君の声が聴こえる場所

              1

「ねえ、若い女の子の匂いがするわ」
 ぼんやりと空を眺めていた妻が、唐突に呟いた。私は、あわてて礼子の横顔へと視線をうつす。手入れのされていない短いボサボサの髪の毛の下で、焦点のあっていない黄色く濁った目が空の一点を凝視めている。          
「どこから?」と、私は内心うろたえながら、木のベンチにならんで座っている礼子に訊きかえす。
「なに言ってるの、あなたからに決まってるじゃない」と、礼子は顔色もかえず、感情のかけた低い声で答える。
「そうかなあ」と私は、わざと肩のあたりの匂いを嗅ぐような素振りをしてみせる。
「最近セックスしたでしょ、若い女の子と」と、礼子はなおも淡々とした口調でつづける。
「匂いでわかるのよ」
 私の脳裏を、いずみの白い肢体が鳩のように通りすぎる。いずみを抱いたのは三日前のことだ。本当に匂いでわかるのだろうか。
「なに言ってるんだよ、そんなことしてるわけないじゃないか」と笑いながら答えたものの、その笑みがこわばっているのが自分でもわかる。
「私なんて簡単にごまかせるって思ってるでしょう? 黙ってれば、気がつきゃしないってね」と、礼子の声はあくまで冷静そのものだ。
「……だから、誰とも、そんなことなんかしてないよ」と私は、しどろもどろになって応える。
「私を、甘く見ないほうがいいわよ。あなたのこと、何でもわかるんだからね。ごまかせるって思ったら大間違いだよ」
 私は、礼子の感情を昂らせないように、とりあえず「うん」と相づちをうってみせる。それから、もう一度、ひそかに礼子の横顔をうかがう。
 彼女の視線は、相変わらず天をむいている。放心しているような力のない目つき。
「ねえねえ、聴こえた?」と、突然、礼子の声がかわる。まるで小学生のような甘えた声音だ。
「何が?」話題がべつのほうへ移っていく気配を感じ、私は、ほっとため息をつく。
「ほら、カッコウの声よ。今日は天気がよくなるわねえ」と、礼子が嬉しそうに微笑む。
 私の耳に、かっこうの鳴き声など聴こえはしない。だいたい、こんな秋のはじめに、かっこうなど鳴きはしないのだ。
 私は、わざとらしくあたりの空を見まわしてみる。
「また聴こえたわ、ほら」と、礼子の目は、生き生きと動きまわる。目つきに異常なほどの生気がこもっている。鈍い光が目の奥でギラつく。ゆっくりと舐めるような視線であたりを見まわしてから、前庭の隅に聳える柏の大木にぴたりと視線がとまる。それから聞こえない音にじっと耳を澄ます。彼女の体が、氷の像のように静止する。
 突然、礼子は、誰かに呼ばれたかのようにすっと立ち上がる。口許が横に大きく伸び、嬉しそうにニタリと微笑む。それから「うん、うん」と何度か大きく頷いて、柏にむかって急ぎ足で歩きはじめる。
 一心不乱な様子でまっすぐ歩いてゆく礼子のうしろを、私は、黙ってついてゆく。色褪せて薄汚れたピンク色のパジャマは、彼女の痩せた体には大きくてダボダボだ。お尻のあたりで、いく筋もの皺が左右に揺れる。
 礼子は、柏に吸いよせられるように勢いよく進んでゆく。
 葉の繁った枝を大きく広げた柏の根元までくると、礼子は唐突に立ちどまり、細めた目で柏の大木の梢をじっと凝視める。
 私は、礼子の斜めうしろに立ち、黙って礼子のしぐさを見ている。彼女が何かに夢中になっている時は、決して邪魔をすべきではない。今、彼女の意識の奥を、発熱したエネルギーが猛スピードでぐるぐると駆け回っているのだ。その回路が、外部から邪魔されようものなら、彼女は半狂乱の獣になって暴れはじめる。
 彼女が入院する前、何度それでひどい目にあったことだろう。頭髪を掴まれて振り回されたり、茶碗やコップを顔に投げつけられたり、パンプスの踵で頭を殴られてことだってある。
 私は、地面に貼りつけられた人の影のように、じっと息を殺して静かに立ちつくしていた。
 五分ほど同じ姿勢で梢を見あげていた後、礼子は突然振りかえると、背中に立っている私にはじめて気づいたように戸惑いの表情をうかべる。見知らぬ他人でも見るようないぶかしい目つきだ。
 しばらくして、口許に嘲るような笑いがふっと浮かぶ。
「……ねえ、私と離婚したいんでしょう?」
 私は、「ううん、そんなことないよ」と首を横にふる。
「ウソ言うんじゃないよ!」と、急に目が険しくなり、私を睨みつける。吐き捨てるような怒りの声音だ。
「ウソじゃないよ」と私はやさしく答える。
「馬鹿にするんじゃないよ! あんたの心が読めないとでも思ってるのかい!」と、礼子は、私に罵声を浴びせかける。
 私は、内心しどろもどろになりながら笑い顔をつくって再び顔を横にふる。
「私は、あんたと離婚しないからね。絶対だよ。わかったかい」
「おまえと別れる気なんてないよ。だから安心しなよ」
 礼子は、しばらく私を睨みつける。それからぷいと振りかえり、病院の玄関にむかって、やや疲れた足どりで歩きはじめる。
 私と礼子を遠くから見まもっていた看護婦が、いつのまにか彼女につき添って歩いている。そして礼子に何か声をかけている。礼子は、じっと前を見たまま歩いていく。看護婦が振りかえり、私に「大丈夫ですよ」という目線を送る。私は、彼女に向かって小さく会釈をかえす。
 私は、礼子が病院の玄関に入っていくまで、その場に立ったまま彼女の後ろ姿を見送る。そして彼女と看護婦の姿が入口のドアの奥に消えたのを確認してから、病院の正門に向かって歩きはじめる。 歩きながら私は空を見上げる。
 遙か彼方まで透明に澄みわたった蒼穹が広がっている。傾きかけた太陽の光が眩しすぎて、私はそっと目を細めてみる。

 

 

