びっしょりと汗をかいて目が覚めた。
部屋の中は真っ暗だ。あたりはひっそりと静まりかえり、物音ひとつ聞こえない。
枕元の置時計を見ると、針は午前三時前を指していた。
僕は布団から抜け出し、流しに立ってコップに水を飲んだ。それから布団に戻ったものの、見たばかりの夢が生々しくて、しばらく眠れなかった。
夢の中で、僕は編集部内の自分のデスクに向かって校正作業をしていた。すると編集長の赤井さんがどこからか現れて、僕のイスの横に立った。
「あのな、杉本くん」
人を小馬鹿にするような、いつもの鼻声が聞こえた。
「はい、何ですか?」と、僕は作業の手を休め、赤井編集長を見上げた。
彼は僕を嘲笑する顔つきを浮かべながら、ゆっくりと口を開く。
「この一年間、君の仕事ぶりを見せてもらってきたけど、はっきり言って君は編集者に向いてないな。言われた仕事は、テキパキできるが、それ以上のことができない。つまり君には考える力が足りないってことだ。
編集の仕事で求められるのは、企画力だ。ウチみたいな小さな出版社は、有名な作家の本が出せないから、企画の面白さで本を売らなくちゃならない。
君には、今までいくつか本の企画を出してもらったけど、どれもつまらなかった。
それで、突然の話なんだが、君には今年いっぱいで編集部を抜けて、営業に回ってもらうことにした。さっき社長と相談してそういうことに決めたから。まあよろしく頼むよ」
今年いっぱいで編集部から抜ける?
僕は赤井編集長の言葉がすぐに信じられなくて、彼の顔をポカンと眺めてしまった。
「あの、今まで僕が出してきた企画は、全部ダメだったってことですか?」
「ああ、全部ボツになった。あんなの、どれも売れないよ」
「でも、僕には、何も言ってくれなかったじゃないですか。ダメならダメだって、はっきり言ってもらえたら、また別のを考えました」
「君がもっと他に面白いのを出してくるかと思って、こっちもずっと待ってたんだ。でも、何も出してこなかったじゃないか」
「僕の企画を、検討してくれてるかと思ってたんです」
「とにかく、君の異動は社長と話して、もう決まったことだ。来年から営業に回ってもらう。伝えたぞ」
「待ってください。そんな大事なこと、勝手に決めないでくださいよ。僕は、編集の仕事をするためにこの会社に入ったんです。営業の仕事をするためなんかじゃありません」
赤井編集長は僕の言葉を無視するように、自分の席に戻っていく。
「編集長! ちょっと待ってくださいよ」
僕はイスから立ち上がり、彼の後を追って歩こうとするが、足が動かない。
見ると、僕の両足は泥沼の中に膝上まで埋まっている。足を動かそうともがくほど、僕の体は泥沼の中へと沈んでいく。
「編集長!」
僕は、遠ざかっていく赤井編集長の背中に向かって叫びあげる。
その自分の叫び声に、僕は目を覚ました。
一週間前、赤井編集長に、編集部から営業へと移るように言われた。夢の中の二人のやりとりは、実際に起こった通りだった。
四年半前の春、僕は札幌の大学を卒業して、東京に出てきた。最初の三年は、神保町にある小さな編集プロダクションで働いた。猛烈に忙しい職場で、毎日深夜過ぎまで働いた。入稿間際になると、一週間以上も徹夜が続いた。体が疲弊していくのが、自分でもわかった。
このまま下請けで働いていたら、いつか体を壊してしまう。そう考えた僕は、知り合いのツテを頼って今の出版社に移ることにした。編集部が六人、営業部が三人ばかりの小さな会社だった。でも、もう異常な残業はなかった。出版社で働ける幸せを噛みしめながら精一杯働いた。
僕の主な仕事は季刊SFマンガ誌の編集だった。手が空いてるときは、月刊誌の手伝いをしたり、単行本も担当した。
赤井編集長から、何か売れそうな本の企画を考えるように言われて、七つか八つほど案を出した。
でも、どれも本になることはなかった。
その日の夕方、国鉄吉祥寺駅の北口を出ると、冷たい北風が勢いよく吹きつけてきた。
駅前通りは、ショーウィンドウの明かりや看板灯などが、色鮮やかな光で輝いていた。街のあちこちからは、「ジングルベル」や「ホワイトクリスマス」などのクリスマスソングが聞こえてくる。
もうすぐ今年も終わるんだ。そんな想いにとらわれながら、僕は横断歩道を渡った。
