三股パラダイス

 

「おい、着いたよ」
 父親の声で、目が覚めた。
 助手席のウィンドウごしに外を見る。アキラの乗ったライトバンは、平屋で板張りの小さな校舎前に止まっていた。いかにも田舎じみた粗末な作りのオンボロ校舎だ。
 あたりは、まばらに生えた白樺の林やススキの穂が広がっている。校舎の右手に、赤や黄色に染まりかけた丸い双子の山が眼前に迫って見えた。
「どうする、まだ車の中で休んでるかい?」
「うん……」と答えながら、アキラはゴクリと唾を飲んだ。
 上り下りの激しい曲がりくねった山道を三時間あまり車に揺られてきた。途中、気分が悪くなって、二回ほど道ばたで吐いた。でも少し眠ったおかげで、吐き気はほとんどおさまっている。
 父親は、ライトバンの後部ドアを開けると、荷台いっぱいに積んだ段ボール箱を、学校の玄関へと運び始めた。これから職員室の中で、先生方を相手に衣類の販売に入る。自家用車を持っている教員なんてほとんどいないので、こういった田舎回りの訪問販売は、それなりに売り上げがある。
 まもなく父親は段ボール箱を全て運び出し、校舎の中に姿を消してしまった。車の中が、しんと静まりかえる。外からは何の物音も聞こえてこない。
 紺色の高い空をゆっくりと雲が流れていく。山肌を雲影が移動し、陽光が当たると、紅葉が黄金色に燃え上がる。
 学級のみんなは、今頃何をしてるんだろうかと、ふと気になった。九九のかけ算でもやってるんだろうか、それとも体育館でドッヂボールをして遊んでるんだろうか?
 拳を上げて隆史に飛びかかっていった時の、彼の驚いた顔が脳裏に甦ってきた。
 三年生になってから、いつも隆史に「赤ザル!」と呼ばれていた。隆史の前では、ヘラヘラと笑っていた。でも本当は、そのあだ名は好きじゃなかった。四日前の昼休み、鬼ごっこをしていて転んだ時、「やあ、赤ザルがコケた!」と馬鹿にされた。抑えていた感情が、とうとう爆発してしまった。
 翌朝、目が覚めたとき学校に行きたくないという気持ちが強くわき上がってきた。隆史にも、クラスのみんなにも顔をあわせたくなかった。それで母親には、頭が痛いから学校を休むと言った。
 そのまま今日で三日目になる。
 今朝、朝食を食べ終わったとき、父親から、糠平のずっと奥にあるミツマタという所に外販に出かけるけど、一緒に行かないかと誘われた。母親は困ったような表情を浮かべた。でもアキラは、即座に「行く」と答えた。
 車の助手席にじっと座っているのに飽きてきたので、ドアを開けて外に出てみた。
 頬を撫でる風が涼しくて気持ちよかった。二、三度、胸一杯に息を吸い込んでみる。肺のあたりがひんやりとして、体が透明に澄んでいく感覚があった。
 あたりを見回してみる。まだ授業が終わっていないらしく、校舎の中から人の声が響いてくる。でも人影は見えない。
 アキラは、なんとなくグランドの方へと歩き始めた。土の色は黒っぽい焦げ茶色で、広さは自分の小学校の半分くらいだ。
 グランドの片隅に鉄棒やブランコ、滑り台、砂場などがある場所を見つけて、自然と足が向いた。この夏、逆上がりができるようになったので、ちょっと鉄棒でもやってみようかと思った。
 一番背の低い鉄棒を両手でつかむ。勢いをつけて足を蹴り上げ、両腕に力を込めて、下腹部のあたりで鉄棒に体を巻きつける。
 ふわりと体が回転して、その瞬間、上半身が鉄棒の上にあがっていた。視点が高くなり、見える景色が広がって気持ちいい。二、三度逆上がりを繰り返してみた。
 次に左膝を鉄棒で挟み、右足を振り子のように大きく振る足掛け上がりもやってみた。これも今年の夏にできるようになった技だ。
「おい、おメエ、誰だ?」
 突然、背中から声をかけられてビックリした。いったん鉄棒から降りて、後ろを振り返った。
 顔が薄汚れていて坊主頭をした男の子と、おかっぱ頭をした小さな女の子が並んで立ち、アキラの顔を睨んでいた。男の子は膝継ぎを当てた学生服姿で、女の子はだっぷりとしたモンペを履いている。坊主頭はアキラと同じくらいの背格好で、モンペはずっと背が小さい。二人とも、鼻水が唇のあたりまで垂れ下がっていた。
 こんな薄汚れた格好も、坊主頭もモンペ姿も、帯広の街では見かけない。やっぱり田舎なんだとアキラは思った。
「おい、おメエ、誰だ?」坊主頭が、再び訊いてきいた。
 見ると、学校の正面玄関から正門へ続く道に十人くらいの男女が並び、探るような視線でアキラの様子をじっと窺っている。