              2

 いずみは、私を凝視めようとすると左の目が僅かに外を向く。それは、街ですれ違いざまに彼女の顔を見てもすぐに気づく程度のものだ。いずみの顔立ちは、彫りが深く端正ではあるが、外側に歪んだ彼女の左目のせいで、その均衡は微妙にくずれてしまっている。
 しかしいずみは、彼女自身がその左目のことを気にしている様子を決して他人に見せようとはしない。それは、彼女のプライドでもあろうし、また生き方でもあるのだろう。
 彼女の斜視について、私の方から話題を投げかけたことは、これまで一度もない。二人の会話の流れから、たまたま彼女の斜視のことに話題が及ぶことはある。でもそんな時だって、私は黙って彼女の話に耳を傾け、静かに相づちを打つだけだ。
 礼子の病院を訪れた翌日、私といずみが『CAMEL』というカクテル・バーで落ち合った時、たまたま話題がそんな方へ流れていった。
「人間には、自分よりも弱い立場のものを攻撃しようとする本能があるんだわ」
 いずみは、バイオレット・フィズのグラスを目の前に掲げながら、いつになく強い調子でそう断言した。普段は、そんな厳しい言い方をする娘ではなかった。職場で、何か嫌なことがあったのかもしれない。もちろんアルコールに酔った勢いというのもあったのだろう。
 私は、いずみの右隣にすわり、彼女の右半分の横顔を眺めていた。薄暗い闇に溶け込んだ彼女の横顔の中で、まっすぐ前を凝視めている右目が、燐のような青い光を湛えて揺れていた。
「そうかもしれない」と私は相づちを打った。
「これは生来的に人間に備わっているものなのよ。要するに、人間も獣の仲間にすぎないってことの証よね。そのことを、私は幼稚園に通っていた頃から、いやというほど思い知らされてきたわ。それもこれも、すべてこの左の目のおかげでね」
 そう言うと彼女は、ひと口バイオレット・フィズを啜った。
「面と向かってバカにされたり、からかわれたり、私にわざと聞こえよがしに噂されたり、もうありとあらゆるいじめを受けてきたわ。まだ男の子はいい方よ、私の前ではっきりと言葉に出して言うからね。
 でもその点、女の子っていうのは最悪。さりげなく私を見て、口許にかすかに微笑を浮かべたりするの。判別できないくらいほんのかすかな微笑をね。あれがいちばん私にはこたえたわ。それから、私の前では同情するふうな態度をとっておきながら、他の人の前でさんざん笑い物にするとかね。とにかく女の子の方がずっと陰湿だったわ」
 いずみは、ため息をついてから、目の前に落ちてきた前髪を耳の後ろへかき分けた。
「母親を憎んだこともあるし、もう死んでやろうって何度思ったかしれないわ。ほらここを見て」と、いずみは左手を、私のほうへ差し出す。ほっそりと白い腕が暗いカウンターの上に浮かんだ。
「この手首の傷は、ほんとに刃物で切った跡なのよ。血がドボドボと流れて、このまま死んじゃうんだなあって、あたりまえのことのように思った。それほど痛くはなかったし、これでもう左目のことで苦しまずにすむんだなあって考えたら、ほっと安心したくらいだったわ。小学校五年生の時のことよ」
「どうして手首なんか切ったんだい」と私は小さな声で訊いてみた。
「私がずっと憧れていた男の子が、同じクラスの別の女の子にラブレターを出したって聞いて、自分でもわけがわからないくらい気が動転して、家の包丁で切っちゃったの。そのラブレターを受け取った女の子、いつも陰で私の左目のことを馬鹿にしていた子だったの。でも、その子は女の私から見ても実にチャーミングで可愛いらしかったわ。外見はね。
 だから、それがたまらなく悔しかったの。男の子は、女の子を外見だけで好きになったりするんだなって、今さらのように思い知らされてね。私は、この先、死ぬまで男の子に愛されることなんてないんだって思うと、とても切なかった」
 私は、スコッチの水割りをひとくち飲む。
 しばらく沈黙が続く。気になって、私は自分のグラスから再び視線をいずみの横顔に戻す。
 彼女の右目は、まるで遠くの景色でも眺めるように、正面の壁に並んだボトルの列を見ていた。背後で、若い女の子達の嬌声がざわめく。
 さざ波のような微笑が、ふっといずみの口もとに浮かぶ。白く小さな耳たぶに下がった十字のイヤリングが微かに揺れる。
「でも中学生くらいになって、弱肉強食が人間世界のルールなんだって納得した後は、逆に気持ちが楽になったくらいよ。私だって、いつまでも弱者のままでいないわよって、気持ちを切り替えたの。私という存在を、私の容姿だけで踏みつけにしていた連中を、勉強の面で見返してやろうと決心したの。それしか、この弱肉強食の人間社会で他人にうち勝つ方法はないんだって。それから私、猛烈に勉強を始めたの。睡眠時間を削って必死で勉強したわ。それこそ死に物狂いだった。
 私の成績がどんどん上がっていくと、まわりの人達はとても驚いていたわ。でも、だからといって嫌がらせや、いじめがなくなったってわけじゃないのよ。かえって前よりもひどくなったくらい。私はカンニングをしているっていう噂もたてられたし、学年の共通テストで一番を取った時は、カエルの死骸をかばんの中に入れられたわ。でも、もういっさい何も気にしなかった。私は、とにかく勉強でみんなを見返しやるんだって、それしか頭になかった。……あの頃は友達なんてひとりもいなかったし、きっとまわりの人達は、私のことを、感情のない氷のように冷たい女としか見ていなかったんじゃないかしら……今から考えたら、とっても淋しい人間だったと思うけれど、でもあの頃は必死だったわ」
 いずみは、グラスを振って中の氷を揺らしてから、わずかに残った透明な液体を喉を鳴らして飲み込んだ。
「それからも、毎日のようにいろんな嫌な目にあってきたわ。高校でも大学でもね。ほんと、数えきれないくらいよ。
 学校の先生になろうって決心したのは、教員というのは容姿で差別されない世界だと思ったからなの。そして、それは私の考えた通りだったわ。
 斜視だろうが何だろうが、ちゃんと授業をして、生徒の学力を伸ばして、生活指導もしっかりして、部活動も人並みにやっていれば、生徒だって他の先生方だって校長先生だって私のことを認めてくれる。一人前の教員としてきちんと評価してくれるの」
 そこまでいっきに喋ると、いずみはしばらく口を閉じた。私たちは黙ったまま、カウンターの正面のボトルの棚を眺めた。
 それから、どれくらい時間が過ぎただろう。
 暗い店内にはパーシー・フェースの『恋はみずいろ』が静かに流れていた。
「気持ちは、おさまったかい?」と、先に私が口を開いた。「まるで機関銃のように激しい口調だったよ」
 いずみは、微笑みながら軽く頷いた。
「職場に、ぶん殴ってやりたい男の先生が一人いるの」
「二人いないだけ、まだマシさ」
 いずみは、嬉しそうに笑った。
「嫌な奴がいると、いつもこう考えることにしているんだ。あと百年も経ったら、相手だって、もうとっくの昔に死んでいて、その頃には宇宙の塵みたいになって風に漂っているんだろうって。そう思うと、なんとなく誰だろうと許せそうな気がするんだ」
「……でも、その頃には、私も塵になってるわ」
 いずみはしばらくの間、空になったグラスを凝視めてから、カウンターの男にお代わりを注文した。
「自分の銅像でも建ててから死ねばいいさ」

