天国への階段

              1

 僕が、貴子と識り会ったのは、一九七十年の冬のことだった。僕は高校一年生で、貴子は高校二年生だった。

 貴子と過ごした日々から、もう二十年以上もの歳月が過ぎているというのに、あの頃のいくつかの場面は、今でも色鮮やかに僕の脳裏に蘇ってくる。
 時折、僕は、貴子との思い出を、記憶の引き出しから取り出しては、もの哀しい気持ちを味わったり、また辛い気持ちにひたったりしている。
 もちろん、引き出しから抜け落ちかけている記憶がないわけではない。出来事の順序も、あたりの情景も曖昧で、思い出そうとすればするほど混乱してしまう記憶のかけらがないわけではない。
 でも、時が流れていくというのは、多分そういうことなのだろうと思う。
 鮮やかな記憶と、おぼろげな記憶の混在。
 だからこそ僕たちは、過去の出来事にさまざまな虚飾をほどこし、美しい物語を心の中で創りだしていくことができるのだ。そして、いつまでも昔の思い出を懐かしく語ることができるのだろう。

 僕が高校に入学する前の年、東大・安田講堂での全学連と機動隊との攻防戦をピークに、全国に広がっていた学生運動の嵐は、僕が帯広の普通高校に入った頃には、もうほとんどその影をひそめていた。昼休みになると、三年生の一部の生徒が中央廊下のかどに立ち、ハンド・マイクを使ってアジ演説独特の口調で何かをどなりたてていたが、それに耳を傾けている生徒の姿は、ほとんどなかった。
「あんな連中の言うことなんて、まったく聞く必要はありませんからね」と、入学後まもない僕たちに、学級担任の中年の教師が、明らかに彼らを侮蔑する口調で言った。別に彼らに特別の好意を抱いていたわけでも、逆に彼らの主張に共鳴していたわけでもないが、最初から聞く必要がないと断言するその教師に、僕は大人の驕慢さを垣間見たような気がした。
 それ以後、その教師は、僕にとって『信用できない大人達』の一人でしかなくなっていた。
 気がつくと、いつのまにかアジ演説をしていた生徒たちの姿は廊下から消え、僕はさして感動も喜びもない、どちらかというと陰鬱で退屈な高校生活を送りはじめていた。
 入学後、最初の校内模擬試験で、僕は学年順位で真ん中あたりの成績を取った。中学校の時に、学年でも上位の成績を取っていた僕は、愕然とした思いを味わった。
 それに追い打ちをかけるように「今の成績では、国立の一期どころか二期でも難しいですね」と、学級担任にあっさりと言われた時には、さらに暗澹とした気持ちに陥った。
 それから三年間、さほど勉強をしたわけでもないけれど、僕はわけのわからない劣等感にずっと苛まされ続けることになった。
 日が経つにつれて、だんだんとクラスの他の生徒の様子もわかり、世間話を交わす友達も増えていった。でも、心の中を開いて何でも話せるような友達はできなかった。まわりのみんなが僕よりも優秀に見え、自分一人だけが劣っているように思えてならなかった。
 勉強のことばかり考えているのに耐えられなくなり、僕は、入学して二カ月ほどたってから美術部に入ることにした。別に絵が上手だったわけではない。ただ、以前から興味を抱いていた油絵に挑戦してみたかっただけだった。
 入部する前から半ば予想していた通り美術部に男子生徒は一人もいなく、女子生徒が十人ほど部員として所属しているだけだった。しかも名前ばかりで、活動にやってこない部員の方が多いくらいだった。
 僕は、授業が終わると、北向きの薄暗い美術室に残り、石膏像のデッサンをしたり、窓から見える帯広川の堤防のスケッチをしたり、牛の頭骨の絵を描いたりしながら放課後のぼんやりとした時間を過ごした。僕一人のこともあったし、女子部員がぺちゃくちゃとお喋りしているのを側で聞きながら絵を描くこともあった。
 でも、そんなまわりのことは別に気にならなかった。僕は、気ままに鉛筆を動かしたり、白い画布に好きな色を塗ったり、自分の描いたものをぼんやりと眺めたりしている時間が好きだったのだ。勉強のこととか、成績のこととか、大学進学のこととか、中学時代に好きだった女の子のこととか、そんな身のまわりのいっさいのことを忘れ、絵に没頭している時間がとても好きだったのだ。
 だからかもしれないが、油絵は、何枚描いてもいっこうに上達しなかった。油絵をきちんと基本から教えてくれる人がいなかったということもあるし、そもそも僕自身に上手く描こうという意識がなかったからかもしれない。十一月に行われた高文連の展覧会に油絵を一枚出したが、他の学校の作品に較べて遙かに稚拙で、恥ずかしい思いを味わっただけだった。
 シルク・スクリーンの講習会の案内のチラシを見たのは、その頃のことだった。帯広市の教育委員会主催の高校生を対象とした無料の講習会だった。
 油絵にたいする興味が消え失せていたわけではなかった。ただ高文連の展覧会でシルク・スクリーンの作品を見て、今まで味わったことのない新鮮な感動をおぼえたのが、興味を抱くきっかけだった。油絵とはまったく逆で、実にあっさりとした色使いであるのに、空間の奥行きを感じさせる澄みきった透明感。それが、僕の心を惹きつけたのだ。
 十二月から一月にかけて、毎週土曜日の午後に行われる、その講習会に、さっそく僕は申しこむことにした。
 まもなく市民会館の裏手にある社会福祉会館の一室で、講習会が始まった。指定された会場に行ってみると、帯広市内のいくつかの高校から二十名ばかりの生徒が集まってきていた。普通高校ばかりでなく、商業高校や工業高校からの生徒もいた。これもまた予想していたとおり、参加者のほんとんどは女子生徒で占められていた。
 どんな受講生がきているのか、特に意識もしないまま、講習会は始まっていった。
 それは二週目か三週目のことだったと思う。下書きのデッサンがまとまらず、ぼんやりと部屋の隅を眺めている時だった。
 ふと、一人の女の子が僕の視界に映った。きれいに揃えたおかっぱ頭に、透きとおるほど真白い顔をした少女が、僕の方を見ていた。端正に整えられた顔つきは、まるで日本人形のように均整がとれていた。はっきりと見開いた目は、細い筆でさらりと描いたように優雅で、灰色の瞳がとても印象的だった。
 こんなにきれいな少女が、この世にはいるんだなと、僕は感嘆する思いで、その少女の顔にしばらく見とれてしまっていた。
 まもなく、その少女は僕から視線をずらし、僕もあわてて机の上のデッサンに意識をもどした。
 心臓のあたりが、妙に苦しかった。
 その時は、それだけのことだった。でもその時から、日本人形のような美少女が会場内のどこにいるのか、いつも視界の片隅で確かめるようになっていた。

