風のいたみに (夢のかけら 3)

          
                1
 湘南の夏はほとんど終わりかけていた。
 焼きつけるように強かった陽射しは、いつのまにかその魔力を失い、目の前に広がる風景は、古びたセピア色の写真のように色あせて見えた。
 僕は、もう何十分も遊歩道の端に座って、夕暮れの海岸をぼんやりと眺めていた。
 砂浜には、すでに昼間のような人影はなく、サーフボードを小脇に抱えて疲れ果てたように俯いて歩く若者の姿と、女子高生くらいの若い女の子が二、三人、紺色のスカートを風になびかせながら波と戯れている姿と、犬を連れて散歩に出掛けてきた老人の姿が見られるくらいだった。
 半透明に澄んだ藍色の海の上を、不連続に繋がった波頭がオレンジ色に輝きながら次々と砂浜へと押し寄せてくる。時折、盛り上がった波の斜面をバランスを取りながら滑り下りてくるサーファーの姿があったが、すぐに波にのまれて見えなくなってしまった。
 少しずつ暮れていく紺碧の空の、水平線と接するあたりだけが淡いピンク色に染まっていて、そのピンク色の空を背景に、江ノ島の小さな島影が夕陽を受けて弱い黄金色に輝いていた。
 僕は、無意識のうちに何度もため息をつき、どうしてあんなことになってしまったんだろうと、再び昨夜の出来事を、自分を苛む苦い気持ちとともに思い返していた。

 藤沢駅裏の、久子のアパートを訪れたのは、『ウエイヴ』編集長の三輪さんに、急ぎのカットがあるから、彼女に封筒を届けてほしいと頼まれたからだった。僕は三輪さんから渡された地図を頼りに、古ぼけた家の立ち並ぶ住宅街の狭い路地を入っていった。
 路地には街灯もなく、あたりは手で掴めるほどの深い闇に包まれていた。暗闇の底を、僕のスニーカーの乾いた足音だけがひっそりと歩いていた。どこまで行っても暗く狭い路地が続き、迷路の中で出口が見つからずに彷徨っているような気がした。
 でも五分も歩くと、地図通りの場所に彼女のアパートを見つけることができた。そのアパートは、夜目にも戦前から残っているような建物であることが分かった。
 彼女の部屋の戸をノックすると、歯車が壊れたようなガタガタと軋んだ音を立てて、十センチほど戸は開いた。その隙間から、久子の痩せた青白い顔が覗いた。
 久子は『ウエイヴ』というミニコミ誌を発行している『湘南プレス』の事務所で、版下を作ったり、簡単なカットを描いたりしている二十歳過ぎの女の子だった。痩せぎすの細い体で、胸はほとんど厚みがなく、顔色は、病人のように青白かった。そして、笑った時に口を開くと、前後に重なった歯並びが薄気味悪い印象を与えた。
 久子は洗いざらしの木綿のタンクトップにジーンズのミニスカート姿で、そこから飛び出た腕や足が、木の枝のようにゴツゴツと角張って見えた。
「なんだ杉本さんじゃない」と、闇の中に僕を認めると、彼女は安堵するような笑みを浮かべた。
「これ、三輪さんから頼まれてきたんだ」と僕は、つとめて抑揚のない口調で言って、角封筒を彼女に差し出した。余計な下心があるように、彼女に勘繰られたくないと思ったからだ。
「急ぎのカットがあるらしい。明日の朝までに仕上げてくれって言ってた」 
 彼女は封筒からコピーを取り出し、五秒ほど無表情な視線で、その紙をじっと眺めていた。それから軽く頷いて「分かった」と口の中で小さく呟いた。
「じゃあ」と言って、僕はすぐにその場を去ろうとした。僕が『湘南プレス』の手伝いを始めてまだ四ヶ月ばかり、彼女と親しく言葉を交わしたことはあまりなかった。そしてこれからも、特別彼女と親しくなりたいという気持ちもなかった。そのまま玄関に立っていても面倒で、僕はすぐに振り返りかけた。
「ねえ、ちょっとコーヒーでも飲んでいかない?」と、彼女のやや投げやりな乾いた声が、僕の背中から聞こえてきた。
「今日はちょっと急いでいるから」と断りの言葉を胸の中で呟きながら、一瞬、僕を待っている部屋が脳裏によみがえってきた。服や本や灰皿が雑残と散乱したままの、誰もいない淋しい部屋。そこに、ぽつねんと座っている自分の孤独な姿。
 そんな場所に、急いで帰ることもないという気持ちが、僕の足を微かに引き止めた。
「じゃあ、ちょっとだけ」と薄ら笑いを浮かべながら、僕は、彼女の部屋の玄関に入った。
 久子は、自分の靴を整頓するために、板の間に跪いた。その時、タンクトップの開いた胸元から、肋骨の浮き出た白い乳房と、赤茶けた乳首が、たわいもなく見えた。
