目指せ、地元小説家!

 僕は、十勝の片田舎で小説を書いてる。それで自分の書いたものが、ときどき地元の新聞に載ったりする。

 ただし、僕はプロの小説家じゃない。文芸誌で新人賞を獲ったこともないし、本だって一冊も出してない。

 そんなわけで、肩書きを訊かれた時には、とりあえず「地元小説家です」なんて答えてる。でも「地元小説家」って用語は僕の造語であって、そんなものは辞書に載ってない。

 この言葉の裏側には、しょせん自分は十勝という狭い地域でしか知られてない無名の書き手にすぎないって劣等感が隠れてる。

 と同時に、それでも「オレは小説家の端くれだぞ」って主張したいプライドも微妙に入りまじってたりする。

 僕はこの秋で六十八になる。世間的に言えば前期高齢者ってことだ。だから、この先、どんだけ頑張って小説を書いていこうが、芥川賞や直木賞などとは無縁なまま人生を終えるだろう。そんな諦めも、この「地元小説家」って言葉には、少しだけこめられてる。

 

 僕が初めて小説を書いたのは、今から五十年前、高校生の時だった。

 当時、庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」が芥川賞を取ってベストセラーになっていた。もちろん僕も手に取って読んだ。

 で、ビックリした。なんとお喋り言葉で書かれてるじゃない。小説って、こんなふうに気易い表現で書いていいもんなの? ……って誰かに聞いてみたい気分だった。

 と同時に、思った。「これくらいだったら、オレにも書けるんじゃない?」

 そんな勘違いを抱いたまま、半月くらいかかって十枚ほどの短編小説を仕上げた。

 内容は、ざっとこんな感じ。

 物理の定期テストで赤点を取った「僕」は、すっかりしょげて家に向かう。その途中、道路にしゃがんで泣いてる女の子に遭遇する。(ここは「赤頭巾ちゃん……」の影響かもしれない)何があったのか気になり、迷ったあげく、その子に声をかける。でも、泣きやむ様子は見られない。と、不意に女の子の母親が現れて、「アンタ、この子に何してんの?」と睨まれてしまう。

 どぎまぎした僕は、何も言えないまま、そそくさとその場を立ち去る。家に帰った僕は、自分の善意が認められなかったモヤモヤを晴らそうと、部屋の壁を思いっきり蹴飛ばす。思いがけず激痛が走り、右足の小指は親指くらいの太さに腫れ上がってしまう。

 とまあ、そんなたわいもない話だった。もちろん文体は庄司薫風のお喋り言葉を取り入れた。完成した小説を読み返して、「オレってなかなかヤルじゃん」って自画自賛した。

 翌日、それを友達に読んでもらった。すると開口一番「これ、そのまんま庄司薫じゃん!」ってバカにされた。「でも、まあちょっとは面白いかもな」

 その後、どういう経緯だったか忘れたけど、それが高校の文芸誌に載ることになった。

 そしたらある日、長い髪をした下級生の女子が教室にやって来た。「あの話、感動しちゃいました。なんか身につまされて、他人事だって思えませんでした」なんて言われた。 もちろん僕の心は、三メートルくらいの高みに舞い上がった。ついでに「将来、小説家になるってのもいいかも?」なんて不埒な夢を抱いてしまった。今考えても、背中がザワザワしてくるくらいの愚かさだ。

「人生なんて、そもそも勘違いの積み重ねにすぎない」って誰かが言ってるけど、そんなふうに僕の五十年に渡る勘違い人生は始まってしまった。

 大学生になっても、まだ小説家になる夢は続いてた。ただし四年間に仕上げた小説は、たったの三つだけ。つまり、たいして真剣に考えてたわけじゃないってことだ。

 でも、当人は仕上がった小説を「群像」や「文学界」の新人賞に応募してたんだから、もうこれって笑っちゃうしかない。

 

 さて、僕が文章を書くことに真剣に向きあうようになったのは就職してからのことだ。

 色々な事情の結果、僕は東京・神保町にある、十人ばかりの小さな編集プロダクションに就職した。「マスコミで働いてたら、そのうち小説家になれるかも?」みたいな期待があった。もちろん、それは甘い幻想にすぎなかったんだけど。

 僕が就職した会社は、中学館や学習社から発行されてる月刊誌の一部を下請けで編集してた。

 僕が担当することになったのは、幼児雑誌『げんき』の付録についてる母親向けの別冊だ。六十ページばかりの薄っぺらい冊子だけど、料理、エステ、ファッション、星占い、工芸など、中身はバラエティに富んでた。

 その編集を、三十過ぎのレイコさんって女性編集者の下について行うことになった。レイコさんは、いつも不機嫌そうな顔つきをした、つっけんどんな感じの女性だった。どことなく険のある物腰で、余計なことは話さない。仕事は的確で素早いけど、楽しんでやってるようにも見えない。