 低学年の授業が終わり、これから下校するところなんだろう。
「ぼ、ぼく、コジマっていう……」
 しどろもどろになりながら、とりあえず苗字だけ答えた。 
「どっから来た?」
「おび……帯広の小学校」
「帯広からきて、ここで何やってんだ?」
「お父さんが学校で服売ってるんだ。だから、それが終わるのを待ってる」
「ふうん……あの、テツボな」
 そう言って、坊主頭はひと呼吸置いた。
 テツボって、いったい何だろう? すぐに理解できなかった。
「あのな、おメエ、ウチの学校の子供じゃないべ。だから勝手にテツボ、使うなや」
 坊主頭はそう言って、アキラの背中のあたりに視線を走らせた。
 そうか『鉄棒』のことなんだと、ようやく理解した。
「……ご、ごめん。悪かった」
 とりあえず謝って、鉄棒の場所から離れた。
 十メートルほど歩いてから振り返ると、道端に集まっていた連中が、アキラの方を気にしながら、遊び場へと移動してくるところだった。坊主頭とモンペ姿は、並んで立ったまま、じっとアキラの方を睨み続けている。
 勝手に鉄棒を使ったのは悪かったかもしれない。でも、誰もいなかったんだし、別にいいじゃないかと、心の中で呟いた。
 アキラは素知らぬ風を装い、グランドの端に沿ってぶらぶらと歩き続けた。
 グランドの隅まで来たところで、すぐそばを流れる小川が目に入った。踏み固められた小道を見つけ、そこを通って降りていった。
 見ると川幅は二メートルほど、深さは三十センチもなさそうだ。水が透明に澄んでいて、川藻の緑が色鮮やかに輝いている。川の中をじっと覗いていると、川底のあたりで体をくねらせている魚影が目に入った。魚の名前はわからないが、十センチ以上はありそうだ。
 アキラは、はやる気持ちを抑えながら短靴と靴下を脱ぎ、ズボンの裾を膝上までたくし上げた。そして魚を驚かせないように、静かな動作で川の中に足を入れた。
 水は、感覚が痺れるほど冷たい。ウッと口の中でうめき声が洩れる。
 川底に両足で立ち、しばらく体の動きをとめていた。徐々に水の冷たさに慣れてきた。一、二分ほどすると、さっきと同じあたりに、黒い魚影が戻ってきた。アキラの一メートルほど先だ。長袖シャツの袖を二の腕あたりまでめくり上げ、腰を低く構えて、じっと魚影を睨みつけた。
 素手で魚を掴まえるなんて無理なのかもしれない。でも、何事も、やってみなくちゃわからないだろう。
 左右に揺れながら泳いでいた魚が、ほんの一瞬その動きをとめた。
 今だ! アキラは魚影に向かって一気に飛びかかっていった。両手の指先に、激しく振れる尾びれの感触が残った。でも、それだけのことだった。
 気がつくと、立ち膝の格好で川底に蹲っていていた。ズボンの太腿も、長袖シャツの胸も両腕も水でびしょ濡れだ。
 二度とあの魚は戻ってこないだろう。すくい網があれば、簡単に捕まえられたのに。ちょっと残念だ。
 アキラは、魚のことはあきらめて岸に上がることにした。靴下をポケットに突っ込み、濡れた足のまま短靴を履いた。濡れた感触が気味悪いけれど、しょうがない。歩くと、靴の中がキュッキュッと鳴った。
 小道を辿ってグランドに上がった。先ほどの連中が、遊び場のあたりで楽しそうに遊んでいる。
 しばらくその様子を眺めていた。日差しがポカポカと暖かかくて、濡れた衣類はそれほど冷たく感じられなかった。
 アキラに鉄棒を使うなと言った坊主頭の少年が、鉄棒の所にいるのがわかった。鉄棒にぶら下がり、何度も足を前に蹴り上げている。どうも逆上がりに挑戦しているらしい。でも、うまく上がれないようだ。
『いい気味だ』と心の中で呟いた。人に鉄棒を使うなと言っておいて、自分は逆上がりもできないんだ。
 坊主頭が、何度も何度も、足を前に蹴り上げる動作を繰り返している。それを見ているうちに、もどかしさと苛立ちが湧いてきた。
 気がつくと、アキラは坊主頭に引き寄せられるように、ゆっくりと遊び場に向かって歩き始めていた。
 五メートルくらいまで近づき、立ちどまった。みんなそれぞれ遊びながらも、横目でアキラの行動をそっと窺っている。
 坊主頭は、アキラの前で二回ほど逆上がりに挑戦した後、鉄棒を握っていた手を離して、アキラの方をぐいと睨んだ。
「なんか、用か?」
「い、いや別に用はないんだけど」
「テツボは使わせないって、さっき言ったべ」
「うん、それはわかってる」