 それから、二週間ほど後のことだ。
 できあがった下絵について、お互いの意見を交流しあう場面になった時、その少女が、僕の下絵の構図や色彩について、他の生徒の前で好意的な意見を述べてくれたのだった。
 正直言って嬉しかった。こんなに美しい少女が、僕の下絵を誉めてくれたのかと思うと、息がつまりそうなくらい嬉しかった。顔が火照るのが、自分でもわかった。
 その日の講習会が終わって、みんなが会場から出ていく時に、僕は、彼女に近づいていき、思い切って声をかけてみた。
 彼女は、ぴったりとした白いセーターに、膝までのギンガム・チェックのスカート姿で、腕からはダッフルコートと画材をいれるカバンを下げていた。
「さっきは、どうもありがとう」と、僕はドアに向かって歩いていく彼女の横顔に向かって声をかけた。
 彼女は、少し驚いたように僕を見てから、柔らかい微笑を口許にそっと浮かべた。
「人から、自分の絵がほめられたなんて、はじめてなんだ」と、僕は、彼女の目を凝視めながら正直に言った。
 彼女のうすい灰色の瞳の表面に、窓の格子の影が映っていた。
「あなたの下絵、とってもよかったわよ。私も、あんな絵を描きたいなあって思ってるんだけど、なかなか上手く描けなくて」
「そんなことないさ。君の絵もよかったよ」
「それ、お世辞でしょ? あんな絵、あなたのにくらべると、ぜんぜん下手くそよ」と、大袈裟に彼女は横に首を振った。
 僕らは、会場のドアを出て、横に並んで階段を降りた。
「学校の美術部か何かに入ってるの?」
 ううん、と彼女は首を横に振った。「好き勝手に描いているだけ。だから、ぜんぜん上手くならないの」
「僕は、学校の美術部に入ってるけど、ああいうところに入っていても絵は全然上達しないってことが、最近ようやくわかってきたよ」
 そう言うと、彼女は楽しそうにクスッと笑った。
 外は、大粒の雪が降っていた。遠くの風景がうすぼんやりと白く霞んでいた。
「すごい雪だな。家まで歩いて帰る?」と僕は訊いてみた。
「私の家は南の方だから、駅前のバス停からバスに乗って帰るの」
「へえ……僕も駅前の本屋さんに用事があるから、いっしょに歩いていこうかな」と、僕は一人ごとのように呟いみた。
 彼女は、特にそれをいやがる様子を見せなかった。
 そのまま、僕は、彼女の横にならんで雪の降る中を歩き始めた。淡い灰色の空から揺れながら落ちてくる大粒の雪は、すぐに彼女の髪や肩の上に降り積もっていった。
 歩きながら、僕たちはお互いの名前や、通っている高校を教えあった。彼女は私立高校の生徒で、名前を和田貴子といった。貴子が、僕よりも一つ年上だということは、その時に知った。
「高校を卒業したら、ぜったいに家から出たいの。できれば札幌に行きたいって考えてる」
「札幌に行って、何をするの?」
「短期大学の美術科かデザイン・スクールのようなところに入って、ちゃんと美術のことを勉強したいの。そして将来は、できればデザイン関係の仕事につきたいって考えてるの」
「僕は、まだ将来の仕事のことなんてまったく考えられないな」
「できるだけ早いうちに、将来のことを考えておいたほうがいいわよ。後から後悔しないようにね」と、貴子は力をこめて言った。
 彼女は、シルク・スクリーンを習いにきているのも、将来の仕事で何か役にたつことがあるかもしれないと考えたからだとつけ加えた。
 へえ、と僕は改めて、この美しい少女を見直した。単に外見が可愛いだけじゃなくて、将来に対する人生設計というものを持っていることに、僕は畏敬に似た気持ちを抱いた。
 薄暗くなりはじめた市の中心街にはジングル・ベルの曲が流れ、あちこちで金色のイルミネーションが明滅をくりかえしていた。
 歩いているうちに、いつのまにか僕たちは駅前まで来ていた。
 まもなく彼女の乗るバスがやって来た。
「バスがくるまでずっとつきあってくれて、どうもありがとう。おかげで、とても楽しかったわ。じゃあ、また来週に会いましょう」という言葉を残して、貴子は開いたドアのステップを踏んで、車内に姿を消した。窓から手をふってくれる貴子に、僕も手を振り返す。
 貴子の乗ったバスが、激しく降っている雪の彼方に消えていくのを、僕はずっと眺めていた。
 それが、僕と貴子との出会いだった。
 あの時の僕には、貴子の、美しく端正に整った顔だちしか見えていなかった。風にサラサラとなびく髪の毛とか、貴子の上品な微笑とか、透明でなめらかな肌の白さとか、目を細めたときの妖艶な目つきだとか、長い睫毛とか、透き通った声だとか、そんなことしか僕には見えていなかった。
 貴子が、本当はどんなタイプの女の子で、貴子によって僕の高校生活がどんなふうに狂わされていくかなんて、まだその時の僕には知る由もなかった。

              2

 年が明けて一月になった。
 講習会が終わると、必ず僕が貴子を駅前のバス停まで送っていく雰囲気が、いつのまにか二人の間にできあがっていた。
 でも二人の関係は、ただそれだけのことで、講習会の期間が終わってしまえば、それっきりになりそうなほど微妙なものでしかなかった。
 講習会も残すところあと一回となった土曜日の夕方、僕と貴子はいつものように駅に向かって歩いた。
 空は、透明に澄みきった藍色が無限に広がり、陽が沈んだばかりの西の空だけが、ほんのりとオレンジ色に染まっていた。そして日高山脈の稜線が、黒い影絵となって街の彼方に横たわっていた。一月にしては、それほど冷たくはない風がときおり吹いて、そのたびに貴子の髪が揺れ、小さくて白い耳が姿をあらわした。
  ビートルズの解散の話などをしているうちに、気がつくと、もう僕らは駅前のバス停に来ていた。
 まもなく、彼女の乗るバスが、交差点を折れて西二条通りに入ってくるのが見えた。貴子が口を開いたのはその時だった。
「ねえ明日ひまかしら? よかったら私の家にレコードでも聴きにこない?」
 貴子の言葉が信じられないくらい嬉しかった。
「うん」と僕は、すぐに頷いた。
「このバスに乗って、西五条二十八丁目のバス停で降りるの。明日一時に、そのバス停で待ってるわ。じゃあ」
 それだけ言うと、彼女はバスに乗り込んでいった。小さく手をふるバスの中の貴子に、僕も手を上げてサヨナラをする。
 僕は、あまりに嬉しくて、ときおり雪の上でスキップを踏みながら家に帰っていった。
 
