「青春の挫折」
24歳の春、僕は教員を辞めた。東京に出てって、雑誌編集者の仕事をするためだった。両親に猛反対されたけど、それを無視して強行した。
マスコミで働いてたら、そのうち作家くらいになれるんじゃないか。そんな安易な夢を描いてた。でも、もちろ東京の現実なんて、そんなに甘くはなかった。
最初に勤めた下請けプロダクションは、徹夜の連続で日曜もないくらい忙しかった。睡眠不足と疲労過多で、ずっと体調が悪かった。
1年半後、十人ほどの小さな出版社に移った。でも半年後、「アンタには編集者の能力がないね」と、クビを言い渡された。
仕方なく、ミニコミ新聞の編集記者を始めた。原付バイクで街を取材して回り、お店の記事なんかを書いた。その頃には、もう上京当初の充実した意欲なんて失せてた。
1年ほどして腸閉塞の手術を受け、帯広の実家に帰ってきた。みじめで不様な帰郷だった。でも親は、そんな僕を、何も言わず黙って受け入れてくれた。
これから何をすればいいのか、どうやって生きていったらいいのか、さっぱり分からなかった。
そんな時、たまたま村上春樹の『羊をめぐる冒険』を読んだ。自死して、異界に潜んでしまった「鼠」と、暗い家に閉じこもってる自分の姿とが重なって見えた。
今でも、その本の背表紙を見ると、当時の絶望的な気持ちが、じわじわと湧き上がってくる。
「不出来な学生」
「君の卒論、何度も読んだが、ぜんぜん理解できんかったぞ」
卒論面接の部屋に入り、H教授の前に座るなり言われた。もともと覚悟はしてた。でも予想以上に厳しい言葉だった。
「この付箋の数を見てみろ。ほら、こーんなにたくさんある。これ、ぜんぶ理解できんとこだ」
彼が持ち上げた卒論には、ビラビラとたくさんの付箋が並んでた。
「今までいっぱい卒論を読んできたが、こんなヒドいのは初めてだ」
何も言い返せず、じっと身を固めて座ってるしかなかった。ただ、僕にしたって言いわけめいた理由がなかったわけじゃない。
3年から4年にかけて、ずっと軽い鬱状態が続いてた。そんな中での卒論執筆だった。テーマもなかなか決まらず、しんどい気持ちを抱えながら取り組んだ。僕にしたら、仕上げられただけでもラッキーなくらいだった。
でも、それは僕の事情であって、教授には関係のないことだ。だから黙って教授の言葉をうけとめた。
面接時間の30分、ずっと僕を批難する言葉が続いた。そして最後の決めセリフは、こんな感じだった。
「君は、教員を志望してるんだったな? でも、こんないいかげんな論文を書いてて、責任ある教員の仕事なんて、できるのかね?」
さて、世の大学教授の皆様に伏してお願いしたい。不出来な学生にも、多少は寛容の気持ちで接してあげてほしい。そうしてもらえたら、今も不出来な人間として暮らしてる僕としては、本当に嬉しい。
「父親の戦争」
ロシアのウクライナ侵攻には、ただ怒りしか覚えない。狂気の進軍の行き着く先は、どこなのか?