 

 

              3

 その夜、私はいずみの部屋で彼女を抱いた。
 いずみの斜視は、セックスの最中には、普段よりももっとひどくなる。特にオーガニズムに達する瞬間には、左目が痙攣したように外側を向いてしまう。
 その時のいずみの苦悶に似た表情は、ある意味で醜いとも言えるし、視点を変えれば男の性欲をさらに高ぶらせるほどエロテイックで妖艶だとも言える。
 その夜、ベッドの上で、いずみはいつになく激しい燃え方をした。彼女は白い肉体の内側で私の理解をこえた生き物に変貌した。まるで、さなぎから脱皮しようとする蝶のように狂おしく体をくねらせた。そして、さらに激しく左目を外に向けた。
 セックスが終わり、私たちは脱け殻のように身動きもせずベッドに横たわった。そこには僅かな充足感と、空しさに似た疲労感が漂っていた。
 ふと闇の向こう側に、妻の礼子のぎょろりと大きく見開いた目が急に浮かんできたような気がした。怒りをあらわにした異常なほど真剣な目つき。赤く毛細血管の浮き出た白目。まばたきのしない両目が、闇の奥から私を凝視めていた。
 私は、強く目を閉じてから、ゆっくりと目を開いた。目に映るものは、いつものいずみの部屋の天井でしかなかった。
 気がつくと、朦朧とした意識に、どこか遠くからいずみの声が響いてきた。
「今日ね、じつは街で変な女の人を見かけたの」
「……うん?」と、私はいずみの方へ顔を向ける。
 いずみの右目がまばたきもせず闇の奥を凝視めていた。
「話そうかどうしようか、ずっと迷っていたの。でも、なんか薄気味悪くて」
「また、左目に映った?」と私は訊く。
「そうなの」
 斜視になったいずみの左目には、ときおり普通の人には見えないものが映ることがあるという。例えば、交通事故のあった道路に漂う人の影とか、自殺のあった場所に浮かぶ白い靄のようなものとか、そういうたぐいのものだ。
「……どんな女の人?」と、私は彼女の横顔に声をかける。
「年はよくわからなかったわ。四十歳くらいかしら。髪は男みたいに短くてボサボサだったわ。はっきり見えたわけじゃないから、よくは分からないんだけれど」
「どこで?」と、私は不安な気持ちを抑えながら訊く。
「バスを降りてから『CAMEL』へ行く途中の道でよ。何か私のことをずっと後をつけてきているみたいな感じだった」
「いつものとは違うの?」
「うん」といずみが小さく頷く。
「だから、薄気味悪いのよ。……それで服も変だったの。ちょっとピンクっぽい色で、まるでパジャマみたいにダブついた服だったわ。そしてその女の人、睨みつけるような恐ろしい目つきで私を見ている感じがした」
「……歩いてくる途中、ずっと見えてた?」
「ううん。……ショウ・ウィンドゥのドレスを見ようと思って横を向くでしょう。すると左目に、その女の人の姿がぼんやりと映るの。確かめようと思って後ろを振り返ってみても、両目では見えなかった……そして歩き始めるでしょう。すると、また左目にちらちらと映るの。それも、ぎょろりとしたとても怖い目で私を睨んでいるの。背筋が凍るようなぞっとする目つきだったわ」と、怯える声でいずみが囁いた。
「あんまり気にしないほうがいいよ」
「うん」と答えながら、いずみが私の胸に抱きついてくる。彼女のうすい胸が、私の脇腹に押しつけられる。
 この先、どんなふうにいずみとの関係を保っていったらいいのか、いつものように迷いながら、私は、いずみのひんやりと冷たい体を抱き寄せた。

 

 

              4

 夜の湖に出かけようと思い立った。
 その湖は、街から北へ車で二時間ほど走ったところの、大雪山系の南端に位置している。四方を深い山にかこまれた、周囲十五キロほどの小さな湖で、湖底が青く透けて見えるほど水が澄んでいる。湖岸に立っていると、魚影の群が、鱗をきらめかせて泳いでいるのを眺めることもできる。
 昔、まだ礼子と結婚したばかりの頃、その湖畔のキャンプ場を訪れたことがあった。あの頃は結婚したばかりで、とても幸せだった。テントの中で、礼子を抱いたことも忘れられない思い出だ。
 その湖へ行ってみたいと一度思い立つと、いてもたってもいられなくなった。私は、キャンプのできる道具を車に乗せると、すぐに街を出発した。
 湖畔のキャンプ場に着いたのは陽が沈んだ後だった。西の空には、まだほんのりと淡いピンク色が残っていた。しかし巨大なアカエゾマツの原生林に囲まれたキャンプ場は、すでに深い海の底のような青い闇に沈んでいた。
 私は、湖に近い場所にテントを立て、ガスでお湯を沸かしてから、簡単に作れるインスタント食品を調理した。
 食事が終わると、他にする事は何もなかった。私は、テントの前の芝生に座り、水割りのスコッチを飲みながら、ぼんやりと湖を眺め続けた。
 満月に近い月が、湖面に反射してキラキラと輝いていた。まるで月の光を粉にして、水面にばらまいたような眩しさだった。その水面を、ときおり波紋を立てて魚が跳ねる。
 あたりには四、五張りのテントが立っていたが、ほとんど物音は聞こえてこなかった。時折ひんやりと冷たい風がそよぎ、ザワザワと梢の擦れ合う音があたりの森から湧き上がった。
 月の光にぼんやりと照らされた森の奥から、ボーボーと低いふいごのような音が微かに伝わってくる。シマフクロウの鳴き声だ。夜になると、エサになる魚を求めて湖畔の河口に現れるのだという。つがいになる相手もなく、年老いて死ぬのを待っているだけの哀れな鳥だ。
 私は、病院のベッドに横たわっている礼子や、アパートの部屋にいるいずみのことを思い浮かべ、その間でさまよい揺れている自分自身のことを考えた。決して望んで今の場所に辿りついたわけではなかったが、さりとてこれから行くべき方向も見えてこなかった。
 私は、原生林の森の闇の底で、静かにスコッチを飲み続けた。