 とはいっても僕の上司だ。右も左もわからない僕は、とりあえず彼女の後にくっついて、取材やら写真撮影やら打ち合わせやらに走り回った。

 一週間ほどした頃、「ちょっとこの紹介記事、書いてよ?」と、一枚の写真と商品パンフレットを渡された。見ると、それは文具や化粧品などを入れて持ち運べる小さなポーチだった。そのままテーブルの上に立てて置くこともできるアイディア商品だ。原稿の文字数は六〇〇字ほど。ページの隅っこに載る、ほんの小さな囲み記事だ。

「はい、わかりました」と、僕は張り切って答えた。だって、それは編集者になって初めて任せられた原稿書きだったからだ。

 さっそくレイアウトに合わせて原稿用紙に枠線を書き入れた。それから、パンフレットの説明内容を簡潔にまとめながら文字を埋めていった。

 一時間たらずで記事は仕上がった。読み返してみたが、我ながら要領よくまとめられてる。よし、これでいいだろう。僕は颯爽とした気分で彼女のところへ持ってった。

 彼女は、それを一読するなり、「何よ、これ、ぜんぜんつまんないじゃない! ただパンフレットの中身を要約しただけでしょ? アンタ、大学の課題やってんじゃないんだからね、もっと面白く書きなさいよ!」

 彼女は、不満そうな表情を作って僕を睨むと、その原稿を勢いよく突き返してきた。

「あ、はい……すいませんでした……」

 それ以上、何の言葉も出てこなかった。

 彼女は、僕の存在など忘れたように、また自分の机に向かって原稿を書き始めた。

 仕方なく自分の席に戻り、原稿用紙を机に広げて記事を読み返した。簡潔にポーチを紹介していて、まあまあの出来だ。

 そもそもパンフレットの内容を要約しないで、どうやってポーチの紹介ができるってわけ? それに、たかがポーチごときの紹介で、そんな面白い記事なんて書けるわけないでしょ! ……みたいな言葉が、僕の頭の中をグルグル駆け回ってた。

 どこを、どう書き直したらよいかもわからない。ただぼんやりと原稿用紙を眺めてた。たぶん十分か二十分くらい。

「どうした? なんか困ってる?」

 僕の背中向かいに座ってる三十過ぎの男性編集者が、僕に声をかけてきた。

「ええ……つまんないから書き直すようにって言われたんですが、どこを、どう直したらいいかわかんなくて」

 彼は、立ち上がって僕の机まで来ると、その原稿にざっと目を通した。

「ああ、こりゃあ確かに大学生のレポート文だなあ」と苦笑いを浮かべた。「この冊子ってさ、子育て中の二十代後半から三十代前半くらいの若い女性が読むんだよ。君は、そういう読み手の年代ってものを意識して書いてるかい?」

 読み手のことなんか、まったく考えてなかった。ただ、上手くまとめることしか頭になかった。

「それからさ、こんな小さい記事にだって、起承転結っていう話の展開が必要なんだよ。頭から最後まで、ただポーチの紹介だけ書いてたって、そんなのつまんないだろう?」

 物語は「起承転結」が大切だって、国語の授業で聞いたことがある。でも、こんな記事にも、それって必要なの?

「そんなことを頭に入れて、もう一回、書いてみたらいいんじゃない?」

 僕は、彼にお礼を言ってから、また原稿用紙に枠線を入れ直し、最初から書き始めることにした。

 書いてる途中で、僕にアドバイスしてくれた彼は、取材があるからと外出することになった。出がけに「まあ、焦らないで、ボチボチ頑張ったらいいよ」と声をかけてくれた。

 相談に乗ってもらえる彼がいなくなって、ちょっと心細くなった。でも、まあなんとかなるだろう。僕は気持ちを引き締めて、また原稿用紙に向かった。

 消しては書き、また消しては書き直ししてるうちに、仕上げるのに二時間以上もかかってしまった。

 言葉づかいは子育て中の若い女性を意識した。話の流れみたいなものも工夫してみた。よし、これでいい。レイコさんに見てもらおう。僕は、立ち上がって彼女のところに仕上がったものを持ってった。

 彼女は、面倒くさそうに顔を上げると、僕の差し出した原稿をひっつかんだ。そして一度目はサラリと目を通すように、二度目は、じっくりと考え事をするように読み通した。

「あのさ、さっきより多少はマシになったけど、なんちゅうのかなあ、やっぱし面白くないのよ。カタいっていうのかな。これじゃ、まだ大学のレポートだわ。もっとワクワクしてくる書き方にしてほしいの。これ読むの、ちまたのヤングママなんだからね。わかってる?」

 席に戻って、大きくため息を吐き出した。

 今度こそ、大丈夫だろうって自信があった。これで直せって言われても、もう直すところなんて一つもない。そう思った。

 二十分くらい、何もせずに、じっと机の上の鉛筆立てを眺めてた。

 窓の方に目を向ける。いつの間にか外は暗くなってる。午後から、ずっとこの原稿にかかりっきりなのに、一ミリも前に進んでない。イライラを越えて、ちょっとみじめな気分になってきてた。