 翌日、貴子が教えてくれたバス停でバスを降りたのは、まだ一時に三十分以上も前のことだった。僕は、期待感や不安感のいりまじった気持ちを抑えながら貴子を待った。
 一時少し前に、貴子がいつものダッフルコートにジーンズ姿で現れた。「家には誰もいないの」と、彼女は僕と並んで歩きながら小さな声で呟いた。
 彼女の家は、バス停から歩いて五分ばかりの住宅街の中にあった。敷地のまわりはブロック塀で囲まれ、家の南側の小さな庭は、深い雪をかぶっていた。
 玄関を入り、そのまま貴子に案内されて狭い階段をのぼり、彼女の部屋に入る。
 ドアを開けたとたん、甘ったるいオーデコロンの香りが鼻をついて、僕は軽いめまいを感じた。女の子の部屋に入るなんて生まれて初めての経験だった。
 ドアを入ると、八畳ほどの広さの部屋の正面は庭に面した窓で、白いレースが掛かっていた。窓の横には頑丈そうな机が置いてあり、机の上には開いたスケッチブックと鉛筆が一本置いてあるだけだった。部屋の左側に、赤い花柄のカバーに覆われたベッドがあり、壁にはビートルズとレッドツッペリンのポスターが貼ってあった。
「ベッドの上にでも座って」という貴子の声にうながされて、僕はオーバーを脱いでからベッドに腰を下ろした。それから、もう一度ゆっくりと部屋の中を見まわす。緊張するような、居心地の悪いような、うまく言い表すことのできない奇妙な気持ちだった。
 貴子は、階下から紅茶とお菓子を運んできて、机の上に置いた。「ねえ何か聴く? 本棚にレコードが入っているから、好きなの選んでちょうだい」と貴子にうながされ、僕は本棚の前の床にすわって、二十枚ばかり並んだLPレコードを一枚ずつ抜き取ってみた。知らないグループのアルバムもあったが、結局僕はなじみのあるビートルズの『レット・イット・ビー』を選んで、貴子に手渡した。
 僕は、ふたたびベッドに座り、貴子がレコードをセットするのを待つ。スピーカーから曲が流れ始め、貴子が「午前中なにしてたの?」と訊きながら僕の隣に腰をおろした。貴子の左腕が、僕の右腕に触れる。横を見ると、つい三十センチも離れていない場所で、貴子の真っ白い顔が真正面から僕に微笑みかけている。窓の明かりを背景に、頬のうぶげが金色に輝いて見えた。
「本を読んだり、音楽を聴いたり、いつもと変わりないよ」と、僕はできるだけ何気ない口調で答える。
「私は大変だったのよ。日曜日の午前中はいつもママの手伝いをさせられるの。掃除や洗濯などね。音楽を聴いている暇もないくらい忙しかったわ」
「それで、お母さんは、出掛けたの?」
「仕事よ。パートで仕事をしているの。パパは日曜日も仕事に出てるから、いつも午後は一人で留守番なの」
 話しているうちに、貴子の太股と僕の太股が何度も擦ありった。でも貴子は、そんなことなど少しも気にしている様子はなかった。
「ほらほら、この曲、私好きなの。『ザ・ロング・アンド・ワインデイング・ロード』。ポールが、心がばらばらになってゆくメンバーを嘆き悲しんで作ったっていう曲よ」と言いながら、貴子が僕の腕を軽くつかむ。
「ふうん」と答えながら、僕は横を振り向く。すぐ目の前に貴子の顔があった。長い睫毛がきれいなラインで並び、灰色の瞳が僕をまっすぐに見ている。淡いピンク色のリップを塗った唇が濡れたように光っていた。
 貴子は、なにを考えているだろうと僕は思った。こうやって他に誰もいない家の中でたった二人、体を触れるほど接近しながら、貴子は何も感じないのだろうか。
 でも、そんなふうに考えていたのは、ほんの一瞬のことだった。貴子の顔が、ゆっくりと僕の方へ近づいてきた。貴子はそっと目を閉じ、僕の肩に細い両腕を回す。貴子のひんやりと冷たい唇の感触が、僕の唇に触れる。そのまま貴子は、僕の上体をベッドに押し倒すように覆い被さってくる。
 心臓の低い鼓動の音が耳元で聞こえた。女の子とキスをするなんて初めてのことだった。
 僕は、両腕を貴子の背中に回して彼女の体を抱きしめた。
 気がつくと、レコードの曲はすべて終わり、スピーカーからは針の雑音が規則的に鳴っていた。
 貴子は、自分の唇を僕の唇から離した。
「ねえ、私のこと、抱いてみたい?」と貴子が、自分の額を僕の額にそっと押しつけながら、聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で囁いた。
 僕は、うわずった声で「うん」と頷いた。
 出会ってまもない男の子を留守の家に招き、『私のこと、抱いてみたい?』と訊く高校二年生の女の子が、果たして普通の女の子なのか、そうでないのか、中年になった今の僕ならわかるが、その時の僕は、そこまで考える余裕なんて、これっぽっちもなかった。
「じゃあ、服ぬいで」と貴子は、低い声で囁き、僕の腕をほどいた。そして、貴子は何も言わずに緑色のセーターを頭からすっぽりと脱いだ。その下は水色の半袖シャツだった。貴子はうつむいたまま、つぎにジーンズのホックをはずしてジッパーを下げると、ジーンズの腰の部分をつかんで膝のあたりまで静かに降ろした。貴子のピンク色の下着と、白くふっくらと肉づきのよい太股があらわになる。それから貴子は片足ずつジーンズから足を抜いていった。
 そうやって貴子が自分から服を脱いでいく様子を眺めていることが、まだ僕自身信じられなかった。確かに、そんな場面をまったく空想もせずに、ここに来たわけではなかった。でも、それはあくまで空想の世界の出来事であって、実現するはずのない夢想にすぎなかった。 それが、今現実に起こっていた。僕の目の前で、貴子が一枚一枚と服を脱いでいく。
 僕は、どうしたらよいのか戸惑ったまま、貴子のそんな様子をぼんやりと眺めていた。
「ねえ、あっち向いててよ。そうやってじっと凝視められてると恥ずかしいわ」と、貴子がシャツのボタンをはずしながら、ちょっと不満そうに呟く。
「あなたも、はやく服を脱いだらいいわ」
 僕は、まだ自分が遭遇している現実になじめないまま、貴子に背中を向け、自分の服を脱ぎはじめた。セーターを脱ぎ、ズボンを脱ぐ。そして下着だけになって振り向くと、すでに貴子はベッドの中にもぐり込んでいた。
「そのまま入ってきていいわよ」
 ベッドの中に入ろうとして、かけ布団を少し開く。貴子のふっくらとした白い肌と、形のよい大きな乳房と、鮮やかなピンク色の乳首が目に飛び込んでくる。貴子は、下着も何も身につけていない。
「本当にいいの?」と僕は訊いてみる。
 彼女は何も言わずに、小さく頷く。
 ベッドに入ってから、僕は、彼女の体に重なる形になり、貴子の乳房を両手でやさしく触れ、それから乳首にそっと口づけした。
 それは、とても柔らかく、そして温かかった。
「ねえ、あなたも下着を脱いでよ」
 僕はベッドの中でアンダーシャツとパンツを脱いだ。
 それから、もう一度、ぼくらは強く抱き合った。
「初めてなんでしょ?」と貴子が僕の首に腕をまわしながら訊く。
「うん」と、僕は正直に答える。
「あなたのドキドキと鳴っている心臓の音が、私の胸に直接伝わってくるわ。……だいじょうぶよ、安心して。わたしの言うとおりすれば、きっとうまくいくから。あんまり緊張しちゃダメよ」
 僕は、小さく頷いてから、ふたたび彼女の体を強く抱きしめる。
 それから僕は、貴子に言われるままに、彼女の体を愛撫したり、舐めたりした。
 途中から、貴子は猫のようなか細い悲鳴を何度も洩らして体を震わせた。
 最後に貴子が用意していたコンドームをつけてもらって、彼女の中に入ろうとしたが、うまくいかなかった。五分ほど休んでからもう一度試みたけれど、結局その日、僕は彼女の中に入ることはできなった。
「最初は、よくこんなことがあるっていうから、あんまり悩まないほうがいいわよ。次は、きっとうまくいくから」と、貴子は僕を慰めてくれた。
 それからまた僕らは、お互いの体や性器にさわったり、愛撫しあいながら午後の時間をすごした。
 気がつくと夕暮れが近づき、部屋の中にはぼんやりとした闇が忍び込んできていた。薄暗い闇の底で、貴子の白い裸体だけが鮮やかに浮かんで見えた。
「五時過ぎたらママが帰ってくるの。あなたも、そろそろ帰ったほうがいいわ」という貴子の言葉で、僕は服を着て、彼女の家を出ることにした。
 バス停でバスを待っている間、僕は不思議な満足感に浸っていた。女性のふくよかな肉体に自由に触れることの安心感。今まで生きてきた中で、それは初めて味わう種類の感覚だった。
 でも一方で、年下の僕をさりげなく誘惑し、コンドームまで用意していた貴子という女の子に、何ひとつ疑問を抱いていなかったわけではない。日本人形のように可愛い仮面の裏側に、どんな本性が隠されているのか、なんとなく気にならなかったわけではない。
 でも、初めての経験の喜びがあまりに強烈すぎて、そのちょっとしたひっかかりは、すぐに意識の隅に追いやられてしまった。
 それから一週間、僕は貴子と会うのをひたすら待ち続けた。授業中でも自分の部屋でも、貴子の白い裸体や、ため息まじりの声などが色鮮やかに蘇ってきて、勉強に集中することができなかった。僕は、一刻も早く、貴子を抱きたかった。
 長い長い一週間が過ぎ、ようやく日曜日になった。僕は、ふたたび貴子の家を訪れ、午後いっぱいを彼女の部屋のベッドで過ごした。
 その日、彼女のリードのままに前戯を行い、僕はやっと貴子の中に入ることができた。
 一回うまくいくと、それから何度も僕は彼女と交わった。
 夕方、彼女の家を出る前に、
「会う時には、私の方からあなたの家に電話するから、絶対に私の家に電話をしてきちゃだめよ」と、何度も貴子に念を押された。
「どうして?」と僕が訊くと、
「うちのパパって、男の子からの電話にとっても神経質なのよ。それに、電話してきのはどんな男だとか、どんな話だったのかって根掘り葉掘りきかれるのが嫌なの」
 すでにシルク・スクリーンの講習会は終わっていて、僕と貴子の連絡手段は電話しかなかった。
 僕は貴子に言われたとおり、土曜日の夕方になると、貴子から電話がかかってくるのを家でじっと待ち続けることになった。
 二月、三月と、日曜日ごとに僕は貴子の家に通って、彼女とのセックスを続けた。ベッドの中の貴子は、普段の静謐で内気そうな印象とはうって変わり、ひたすら性の欲望を満たすめの獣に変貌した。
 貴子の快楽への欲求が人並みのものであるのか、それとも異常の範疇に入るものなのか、まだ経験の浅い僕には、よくわからないことだった。

              3

 四月になり、僕は高校二年生に、貴子は高校三年生に進級した。
 新聞やテレビのニュース番組では、三里塚の強制執行の様子が毎日のように報道されていた。あらゆる闘争に敗れていった学生達の残党が、最後の砦として三里塚にこもり、地元の農民たちとともに機動隊に闘いを挑んでいた。そしてテレビのチャンネルを回すと、どこの歌番組でも、弘田三枝子が黒く縁取りをした目で『人形の家』を絶唱していた。