  気がつくと、テントの前の暗闇に人影が立っていた。私は、いつのまにか地面に横になって眠っていたようだった。
 薄目を開けて地面から、その人影を見上げる。月の光に照らされた横顔のラインが、暗闇にぼうっと浮かんでいた。まるで内側から発光しているようだ。
 礼子だった。ピンク色の皺だらけのパジャマを着た礼子が、口許に微笑をたたえ、私を見下ろしている。ボサボサの髪形と頬骨が突き出した痩せ方は今の礼子の顔つきだが、顔全体に漂っているやわらかい表情は、若いころの礼子そのままだ。彼女の落ちついた温かい微笑を見るのは、久しぶりのことだった。
 いったいどうしたことなんだろうと私はいぶかしく思った。礼子の病気は治ったんだろうか。そして退院して、ここまでやってきたのだろうか。
「やあ」と私は、地面に横になったまま声をかける。「どうしたんだい?」
 礼子は、私に軽く頷いてから「あなたが呼んだんじゃない」と答える。
「そうだったかなあ」と、私は曖昧に応える。
 礼子は、あたりを見回しながら「なつかしい場所ね」と呟く。
「さっき、僕も思い出していたんだ、昔のことを」
「結婚した次の年だったわよね、ここに来たの」
「君を、テントの中で無理やり抱いたんだ」
「いやだって言ったのに」
「ああ」と私は、相づちを打つ。
「あの頃、毎日が幸せだったわ」
「僕もだよ」
「……ねえ、お願いがあるの」と、ふいに礼子が懇願する口調で言った。
「なに?」
「私のこと、見捨てないでね」
「見捨てる……?」
「退院できないからって、私を見捨てないでね」
「そんなこと、するわけないだろう?」
「私には、あなたしか頼れる人はいないのよ」
「わかってる」
「本当よ」
「だいじょうぶ。君を見捨てたりしないさ」
 急に深い霧がただよってきて、強い眠気が私を襲う。目を開けて、礼子と話し続けようと思うのだが、自然に目が閉じてしまう。
 私は、朦朧とした意識の底なし沼に落ちていった。

 目を開けると、藍色の空がほんのりと白んでくるところだった。暗い空には、まだ星がいくつも輝いていて、山の稜線のあたりに淡い青色が滲んでいた。湖を囲む山は影絵のように黒く、鏡のような水面に黒い山影が逆さまに映っていた。
 凍るような冷気で背中がゾクリと震えた。私のジャケットもオーバーズボンも靴も髪の毛も、朝露でぐっしょりと濡れていた。
 冴え冴えと澄んだ黎明の大気が、あたりをひんやりと包んでいる。鳥の声もシカの声も、風の音も何も聞こえてこない。静寂そのものだ。
「れいこ」と私は、横たわったまま妻の名を呼んでみる。
 かすれた自分の声が、深い森の奥へと吸い込まれてゆく。広大な静寂の中で、私の声はうつろに響く。
「れいこ」と、私は、もう一度声をかける。
 返事はない。
 片手をついて、私は起き上がる。頬を覆う冷気が、凍るように冷たい。
 私は、記憶の痕跡をたどりながら、礼子の立っていたあたりの草むらをしばらく眺めていた。

 

 

              5

「生理が、もう一週間も遅れてるの」
 いずみの感情のない、低い声が受話器から聞こえた。まるで北極からでも電話をかけているような、ひんやりと冷たい声音だ。私が右手に持っている受話器までが凍りつきそうなほどだった。
「今まで、こんなに遅れた事なんてないの」と、相変わらず氷のように冷やかな声が続いた。
「きそうな気配はないのかい?」
「今のところ、全然ないわ」
 私は黙ったまま、いずみの次の言葉を待った。
「病院に行ったほうがいいかしら?」
「……もう少し様子を見てみよう」
「もう少しって?」
「あと四、五日か、一週間くらい」
「もしそれくらい待って、生理がこなかったら?」
「その時は、病院に行くしかないだろう」
「それで、できていたら?」
 ふいに私の口からため息が洩れた。
「私、器具を体の中に入れるなんて絶対にいやよ」
「そんなこと、させないよ」
「だったら、どうしたらいい?」
「……生みたかったら、生めばいいじゃないか」
「他人事みたいな言い方ね。私、片親の子なんて生みたくないの。自分の子どもだけは、平凡で幸せな人生を送らせたいのよ」
「わかってる」
「わかってるって……でも、どうやって子どもを育てるの? たんに養育費を払ってくれるってこと?」
「まだ子どもができているかどうかも分からないんだ。そんなはっきりしたことは言えないよ」
 いずみの、ため息が受話器から伝わってきた。
 しばらくの間、回線が途切れたような静寂が続いた。
「……ごめんなさい。とても不安でたまらないの。これからどうしたらいいわ、分からなくて」
「わかってる」
 再びあたりを沈黙が覆い、その中で私は、氷のようにひんやりと冷たい受話器を握りしめたまま、佇んでいた。
 ふと私の仄暗い脳裏に、いずみと出会った頃のいくつかの場面が色鮮やかに蘇ってきた。

 いずみと出会ったのは、妻が病院に入院して二年ほど過ぎた頃のことだ。
 ある日曜日の午後、私は近くのショッピング・センターへ買い物に出かけた。食料品の紙袋を下げて車の所に戻ってみると、オレンジ色のTシャツにぴったりした白いミニスカートをはいた若い女の子が、何か困った様子で、私の車の脇に立っていた。私の姿を認めると、まるで哀願でもするような切実な声音で、車のドアに傷をつけてしまった謝罪をしはじめた。自分の車を出すときに、私の車の横を擦ってしまったのだという。見るとたいした傷ではなかった。
 それくらい構わないと私は答えたのだが、彼女は、修理代を払わせてほしいと言って譲らなかった。
 その時、私はまだいずみの斜視に気づかなかった。
 気がついたのは、二度目に会った時のことだ。
 喫茶店のテーブルに向かい合って座った時、私は、微かに意識にひっかかる違和感に捉えられた。その違和感をたどっていくと、そこにいずみの左目があった。
 彼女は左の黒目は、ほんの少しだけ外側へ向けられていた。色白で彫りが深く、鼻筋もしっかりと通った端正ないずみの顔は、その左目のために顔の均衡が微妙に崩れていた。
 でも、いずみの表情や口調は、まるで若い雌鹿のように躍動的で輝くばかりの生気に溢れていた。それをどのように例えればいいのだろう。白い画布に真っ直ぐに線を引いた力強さ、とでも言えばいいのだろうか。そんな彼女の輝くばかりのエネルギーが、私の心を魅惑した。私は、しばらくの間忘れかけていた心の揺れを感じはじめていた。