 どこから、どんなふううにアプローチすればいいんだろ。なんかわかんない。「ちまたのヤングママ」って言葉だけが、頭の中を回ってる。

 心を決め、書いた原稿を足下のゴミ箱に放り投げた。それからまた新しい原稿用紙を取り出し、枠線を書いた。

 よし、こうなったらポーチの紹介なんてさておいて、ほかの面白い話をでっち上げてみよう。そこに、ちょっとだけポーチの話題を入れる。こうなったら破れかぶれだ。

 ちまたのヤングママが、子どもと一緒にデパートへ買い物に出かける。汗だくになって歩き回ってるうちに化粧が崩れちゃう。ママは、トイレの手洗い場で、自分の娘をあやしつつ、自立するポーチから化粧道具を取り出して、ササッとお色直しをする。

 みたいな話を、面白おかしく作ってみた。

 それを仕上げるのに、さらに三時間くらいかかった。壁の時計を見上げると、もう十一時近くになってた。ふと編集室内を見回すと、彼女の姿はない。僕より先に帰ってしまったみたいだ。

 たったの六〇〇字のために、こんなに悪戦苦闘するなんて、もうやってらんないや。心の中で、そんな悪態を吐きながら、僕も帰り支度を始めた。

 翌朝、出勤した僕は、さっそく昨夜仕上げた原稿を、レイコさんに持って行った。

 こんな笑い話みたいな記事、「何よ、これ? サイアクじゃん!」のひと言で却下されるかも。なかば居直り気分だった。

 彼女は、面倒くさそうに読み始めたけど、途中で少しだけ表情が変わった。読み終わり、もう一度目を通してから、僕を見上げた。

 不機嫌そうな表情が消えていた。

「昨日のより、ずっとマシじゃん。こっちの方がずっと面白いよ」

「あ、……はい、そうですか?」

「ただ、アンタの文って、どうも説明的で、ダラダラしてんのよ。リズム感がないっていうかな、もっと勢いよく書いてよ。話の流れはこのままでいいからさ」

 ちょっとだけ光明が見えてきた。それだけで、むちゃくちゃ嬉しかった。

 それにしてもリズム感って、どうやって出すんだ? それがサッパリわからない。もっと具体的に言ってくれたら嬉しいのに。

 イスに坐って悶々としてると、出社してきた背中向かいの彼に、また声をかけられた。

「どうした? また暗い顔してるな」

 僕は、彼に事の経緯を説明してから、「リズム感って、どうやって出すんですか?」と訊いてみた。

「長い文は使わないこと。修飾語を省いて、短い文を重ねる。そしたら話の流れに勢いがついて、リズム感が出てくるよ」

 ああ、彼の説明ってわかりやすい! 彼女も、そう言ってくれりゃいいのに、くそっ!

 口の中で悪態を吐きながら、さっそく直しに取りかかった。でも、彼女のオーケーが出るまで、さらに二回の書き直しが必要だった。 そんなわけで、全国のヤングママに読まれる予定の記事原稿が仕上がったのは、その日の夕方近くだった。

 

 その会社で僕は三年間、編集者の仕事を続けた。途中、担当が変わって、ティーンエイジャー向けの芸能雑誌に移った。

 すると途端に忙しくなった。午前0時過ぎの終電で帰れるならまだマシ。一週間くらい徹夜が続いて、アパートに帰れないこともしょっちゅうだ。土曜日や日曜日だって、なかなか休めない。それくらい忙しかった。

 もちろん、自分の小説を書く時間なんて、一分たりとも取れなかった。

 そうこうしてるうちに、編集者って仕事に、どことなく虚しさを覚えるようになってきた。僕らが苦労して書き上げた記事は、全国の本屋さんを通して読者の手に届く。でもそれって、ひと月後には、また新しい雑誌に取って変わるだけのことだ。

 僕らは、いったい誰に向かって文章を書いてるんだろう。そんなことを、ふと考えた。すると、薄汚れたドブ川に向けて、せっせと記事を垂れ流してるイメージが、脳裏に湧き上がってきた。腹立たしいような、悲しい気分になった。

 そんなある朝、腹が痛くて目が覚めた。

 しばらく我慢してたが、痛みは激しくなってくる一方。まもなく吐き気を覚えてトイレに駆け込んだ。吐いても吐いても止まらない。吐くものがなくなると、こんどは胃液のような苦い液体がせり上がってきた。

 お腹の痛みは、ますます激しくなってくる。まるで腸がちぎれるような激痛だ。お腹を抱えて布団の上を転げ回った。

 もうそれ以上耐えられなくなり、仕方なく救急車を呼んだ。

 入院して三日後、僕は開腹手術を受けることになった。