 玄関を入った狭い板の間が台所で、奥の六畳ほどの部屋には、座り机代わりの電気コタツと、ピンク色のファンシーケースと、スチール製の本棚がひとつあるだけだった。くすんだ茶色の壁紙は、ところどころ破けていて、天井から伝わってきた染みのような跡が、至る所に広がっていた。魚でも腐ったような饐えた臭いが、部屋全体から漂ってきて、鼻腔にまとわりついた。
{なんもない部屋でしょ」と彼女は、来客があったことを喜ぶような甘えた声で言った。
「テレビは見ないのかい?」と、僕はあたりを見回しながら訊いた。
「あんまり好きじゃないの。…どこでもいいから座って」と言って、彼女は台所のガス台に火を点けた。
 ジーンズのミニスカートから覗く太股が、僕の腕のように細い。お尻のふくらみも、ほとんどない。彼女のお尻を触ったら、骨盤のでこぼこが掌に突き刺さってくるのではないかと思う。
「インスタントで悪いんだけど」と言いながら、彼女はコタツの上にコーヒーカップを置く。
「古い建物だね」と僕は、コーヒーを啜りながら言う。
「でも、家賃、安いからいいの。今の収入じゃ、マンションみたいなところはとっても住めないわ」
「仕事は、湘南プレスのしか、していないのかい?」
「横浜の友達から、時々仕事、頼まれるけど、たいした量じゃないの…でも今くらいで、ちょうどいいわ。あんまり仕事好きじゃないから」と無関心そうな口調で答える。
「そう」と言いながら、僕は再び部屋の中を見回す。
 薄汚れたような黄色のカーテン。開いた窓のすぐ二、三メートル先に、向かいの家の板壁が暗闇に浮かんで見える。
 何とはなしに、僕は、半年前に別れた里美の部屋を強く懐かしむ気持ちで、思い返していた。
 壁に掛けられたマンハッタン島の夕暮れのポスター。ピンクの花柄のカーテン。レモン色のカバーのかけられたベッド。その枕元に並んだミッキーマウスとミニーの大きなぬいぐるみ。そして、里美のきびきびと動く肢体とあたたかな微笑み。
 あの部屋で、僕は、何度、里美の柔らかい体を抱いたのだろう。彼女とセックスする度に、僕は彼女の輝くような白い肌の裏側へと、自分の身体と心のすべてを没入させた。里美は、まるで母親のような包容力で、僕の不満や、苛立ちや、ささくれだった感情を、開いた身体全体でやさしく慰めてくれた。
 でも、そんな満ち足りた関係は、視聴率の低い恋愛ドラマのように、唐突に終わってしまった。『END』のマークを出す暇もないくらいだった。
 ふと気がつくと、僕の目の前には、久子の痩せこけた青白い顔と、歯並びの悪さを強調するような笑みがあった。そして、古ぼけたアパートの、幽霊でも住んでいそうな薄汚れた部屋に僕はいた。
 里美のいきいきと活発に動く瞳も、吸い込まれそうなやわらかい微笑みもない。里美の女の子らしい華やいだ部屋も。遠い過去のことだった。
 それが現実というものだ。
 コーヒーを飲み、あまり弾まない会話を打ち切って、僕は立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ帰る。コーヒー、ごちそうさま」
 僕は、床にかがんでスニーカーを履き、後ろを振り返った。すぐ目の前に久子の顔があった。
「バイクで来たの?」と彼女の口が動く。
「駅に止めてきた」と答えながら、僕は、ほんの十センチほどしか離れていない久子の唇を凝視めていた。口紅も何も引いていない薄ピンク色の唇だった。その唇の表面が、濡れたように光りながら柔らかく収縮していた。まるで生き物のようだ。
 僕の意識は、その唇にペタリと貼りついたように動かなくなった。気がつくと、その唇が、だんだんと僕の顔に近づいてくる。僕の両手は、久子のひんやりと冷たい肩を軽く掴んで、彼女の身体を自分の方へ引き寄せていた。
 久子の唇が、僕の唇に重なる感触が、まるで遠い記憶でも辿るように伝わってきた。いったい、俺は何をしてるんだろうと考えながら、いつしか僕は、彼女の細い身体を、古びたカーペットの上に押し倒していた。
 彼女は、まるで囚人のように抵抗もせず、僕のされるがままに服を脱ぎ、足を開いた。そして行為の最中、肉体のしていることなど関知しないといった無関心そうな目つきで、じっと僕の顔を見上げていた。
 射精し終わっても、里美との時のような心休まる満足感は少しも湧いてはこなかった。単に肉体的な快感の名残が、股間に寂しく漂っているだけだった。