 

             6

「病院に行ってきたの……」
 その夜、『CAMEL』はとても混んでいた。結婚式から流れてきた若い男女のグループが声高に笑ったり叫んだりして、いずみの囁くような声はほとんど聞き取れなかった。
「で、どうだった?」と、私はいずみの右の耳に向かって声をかけた。
 いずみは、テーブルの上のオレンジ・ジュースをずっと凝視めたまま、視線を私の方へむけようともしない。
「……妊娠していたわ」と、いずみは自分の言葉に戸惑っているように答えた。
 いずみの言葉をもう一度確かめたくて顔を上げたが、彼女の深刻そうな目つきに、私は開きかけた口を閉じる。それから、テーブルのグラスを持ち上げ、水割りのスコッチを啜る。
「もう二ヵ月なんですって」
 私は、黙ったまま右手に持ったグラスを見ている。
「年取った看護婦さんに、『もちろん生むんですよね』って訊かれて、すぐに答えられなかった。……そんな自分が情けなかったわ」
 気づかないうちに、私は大きなため息をついている。
 私は、手に持ったグラスから冷たい液体を喉に流し込んだ。それからゆっくりと口を開いた。
「生めばいいじゃないか。僕が礼子と別れれば、それで済むことだ。……毎年、礼子のお姉さんという人から年賀状がくるんだ。長野のほうに嫁いでいって酒屋のおかみさんをしている人なんだけれど、その人の年賀状に、礼子を引き取ってむこうの病院で面倒をみてもいいから、いつ別れてくれても構わないって、いつもそう書いてあるんだ。今が、ちょうどいい機会かもしれない」
 いずみは、カウンターの奥のボトルの棚を眺めている。
 背中のテーブルで、大きな笑いが湧き起こる。狭い部屋の中に、笑い声が充満する。
「もちろんそうしてもらえれば、私はとっても嬉しいわ。でもあなた、本当に心から納得して、そんな事できるの? 奥さんをお姉さんに預けてしまって、それで後悔しない?」
「わからない。後悔するかもしれないし、しないかもしれない」
 いずみは何も言わず、オレンジ・ジュースのストローを右手の親指と人指し指でつまんだり折ったりした。
「どちらも手離したくない?」
「もちろん君も子どもも手に入れたい。僕だって温かな家庭っていうものがほしい。でも礼子も簡単に見捨てることはできない。十年以上も一緒にやってきたんだ。哀れな女だけれど、昔は愛していた……そんなに簡単には割り切れることじゃない」
「どうしても私の方を選んでって頼んだら?」
 私は手に持ったグラスの氷をゆっくりと揺らした。氷の表面が、滑らかな琥珀色に輝いていた。
「いいよ、そうしよう」
 いずみは、口の中で乾いた笑い声をたててから、カウンターの上に両肘をつき、両手で顔を覆った。そして、そのままの姿勢で口を開いた。
「私が、あきらめればいいのかしら。子どもを堕ろせば、それですべて元通りになるのかしら」
「子どもは生んでほしい」
「奥さんを見捨てるの?」
「仕方がない」
「私って、虫のいい話をしているのかしら」
「そんなことないよ」
「私、幸せな家庭を手に入れたいの。生まれてから今まで、悪いことばっかりだった。だから幸せになりたいのよ」
「わかってる」
「人並みの幸せをつかみたいの」
「だから、そうしようって言ってる」
「私、あなたを苦しめてるわね」
「自分の蒔いた種なんだ。君のせいじゃないよ」
「あなたに奥さんを見捨てさせて、それで一緒に家庭を作っても、私、幸せになれるかしら。死ぬまで後悔しそうだわ」
 私もいずみも黙ったまま、カウンターの上の暗がりを見ていた。

 

             7

 低く垂れ込めた黒い雲から、冷やかな雨が大地に降り注いでいた。すっかり茶褐色に変色した草花の茎や葉が、雨をたっぷりと吸い込んで泥まみれの地面に横たわっていた。病院の正面の庭には、小さな水溜まりがあちこちにでき、水面を細かな波紋が絶え間なく広がっていた。
 広い食堂のホールのテーブルに向かい合って、私と礼子は外の景色を眺めるともなく見ていた。道路の向こう側に広がる黒土の畑は雨に濡れて表面が青白く光っている。さえざえとした冷たい輝きだ。永い冬を前にして、世界の全てが体を横たえ、ひっそりと息をひそめ、冬眠に入ろうとしているようだった。大地も草も木も、そして雨や雲や大気までが。
「最近、色々考えてることがあってね」と、私の話など聞く様子も見せない礼子に向かって、私は言葉を紡ぐ。
「礼子にとって、どんなことが一番幸せなんだろうってさ」
 それから私は、一度息を吐いた。
「こうやって北海道の田舎の病院に入っていることがいいことなのか。でもここは施設も充分じゃないし、優秀な先生がそろっているわけでもないしね……ほら、長野に嫁いでいった君の姉さんがいただろう。彼女がね、長野の大きな病院で、一度君を診てもらったらいいんじゃないかって言ってきてるんだ。腕の立つ立派な先生がいて、君のような病気を治すのがとても上手いんだそうだ」
 礼子が、外を眺めたまま、ふいに首を大きく振った。何か喋りそうな気配を感じて、私は口を閉じた。
 礼子は、左の手で頭の髪を激しく撫でつけるような仕種をしてから、ゆっくりと自分の目の前に掌を移動し、静かに開いたり閉じたりした。それから再び手を降ろして、外の景色に視線を移した。
 私は、しばらくの間をおいて口を開いた。
「……診てもらうだけでも、いちど向こうに行ってみたらどうだろうか? 君の姉さんも、君のこと、とても心配しているんだ。調子がよくなったら、またこっち戻ってくればいいんだし」
 再び礼子が、機械のようなぎこちない動作で首を横に振る。
「嫌かい?」
 礼子が、ゆっくりと頷く。
「嫌だったら、無理に勧めないよ。ただ僕私は、君にとってどうすることが一番いいことなんだろうかって考えているだけだから。このままここにいても、病気がよくならないようだったら、それは君にとっても不幸なことなのかなあって……」
「ウー・ソー……」と、礼子の口から、低く獣のような呻き声が伝ってきた。
 それから起こった出来事については、実は鮮明な記憶というものが、私にはない。それは、あまりに突然のことだったからだ。
 外を眺めていた礼子が、ゆっくりと私へ顔を向けた。その顔には、気味の悪いほどの大きな笑いがペタリと貼りついていた。口許は『口裂け女』のように両側に大きく吊り上がり、狂おしいほどの憎悪を湛えた黒い両目が私を睨んでいた。
「ウー・ソー・ツー……」と、再び礼子の腹から湧き上がるような低い声が聞こえた。礼子が何を言おうとしているのか、私にはまだわからなかった。
 私は、得体のしれない恐怖に捕らわれて立ち上がろうとしたが、腰のあたりが痺れたようですぐに動けなかった。
 私に向かって不気味な笑いを浮かべたまま礼子が腰を上げたと思った瞬間、彼女の右手が私の頭上に向かって振り降ろされた。銀色にキラリと輝くものを認めて、私はかろうじて頭を右へ傾けた。
 気がつくと、私の左の首筋にフォークが突き立って、ススキの穂のように左右に揺れていた。痛みは全く感じなかった。
 目の前の礼子の狂った笑みが、異常に間近に迫っていた。彼女の息が顔に届くほどの距離だ。目の奥でギラギラと脂ぎった光が異様な雰囲気を帯びて燃えていた。
 右手で、左首に刺さったフォークを抜くと、赤い液体が肩先まで飛んだ。
 それから「誰か……」と声を出しながら、立ち上がって後ずさったような気がする。白い服を着た何人かの姿が大きな声を張り上げながら、テーブルやイスを蹴飛ばして目の前に走りこんできたような記憶がある。でも、そのあたりのことは定かではない。
 再び「ウ・ソ・ツ・キ!」という獣の叫び声が食堂内に響きわたった。礼子はニタニタと不気味な笑みを残したまま、両脇から看護師に抱き抱えられて歩き去った。
 礼子の姿が消えると、急に激痛が差し込んできた。見るとトレーナーの肩のあたりが鮮血で真っ赤に染まっていた。
 私は、右手で左の首筋を押さえながら、礼子の最後の言葉を口の中で繰り返していた。
『う、そ、つ、き』
 ……確かに私は嘘をついた。