 進級にともなってクラス替えが行われた。新しいクラスには、同じ中学校の出身者や一年生の時に同じクラスだった生徒はごくわずかしかいなかった。でも一週間も経つとみんなの顔を覚え、少しずつ誰とでも話ができるようになっていった。
 昼休みになると、クラスのほとんどの男子生徒はバスケットボールを持って体育館に走っていった。でも僕は教室に残って、好きな本をめくったり、ぼんやりと外を眺めていることのほうが多かった。
 彼らと一緒に体育館に行かなかったのは、ただ単にスポーツが好きではなかったからだった。自分の下手糞なプレイをみんなに笑われたくないというコンプレックスも働いていたのかもしれない。
 読書は好きだったが、特定の好きなジャンルとか、作家がいたわけではない。ある時はアリステア・マクリーンの『女王陛下のユリシーズ号』だったり、またある時は庄司薫の『白鳥の歌なんて聞こえない』だったり、時には立原正秋の『冬の旅』だったりした。僕は、本を読んで日常の煩わしさを忘れ、架空の世界に浸っているのがただ単に好きだったのだ。
 本がないときは、教室の窓から、前の国道を走っていく車の流れを眺めながら、貴子とのセックスのことを想い出したりした。

 文庫本で川端康成の『千羽鶴』を読んでいる時のことだった。
「杉本は本が好きなんだな。なに読んでんだよ?」と背中から声をかけられた。
 振りかえると、同じクラスの柴田さんが、口許に小さな笑みを浮かべて立っていた。彼は、四年前に高校に入学したものの、腎臓の病気のせいで入退院をくりかえし、いまだに二年生にとどまっている年上の同級生だった。
 僕は、一瞬迷ってから「これです」と、その本を差し出した。
「カワバタか……これ、面白いか?」と彼は、僕の後ろのイスに腰を下ろしながら訊いた。
「まあ、それなりに」と、僕は、突然の質問に困惑しながら答えた。
「どんなところが面白い?」と柴田さんは、さらに質問を重ねてきた。
 僕は、どんなふうに川端康成の小説の面白さを説明したらよいのか戸惑ったまま、しばらく考えた。
 つい二年前にノーベル文学賞を受けたものの、川端康成の作品は、単に日本語的な美的感性に秀でているだけにすぎないと受け取られ、政治的な影響を受けている若い世代にはほとんど読まれていなかった。
 本を読むような連中は、だいたいが高橋和己か大江健三郎か、そうでなければ三島由紀夫か太宰治あたりと相場が決まっていた。
 だから、川端康成の素晴らしさをあまり正直に告白すると、逆に馬鹿にされるのではないかという不安感もあった。
「日本語がとても美しいんです。他の小説家で、これほど繊細な日本語の使い方をしている人はいないんじゃないかな……これは、あくまで僕の私見ですけれどね」
 それを聞いて、柴田さんが軽く苦笑した。
「今の日本じゃ、川端なんて誰にも相手にされてないぞ」と、柴田さんがからかうように言う。
「自分には、川端の描く小説の世界が、しっくりと馴染んでくるんです。他の人がどう思うかは、僕にはどうでもいいことなんです。……柴田さんも、川端康成は嫌いですか?」
「それなりの評価はしてるよ。でも川端は、べつに好きでも嫌いでもないな。やっぱりオレは夏目漱石とか森鴎外みたいな漢文調がいいよ」
 そこまで言うと、彼はニタリと微笑んだ。
「……そういえば、家に川端の全集があったな。確かあれに『千羽鶴』の続編が載っていたはずだ。『波千鳥』とかいう題で、これは文庫本には入っていない小説だから、もしも読みたかったら貸してやるぞ」
「柴田さんは、川端康成の全集を持ってるんですか?」と僕は驚いて訊いた。
「なあに、親父の本さ」と、柴田さんは投げやりな口調で言った。
 僕はその場で、彼にその本を貸してくれるように頼んだ。
 柴田さんと親しくなったのは、そんなきっかけからだった。病気のせいで同じ年齢の友人はみんな大学に進学し、教室には二つも年下の知らない連中ばかりで、彼としても、話し相手がほしかったのだろうと思う。
 もちろん僕としても、好きな本の話ができる相手がいて、嬉しくないはずはなかった。
 柴田さんは一週間くらい学校に顔を見せないことも時折あったが、彼が登校している日は、たいてい昼休みに彼と話をした。病院のベッドに寝ころんで興味のある本を片っ端から読んだというだけあって、彼の知識は実に豊富で、また考え方にもユニークなところがあった。
 ある時、こんな話をしたことがあった。
「いいか杉本、世の中には幸福な星の下に生まれてきている奴と、不幸な星の下に生まれてきている奴がいる。この生まれながらの不平等を、お前はどう思う?」
 柴田さんが、何を訊きたいのか分からず、僕はきょとんとしながら、彼の質問を口の中で繰り返していた。
「生まれながらの不平等ですか?」
「……もっとわかりやすく例を挙げて説明するとな、この広い日本には金持ちの家庭に、優秀な脳みそを授けられて生まれてきて、東大のような大学に入って、それから一流企業に就職していくような幸運な奴もいれば、それと正反対に、貧乏の家に、それもあまり賢くはない脳みそを与えられて生まれてきて、中卒で就職して、安い金で一生働いていかなくちゃならないような不幸な奴もいるよな。
 今のは確かに極端な例ではあるけど、でもこのような生まれながらの運命的な不平等について、お前はどう思うかっていうことなんだ。
 この世に神様がいると仮定して、その神様が、すべての人間を平等に愛しているとすれば、この不平等は、いったいどういう理由で起きるんだ?」
 僕は、なにも答えられないまま、彼の顔を眺めていた。
 柴田さんは、ふっと微笑むと、
「そんな、狐につままれたようなきょとんとした顔で俺を見るなよ。
 いいか、実は、ある仮説を立ててみると、この運命的な不平等に対して納得いく説明をすることができるんだ」と、おもむろに口を開いた。
「杉本は、仏教の考え方の中に『輪廻転生』というのがあるのは知ってるよな。要するに、人間は死ぬとあの世に行き、しばらくすると再びこの世に生まれてきて、また死んで、あの世に行くってことを限りなく繰り返しているって考えだ。
 じゃあ輪廻転生が、なぜ行われるかってことになるんだが、宗教的に考えると、我々人間の魂というのは、修行を重ねていって、最終的には仏陀のような『悟り』の境地にまで到達するようあらかじめ方向づけられているってことになっているんだ。でも、そのためには様々な経験の蓄積が必要となってくる。つまりだ、輪廻転生の中で、様々な人間に生まれ変わって、様々な人生経験を積むことが必要になってくる。
 金持ちの次は貧乏人。頭のいい奴の次はできの悪い奴。健康な人間の次は病弱な人間。……というふうに逆、逆の人生を送りながら、様々な運命の人間を経験することで、魂の修行も行われていくっていうことなんだ。
 だから、ある時点で、人間同士を横に較べれば、プラスの人生を送っている奴と、マイナスの人生を送っている奴がいるが、輪廻転生の中で経験する様々な人生をトータルとして見ていけば、結局はプラス・マイナス・ゼロになっていくと結論づけることができるんだ」と、彼は満足そうな笑みを浮かべた。
「輪廻転生ですか……」と僕は、口の中で呟いた。
「ただし、これはあくまで仮説の問題だからな。信じるか信じないかは個人の勝手だ。お前は、この仮説をどう思う?」
「さあ」と応えながら、僕はぼんやりと彼の顔を見ていた。
 彼の仮説というものは、生まれつき持病に苦しめられている柴田さんが、彼自身の人生を納得するための方策として編み出したロジックなのかもしれなかった。そして彼にとって、それは『仮説』などではなく、限りなく『信仰』に近いものであるのかもしれなかった。
 そんなことを考えながら、僕は口を閉じていた。
「くだらんこと喋ってしまったな。忘れてくれていいよ」といいながら、柴田さんは自嘲するような笑みを口許に浮かべた。
 実際、彼が『輪廻転生』などという言葉を口にしたのは、その時の一度きりで、再びその言葉を口にすることは二度となかった。

 四月に入った頃から、貴子は毎週土曜日、僕に電話をかけてくるということがなくなった。
「ママが仕事の関係で、家にいることが多くなったのよ」と貴子は僕に説明した。
 僕は、あてのない電話を待ちながら、じっと息をこらして土曜日の午後を過ごすことが多くなった。電話がかかってくることもあれば、こないこともあった。貴子から電話がこない時は、自分で処理をして、また次の土曜日を焦がれるような気持ちで待った。
 放課後になると、僕は相変わらず美術室に行き、薄暗い部屋の片隅で、好き勝手に絵を描き続けた。新入生の何人かが美術部に入ってきたが、みんな女子ばかりで、話相手になるような生徒は誰もいなかった。
 ある日、僕は理由もなく石膏デッサンが描きたくなった。美術室にあったミロのビーナスとダビデの石膏像を棚から取り出して、毎日のように画用紙に描きなぐった。どうして、そんなに石膏デッサンにこだわるのか、自分でもよくわからなかったが、僕はそれを止めることができなかった。