 僕は、自分がひどく惨めに感じられて、両足を広げたまま裸で横たわっている久子を残し、何も言わずに彼女の部屋を出てきた。
 再び暗い路地裏を歩いていく間、僕は、このまま漆黒の暗闇に取り込まれ、消えてしまいたいと思った。  

 いつしか江ノ島の黄金色の輝きが精彩を失い、あたりからオレンジ色の光が消え始めていた。風景全体が、まるで海の底にでも潜っていくように青く澄んでいく。海上には、うっすらと靄が漂い、江ノ島の下半分くらいが白く霞んで見える。そして頂上の灯台には、赤い光が明滅し始める。
 道路を走るほとんどの車がライトを点灯し、海岸に沿って光の帯が、ゆるやかな曲線を描いて遥かに続く。そして道路沿いのレストランやサーフショップ、喫茶店、ホテルなどが赤、青、黄色等の色彩鮮やかなネオンサインを灯す。
 もう終わってしまったことはどうしようもない、と思いながら、僕は力なく立ち上がった。自分の思惑通りに事態が進んでいかないことなど、初めての経験というわけではない。
 北海道の教員生活を一年で打ち切って、東京に出てきて以来、勤めは今で三つ目だった。最初の編集プロダクションは、あまりの忙しさと、出版社の奴隷のような扱いに我慢ができなくて三年で辞めた。次のSF専門の小出版社では、編集長に『アンタは編集者としての能力に欠ける』と言われ、半年で馘になった。
 そして今、僕は藤沢市で『ウエイヴ』という湘南エリアを対象にしたミニコミ誌の手伝いをしている。かつて上京する際に、胸の奥で燃えていた『編集』という仕事への熱い憧れは、もうほとんど冷え切っていた。東京の中心から、だんだんと押し戻されていく侘びしさだけが、いつも背中のあたりで揺れてるような気がした。
 編集プロダクションの時代に知り合った里美と半年前に別れてから、女性への憧れだとか欲望というものも、自分の心から削げ落ちていた。もう自分の人生に、女性は関わってこないような気さえしていた。昨夜は、女としての魅力に欠けた相手だからこそ、抱くことができたのかもしれかなった。
 夕暮れの海風を体に受けながら、俺は、もう堕ちるところまで堕ちてしまったと思った。
 僕は、辻堂の公団住宅に向かって、砂のつもった舗道の上を、疲れた足取りで歩き始めた。

          2

 翌日、事務所で久子と顔を合わせたが、彼女の態度は、以前とまったく変わりがなかった。彼女は、十時過ぎに事務所にやってくると、編集長の三輪さんと簡単な打合せをし、どことなく疲れた雰囲気を漂わせながら版下を描いたり写植を張ったりして、夕方の六時前に帰って行った。
 部屋の中で、何度か僕と視線を合わせることがあったが、久子は僕に対して、目で合図を送ってきたり、不自然な笑いを向けてくることもなかった。あくまで、いつも通りのやや投げやりな無表情が、彼女の痩せ細った顔に、仮面のように貼りついているだけだった。
 前日の夜の出来事を、彼女は何とも考えていないとも推察できたが、僕がどのような態度に出るか、じっと様子を窺っているようにも思えた。
 僕は、彼女と目が合いそうになると、あわてて目を伏せたり、わざと横の方を向いたりして彼女の視線を避けたが、そんな僕の様子にも、まったく無関心そうだった。
 久子は、僕の後ろめたさを見透かし、心の中で僕の狼狽した態度を密かに嘲笑っているのではないかと、ふと思ったりもした。そんな思いに捉われながら仕事をしていると、時折、彼女が横目で僕の行動を細かく観察しているような気がすることもあった。僕は、久子の無表情に怯えるような気持ちで、事務所の片隅でじっと息を潜めて原稿書きをした。
 でも、そんなふうに久子の表情に異常な神経を尖らせていたのは、その日だけのことだった。
 久子の無表情に慣れ、彼女が僕に悪意など抱いていない様子を知るにつれて、僕の心を責め苛んでいた罪悪感は、時の流れとともに過去へと押し流されていった。
 僕は、三輪さんから借りた中古のバイクに跨り、鎌倉から茅ヶ崎にかけての湘南海岸一帯を、取材に出かけ回った。後方へと流れていく風はまだ暖かく、バイクで走り回るには絶好の季節だった。
 僕は、目新しい喫茶店や、レストラン、サーフショップを見つけてはその店の紹介記事を書いたり、スイミング・スクールのインストラクターをしている女の子や、鎌倉海岸でウィンドサーフィンをしている六十過ぎのお爺さんに会って、インタビュー記事を書いたりした。