 

              8

 傷は、思ったほど深くはなく、二針ほど縫うだけで済んだ。フォークの先がそれほど尖っていなかったのと、動脈をはずれたのが幸いしたのだろう。
 病院の院長だという白髪頭の男と、礼子の担当医だという三十代前半の若い医者が菓子折りを持って私のアパートまで謝罪にやってきた。フォークやナイフなどの鋭利な物の管理については最善の注意を払っていたつもりだが、このような事になって大変申し訳ないと二人で頭を下げた。
 私は、こんな事件を起こしたからといって礼子を独居房のような部屋に閉じ込めないでもらいたいと二人に頼んだ。今度のことは、病院の管理体制のせいだとは考えていないと私は言った。
 二人は、礼子の件は充分に理解していると答えて、何度も頭を下げながら帰っていった。

 いずみとの連絡がとれなくなったのは、ちょうど同じ頃だった。 彼女の部屋に何度電話をかけても誰も出なかった。一週間ずっと電話をかけ続けたが、ついにいずみは電話口に出なかった。何度か彼女のマンションまで車で出かけてもみたが、彼女の部屋に明かりが灯っていることはなかった。
 暗闇に閉ざされたいずみの部屋の窓を見上げながら、舗道の脇に立って私はタバコを吸った。
 肌に突き刺さってくる冷たい風の中で、私は自分ひとりだけが世界の果てに取り残されてしまったような気がした。
 そんな一週間が過ぎ、私は思い切って彼女が勤務している学校へ電話を掛けてみることにした。いずみとの約束で、お互いの職場にだけは絶対に電話をしないという禁を破ったわけだった。
 でも電話口にでた男は、彼女は病気で十日ほど休んでいるとしか教えてはくれようとはしなかった。
「いくら電話をかけても、誰も出ないんです。どこかの病院にでも入院してるんでしょうか?」と私は訊いてみた。
「さあ」
「どんな病気かは、ご存じでしょうか?」と再び尋ねてみる。
「あんた、野沢先生とどんな関係かは知らないけど、こっちもそんなプライベートなこと、べらべらと喋る訳にはいかないんだよ」
 そう言われると、返す言葉はなかった。
「ところであんた、野沢先生とどういう関係なの?」
「親しくさせていただいている友人です」
「親しくしている友人だったら、そのうち野沢先生の方から連絡がいくんじゃないかい?」
「そうかもしれないですね」
 丁寧にお礼を述べて、私はすぐに受話器を置いた。
 いずみも、彼女のお腹の子どものことも気掛かりだった。もしも、いずみが子どもを生めば、それは三十六の私にとっても初めての子どもになる筈だった。
 他の誰かに尋ねる術もなく、私はいずみからの連絡をひたすら待ち続けた。

 

 