92で亡くなった僕の父親は、20歳で太平洋戦争に出兵してる。最初は満州の牡丹江へ。その後、沖縄の宮古島に移った。
もしも沖縄本島に部隊が移動してたなら、間違いなく僕はこの世に生まれてなかったろう。
父は宮古島で、ほとんど毎日のようにトンネル掘りをしてたという。大砲を移動させるためのものだ。
本島が米軍に占領された後は、連日グラマンの空襲を受け、穴の中で寝起きするようになった。
そんなある日、仲間の兵士が栄養失調で亡くなった。部隊長から、「誰かオンボ焼きできる者はいないか?」と問われ、父は勇んで右手を挙げた。周囲を見ると、挙手したのは父一人だけ。それでオンボ焼きの長に任命された。
山から枝を集めてきて、遺体を燃やそうとしたが、上手くいかなかった。生木の枝は火勢が弱い上、軍服を着たままの遺体は燃えづらい。体の脂肪分が衣服に染みだし、炎はくすぶるばかりだった。棒で突いて、シャツを破きながら焼いたそうだ。
焼き終るのに丸一日。骨は山中に埋め、木の墓標も立てた。
終戦となり、帰国する前に墓を掘り起こた。持ち帰ってきた遺骨は、兵士の実家に届けたらしい。
それを語る父の口調は、ひどく暗く、重かった。
そんな戦争が、また始まった。
「不登校の子供たち」
教員を退職した後、6年ほど「適応指導教室」の指導員をした。
そこは、いわゆる不登校の小中学生のための教育支援施設である。
勤務し始めた当初、彼らをなんとかして学校に復帰させようと意気込んだ。なだめたり、すかしたり。時には強く説得したり。それが指導員の仕事だと信じてた。でも、無理強いして学校に戻しても、また不登校になったり、僕らの教室に 戻ってくる子もいる。
時間がたつにつれて、彼らが「自分は学校社会の落後者だ」という根深い絶望感を抱いてるのを知った。それで、僕は少しずつ自分の考え方を変えていった。
まあ、何が何でも学校だけが成長の場所ってわけじゃない。1週間に1日でも2日でも、こちらの教室に顔を出して、他の子供とおしゃべりしたり、ミニバレーをしたり、ちょっと勉強したり。そんなふうに楽しい時間を過ごせたなら、僕ら指導員の役割って、十分なんじゃないか。
手探りしながらの毎日だった。延べ30人くらいの子供たちと出会ったが、2年前に指導員を辞めた。
の春、高校を卒業するという女子生徒から突然、電話が来た。個性の強い彼女は中学校に居場所が作れず、家庭にも不満を抱えていた。でも、僕らの教室にいる時は、警戒心を解き、心地よさそうに過ごしていた。あれから3年、4月からは札幌の専門学校に進学するという。声が明るく弾んでいた。
彼女がたくましく未来を生き抜いていってくれることを、僕は心の中で強く祈った。
「4年の恋の結末」
大学に入学して間もなく、目の前を歩いていく女の子に心を鷲づかみにされた。一目惚れってヤツだ。
彼女は英米科の一年生。華やかな雰囲気を纏った美少女だった。人一倍勝ち気な性格で、物言いも白黒ハッキリしてる。でも、それがまた僕には魅力的に見えた。
同じワンゲル部に入り、少しずつ彼女と親しくなっていった。2年になり、思い切って告白した。でも僕の気持ちは受け入れてもらえなかった。僕みたいな優しいだけの男って、彼女のタイプじゃなかった。
でも、諦めきれなかった。その後も2回くらいアタックした。やっぱり拒絶された。一方的に焦がれる恋情を抱えたまま、大学四年がすぎた。
卒業式が近づき、彼女に手紙を書いた。男としての面子も捨て、自分の内側にあった気持ちを洗いざらい出した。こんなことまで書いたら彼女に嫌われるだろうな。でも、どっちみち彼女は卒業するし、もう嫌われてもいいや、と居直って投函した。
3月に入り、友達と京都へ遊びに出かけた。たまたま東京から来てる同じ歳の女の子に出合った。話してみると読書の好みが似ていて、すぐに意気投合した。控えめな彼女の人柄も素敵に感じた。4年ぶりの、新しい恋の始まりだった。
京都から帰ってきた時、英米科の彼女から電話が入った。
「あなたの手紙、読んだわ。なんか自分の気持ちがわからなくなってきたの。ねえ、私と会ってくれない?」
僕は、すぐに返事ができなかった。