 取材の合間に暇な時間を見つけると、僕は砂浜に座って、飽きることなく青い海と空の広大な繋がりを眺め続けた。繰り返し押し寄せてくる波の形に、同じものが再び現れることはなく、僕はいつまでも退屈することがなかった。
 そして、砂浜に座っていると、僕は決まって里美のことを思い返した。『あなたのことが好きなのかどうか分からなくなってきたわ』と言って涙を流していた里美の表情が、エンドレステープのように何度も繰り返し脳裏に蘇ってきて、僕を哀しくさせた。
 いつになったら里美の呪縛から解き放たれるのだろうと思い、でも里美のことは死ぬまで忘れたくないと心の底から願った。
 じっと里美のことばかり思い詰めてると、僕の心がしだいに一点へと凝集し、凛としたガラス玉のように硬化してくるのだった。僕は、ガラス玉となった心を思いっきり叩き割り、砕け散った破片を蒼穹に突き刺したいと、狂おしく思った。そうすれば、突き刺した裂け目から、僕の諦めきれない恋情が、真っ赤な血飛沫となって激しく飛び散るような気がした。

 久子を誘って、東京の京橋まで、マイケル・チミノ監督の『天国の門』を観に行ったのは、彼女を初めて抱いてから二週間後の日曜日のことだった。
 一人で映画を観に行ってもつまらないような気がして、たとえ久子でも一緒に街を歩けば少しは楽しいだろうと思ったからだった。
 でも久子を連れて電車に乗っていても、一緒に映画を観ていても、レストランで向かい合って食事をしていても、心が弾むような喜びは少しも湧いてはこなかった。久子の陰鬱そうな青白い顔つきを見ていると、かえって寒々とした惨めさが体の芯に凍りつくような気がした。
 その夜、再び久子のアパートで、彼女の無反応な体を抱きながら、俺は、いったい何をしているんだろうと思った。
 東京の出版社を馘になり、里美とも別れてから、自分の人生がだんだんと望んでもいない方向へと流されていくような気がしてならなかった。こんな薄汚い部屋で、好きでもない女の子の体を抱くために、わざわざ北海道の教職を辞め、両親の反対を押し切って東京にやってきた筈ではなかった。湘南でミニコミ誌の手伝いをするために、はるばる北海道からやって来た筈ではなかった。
 それなのに、今の僕は、砂浜に打ち寄せられた魚の死骸のように、ひたすら時間の波に押し流されていくばかりだ。
 そんな不安感に取り憑かれると、自分自身がみるみる萎えていった。僕は、胸の中に溜まっているヘドロのような黒々とした淀みから抜け出すように、必死で体を突き動かした。相変わらず久子は、僕の心の暗闇でも覗き込むような無感動な黒い目を大きく見開いて、じっと僕を凝視めていた。
 行為が終わり、汚れたカーペットの上に横になりながら、もう二度と、この部屋に来るのはやめようと思った。久子の体を抱いていても、ますます自己嫌悪が募るだけだった。

          3

 秋は、確実に近づいてきていた。
 日毎に、空気が冷たく澄んでいくのが感じられた。空から降りてくる光が風景の輪郭を鋭く縁取り、秋の気配を沸き立たせた。
 でも僕の毎日の生活に変化はなかった。
 朝八時過ぎに起きると、トーストと牛乳の朝食を摂り、九時頃に部屋を出て、バイクで事務所に向かった。事務所には、いつも朝一番に着いた。誰もいない暗い部屋に入り、空疎な雰囲気の中に前夜の人の気配を確かめるような気持ちでタバコに火を点ける。僕は、東の窓から射す陽光の中を、細かな埃の粒子がゆっくりと移動していくのをじっと眺めながらタバコを吸った。それから、僕はステレオのスイッチを入れ、その日の気分でアート・ガーファンクルの『シザーズ・カット』だとかニール・ヤングの『カムズ・ア・タイム』などを聴いた。
 タバコを吸い終わると薬缶に水を入れ、ガスの火にかけた。お湯が沸くと、ドリッパーでコーヒーを淹れた。熱湯を、挽いた豆の上に注ぐと、白い泡を吹いて茶色のお湯が勢いよく盛り上がり、白い湯気とともに甘酸っぱい香りが漂ってきて、僕の心をほっと和ませてくれた。
 毎朝、そうしてコーヒーを淹れている時間が、一日で一番幸せなひと時だった。それは、僕にとって無心に没頭できる数少ない儀式のひとつだった。
 イスに座ってコーヒーを飲み始める頃に、たいていは三輪さんが事務所にやってきた。彼と簡単な打ち合わせをして、僕は原稿を書き始めるか、バイクに跨がって取材に出掛けた。

 その後、僕は久子の部屋に行くことはなかった。でも、彼女を誘って横浜まで映画を観に行くことが二度ほどあった。