約束の五分ほど前に喫茶店「ノワール」に着いた。店に入っていくと、すでに宮脇さんは、窓際のテーブル席に座ってビールを飲んでいた。ほとんど骨と皮だけの痩せた体つきで、顔色もよくない。まるで青白い幽霊が座っているようにみえる。
宮脇さんは、二十年ほど前、『ガロ』というマンガ誌でデビューし、その独特な画風とシュールなユーモア感覚で、熱狂的なファンを獲得した。
寡作家の彼は、週刊誌などへ活動の場を広げることなく、その後もマンガ専門誌などで地味に創作活動を続けていた。
「早いですね」と声をかけながら、僕は向かいのイスに腰を下ろした。
「マンガが仕上がっちゃうと、もう何もすることがなくてね」と、彼は自嘲するような笑みを浮かべた。それから二、三度空咳を繰り返した。
「カゼですか?」
「もうふた月ほど前から咳がとれなくてね。ぜんぜんよくならないんだ。オレも先が長くないのかもしれないな」
「変な冗談、よしてください」
「いや、べつに冗談じゃないよ。腎臓の方もよくなくてね、今まで週3回の透析だったんだけど、今月から5回に増えることになったんだ。オレの体は、もう限界に来てるのかもしれないな。まあ、ベッドに寝てる時間が長いから、ゆっくりとアイディアを練ることはできるんだけどね」
そう言って、彼は苦笑いを浮かべる。
茶化すことも、笑い飛ばすこともできず、僕はつい口をつぐんで彼の顔を見た。
そんな僕の反応などまったく気にしない仕種で、彼はソファに置いてあった大きな角封筒を僕に差し出した。
「ありがとうございます」と言って、僕は封筒の中からマンガ原稿を取りだし、ざっと目を通した。
作品タイトルは『恋する悪魔』。ある悪魔が、可愛いい女子高校生に恋をして、気持ちを打ち明ける。しかし彼女から、人に悪さをする悪魔なんか好きになれないと拒絶されてしまう。悪魔は、彼女から好きになってもらうため、悪事をやめて、ボランティアなどの善行にいそしむというファンタジックコメディーだった。
作品の感想を交流した後、僕らは一時間ほど、とりとめのない雑談をした。
そろそろ話もつきてきた頃合いを見計らって、僕は宮脇さんに、今年いっぱいで編集部を抜けることになったと伝えた。
「それは残念だなあ、せっかく杉本君と、こんなふうに親しくなれたのに」と、彼はほんとうに残念そうに言ってくれた。
「赤井編集長から、僕は編集の仕事に向いてないって言われました。僕には企画力がないんだそうです」
「赤井さんって完璧主義者だからなあ。たぶん彼の眼鏡にかなう編集者なんて、この業界には一人もいないよ。あの人って小説家やマンガ家の作品にも厳しいんだ。オレも若い頃は、何度も描き直しをさせられたよ」と苦笑まじりに呟いた。
「なんか、編集者としてやってく自信、なくしちゃいました。営業に回れって言われてるんですが、編集の仕事ができないんだったら、会社をやめようかと考えてます」
「ふうん、そうなんだ」と言ったっきり、宮脇さんは押し黙ってしまった。
宮脇さんの顔を見ていた時、ふと今朝の夢のことを思い出した。赤井編集長の後を追おうとしたが、両足が泥沼に沈んでいってしまった夢。べつにそのことを宮脇さんに話すつもりはなかった。でも、笑い話として聞いてもらえたらと思って、つい口を開いた。
「じつは今朝、変な夢を見たんです」
ビールのジョッキを置きながら、宮脇さんは興味深そうな目で僕を見つめた。
僕は、かいつまんで夢の話をしてから、わざと自嘲的に笑った。
宮脇さんは、僕の話が終わると、おもむろに口を開いた。
「小学館や講談社みたいな大出版社は別にして、杉本さんが働いてるような弱小出版社は、どこも赤字ぎりぎりの自転車操業だからね。確かに赤井さんが言うように、売れそうな企画の本も出さないと、やっていけないんだ」
そう言いながら、ジョッキのビールを飲みほした。
「でもさ、赤井さんから編集者に向いてないって言われたからって、べつに落ち込むことなんてないよ。また新しい企画を考えて、赤井さんのところに持っていけばいいんだ。そういう粘り強い気持ちで、もう少し頑張ってみたらどうだろうか」
「でも、年が明けたら営業に回れって言われてるんです」
「彼の言葉を、杓子定規に受け取らないほうがいいよ。編集者としてまだ君に期待する気持ちがあるから、そういう言い方をしたんじゃないかな?」
「そうなんでしょうか?」
「赤井さんだって、一生懸命がんばってる若い人の気持ちが分からないわけじゃないよ」
