五木寛之の「親鸞」を読む

最近、老眼がどんどん進んできて、新聞などの細かい文字を読むのがすっかりおっくうになってしまいました。元々決して読書好きな方でもなかったのですが、最近ますます活字から遠ざかる傾向にあります。(活字を読まなくなると、脳の老化が一気に進むと言いますから、みなさん気をつけましょうね)
 さて、先日、帯広大谷短期大学開校50周年の記念行事の一環で、作家・五木寛之氏の講演会がありました。事前に往復ハガキを送って入場整理券を入手しておきましたので、当日、妻と二人で出かけることにしました。
 五木寛之という名前を聞くと、「さらばモスクワ愚連隊」、「蒼ざめた馬を見よ」、「青年は荒野をめざす」、「内灘夫人」、「戒厳令の夜」などといったタイトルが瞬時に思い浮かんできます。昔は、流行作家のトップを突っ走っていた五木氏ですが、いつの間にか「他力」だとか「百寺巡礼」だとか「大河の一滴」などといった生き方本を書く「宗教作家」に変身してしまいました。(まあ、それはそれでいいのですが・・・)
 それで講演会のことですが、五木氏の話は、親鸞が生きていた当時の日本の社会状況について語ったところで終わってしまいました。なぜに親鸞が、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えると「浄土に往生できる」という「浄土真宗」を始めるに至ったか、という話題は、残念ながら時間切れで聞くことができませんでした。
 そこで講演会の帰り際、会場のロビーで販売していた「親鸞」(上下)を購入してきて、読むことにしました。小説「親鸞」は、もともと北海道新聞で2008年9月から1年間に渡って連載されていた新聞小説です。(その続編「親鸞 激動編」は、現在、十勝毎日新聞と北海道新聞で連載中です)
 さて、購入してきて早速読み始めたのですが、さすが流行作家の面目躍如というか、大変に面白く、一気に「親鸞」を読み終えてしまいました。当時の時代背景や、親鸞にまつわる事実関係を踏まえながらも、五木氏が創造した登場人物も複数現れたりして、ハラハラドキドキの手に汗握る物語展開となっていました。
 ところで、親鸞の浄土真宗というと、皆さんはすぐに「悪人正機説」を想起されることと思います。「歎異抄」の中にある、例の有名な言葉「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」は、「悪人正機説」を端的に語っている文章です。この部分を現代語風に訳すと「善人でさえ浄土に往生することができるのです。まして悪人はいうまでもありません」ということになります。
 ここで言っている「善人」と「悪人」の意味をきちんと押さえておかないと、文章全体の意味が理解できなくなってしまいます。
 親鸞が「悪人」と言っているのは、「法律を破って、他人に被害を与えたり、他人を殺傷したりするような『悪人』」のことではありません。(これでは現代的な「悪人」のイメージになってしまいます)
 ここで言う「悪人」とは、自分の「欲」に左右されて生きている、私たち一般庶民のことなのです。つまり、「人というのは、我欲を捨て、他人への思いやりを大切にしながら、無欲な姿勢で生きていかなくてはならない」と頭では理解しつつも、実際のところは自分が一番大切で、時にはやむを得ず他人を踏みつけにしたり、蹴落としたりしながら、なんとか世知辛い世の中を生きながらえている我々一般庶民のことなのです。
  生き残るために、我欲に振り回され、他人を傷つけ、様々な「罪」を犯しながら生きている私たちのような者(=悪人)は、とても自分の力だけで「浄土」になんて「往生」できません。だからこそ、「全ての人を必ず浄土に往生させるゾ」という誓いをたてた「阿弥陀如来(阿弥陀仏)」の力に縋らなくてはならないのです。
 言い換えると、自分は様々な罪を犯している「悪人」だという自覚があるからこそ、必死な気持ちで念仏を唱えようとする姿勢が生まれます。(「南無阿弥陀仏」という念仏は、「自分の全身全霊をかけて阿弥陀如来にお縋りします」といった意味だと思います)
 他方、「善人」というのは、自分の我欲に振り回されることもなく、何の「罪」も犯さずに、清く正しく立派に生きている人のことをさしています。(そういう「善人」が、この世にいると仮定しての話ですが)そういう立派な人は、「なんとか浄土に往生させてほしい」などと必死な気持ちで念仏なんてしません。
 でも、そんな「善人」でさえ念仏すれば浄土に往生できるくらいですから、必死な気持ちで念仏を唱える「悪人」こそは、間違いなく往生できる、というのが「悪人正機説」の本旨なのです。(というふうに私は理解しました。)
 さて、ここからが本題なのですが、この「悪人正機説」を自分に当てはめて考えてみると、もちろん私は「善人」のレベルに入れるような立派な人間ではありません。いわゆる親鸞が言うところの「悪人」の一人です。
 ただし、ここで問題となるのは、ぼんやりと日々暮らしている私は、これまで自分が犯してきた様々な「罪」をそれほど深く自覚しているわけでも、また罪悪感に苛まれているわけでもなく、その結果、「なんとしてでも浄土に往生したい」という必死な気持ちも持ち合わせていないという点です。
 こんな、無自覚で、未熟で、中途半端な「半悪人」の私が、念仏を唱えたからといって、果たして浄土になんて往生させてもらえるのか・・・?
 と、そんなとりとめもないことを、五木寛之の「親鸞」を読みながら、うつらうつらと考えたところです。