 日曜日に一緒に映画でも観に行かないかと声を掛けると、久子は、決まってやや照れたような薄ら笑いを浮かべ、抑揚のない声で「ええ」とだけ答えるのだった。
 映画を観終わった後、僕たちは喫茶店でコーヒーを啜りながら、倦怠期を迎えた中年の夫婦のように沈黙の多い会話をした。
 彼女は、僕の質問にぽつりぽつりと答えながら、自分の身の上を、まるで他人事のような興味のない口調で教えてくれた。彼女が二歳の時に、五歳の姉と母親を残して、父親が交通事故で死んだこと。近くのスーパーでレジのバイトをしながら高校を卒業したこと。大学に進んで絵の勉強をしたかったが経済的な理由で仕方なく諦めたこと。茅ヶ崎の職業訓練所でデザインの勉強をし、今の事務所で働き始めたこと。姉が結婚して、義兄が彼女の家族と一緒に住んでいるのだが、その義兄とあわずに家を出てしまったこと。
 彼女の境遇を聞き、決して幸福とは言えない彼女の生い立ちに同情しながらも、第三者としての醒めた気持ちを踏み出すことはなかった。
 十月に入って最初の朝、公団住宅の横の公園に無数のトンボが現れた。僕の記憶の限り、あれほど多くのトンボの群が地上を舞い飛ぶ光景に出合ったことはなかった。青い空一杯に、黒い糸屑のようなトンボが銀色の羽根を朝日に輝かせながら、縦横無尽に飛び回っていた。バイクで、その公園の中の道を走ると、避けられなかったトンボたちが、皮ジャンパーやヘルメットなどにぶつかってパシンと軽い音をたてた。もしかしたら、これは夏が死ぬ時の音かもしれないと、僕は思った。僕はバイクのギアを落とし、歩くようなスピードでゆっくりと走った。それでも逃げ切れないトンボが僕の体やバイクにぶつかってくるのだった。
 事務所に着き、いつものようにコーヒーを淹れている時だった。珍しく電話が鳴った。
「はい、もしもし『湘南プレス』です」と僕は受話器を取って答えた。
 しかし、受話器からは何の応答もなかった。僕は、いたずら電話かと思いながら、もう一度会社の名前を告げた。
 しばらく間があってから、やっと女性の声が聞こえた。
「もしもし、『湘南プレス』……さん?」
 その声を聞いた瞬間、僕は息を飲んでいた。里美の電話の声にとてもよく似ていたからだ。でも、他人の空似かもしれないと自分に言い聞かせて、僕は揺れる心を抑えた。
「はい、そうです」と僕はゆっくり答えた。
「あのう、そちらに杉本さんという方、いらっしゃいますか?」
 僕は、ほとんど確信していた。間違いない、里美だ。
「はい、僕ですが」
 受話器の向こうで、微かに息を止める気配があった。
「やっぱり、あなた、だった?……私」
 含み笑いをしているような里美の声だった。
「声を聞いて、すぐに君だって分かった」
 僕の心の中で、久しく忘れていた優しい感情が、滲み出すように湧き上がってきた。
「藤沢で仕事してるのね。びっくりしちゃった」
「都落ちだよ。……東京じゃ、どこも僕を雇ってくれるところがなくてね」
「この場所探すのに苦労したのよ。流星出版じゃ分からないって言われるし、コンテンポラリィ企画に電話しても知らないって言われるし」と里美は楽しそうに言った。
「それで、どうした?」
「コンテンポラリィの人が調べてくれたの。あなたと今でも繋がりがありそうなフリーの人に電話を掛けてもらって。家出人を探す苦労がちょっとだけ分かったわ」
「僕は家出人じゃないよ」
「でも、ひとつの所に長く勤めていられない、こらえ症のない編集者でしょ……ねえ、そんなところで何してるの?」
「そんなところじゃないよ。ちゃんと地名がある、フジサワ」
「じゃあ、フジサワで何してるの、今?」
「茅ヶ崎から鎌倉まで配ってるミニコミの仕事をしてるんだ。取材をして記事を書いたりしてる」
「なんか、落ちぶれちゃったじゃない? 以前と較べると」
「でも、今の仕事の方が僕に合っているような気がする。きっと、田舎向きなんだよ、僕って」
「忙しくないの、その仕事?」
「月に一回の発行なんだ。それにページ数も少ないから、以前とくらべるとずっと楽だよ、まるで天国みたいに」
「もう東京に戻らないの?」
「先のことは分からない」
「まだ失業してるのかと思っていたわ」
「五月からここで働いているよ」
「ホント言うとね、ずっと気になっていたの、その後、どうしてるのかなあって」
「ありがとう。何とか生きてる」
「それを聞いて、安心したわ」