              9

 街に初雪が舞った。
 黒い舗道の表面を白いベールがうっすらと覆った。舗道脇の自転車やゴミバケツや看板や、街路樹の痩せたライラックの枝にも、白く細かな雪片が塵のようにつもった。黒ずんでいた街が、時の経過とともに白く染められていった。
 夕方から降りはじめた雪は、夜になっても静謐なたたずまいで落ちつづけた。街を歩く人は、戸惑いと怯えと、僅かばかりの喜びを含んだ複雑な表情で足早に歩いていた。
『CAMEL』の店内には、ひんやりと冷たい空気がこもっていた。暖房が効いている筈なのに、冷気が足元や壁や床から湧き上がってきて、まるで大型冷凍庫にでも閉じこめられているみたいだ。
 その場所に私を呼び出したのは、いずみの方だった。前日の夜に、私の部屋に電話をかけてきたのだ。彼女と連絡が取れなくなってから三週間あまりが過ぎていた。
 彼女は、電話口に出た私に何の質問もさせず、ただ翌日の夜に『CAMEL』に来るようにだけ伝えると、一方的に電話を切ってしまったのだ。
 その夜、いずみは黒いなめし皮のコートと、体にぴったりとしたカシミアのセーターに厚いコットン地のスカートを纏って現れた。 真っすぐな黒い髪に乗っていた雪の粉は、スツールに座ると同時にすぐに融けて、彼女の髪を濡らした。
「どこに行ってた?」と、彼女が隣に腰を下ろすと同時に、私は訊いた。
「学校にも電話したんだ。君のことが心配で」
「せっかちな人ね。先に飲み物くらい注文させてよ」と、いずみは私の言葉を無視するように、わざと落ちついた口調で応えた。
 いずみはカウンターの若い男にオレンジ・ジュースを頼むと、喉をならしてグラスの水を一息に飲んだ。
「ちょっと旅行に行ってたの」
「学校では、病気で休んでいるって言ってたよ」
「似たようなものよ。病気と休養と旅行と、そんなところ」
「……病気って?」
 いずみは、私の質問にちょっと戸惑う風を見せた。カウンターの表面を眺める仕種を五秒ほど続けてから、ふうっとため息を吐いた。そして微かな笑みを口許に浮かべた。
「病気じゃないわ……堕ろしてきたのよ」
「堕ろして……?」
「そう。これでサッパリしたわ。もうあなたを苦しませる原因も消えたし、私もくよくよと悩む必要がなくなったというわけ」
 私は何も言えずに、いずみの横顔を凝視めていた。
「あなたも私も、重い鎖から解き放されたのよ」
 私は、どう答えたらよいかわからず、ゆっくりとグラスの中の琥珀色の液体へ視線を移した。足元から立ちのぼる冷気が、背筋のあたりまでひんやりと這い上がってきた。
 いずみの前に、オレンジ・ジュースのグラスが置かれた。
「それから私、決めたの」と、いずみはオレンジ・ジュースのグラスをほっそりした白い手で持ち上げながらを何気ない口調で呟いた。「あなたとは別れることにしたわ」
 いずみの言葉にこめられた断固とした意思は、まるで地面に深く突き刺さった杭のようだった。
 不意のセリフに戸惑いながら「どうして……?」と私は訊く。
「そう決めたからよ」
「何もかも、自分一人で決めるんだな」
「あなたが、すぐに決断してくれないからよ」
「妻と別れるって、君に言ったじゃないか」
 いずみは、返事をしなかった。
「どうして勝手に子どもを堕ろしたり、僕と別れるなんて決めるんだい?」
 私は、タバコに火をつけて、胸の奥まで大きく吸い込んだ。
「この前、病院に言って、長野の病院へ転院しようって礼子に話してきたんだ」
「奥さん、わかってくれたの?」
 私は首を横に振った。
「きっと奥さん、あなたのそばにいたいんだわ」
「それは、分からない」と私は呟いた。
 私たちの他に、店内には誰も客はいなかった。私たちが黙ってしまうと、どこからも人の声は聞こえてこなかった。
 BGMの音楽が、ひんやりと冷えた空気を揺らしている。
「ねえ、またやり直そうよ。僕には君が必要なんだ」
「そして、また妊娠して、堕ろして、それを永遠に続けさせるつもり?」
「妻とは別れる。あいつは、もう治らないよ」
「治らないからって奥さんを見捨てる気なの? それとも、治りそうだったら、私との付き合いをやめるの?」
「ねえ、今日の君は、いつもの君らしくない。わざと私の言葉につっかかってきて、物事を白か黒のどっちかに決めつけようとしている。そんな話し方じゃ、何も解決しようがないよ」
「もう決めたの。私たちは別れる。それが解決方法よ」
「そんな冷たい言い方はしないでくれ」
「私は冷たい女よ。そして冷たいまま、これからも一人で生きてゆくの。それが一番私らしいって、そういう結論に達したの。
 ……手術台の上に仰向けになって、両足を大きく開いて、器具が体の中に入ってきて……私つくづく思ったの、あなたと出会ってからの私は、間違った夢を見続けていたんだって」
「……僕は、君に子どもを堕してほしいなんて望んでいなかった」「口で言わなくても、結局、そういう決断を私に押しつけていただけよ」
「そんなつもりは、なかった」
「いいの、もう。あなたと出会って、ひととき楽しい夢を見たの。私も人に愛されることがあるのかもしれないって、束の間そう信じることができたわ」
「僕は、今でも君のことが好きだよ」
「入院している奥さんもね……それとも、もしかするとあなたは誰も愛していないのかもしれないわ。私も、奥さんも両方とも。ただ自分の孤独を紛らわすためだけに、愛している振りをしているだけなのかもしれない。そして良心の呵責だとかモラルだとか、そんな蛸壺の中で、自分の足を喰って満足してるだけよ」
「……僕に、どうしてもらいたい?」
「何もしてもらいたくないわ。私の前から静かに姿を消してほしいだけよ」
 私は、隣に座ったいずみの右の横顔を凝視した。仄暗い闇を背景に、いずみの端正な横顔のラインがくっきりと浮かんでいた。深い眼窩の底の右目は真っ直ぐ正面を凝視している。強い輝きが、瞳の奥で燃えていた。
「君は強いな」と私は呟くともなく言った。「僕は、少なくとも誰かを愛していなければ、一人では淋しくて生きてはいけないよ」
「あなたには、奥さんがいるじゃない」と、いずみは、まるで母親が子どもを諭すような優しい口調で呟いた。
「もっと、ちゃんと面倒をみてあげなきゃだめよ。そうすれば、きっといつか病気だって治るに違いないわ。あなた次第よ」
「そうだろうか」
 その夜、私といずみは、最後の『乾杯』をして別れた。
 私は、彼女の乗ったタクシーの赤いテールランプが、粉雪の舞う暗い街に消えてゆくのを、いつまでも眺めていた。

 

 