「じゃ、あっち行け」
「あ、あのさ、逆上がりやってるんだろう?」 坊主頭は、睨んだまま返事をしない。
「ぼくもさ、逆上がりは、今年になってからできるようになったんだ」
「……」
「逆上がりって、ちょっとしたコツがいるんだ。キミのは、足を前の方に蹴ってるから上がらないんだよ。もっと足を真上に向かって蹴り上げるんだ。そして腹を鉄棒に巻き付けるようにする。そうしたら簡単に上がるよ」
「フン、そんなのわかってら」
 坊主頭は、不機嫌そうな顔を浮かべたままアキラの前で、もう一度逆上がりに挑戦した。でも、やっぱり上がらない。
「もっと天に向かって高く足を蹴り上げるんだ……あ、あのさ、よかったらぼくが手伝ってあげるよ」
 坊主頭は返事をしない。
 アキラは、勝手に坊主頭の横まで行き、ズボンの腰のあたりを両手でギュッと掴んだ。
「いいよ、じゃあ、やってみて」
 坊主頭が、反動をつけて足を前に蹴り上げる。その瞬間にあわせて、腰を鉄棒に向かってグイと押し上げた。
 両足が高く上がり、もう少しで腹が鉄棒に掛かりそうになった。
「よし、もう一回やってみよう!」
 二度目は、渾身の力をこめて坊主頭の腰を高く押し上げた。すると腹が鉄棒に巻きついて、ゆっくりと体が回転した。
「やった!」
 鉄棒の上にあがった坊主頭が、驚いたような、戸惑うような笑顔を浮かべて、アキラを見下ろしている。
 鉄棒から降りた坊主頭が、「もう一度やってみてくれ」とアキラに頼んだ。
 今度は、前よりもスムーズに坊主頭の体が回転して、鉄棒の上にあがった。
 地面に飛び降りた坊主頭が、「おメエ、教えるのウマいな」と、恥じるような笑顔を浮かべてアキラを見た。
「担任の先生が、ぼくにやってくれたのと同じようにやっただけだよ。これで、ぼくも逆上がりができるようになったんだ」
 アキラも、坊主頭の成功が、自分のことのように嬉しく感じた。
 あたりを見ると、それぞれ勝手に遊んでいた連中が、鉄棒を囲むように立って、じっとアキラを注視している。
 それから七回ほど坊主頭の逆上がりを手伝った。そうするうちに、少しずつコツを呑み込んだらしく、坊主頭は自分の力で逆上がりができるようになった。
 坊主頭と一緒にいたモンペ姿の女の子が近づいてきて、「私にも教えて」と、アキラに頼んだ。
 モンペ姿は、運動神経がいいらしく、五回もやらないうちに、自分で逆上がりができるようになった。
「さっきから気になってたんだけど、おメエ、どうして服濡れてるんだ?」と坊主頭がアキラの姿を眺めながら訊いた。
「そこの小川で、魚をつかもうとしたんだ。でも逃げられちゃった」
 坊主頭は、大きな声で高笑いした。
「そんなもん、素手で捕まえられるわけねえべや。教室に網があるから取ってくるわ。ちょっと待っとれや。これから一緒に魚とりするべ」
 言い終わらないうちに、坊主頭は校舎に向かって勢いよく駆けだした。
 坊主頭の姿が、校舎西側の玄関に入っていくのとほぼ同時に、父親の声が遠くから聞こえた。見ると、ライトバンの横に父親が立ち、アキラに向かって手を振っている。
 アキラは、ゆっくりとグランドを横切って歩いて行った。
「仕事、もう終わったの?」
「ああ、荷物も積み終わったし、そろそろ出発するよ」
「うん、わかった」
 西側の玄関から、すくい網を片手に持った坊主頭が、アキラの方に向かって歩いてくるのが見えた。落胆したような、残念そうな顔を浮かべている。
「あのさ、お父さんの仕事が終わったから、そろそろ帰らなくちゃならないんだ」
 坊主頭は、黙ったままアキラの顔を見ている。
「今度また来たとき、一緒に魚とりしようよ」とアキラが言うと、坊主頭が寂しそうな笑みを浮かべて頷いた。
 車の助手席に乗り込むと、遊び場にいた連中が道の左側に集まってきた。 
 アキラはウィンドウを下げて、「じゃあ、またね!」と、坊主頭やモンペ姿に向かって大きく手を振った。
 みんなも道端に突っ立ったまま、アキラに向かって手を振っている。
 正門を出ると、すぐにみんなの姿が見えなくなった。
「あの子たちと、もう友達になったのかい?」
「うん、一緒に鉄棒で遊んだよ……ねえ、お父さん……」
「どうした?」
「ぼくさ、明日、学校に行くよ」
 明日、登校したら、すぐ隆史に『殴ってゴメン』って謝ろうと心に決めた。『赤ザル』って呼ばれたって、もうそんなことは気にしないで、一緒に楽しく遊ぼうと思った。