 そんな風に里美と話していると、まるで以前の恋人同士だった時の気持ちが、そのまま鮮やかに蘇ってくるようだった。つい昨日の夜に別れたばかりで、今朝再び電話をしているような気分。でも実際のところ、それは遥か過去のことだった。
「今は、そっちに住んでいるんでしょ?」
「うん、六月にね、辻堂に引っ越してきたんだ。辻堂の公団住宅。海から二百メートルくらいしか離れていないところ。海パン穿いたまま歩いて泳ぎに行けるくらい近い」
「湘南ボーイしてるのね」
「でもサーフィンはしていない」
 受話器の向こうで、溜め息のような笑い声が響いた。
「でも、あなたって湘南ボーイってさまじゃないと思う。性格が暗すぎるもの」
「そうかな……でも今、暴走族してるんだ。事務所の人にバイク借りてね、取材には、そのバイクで走り回っている」
「あなたがバイクに乗ってる姿も想像できないわ。なんか変」
「海岸道路をバイクで走っているとね、とっても気持ちがいいんだ。悩みごとなんか、みんな海風に飛ばされていくような気がする。東京じゃ、こんなすがすがしい気分は味わえない」
「そうね、こっちは相変わらず人の渦よ。どこからこんな沢山の人が湧いてくるのかって不思議になるくらい」
「仕事は、どう? 忙しいの」
「ええ、もううんざりするくらい。一週間くらい休みを取って、湘南海岸の砂浜で寝ころんでいたいわ」
「ぜひ、そうしたらいい。よかったら僕の部屋を使ってくれてもいいよ。いつでも貸してあげる」
 そんなふうに十五分ばかり、僕たちは、お互いの近況を伝え合った。でも、彼女は自分の私生活のことには全く触れなかった。そして、僕も、そのことはだけは訊かなかった。
「ねえ、一度会って、ゆっくり話がしたいな」
 逸る気持ちを抑えながら提案してみた。
「ええ、いいわよ」と里美の柔らかな声が聞こえた。
 里美と再会できる期待感が、湧き水のようにわきあがり、心の中を優しく満たした。
「もしよかったら、こっちに来ないか。詳しくはないけど、多少は案内してあげられるよ、このあたり」
「ありがとう。あなたと話してたら、一度行ってみたくなっちゃったわ、湘南の方に」
 僕と里美は、次の日曜日に北鎌倉の駅で待ち合わせる約束をして電話を切った。

           4

 その日の朝、僕は雨垂れの音で目が覚めた。枕元の置時計で時間を確かめ、布団の中でタバコに火を点けながら、今日はどこに里美を連れていこうかと溜め息をついた。
 頭の中では、前からスケジュールが出来上がっていた。北鎌倉から峠を越えて鎌倉に抜け、江ノ電に乗って江ノ島に向かい、それから海岸沿いに茅ヶ崎まで行く。そこで夕食をとった後、もしも里美さえよければ、そのままこの部屋に来て、泊まっていってほしいという淡い期待もあった。
 でも、この雨だ。歩いて回るコースは無理かもしれない。どこに案内しようか。
 そんな心配ばかりしながら、僕は藤沢駅から電車に乗り、大船で横須賀線に乗り換えて、北鎌倉駅に向かった。
 電車を降り、ホームを歩いていると、十メートル程先を人の群に混じって藤色とピンク色の格子模様の傘を差して、とぼとぼと力なく歩いている里美らしい後姿を見つけた。茶色の麻のジャケットに洗いざらしのジーンズ。それから目にも鮮やかな赤いパンプス。どことなくビッコを引くような歩き方。間違いなく里美だ。僕の胸の中で期待と恐れがせめぎあう感情の揺れがあった。今日が、僕と里美の関係を元に戻してくれる再会の日となるのか、それとも単なる里美の気紛れで終わってしまうのか。
 僕は、そんな心の葛藤を振り払うように、濡れたホームを彼女へと近づいていった。
 どんな風に声をかけたらよいのかと戸惑い、そんな自分を馬鹿みたいだと嘲りながら、「こんにちは」と僕は里美の背中に声をかけた。
 里美は、振り返ると、驚いたように大きく目を見開いて僕を凝視め、それから、やや淋しそうな微笑を口許に浮かべた。
 里美の顔は、半年前に別れた時よりも、頬が落ちて、やつれて見えた。そして、どこか病人でも思わせるような青白く透き通った顔色をしていた。
「同じ電車に乗っていたのね」
 里美は、昨日僕と別れたばかりとでもいうような何気ない口調で囁くように言った。それから、僕の返事を待たずに、再び歩き始めると、前を向いたまま呟いた。
「いやな雨」
 僕は何も言わず、里美の横を傘を差したまま、彼女の歩調に合わせてゆっくりと歩いた。