僕は黙ったままコップの水をゆっくりと飲んだ。宮脇さんの言葉が、胸の奥にじんわりと染みてきた。
「あの、ひとつ訊いてもいいですか?」
宮脇さんは、不思議そうな顔つきで僕を見た。
「なんだい?」
「僕は、宮脇さんが『ガロ』で活躍してた頃からのファンなんです。宮脇さんは、体調を崩したりしながらも、地道に自分のマンガを描き続けてきてますよね。それって、簡単そうで、じつは難しいことじゃないのかなって僕は思うんです。どうして、そんなことができたのか一度訊いてみたかったんです」
彼は、僕の質問を聞くと、可笑しそうに鼻先で笑った。
「オレは有名になるためや、金持ちになるためにマンガを描いてきたわけじゃないんだ。ストーリーを考えたり、絵を描くのが楽しかったから、それでずっと続けてきた。ただそれだけのことなんだ」
そう言うと、じっとテーブルの上を見つめた。
「だから、金なんて稼げなかったし、カミさんにも随分と苦労をかけてしまった」
彼は、コップに残ったビールを飲み干すと、しばらくテーブルの上をぼんやりと眺めていた。
「……時々さ、こんな生き方でよかったんだろうかなって、そんな疑問に捕らわれることもあるよ。オレも、ずいぶん弱気になったもんだ」
言い終えると、宮脇さんは、口の中で小さな笑い声を上げた。でも、笑っている途中で、またコホコホと乾いた咳にかわった。
アパートの部屋に戻ったのは、夜の十二時過ぎだった。
郵便受けに、クリスマスカードが一通入っていた。僕は、それを片手に持ったまま、部屋の隅のガスストーブ前にしゃがみ込んだ。
クリスマスカードは明美からだった。裏面をひっくり返して、丸っこい手書きの文字を目で追った。
「元気ですか? 自分の夢に向かって進んでますか? メリークリスマス!」
札幌の大学を卒業するとき、明美に「東京に出てって、一流の雑誌編集者を目指したい」と伝えた。それから「一人前の編集者になるまで、僕の方からは手紙も電話もしない。君は、僕のことなんか気にしないで、好きに生きてってほしい」と言った。
僕の話を聞くと、明美は哀しそうな笑みを浮かべたまま、何も答えなかった。
僕はあの時、自分の夢を掴むためには、それくらい悲壮な覚悟が必要なんだと考えていた。
あれから四年、今でも十二月になると、明美からクリスマスカードが送られてくる。
編集者失格の烙印を押された今の僕を知ったら、明美はなんて言うだろう。大きな夢を追って札幌から出てきた僕を、愚かなヤツだと嘲笑うだろうか。
いや、もしかすると、明美は今の僕の状況を知ったとしても何も思わないのかもしれない。だいたい、毎年のクリスマスカードだって、ただ儀礼的に送ってきてるだけなのかもしれないのだ。
そんなことを考えていると、不意に、涙がボロボロと流れてきた。
今の自分が、とてつもなくみじめに思えた。
今すぐ飛行機に乗って、明美に会いに行きたかった。東京の生活なんて放り捨て、このまま札幌に逃げて帰りたかった。
もういいんだ、どうせオレは、編集者失格なんだから。
その時、どこからか「ほんとうに、それでいいの?」と、自分に問い返してくる声が聞こえた。「このまま編集者の仕事を諦めてしまって、ほんとうにいいの?」
その呟きは、明美の声のようにも、自分の声のようにも聞こえた。
僕は、涙を拭いながら、何度も深く息を吸い込んだ。
不意に、宮脇さんが僕に語った言葉が蘇ってきた。
『また新しい企画を考えて、赤井さんのところに持っていけばいいんだ。そういう粘り強い気持ちで、もう少し頑張ってみたらどうだろうか』
しばらくのあいだ僕は身動きひとつせず、クリスマスカードをじっと握りしめていた。
今こここで編集業から逃げてしまったら、永遠に逃げ続ける男になってしまうだろう。そうなったら、毎年クリスマスカードを送ってくれる明美にも顔向けできなくなる。
「よし」と、僕は自分に向かってかけ声をかけた。今から単行本の企画を何か考えてみよう。そして明日、出社したら、すぐに赤井編集長のところに持っていこう。こんなものダメだって言われたら、また次の企画を考えることにしよう。
そうやってあきらめずに出し続けていけば、いつか編集長のOKがとれるかもしれない。あきらめないで、その日まで、なんとか頑張ってみよう。
そう自分に言い聞かせると、僕はショルダーバッグからボールペンとノートを取り出した。