「人生のプラスとマイナス」
「人生の恨み辛みを晴らしたい。それが小説を書く理由かもしれません」。昔、ある座談会で、そう喋ったことがある。
もともとは僕の言葉じゃない。作家の宮本輝が、どこかで語っていたフレーズだ。まったく同感だったので、それを拝借させてもらった。
生きていると、理不尽で不条理な厄災に見舞われる。その度に、僕らは落ち込んだり、歯ぎしりしたり、時には誰かに八つ当たりする。
でも、そんなことをしたって負の感情は何も解消されない。それどころか、運命にたいする呪わしい気持ちは積み重なり、やがてドロドロの赤黒い塊になっていく。
その塊から発する負のエネルギーに突き動かされるように、僕は小説を書き始めた。三十代半ばから十年間、帯広の『市民文藝』に百枚あまりの作品を発表し続けた。書いても書いても、赤黒い塊が自分の中から消えることはなかった。僕は物語の奥に、負の感情を塗り込めるようにして小説を書き続けた。
でも十年を過ぎた頃、ふと気づいた。自分を突き動かしていた、あの赤黒い塊が消えてることに。それと同時に、小説を書きたいって気持ちも、どこかに消失していた。
人生における「マイナス」は、時として「プラス」を生み出したりする。でもそれと同時に、また別の「マイナス」を引き起こしたりもする。そんな作用・反作用が連綿とつながってくのが、あるいは人生ってものの不思議な正体なのかもしれない。
「ある友人の死」
「昨日の午後、Sが死んだの」
電話をしてきたのはSの妻だった。彼女が仕事から帰宅すると、腹膜の人工透析をしてたSが、書斎で息を引き取っていたという。
彼女は、僕が東京で編集者をやっていた当時の同僚。Sは、フリーのライターとして、その編集プロダクションに出入りしてた。
Sと僕は文学の好みが似ていて、すぐに親しくなった。一緒に文芸同人誌を出したりもした。でも、僕が十勝に帰ってきて『市民文藝』に小説を発表するようになった頃、二人の関係は悪化した。きっかけは、ささいな文学観の違いだった。
僕の小説は、青春の挫折を描いた暗鬱な話が多かった。Sは、「話が暗くて、主人公が自己憐憫に酔いすぎてる。もっと明るく前向きな物語を書くべきだ」と言ってきた。
彼の言葉が気に入らなくて、反論の手紙を送った。それをきっかけに、僕らはすっかり疎遠になった。
原因は、たかがちょっとした好みの違い。でも、お互い相手の主張が受け入れられなかった。自分で言うのもなんだけど、文学愛好家って意固地な人間が多い。和解せぬまま、Sは黄泉の人となってしまった。
後日、Sの位牌に手を合わせるため、東京まで出かけた。
生前のままの書斎に入ると、壁を埋め尽くす本が並んでいた。彼女が、遺品として好きな本を持ってっていいと言う。吉行淳之介の『暗室』に手に取った。タイトルからして暗鬱そうな小説だ。ふと苦笑が浮かんだ。
「思想信条のない男」
「思想信条」なんて言葉を聞くと、正直ビクッとしてしまう。
そういった高尚なものを放棄して、すでに久しいから。
学生の頃は、埴谷雄高や本多勝一などの政治論集なんかを読み漁って、心情的左派を自認してた。自分は反体制的な人間だと信じて疑わなかった。公務員時代だって組合に入って、人並みに活動した。平和憲法を守れとか、自衛隊はいらないとか、そんなフレーズを声高に叫んだ。
でも、ある日、事態は一変した。
僕自身が、管理職になったのだ。それは成り行き上のこともあったし、出世欲みたいなものもあった。
その日から、僕は個人的な思想信条は棚上げして、お上の指示に素直に従う人間になった。職務上、それは当たり前のことだから。
当時の現場は、国旗掲揚とか国歌斉唱などの指導をめぐって、管理職と組合員とが鋭く対立していた。
20人くらいの組合員に取り囲まれ、糾弾されるような雰囲気の中で交渉したこともあった。僕は、自分の考えは脇に置き、上部機関の指示通りに説明し、いわば機械的に対応した。それが管理職の責任であり、使命だと覚悟してた。
ただ、それを続けていく過程で、自分の中の何かが壊れ、死んでいくのが分かった。でも、それは自分が選んだ道だ。誰のせいでもない。