 五月になった。
 桜の花が開き、淡い青空を背景に花吹雪が舞った。萌える緑が目に鮮やかで、眩しいくらいだった。
 貴子からの電話は、三週間に一度くらいの割合へと減っていって。それにつれて僕の心も体も、だんだんと強い渇きを覚えるようになっていった。貴子に会えるまで辛い日が続き、たまらなく切ない夜が何度もあった。
 貴子からの電話が、待ち遠しくてならなかった。
「どうして、以前のように毎週会えないのさ?」と僕は、ベッドの中で貴子に訊いたことがある。
「何度も言ってるでしょ。ママの仕事が変わったのよ。それで日曜日は家にいるようになったの。今日みたいに時々用事で出掛けることがあるだけなのよ。……私だって、毎週あなたには会いたいわ。でも、どうしようもないのよ」と、彼女は、僕の胸に頬を押しつけて甘えるような声で答えた。
「どこか、別の場所では会えないのかい?」
「どこで会うっていうの? あなたの家は嫌よ。他人の家でセックスなんてしたくないの」
「じゃあ、どこか、ホテルのような場所は?」
「何言ってるのよ。お金はどうするの?」
 貴子に、そんなふうに言われると、僕はそれ以上何も言えなかった。
 僕は、長い間の渇きを癒すために、狂おしいくらい激しく貴子の体を貪った。
 でも貴子と過ごす日曜日が終わり、また月曜日が始まると、もう僕の心も体も彼女の体を求めて激しく渇いてくるのだった。
 僕は、貴子のことをできるだけ忘れていられるように様々な本を読んだり、英単語の暗記に意識を集中したり、石膏デッサンに没頭したりした。
 でも、ちょっとした瞬間に、白い貴子の裸体がどこからか僕の意識に忍び込んできて、そのたびに僕の心は激しく惑わされるのだった。
 勉強にも集中できなくなっていた。一年の秋の模擬試験で上位くらいまで上がっていた順位は、五月末の試験で再びもとの成績に戻っていた。

              4

 夏が近づいてきた。
 教室の堅いイスにじっとすわっているだけで、背中や額に汗が噴き出してくるほど暑い日が何日も続いた。
 貴子からの電話は、相変わらず三週間に一度くらいで、ひたすらその電話を待つことで僕の毎日は過ぎていった。家で勉強していても、視線が文字の上を漂っているだけで、意識を集中することはできなかった。そんな毎日だった。
 貴子の声が聞けるだけでもいいと思い、電話の受話器を取り、彼女の家のダイアル番号を回しかけたことが何度もあった。でも、そのたびに、「家に電話をかけてこないで」という貴子の言葉を思い出し、僕はそのまま受話器を置いた。
 切なくて、苦しかった。たまらく貴子に逢いたかった。