「まだ心は秋の準備ができていないっていうのに、どんどん季節が進んでってしまう。それに、秋の雨って寂しすぎるわ。自分だけが置いてきぼりにされたような気分になってしまうもの」
「秋って、みんなをそんな気分にさせるものだよ」
「それは、分かってるわ……でも」
 彼女は、突然立ち止まると、傘をわきによけて、灰色の空を見上げた。そして目を閉じると、軽く口を開いた。細かな雨が彼女の白い顔に降りかかる。頬のうぶ毛に細かな水の粒子がキラキラと無数に輝いていた。
「霧雨ね。気持ちいい」と彼女は目を閉じたまま呟いた。
 それから突然、目を開き、僕を凝視めた。そして「ごめんなさい」と聞き取れないくらい小さな声で言った。
「今日、急に録音が入っちゃったの。午後二時から新大久保のスタジオで。だから、二時間くらいしかここにいられないの。本当にごめんなさい」
 心の中で、何かが、ポキンと折れる音が聞こえた。そして、その音の後から、哀しみが歩いてきた。
 里美の顔を見ると、あごの先から雨の水滴がしたたり落ちていた。涙の跡のようだと、ふと僕は思った。
「じゃあ、二時間のあいだ、どこに行ってみたい? 鎌倉のどこか? それとも雨の江ノ島がいいかい?」と僕は無理に作り笑いを浮かべて訊いた。
「鎌倉の大仏様の顔を飽きるほど眺めてみたいわ」と里美は呟くと、雨に煙るあたりの景色を見回した。
「今日は、何かそんな気分なの」
「そこでいいんだったら……」と言いながら、僕は里美の透明に澄んだ、寂しげな瞳を眺め続けた。
 僕たちは、次の電車を待って鎌倉駅まで行き、そこで江ノ電に乗り換えた。雨降りだというのに日曜日のせいか、狭い車内には旅行者風の若者や年寄が肩を触れ合うほどに混み合っていた。僕と里美は吊り革に掴まり、小刻みに揺れる電車の動きにバランスを取りながら、時折思い出したように言葉を交わした。
「小学生の頃に、家族のみんなと鎌倉の大仏様を見に来たことがあるの。大仏様の体の中に入れて、とてもビックリしたことを覚えているわ。これじゃ、まるでピノキオの鯨だって思った」
「今日も入ってみるかい?」
「ううん、やめとくわ。外から見るだけでいい」
 里美は、そのまましばらく窓外の古い家並みに目を凝らす。
 何を話しても、すぐに会話は途切れ、先日の電話での会話のような親密さは、氷でも融けるように消えてなくなっていた。そして、ぎこちない無言の重みだけが残骸のように重く横たわっているのだった。
 会わない方がよかったのかもしれないと、ふと思ったりもした。
 僕たちの乗った電車は、間もなく長谷駅に着いた。その駅で、乗客の三分の一くらいが一緒に電車から降りた。
 そこから僕と里美は別々に傘を差して、暗く冷たい雨の中を歩いた。離れて歩く二人の距離が、手を伸ばしても届かない、遥か彼方にあるような気がした。この半年間の重みを、目の前に突きつけられているようだった。
 高徳院の境内には、予想以上に参拝客の姿があった。山門を抜け、石段を登って僕たちは大仏の正面に出た。
 初秋の雨に濡れ、深い青銅色に沈んだ大仏は、その巨大さゆえの威圧感はあったが、温かく心に伝わってくるものはなかった。
 それば冷たい雨のせいなのか、それともそういう容姿をしているからなのか、僕には分からなかった。
「思っていたほど、優しい顔はしていないわ。もっと慈悲で包みこんでくれるような温かい顔をしてるかと思ってた。これじゃ自分の悩みは自分一人で克服しなさいと拒絶されているような気がしてきちゃうわ」
 里美は、大仏の顔を見るなり、泣きそうな悲しい目をした。そして三十秒ほど、瞬きもせずにじっと大仏の顔を凝視めると、腹の底から洩れてきたような深い溜め息をついた。
 僕たちは、口もきかず、しばらく放心したようにただぼんやりと大仏の顔を眺め続けた。雨の音が、あたりの白っぽい風景の底から湧き上がるように伝わってきた。
 僕と里美は、永遠の中に塗り込められたように、じっと身動きもせず雨の中に立ち尽くしていた。時の流れが、僕たちの立つ場所だけ、凍りついているようだった。
「帰りましょう」と、永遠の時から目覚めたように、ポツリと里美が呟いた。
「うん」と答えたまま、僕の体は動かなかった。
 僕の目には青銅色の濡れた大仏の顔が映っていたが、意識は里美に伝える言葉を求めて、仄暗い心の奥を手探りしていた。
 半ば躊躇しながら、半ば勇気を振り絞りながら、僕はゆっくと口を開いた。
「もしよかったら、もう一度僕とやり直してみないか」