そんなわけで、今は思想信条なんて高尚なものは、まったく持ち合わせてない。これって、まあ自業自得みたいなもんだけど。
「初恋が終わるとき」
初恋は、中一の時だった。その子を見かけただけで、心臓がドキドキして顔が火照ってくる。家に帰っても、ずっと胸がモヤモヤしてた。相手は、幼馴染のA子ちゃん。
悩んだあげく、思い切って手紙を出すことにした。でも自分の正直な気持ちは、とても恥ずかしくて書けない。だから「友達として手紙のやり取りをしたい」って書いた。
どんな返事が返ってくるか、ずっと心配だった。一週間ほどで返事が来た。「友達として手紙のやり取りしてもいいですよ」と書いてあった。嬉しくて、小躍りした。
それから僕たちは、二週間に一回くらいの間隔で手紙を送りあった。大好きな相手と文通交際ができて、めちゃくちゃ幸せだった。
秋の終わり頃、突然A子ちゃんが僕の家にやってきた。手紙を僕に差し出すと、何も言わずに帰ってしまう。急に不安に襲われた。怖くて、しばらく手紙の封が切れなかった。
「もうこれ以上、友達として手紙のやり取りはできません」
それだけ書いてあった。ああ、これで僕の初恋は終わったんだ。惨めで、哀しくて、布団を被って泣いた。
十年ほど後のこと、仲の良かった女友達にその話をした。すると彼女は、僕を嘲笑するように言った。
「五嶋くん、それって逆じゃない?A子ちゃんは、たぶん君のことが好きになったのよ。だから、単なる友達として、もう手紙のやり取りができないって書いたんだわ」
「まさか」僕は絶句してしまった。
「幸せなウオーキング」
12月になって、十勝も冷え込みが厳しくなってきた。
朝食後、夫婦で1時間あまりのウオーキングに出かけることに決めてる。北に日高山嶺の遠景を眺めながら、住宅街を散策する。小春日和の陽光を受け、小鳥のさえずりなんかが聞こえてくると、ああ、日本って平和なんだなって、しみじみ感じる。ロシアのウクライナ侵攻のニュースを日々見るにつけ、当たり前の日常に心から感謝したくなる。
僕がウオーキングを始めるようになったのは、現役時代に管理職となってからだ。腸閉塞で開腹手術を受けて、ストレス解消の健康法として、やむにやまれず始めた。
当時のウオーキングは、相当にいびつなものだった。歩いてる最中、ずっとブツブツと独り言を唱えていた。それは、誰かへの罵詈雑言だったり、トラブル相手への悪態だったり。まあ、そんな言葉だった。
そうやって胸の中の鬱屈を吐き出さずにはいられなかったのだ。弁解するわけじゃないけれど、それくらい精神的に追い詰められていた。そうやって毎日のストレスを解消しないと、とても翌日の闘いに備えられなかった。
とりあえず僕は15年あまりの管理職期間を、なんとか乗り越えた。
年金生活者になった今、そういった重い責任からは解放された。だからウオーキングも、ただ純粋に楽しんでいられる。
来年も、同じように平和な日々の中で歩けたらいいなって思う。
「火葬場の慟哭」
大学4年目、試験週間の最終日。朝から冷え冷えと寒かった。試験を終え、外国学部棟の玄関を出ようとした僕の目に、赤ランプを回転させた救急車が映った。あたりには人だかりができている。
何があったのか、近くに立ってる学生に尋ねた。講堂の屋根から飛び降りて、自殺を図った学生がいるらしい。別の誰かが、どうもMのようだと教えてくれた
Mは、僕らと一緒に入学したフランス学科の仲間だった。彼は、1年の後期に「基礎フランス語」の単位を落とし、ほとんど講義に顔を出さなくなった。軽音楽部に入り、ギターばかり弾いてた。この3月には、同期で入学した連中は大学を卒業していく。そんな春だった。
救急車は、まもなく赤ランプを消して、誰も乗せずに立ち去った。
その夜、郊外の葬儀場で通夜が行われた。暗く冷え切った部屋で、彼と親しかった軽音楽部の連中と一緒に朝まで過ごした。
奈良から駆けつけた両親と姉が、Mの幼少時代の思い出を、小さな声で訥々と語り続けた。
アイツは、小さい時から、まじめで素直で、心優しい子だった。生きてくれてるだけで十分だったのに。大学が卒業できんからって、なんで死ぬ必要があったんだ?