 朝から日差しの強い日曜日、僕はバスに乗って、貴子の家に向かっていた。貴子から誘いの電話がきたわけではなかった。ただ無性に貴子に逢いたくてたまらなかった。貴子の家のあたりをうろつくだけでもよかった。道から、部屋の窓ごしに貴子の姿が見られるだけでもいいと思った。
 でも多少の迷いがなかったわけではない。貴子の家のまわりをうろついている僕の姿を貴子に見られたら、彼女がどのような反応を示すのか、ちょっと心配なところもあった。
 バスを降りて僕は空を見上げた。白っぽく霞んだ青空を背景に、天空まで盛り上がった積乱雲が浮かんでいた。
 僕は、Tシャツが汗で背中に貼りつくのを感じながら、貴子の家をめざして歩いた。歩き始めると、すぐに首筋を汗がつたって流れおちた。庭に植えられた木々の葉や道端の雑草の緑色が、太陽の光を受けて毒々しいほど黒光りしていた。日差しは強く、砂利を敷いた道の上には、まだら模様に木漏れ日の影が映っていた。
 ブロック塀の角を曲がると、遠くに貴子の家が見えてくる。僕は、できるだけ何気ないふうを装って、ゆっくりと貴子の家の前へさしかかる。そしてさりげなく貴子の家を眺める。家の窓はどこも閉じたままで、レースのカーテンも降りている。二階の貴子の部屋も同じだった。テレビの音もラジオの音も何も聞こえてこない。玄関前には車もない。誰もいないようだった。
 そのままあたりの家並みを眺めるふりをしながら、僕はゆっくりと歩き続けた。まもなく四つ角に出て、僕は、これからどうしようかと迷う。どこか時間潰しでもできるような場所がないかとあたりを見まわすと、三十メートルほど離れたところに神社の鳥居らしきものがあった。そちらに向かって僕は歩いていった。
 鳥居をくぐり抜けると、木影になった境内は薄暗く、ほんのりと湿った空気が漂っていた。見上げると、両腕でも抱えられないほど太い柏の巨木が、青空を覆い隠すほどに枝や葉を広げていた。日陰になった地面には、ところどころにはげた雑草が生い茂っていた。
 僕は、参道の石段に腰を下ろした。そしてジーンズのポケットからハンカチを取り出し、額の汗をぬぐった。甲高いセミの声が、幾重にも重なりながらあたりの澱んだ空気を震わせていた。
 僕は、いったい何をしているんだろうと思った。くる日もくる日も貴子のことばかり考え、勉強も何も手につかないでいる。実力テストの成績は、もう下位のあたりまで落ちてしまっている。あげくの果てには、貴子会いたさに、彼女の家のあたりをうろついている。
 なんて愚かなんだろうと、僕は思った。どうして、こんなふうになってしまったんだろう。いつになったら、こんな狂おしい想いから逃れることができるのだろう。いつになったら、以前のように普通の無垢な少年に戻ることができるのだろう。自分自身が、焦れったくて腹立たしかった。
 しばらく、そんなことを考えつづけた。三十分くらいか一時間くらいだろう。いくら考えても、何の結論も解決方法もみつからなかった。
 帰ろうと思って立ち上がった。鳥居をくぐり、直射日光の下に出る。猛烈な勢いで照りつけてくる日差しに、とたんに汗が吹き出してくる。僕は、先ほど歩いてきた道を、そのまま戻ることにした。体がだるかった。重い足取りで貴子の家の前を通り過ぎる。そして何気なく、貴子の家を見上げた時だった。
 貴子の部屋の窓がわずかに開いているのに僕は気づいた。足を止めて、その窓を凝視めた。貴子は帰ってきているのだろうか。耳を澄ますと、その窓からレッド・ツェッペリンの『天国への階段』らしき曲が聞こえてきた。
 どうしようかと僕は躊躇した。でも迷っていた時間は、ほんの少しの間だった。僕は心を決めて貴子の家の門から中へ入っていった。玄関のブザーを押すつもりだった。でも僕の足は、庭の横まで歩いたところで凍りついた。
 玄関の横に見慣れない自転車が止まっていたからだ。ハンドルがU字型に曲がったスポーツ・タイプの自転車だった。サドルの高さといい、濃紺色のフレームといい、明らかに男子用のものだ。
 止まった足が痺れたように動かなかった。僕は、息をこらしたまま貴子の部屋の窓を見上げた。そして身動きもせず、じっと耳を澄ました。
 レッド・ツェッペリンの曲に紛れて貴子の声が聞こえてきたような気がした。でも、何と言ってるのかはわからない。ふたたび貴子の声が聞こえる。そして甲高い笑い声。その後に、男の低い声が続く。くぐもった太い声だ。貴子が、また何かを言う。
 貴子の部屋で、今何が行われているのだろう? そして、あの男の声は誰なんだろう? いろいろと思いをめぐらしてると、動悸が激しくなり、眩暈がした。
 そうやって五分か十分くらいの間、じっと息をひそめていた。でも僕には、まるで一時間か二時間くらいに長く感じられた。
 家の前の道を、白い自動車が通り過ぎる音を聞いて、僕は我に返った。こんなところを通りすがりの人に見られたら、まるで空き巣かドロボウに間違われてしまう。僕はあわてて門を抜けて道路に出た。貴子の部屋の窓を眺めながら、僕はゆっくりと道を歩いた。レースのカーテンのせいで、部屋の中の様子はまったく見えなかった。
 いったいどうすればいいのだろう。突然のできごとに気が動転していて、何をどういうふうに考えればいいのか見当もつかなかった。貴子の部屋で、見知らぬ男と貴子が裸になってベッドの上で絡み合っている姿が、わけもなく僕の眼前に鮮やかに浮かんできて仕方がなかった。そんなふうなことしか考えられない自分が、無性に哀しく、みじめだった。このまま、どこかに走って逃げて行ってしまいたい気持ちだった。
 しばらく歩いたところで僕は立ち止まった。
 あの部屋で、いま何が行われているのか、確かめたほうがいいのではないかという考えが僕の心に浮かんできた。もしかしたら、ただ単に、貴子が誰かと話をしているだけなのかもしれないし、それに、あの部屋にいる男が、ただの友達とか、それとも従兄弟のような親戚の男なのかもしれないのだ。
 自分の想像で勝手に先走りしたりせずに、まずは、事実をきちんと確かめるべきだと、僕は自分に言い聞かすことにした。
 僕は、それから二時間ばかり、貴子の家から五十メートルほど離れた四つ角に立って、彼女の家から、貴子か男のどちらかが出てくるのを待ち続けた。
 吹き出す汗を拭いながら、僕は待った。頭上から照りつける強い日差しがジリジリと僕の頭や肌を焦がし続けた。
 ようやく陽が少し傾きかけた頃だった。
 貴子の家から、自転車に乗った男が、ゆっくりと出てくるのが、ぼんやりとした視界に映った。その男は、幸い僕の方に向かって近づいてくる。
 赤いTシャツに膝で切り落としたジーンズをはき、髪は短く刈り上げたスポーツカットで、黒いサングラスをかけている。顔も腕も足も、こんがりと気持ちよさそうに焼けていた。歳は、僕より一つか二つくらい上だろう。
 口笛を吹きながら自転車をこいでくるその男を見ながら、ためらいを感じなかったわけではない。何も見なかったことにして、貴子とこれまで通りのつきあいを続けたほうがいいのではないか。あの男に声なんかかけないで、このまま家に帰ったほうがいいのではないか。
 そんなことを考えながら、気がつくと僕は道路の中央に足を踏みだしていた。緊張感で、心臓の鼓動が激しくうっていた。
 その男は、僕の姿に気づいたようだった。僕を避けようと、道の左に寄ろうとする。
「ちょっと、話があるんだ……」と僕は、自転車の前に立ちはだかる格好で、そのサングラスの男に声をかけた。
 男の顔に訝る表情が浮かんだ。ブレーキを踏み、右足を地面につけて止まる。サングラスの後ろから、鋭い目つきが僕を睨みつけている。
「何だよ?」と、男がドスのきいた低い声で答える。
「今、貴子の家から出てきたでしょう? あの……貴子の友達か何かなんですか?」
  その男は、戸惑った顔を浮かべて僕を見ていた。
 しばらくしてから、「アイツの友達だったら、いったい何だっていうんだ?」と威嚇するような口調。
「いや、別にどうってことはないんだけど、どういう関係なのかなあと思って」と僕はしどろもどろに答える。
 その男は、何も言わずに、僕の体をねめつけるように爪先から頭まで見回した。
「お前こそ、いったい何者だんだ。他人にそんなことを訊く前に、自分の名前くらい言ったらどうなんだ。お前こそ、アイツと、いったいどんな関係にあるっていうんだ?」
「……僕は、僕は、杉本っていいます。貴子とは、友達です」と、僕は小さな声で答えた。
「アイツと同じ学校か?」
「いや、……学校は違うけど」
「それで、オレとアイツの関係を聞いて、いったいどうしようっていうんだ?」
「いや、何かしようっていうわけじゃないんだけど」
 その男は、再び口を閉じると、僕の顔をじっと睨みつけた。しばらくしてから、その男の顔にニタリと不敵な笑みが浮かんだ。
「そうか、お前のことか……」
「……何のことですか」
「アイツが、冬頃からつきあっている男っていうのは、お前のことか。……それにしても、青白くって、ずいぶんひ弱そうな男じゃねえか。今度は、こんな男がよくなったんだ」
 僕は、返事をせずに黙っていた。
「お前、俺がアイツとベッドの中で乳くりあっている間、ずっとここに突っ立って待ってたのか? まったく、こんなクソ暑い中で、よく立ってられるぜ。バカじゃねえか、お前。
 ……そうだ、もうアイツの体は空いたからよ、今からアイツのところに行って思う存分抱かせてもらったらいいぜ。俺のことは何にも気にしなくていいからよ」
 僕は、無意識のうちに拳を強く握りしめていた。自分でもわけのわからない怒りが腹の底からわき上がってきて、眼前に赤や黄色の炎が炸裂するのが見えた。
 気がつくと、僕は男に向かって足を踏みだし、卑猥な微笑を浮かべている男の顔面の真ん中に、自分の拳を叩き込んでいた。
 痺れるほどの衝撃が、右腕を貫いた。
 サングラスが宙を舞い、顔をのけぞらせたまま、男が自転車ごと道路にひっくりかえるのが見えた。
 男は、何が何だかわけが分からないといった表情で立ち上がってから、途端に険しい眼で僕を睨みつけた。
「なんだ、てめえ!」
 怒鳴り声を上げ、男が右腕を振り上げながら僕に近づいてきた。相手の拳をかわそうと思ったその瞬間、顔面に火花が散った。視界が途切れ、気がつくと僕の体は道路に叩きつけられていた。
「いい気になるんじゃねえよ、この野郎!」
 今度は、腹に衝撃が食い込んできた。二発、三発と続く。僕は、海老のように体を曲げてお腹を抱える。胃の底から、吐き気がこみ上げてきて、ウッと口を開きかけた時だった。
 僕の顔面に、男の蹴りが炸裂した。鼻筋に激痛が走る。続いてもう一発、目のあたりに衝撃が突き抜けた。
 僕は、目も開けられない状態で、まるで野良犬の死骸のようにごろりと路面に横たわっていた。ヌルヌルした液体が、鼻の穴から頬をつたって道路に流れていった。
「お前、タカコに本気で惚れてるらしいな」
 頭上から、男の声が聞こえてきた。
「お前に、いいこと教えてやるよ。アイツはな、俺やお前とだけつき合っているわけじゃないんだぜ。他にもいっぱい男がいるんだよ、乳くりあってる男達がな。そういう女なんだよ、アイツは。純情そうな、しおらしい顔してるから騙されそうになるけどよ、あれはインラン女だぜ。男キチガイだよ。
 最初はよ、俺も頭にきてぶん殴ったりしたけどよ、今は割り切ってつきあうことにしてるんだ。時々抱かせてもらってさ、それで楽しんでおしまいよ。
 お前、ずいぶん真面目そうだけど、マジでアイツとつきあおうなんて思ったら、こっちが腹立つだけだぜ。適当にやらしてもらって、それで楽しむことだよ。
 じゃあな、まあせいぜい頑張れや」
 男の足音が遠ざかり、間もなく自転車を漕ぎ出す音が聞こえてきた。タイヤが砂利を蹴る音が、だんだんと去っていく。
 急に胸が悪くなり、僕は口からドロドロの液体を吐いていた。二度、三度、波のように繰り返し吐き気が襲ってきたが、途中からは唾液しか湧いてこなかった。