              10

 北国の冬らしい、大空の果てまで青く透き通った快晴の天気だった。天頂あたりの濃い藍色は、だんだんと高度を下げて地平線に近づくほどに淡い青色へと微妙にトーンを変化させている。広い空には雲のかけらひとつない。
 大きく息を吸うと胸の中までも凍りつくような寒気だ。大地は白銀色に輝き、右手に落葉松の防風林が黒々とした姿で立ち並んでいる。防風林の向こう側には、雪を被った日高山脈の威容が、いつになく眼前に屹立するような迫力で天に向かって盛り上がっていた。「なかなかいい出来だわ」
 まるで童顔に返ったような幼い笑いを浮かべて、妻の礼子が、私の作った雪だるまを眺めていた。
 病院の前庭のあちこちでは、入院患者達が、深く積もった雪にまみれて歓声を上げながら雪合戦をしたり、追い駆けっこをしたり、雪だるまを作ったりして遊んでいる。
 初冬特有のサラサラに結晶したの粉雪のせいで、思うように雪は固まらない。強い風が吹けばすぐに崩れてしまいそうな危うさで、その雪だるまは右側に傾いた姿勢で佇んでいた。枯れ枝で造作した両目と鼻と口は、やや哀しげな表情を湛えている。
「もうひとつ作ろうか?」と私は、セーターやダウンジャケットやオーバーズボンやらを重ね着して、肥満したゾウのように動作の鈍くなった礼子に訊いた。
 礼子が、大きく「うん」と嬉しそうに頷く。
「じゃあ、今度は君が頭の部分を作るんだよ。私は胴体を作る」
 ゆっくりと雪の上に屈み込むと、礼子は雪の粉をすくい上げて小さな雪の玉作りを始める。サラサラの雪は、お互いにくっつこうとはせず、結晶のまま手袋の横から崩れ落ちてゆく。それは、まるで時の流れを掌で掬おうとしているように虚しい作業だ。
 苦労の末に手袋の中に小さな雪玉が誕生する。次はその雪玉を核にして、まわりに雪をつけてゆく。礼子は、瞬きひとつぜず真剣な眼差しで、その作業に没頭している。
 私は、礼子のすぐ横に屈んで、雪玉作りを始める。時折、礼子の様子を横目で確認しながら、私は粉になってこぼれ落ちようとする雪のかたまりと格闘する。ようやく両腕で抱えるくらいの雪玉を作ったころ、私は礼子の異変に気づいた。
 彼女は、いっさいの動きを止め、じっと腕の中の雪玉を凝視めていた。腕が不自然な位置で静止し、身動きひとつしない。時折、筋肉の痙攣のようにビクンと首筋が左右に震える。
 私は、礼子の横の雪の上に座って、ゆっくりと彼女の背中に腕を回した。それから彼女を顔を下から覗き込みながら、やさしく声を掛けた。
「ねえ、どうした?」
 異様な光が、礼子の瞳の奥で小さな波紋のように揺れている。
「き・こ・え・る」と、礼子は、死人のような嗄れた声で呟く。
「聴こえるって……何が?」私はできるだけ優しい声で尋ねる。
「赤んぼう…の声」
「赤んぼうの声?……そんなもの、どこからも聴こえないよ」
 礼子は、激しくイヤイヤをするように、大きく横に首を振る。
「聴こえるわ。赤ちゃんの泣き声よ」
「どこから?」
「ここから。この雪玉の中から」
 大きく見開かれた礼子の両目が、とてつもない恐怖に怯えるように手袋の上の雪玉を凝視している。
 私は、礼子を宥めようと背中に回した手を軽くぽんぽんとたたいた。
「大丈夫。そんなもの入ってないよ」
 怜子が再び大きく首を振る。目が飛び出るほど見開いている。
「あなたの赤ちゃんよ。あ・な・た・の」
 私は、礼子の作った雪の玉を見下ろす。サッカーボールくらいの何の変哲もない雪の玉だ。陽光を受け、青白い光に輝いている雪の玉。そんな中に嬰児が入っている筈がない。
 でも……と私は思う。何か不吉な予感が胸をよぎる。
 私は、ゆっくりと左手を雪玉の上に乗せた。それから雪玉の表面を静かに撫ぜてみる。雪の玉は、少しずつキラキラと輝く結晶となって崩れ落ち、風になびいて飛ばされていった。
 しかし、雪玉を半分ほど崩したところで、ちょうど雪玉の中心あたりに鮮血のような赤い斑点が浮き上がってきた。一瞬、私の手の動きが止まる。
 礼子の視線が凍りつき、そこに釘付けになる。
 私は、あわてて左手を動かし、さらに雪玉を崩していった。
 結局、礼子の掌の上には、何も残らなかった。
「ね、赤ん坊なんて入っていなかっただろう?」と、私は再び礼子の背中を二、三度軽くたたく。
 礼子は、凍りついたように強張っている顔を持ち上げ、私を見る。空白になった表情の奥から、微かな笑みが浮き上がってきて、それがだんだんと顔全体に広がってゆく。そして突然いきいきした笑顔に生まれ変わり、コクリと嬉しそうに頷く
「さあ、もう一度、雪だるまを作りなおすよ」と私は礼子に向かって声をかける。
 のろのろとぎこちない動作で、礼子は再び両手で雪のかたまりを掬い上げ、手袋からサラサラと零れ落ちようとする雪の粉との格闘を再開する。
 虚しい闘い。
 それは、まるで私自身の闘いでもあるかのようだ。でも、虚しい闘いのない人生なんて、どこにあるのだろうか。

 

 

              11

 その後、礼子の病状に特別な変化は見られない。一進一退というところだ。私は、相変わらず週に一、二回の割で病院を訪れて、礼子と話をしたり散歩をしたり、時にはいっしょに軽い運動をしたりしている。

 いずみとは、あれから会ってはいない。
 ただ一度だけ、通りすがりに彼女らしい人影を見かけたことがある。それは七月中旬の、ある暑い日の午後のことだった。その日、私は車を運転して市の中心街を走っていた。
 赤信号で車を止め、私はぼんやりとした気分で信号が青に変わるのを待っていた。目の前を疲れた足取りで沢山の歩行者が横切っていった。その中に混じってゆっくりと歩いてゆく親子の姿が、なんとなく私の気を引いた。
 二十代後半のその母親は、ゆったりした黄色のワンピースに白いストッキング、そしてピンクのパンプスを履き、ほとんど同じ衣装をまとった二歳くらいの女の子の手を引いていた。
 女の子は、肩までの髪を赤いリボンで結び、丸い可愛げな顔で母親に何かを話しかけていた。母親は、それに応えるように女の子の顔を覗き込み、優しげに何度も頷いた。やがて二人は横断歩道を渡り終えると、そのまま駅の方向へ曲がっていった。
 私が見ていたのは、そこまでだ。信号が青に変わり、後方からのクラクションに急かされて車を発進させなくてはならなかった。
 目の前を過ぎていった母親と女の子の姿が目に焼きついて、しばらくの間、私の脳裏から消えようとはしなかった。
 私の心は、哀しみとも怒りともつかない奇妙な感情に激しく揺り動かされていた。
 母親の方は、横顔や体つき、そして歩き方から察して、いずみに間違いなかった。
 そして、二歳くらいの女の子は……。
 もしもあの時、いずみがお腹の子を堕ろしていなかったとしたら、ちょうどあれくらいの歳になっている筈だ。

 

【帯広市図書館「市民文藝」第35号1995年発行 掲載】