと胃カメラの管が引き抜かれる。もう少しで全部出るという時のことだった。喉の奥で絡まっていた細いビニールの管が、胃カメラと一緒に、口の外まで五センチばかり飛び出してきた。
 医者が、一瞬息をのんだ。僕の肩を押さえていた看護婦が、「先生…?」と力の抜けた声を上げた。
 寒々とした沈黙があたりに漂っていた。
 医者は、大きなため息を洩らしてから、胃カメラを抜いた。それから「もう鼻の管も抜いていい」という言葉を残して、部屋からさっさと出ていってしまった。
「どうも、失敗だったみたい。ごめんなさいね、さんざん苦しい思いをさせちゃったのに」と、鼻の管を抜きながら看護婦が呟く。
 鼻から管が取れて、僕は久しぶりに大きく深呼吸した。
「……失敗だったんですか?」
「ええ……みたいね」
「これから、どうするんだろう?」
「たぶん、明日、大きい病院に転院することになるんじゃないかしら」
 やっぱり腹切りかと思いながら、僕は、あふれ出た涙を手の甲で拭った。

【十勝毎日新聞 2000年(平成12年)7月23日掲載】