           5

 どこをどう歩いたのか覚えていない。乾いた茶色の地面の色だけが、僕の脳裏にある。気がつくと、あたりは薄暗く、一軒の家の前に僕は立っていた。
 僕は玄関の呼び鈴を押す。ドアが開き、いつもの優しげな柴田さんの顔があった。
「何があったんだよ?」と彼は、僕の顔つきを見るなり険しい表情を浮かべた。
「ちょっと、いいですか?」とだけ僕は答えた。
 彼はすぐに僕を洗面所に連れていき、顔を洗わせた。洗面台の鏡に映った僕の顔は、右目の上と、鼻のあたりと、下唇がぶす色になって普段の三倍くらいに腫れ上がっていた。右目は、ほんの僅かしか開いていない。笑い顔を作ってみると、いつかテレビで見た「ノートルダムのせむし男」そっくりの薄気味悪さだった。
 それから彼は、すぐに彼の母親を呼んできて傷の手当てをさせた。彼の母親は「あらあ、ひどいわね」と驚きの声を上げただけで、あとは何も言わず、傷の消毒をしたり薬を塗ってくれたりした。
 傷の手当てが終わると、彼は僕を二階の彼の部屋に通してくれた。僕と彼は小さなテーブルを挟んで、床の上に座った。
「何かまずいことでもあったのか?」と彼がさりげなく訊いた。
 僕は、小さく頷く。
「俺で、相談に乗れることだったら、何でも聞いてやるぞ」
 柴田さんのあたたかい言葉が胸に染みてきた。
 僕は再びコクンと小さく頷き、「じつは……」と口を開きかけたところで、突然涙が湧いてきた。一筋、涙が頬を伝って落ちると、次から次へととめどもなく涙が流れてきた。
 そうやって五分くらいも泣いていただろうか。
 気持ちが、いくぶん落ちついてきたところで、再び僕は口を開き、貴子と初めて出会ってから、その日までの出来事までをこと細かく話した。去年のシルク・スクリーンの講習会でのことから、始めて彼女を抱いた日のこと、そして今日、見知らぬ男に殴り返されたことや、彼が喋っていたことまでも。
 すべて話すのに一時間以上もかかった。
 全部話しおえると、少しだけ気持ちが楽になった。
 柴田さんは何も言わず、黙って僕の話を聞いてくれた。そして僕の話が終わると、しばらくしてから、
「杉本は、いい勉強をさせてもらってるな」と、微かな笑みを浮かべた。
「そういう人生勉強って、高校では当然学ぶことができないものだし、もちろん本を読んでも学ぶことができないものだ。でも、お前を人間として大きく成長させてくれる貴重な経験だと思うよ」
 しばらく沈黙が続いてから、再び柴田さんが口を開いた。
「お前が、そうやって苦しんでるってことは、その貴子さんって女の子のことを真剣に愛しているからなんだろう。だったら、お前が納得できるところまで行くしかないんじゃないかな。
 誰を好きになろうが、真剣であればあるほど、傷つかない恋愛なんてどこにもないさ
 ……とりあえず、その男の言ってることをそのまま鵜呑みにしないで、一度貴子って女の子とじっくりと話をして、真偽を確かめたほうがいいんじゃないかな」
 柴田さんは、貴子の件については、それ以上何も言わなかった。
 彼の家を辞すると、もう夜の八時を過ぎていた。昼間の熱気は冷め、ちょうど気持ちのいい涼風が吹いていた。
 僕は、重い心を引きずったまま、暗闇の底を自分の家へ向かって歩いた。

            6

 家に帰ってからが大変だった。父親と母親が僕の顔を見るなり、何があったんだと厳しく僕を問い詰めた。
 僕は、友達の自転車の後ろに乗っていて転んだんだと答えて、それ以上何も言わなかった。それだけで両親がすぐに納得するはずがなかった。今すぐ警察に行って、何があったのか全部話せと強い口調で二人が言う。
 僕は、自転車で転んだだけでなんだと両親を怒鳴りつけて、茶の間から飛び出し、そのまま自分の部屋に閉じこもった。
 夜、布団に入っても、貴子のことを考えていると一睡もできなかった。腹と顔の鈍い痛みは夜中じゅうずっと続き、時折わきあがってくる嘔吐感に耐えきれず、何度もトイレで胃液のようなものを吐いた。
 翌朝、体はだるくて熱っぽかった。頭の中には、釘か何かの異物が突き刺さっているような鈍痛があった。布団から起き上がろうとすると、部屋の壁と天井がぐらりと揺れた。
 いつまでも起きてこない僕を心配して顔を出した母親に連れられて病院に行き、レントゲンの検査をうけたが、内蔵にも脳にも骨にもどこにも異常は見られなかった。しばらく安静にしていれば直るだろうと医者に言われ、飲み薬をもらって僕たちは家に帰ってきた。
 それから三日ほど、僕は学校を休み、ずっと家で寝ていた。吐き気は間もなくおさまったが、顔の腫れはすぐにはひかなかった。
 二日目の夕方に、柴田さんが「死んだのかと思って、心配してきたぞ」と言って、見舞いに顔を出してくれた。
「お前が死んだら、『杉本君は好きな女に恋こがれて、狂い死にしました』って弔辞を読んでやるよ」と言って、僕を笑わしてくれた。
 四日目に、僕は学校に顔を出した。登校すると、通りすがりのみんなが、僕の顔を見て、驚くような表情を浮かべたが、僕が無視していると、誰もそのことを、あえて口に出して尋ねようとはしなかった。
 顔の傷は日ごとに回復していったが、心の中の迷いや苦しみは、ひたすらその度合いを深めていくだけだった。授業中は教師の話などまったく耳に入ってこなかった。家に帰ってからも勉強が手につかず、ただひたすら貴子のことを考えつづけた。