父親は、やがて酒に酔い潰れ、床にうつぶして寝てしまった。
火葬場で、泣き喚きながら棺に抱きついて離れなかった父親の姿が、今も僕の脳裏に焼き付いている。
「ラジオ講座再再開」
4月、ラジオ英会話も新開講となる。この番組は、今まで三回お世話になっている。
1回目は、高校3年生の時。僕の受験する大学の外国学部は、当時では珍しく英語のリスニングが必須だった。それで毎日ラジオを聞いて、耳慣れに努めた。講師は田崎清忠先生。スマートで紳士的な発音が記憶に残っている。そのお陰かどうかは分からないけど、大学には、なんとか合格できた。
2回目は、中学校教員時代のこと。当時、どの町村も姉妹都市と短期の交換留学を行っていた。生徒の引率を頼まれ、あわててラジオ英会話を再開した。当時の講師は東郷勝明先生。リズミカルで強弱の明快な発音が印象的だった。鹿追町ではカナダのストーニープレイン町へ、音更町ではアメリカのナパ市へ生徒を連れて行った。添乗員なしの旅行なので、自分たちの英語力だけが頼り。生徒がサンフランシスコ市内の見学中に倒れ、救急車で運ばれたことがあった。病院で看護師から早口の英語で質問された時は、さすがに何も聞き取れなくて、ひどく焦った。
3回目は、現在である。二年ほど前に個別学習塾のバイトで、中学生に英語や数学を教えることになった。そのついでにラジオ英会話も再々開した。今の講師は、ダジャレで笑わせてくれる大西泰斗先生。
部屋の中で英語のフレーズを、念仏でも唱えるように何度も繰り返し発声してる。ところが若い頃と違って、口の筋肉も舌先も敏速に動いてくれない。ええい、これじゃ、まるでボケ防止の滑舌機能訓練みたいだ。
「運動会とアルハラ」
僕は、もともとアルコールに弱い。コップ一杯のビールで完全に酔っぱらう。気がついたら寝てた、なんてこともよくある。
でも教員時代は、とにかく飲み会が多かった。職場内に限らず保護者と飲むことも頻繁にあった。当時、お酒につきあえない先生は地域の一員として受け入れてもらえない、なんて過酷な雰囲気も残っていた。
6月、小中合同の運動会が終わると、集会所に地域の人も保護者も集まってきて、盛大に飲み会が開催される。すると、例によってビールの酌み交わしが延々と続く。
飲めない僕も、頑張ってコップに二杯くらいまではつきあった。でも、そのあたりが限界だ。それ以上無理して飲んでも吐くだけなので、途中で打ち止めにした。
「ごめんなさい、もう飲めませ~ん。気持ちだけ、いただきま~す」とか何とか言ってごまかす。ほとんどの人は、苦笑いを浮かべながら渋々許してくれた。
でも、その父親は納得しなかった。それどころか酔っ払った赤い目を細めて、僕を強く睨みつけてきた。
「おまえ、オレの注ぐ酒が、飲めないっつうのか? おい!」
「いやいや、もう無理ですから」と、僕は冗談めかして抵抗した。
彼は、僕を十秒くらい睨みつけていた。殺意すら感じるほどの冷たい目つきだった。
でも、僕は知らんぷりを続けた。
今は「アルハラ」なんて言葉も浸透してきて、いい時代になったなと、つくづく思う。