 貴子から電話がきたのは、僕がサングラスの男に殴られてから二週間後の土曜日のことだった。
 その翌日は、朝から雨が降っていた。時折、雨の勢いが激しくなり、閃光があたりの風景を真っ白に染め、その直後に雷鳴が大地を揺るがした。
 傘を差していたにもかかわらず、貴子の家に着いた時には、顔も服も靴も全身びしょ濡れだった。貴子は、すぐにバスタオルを用意してくれた。顔や手などを拭いてから、僕はすぐに貴子に声をかけた。
「ちょっと話したいことがあるんだ」
 貴子は、ちょうどピンク色のTシャツを脱ぎかけているところだった。僕は、腰かけていたイスから立ち上がり、ステレオのボリュームを下げた。叫び上げていたミック・ジャガーの声が、一瞬にして、小さな囁きに変わった。
 貴子は、ちょっと変な顔をしてからTシャツを頭から脱ぎ、ブラジャー姿のまま、ベッドに僕と並んで腰を下ろした。
「何、話って?」と、貴子は艶めかしい笑みを口許に浮かべて僕を凝視めた。
「じつは……二週間前の日曜日、君にどうしても逢いたくなって、この家の前までやって来たんだ」
 そこまで言ってから、僕は呼吸を整えて、貴子を見た。
 貴子は、何気ないふうを装って、僕の話を聞きつづけていた。
「ちょうど昼前くらいの時間だった。君の姿が窓から見られるだけでもいいと思って来たんだけれど、家の前を通ったら、どこの窓も閉まっていて、誰もいないようだったんだ。それで、すぐ近くの神社の境内でちょっと休んでから、またこの家の前を通ったんだ。そしたら、君の部屋の窓が開いていて、ステレオの音が聞こえてきたんだ。確か、レッド・ツェッペリンの『天国への階段』だったと思う。それで君が帰ってきたんだと思って、門から入ってきて、玄関のベルを押そうとしたんだ。そしたら男物の自転車が置いてあった……」
「ちょっと待ってよ、ユウ。二週間前の日曜日は、私、パパと一緒に街に買い物に行ってたのよ。ちょうど昼頃はデパートの食堂でごはんを食べてたわ。その時間、家にいたのはママしかいないわよ。私のママって、時々私の部屋でステレオ聴いてるみたいだから、それ、きっと私のママだったんだわ。……男物の自転車っていうのは、私の従兄弟のものよ。あの日、家に遊びに来てたっていうから、きっとそうに間違いないわ」
 貴子は僕の言葉をさえぎるように、ややヒステリック気味の甲高い口調で一気にまくしたてた。
 貴子の話がとりあえず終わったことを確認してから、僕は再び口を開いた。
「それで、いったんは帰りかけたんだけど、勝手に僕が誤解をしていてもまずいだろうと考えて、君か、あるいは自転車の持ち主に、きちんと話をきくべきだろうと思い直して、実はずっとそこの四つ角に立って、この家から誰かが出てくるのを待っていたんだ。三時間か四時間くらい、ずっと立って待っていた。
 そしたら、サングラスをかけた男が、この家の前にあった自転車に乗って出てきたんだ。それで、その男に声をかけて、君とどんな関係なのかを尋ねたんだ……」
「ねえ、聞いてくれる? アイツ、なんて言ったか知らないけどさ、とってもひどい奴なのよ。あれは、ちょうど一年前くらいだったんだけど、私がデパートで買い物をしてドアから出ようとしたら、『お前、万引きしただろう』ってインネンつけてきて、見たら私の手提げ袋の中に、私が買ってもいないハンカチが入っていたの。それで、『万引きのこと、みんなに黙っていてほしければ俺の言うことをきけ』って言って、それからずっと、そのことをネタに、私にまといついてる悪どい奴なのよ。
 あんな奴、最低のワルだわ。あんな奴の言うことなんか、絶対に信用しちゃダメよ。ねえ、わかった、ユウ?」
 貴子は、絞り出すような細い声でそこまで一気に喋ると、涙に濡れた目で僕をじっと凝視めた。そして僕の左腕をぎゅっと掴み、二、三度大きく揺すった。
 僕は、小さくため息をついた。貴子の顔から視線をはずし、自分の掌を見ながら、再び僕は口を開いた。
「君の言ってることは、支離滅裂だよ。さっきは、お父さんといっしょに買い物に出かけていたって言ったじゃないか。それに、その自転車の持ち主は君の従兄弟だって」
「違うのよ、ユウ。あなたに変に誤解されたら困るなあって思っただけなのよ。勘違いしないで」
「……とにかく、最後まで僕に話をさせてくれないか。それで、そのサングラスの男が、君のことをこんなふうに言っていた。
 君がつきあっているのは、アイツや僕だけじゃなく、他にもたくさんいるって。乳くりあっている男達がたくさんいるって……。君は、純情そうな、しおらしい顔をしているけど、インラン女だって、男キチガイなんだって……」
 その時だった。
「ギャアアア……!」という、耳をつんざくばかりの動物の叫び声が部屋いっぱいに響きわたった。咄嗟に僕は、テレビで聞いたことのある『ハゲタカ』の鳴き声を思い出していた。
 驚いて自分の掌から目を上げ、横を見ると、貴子が両手で耳を押さえ、頭を左右に激しく振りながら、あらん限りの声を振り絞って叫んでいた。半ば閉じかけた目は、白目が剥いていた。
 何が起きたのか、僕はわからなかった。僕は、信じられない思いで、貴子の絶叫をただ茫然と聞いているだけだった。
 一分くらいも、貴子の叫び声は続いていただろうか。
 長い叫びを止めると同時に、貴子は激しい勢いで立ち上がると、窓を背にしたまま、眼球が飛び出るほどに大きく見開いた目つきで僕を睨んだ。激しい呼吸で、貴子の肩が上下していた。
「ねえ聞いて。私、ユウには悪いことしてるなってずっ思ってた。騙し続けてるって、ずっと思ってたわ。でも、自分でも、どうしようもなくなるの。時々、自分が自分でなくなっちゃうのよ!
 私の体の奥に、何か別の生き物が住んでいて、そいつが私をそそのかすの。男の一人や二人ぐらいじゃあ物足りないから、もっと他の男をいっぱい探してこいって!」
 貴子が、自分のほっぺたを右手でつまみ、ぐいと横に引っ張る。
「そう、この皮膚の下で別の何かが、そんなふうに囁くのよ! そしたら私、それに逆らえなくなっちゃうの。そいつの言いなりになっちゃうのよ!
 誰かが好きになったら、その人とだけつき合おうって、いつも心に誓うのよ。でも、やっぱり駄目なの。
 そいつが、私の体の中でうごめきだすと、私はそれに逆らえなくなっちゃうの! 別の人間になっちゃうのよ! そして、気がついたら、見たこともない別の男に抱かれてるの……」
 獣のように激しく黒光りしている両目から、ボロボロと涙がこぼれ落ち、頬を流れていった。
 表情も口ぶりも、いつもの貴子ではなかった。それこそ貴子ではない別の何かが、貴子の皮膚をまとって喋っているみたいだった。
「ねえ、お願いだから、私のこと嫌いにならないでね。ユウがいないと、私、気が狂っちゃうわ!」
 そう泣き叫びながら、貴子が近づいてきて床にひざまずき、ベッドに腰かけている僕の腰に抱きついてきた。
 普段の貴子と、今の貴子の落差があまりに激しく、僕は声も出せないまま、貴子に抱きつかれるままになっていた。
「ねえ、お願いよ。もう絶対に他の男とはつきあわないから、私のこと、嫌いにならないで!」
 腰に抱きついたまま貴子が、僕を恨めしそうな目つきで見上げる。目も頬も口許も涙でベトベトに濡れていた。貴子らしい気品や美しさは、どこにもなかった。そこにいるのは貴子とは別の生き物だった。
「……うん、わかったよ」と僕は、ようやくの思いで答えた。
 もしそう答えなかったら、貴子がもっと気も狂わんばかりに暴れ出しそうな気がしたからだ。
 貴子は、僕の腰に顔を埋めたまま泣きつづけた。
 そんな貴子を見て、可哀相だとか、愛しいという感情のかけらも、もう僕の中には湧いてこなかった。僕の、初めての大人の恋は、すっかり色あせ、まるでミイラのように干からびてしまっていた。
 彼女が泣き止むまで十分くらいかかっただろうか。
「ねえ、お願いだから私を抱いて」と貴子が小さな声で呟き、ぼくのズボンを下げる。僕は、何の抵抗もせずに、彼女のされるがままになっていた。
 そして、気がつくと、僕たちはいつものようにベッドの上で交わっていた。でもそこにあるのは、ただ単なる獣のオスとメスのセックスでしかなかった。
 人間らしい熱い感情は、もう僕のどこにもなかった。
 僕の体の下で呻き声をもらしている貴子が、いつもの貴子なのか、それとも別の何者かなのか、もう僕には何もわからなかった。
 そして、貴子への気持ちも冷めたまま、ただ快楽のためだけに腰を動かしている僕自身も、いつもの僕なのか、それとも別の何者なのか、僕にはわからなかった。

              7

 それを最後にして、二度と貴子と会うことはなかった。
 彼女から何度か会いたいという電話がきて、僕はわかったというふうに曖昧な返事をしたが、再び彼女の家を訪れることはなかった。
 貴子が、あの異常に狂った目つきを浮かべ、獣の叫び声を上げながら、突然僕の目の前に現れるのではないかと不安に思っていた時期もあったが、それは単なる僕の杞憂にすぎなかった。
 気持ちの整理をするのにしばらくかかったが、三か月もすると、僕は、もとのありふれた目立たない高校生に戻っていた。
 そして、放課後になると薄暗い美術室にこもり、誰とも口をきかず、気ままに絵を描き続けた。

 柴田さんが、病院に再入院したのは十一月のことだった。
 冷たい北風の吹く日曜日の午後、僕は彼の病室を見舞いに訪れた。柴田さんは、六人部屋の一番窓側のベッドで、横になったままぼんやりと窓の外を眺めていた。
「大丈夫ですか」と僕が声をかけると、
「今度こそ、俺もダメかもしれない」と、弱々しい笑みを浮かべた。
 思いもかけない柴田さんの暗い口調に、逆に茶化す以外に言葉がなくて、
「何、言ってるんですか、まだ女も経験してないのに」と言うと、
「女に関してだけは、杉本は俺の先輩だからな」と、柴田さんは笑いながら答えた。
「……ところで、例の貴子さんっていう女の子とは、どうなった?」と、柴田さんが訊いた。
「もう、ずっと会ってません」
「……そうか。ずいぶん美人だという話だから、お前が飽きたら、次は俺にまわしてくれって頼もうと思ってたんだけど、残念だったな」と、柴田さんは、ちっとも残念そうではない、明るい口調で言った。
「新しい彼女はできたか?」
「冗談はよして下さいよ。女性はもうこりごりです」
「俺も、死ぬ前に一度、そんなセリフを言ってみたいよ」と、柴田さんがジェスチャーを交えて大袈裟に言った。
 それからも何度か、僕は彼の病室を訪ねた。
 彼の病状は一進一退のまま好転する様子もみせず、その後、二度と高校に現れることはなかった。

 翌年の二月に連合赤軍の浅間山荘事件が起こり、僕は息を飲むような気持ちで、じっとテレビに見入っていた記憶がある。
 クレーン車につるされた鉄球が、山の斜面に建っている家の壁にぶつけられ、放水車から水が浴びせかけられた。山荘の窓からパン、パンとライフル銃の短い音が響き、地上の機動隊からは白煙の尾をひいてガス弾が打ち込まれた。
 その様子を見ていて、未来に夢を抱くことができた時代も、もうこれで終わってしまったんだと、僕はぼんやりと感じた。

  柴田さんが亡くなったらしいという噂を聞いたのは、僕が東京で大学生活を送っていた頃のことだ。
 もしも彼の言っていたとおり、また生まれ変わって、この世のどこかで別な生を送っているのだとすれば、柴田さんは今度こそ健康でたくましい体を備えて、元気に暮らしているのだろうと、時折ふと思うことがある。

【帯広市図書館「市民文藝」第38号1998年発行 掲載)