 里美が僕の言葉を聞いて驚いている気配があった。
「君が、今、どんな状態なのか、僕は知ろうとも思わないし、知りたくもない。でも、もしも今、君が僕の助けを必要としているんだったら、僕はどんな事でも君にしてあげたいと思っている。僕の、君に対する気持ちは、以前と全く変わっていない。渋谷で君と別れた時とまだ同じ気持ちでいるんだ……君が他の男のところへ去っていって、あの時は、確かに深くは傷ついたけれど、でも今はそんなに気にしていない。それよりも、君が僕の手助けで幸せになれるんだったら、なんでもしてあげたいって思ってる」
 二人の間に、しばらく沈黙が漂った。
「私、幸せになんてなれるのかしら」
 里美は、前を見たまま、僕に向かってというよりも、正面に座っている大仏にでも訊くように、小さな声で言った。
「僕では、君を幸せにしてあげられないってことかい?」
「そんなことじゃないわ。私みたいに、たくさんの人を不幸にしてきた人間に幸せになれる権利なんてあるのかしら」
 里美は、相変わらず大仏を凝視めたまま囁いた。
「なれるよ。だれだって幸せになれる権利があるんだ」
「でも私、口では言えないような酷いこと、たくさんしてきたわ。あなただって、とても深く傷つけてしまった」
「人間同士って、お互いの距離が近くなるほど、深く傷つけ合うようになっているんだよ。傷つけあうことを避けて、人を好きになったり愛したりはできないんだ、きっと」
「そうかもしれないわ、でも……」
 彼女は、何度か大きく息を吸うと、ハンドバッグからハンカチを取り出して目頭を押さえた。
 僕の耳に再び雨の音が足元から湧き上がるように伝わってきた。
「私って、とっても身勝手な女よ。自分が幸せになるためだったら、自分を大切にしてくれた人でも裏切ってしまう」
「そんなの誰だって同じだよ」
「違うの、あなたは人がよすぎて分からないのよ。私がどんなエゴイストなのか」
 彼女は再び、ハンカチで目頭を押さえた。
「とにかく、君に何かをしてあげたいんだ。今の僕にできることだったら、なんでもしてあげたい。それが、今の正直な気持ちなんだ」
「ありがとう。とっても嬉しい」
「君が、僕に東京に戻って来てほしいと言ってくれるのなら、すぐにでもそうする」
「本当にありがとう」と言いながら、彼女は自分の差していた傘を地面に放り捨てて、僕の左腕に寄りかかってきた。
「私、幸せになれるかしら」と里美は僕に縋りつくように言った。
「だいじょうぶだよ。一緒に幸せになろうよ」と僕は彼女の横顔に声を掛けた。
「そうね」と、里美はそっと呟いた。
 それから何度か、里美は「私、幸せになれるわよね」と自分自身に言い聞かすように呟くのだった。
 僕と里美はお互いに寄り添い合いながら、来た時と同じ道を歩いて戻った。里美と触れ合う部分から、彼女の不安と迷いがそのまま僕の心へと伝わってくるような気がした。僕は、不安に怯えて震えている子ウサギでも抱きかかえるように彼女の肩にやさしく腕を回し、雨の中をゆっくりと歩いた。
 鎌倉に戻り、僕たちは小町通りの『仏蘭西』というレストランで昼食を取ってから、鎌倉駅に向かった。
 別れ際に、僕は里美の今の住所と電話番号を教えて欲しいと頼んだ。
「ごめんなさい。それだけは勘弁して。今はまだ、教えられる時期じゃないの。もう少し時間をちょうだい」
 里美は、鎌倉駅のホームのベンチで、やや俯き加減の姿勢のままじっと自分の指先を凝視め、強い決意を秘めるように答えた。
「まだケリをつけなくちゃならないことが残っているの。それにはもう少し時間がかかるわ。だから、本当に悪いんだけれど、もう少し待ってちょうだい。お願いだから」
 彼女の言葉を信ずる以外になかった。
「じゃあ、待っているから、必ず電話をくれるんだよ」
「分かってるわ。早いうちに電話をする。約束するわ」
「絶対だよ。毎日でも電話がほしい」
「ええ」と里美は大きく頷いた。
 間近から見る里美の長い睫毛が、目前の不安に耐えているかのように小刻みに震えていた。僕は、里美の目尻を、そっと人指し指で撫ぜてみた。真白い肌の下に流れている血液がピクンピクンと脈を打っている感触が指先に伝わってきた。

          5

 日曜日から降り始めた雨は、水曜日まで止むことなく降り続いた。暗く均一な灰色の空から、冷たく細かな粒の雨が休みなく落ちてきて道路も建物も芝生も、世界のあらゆるものを濡らし尽くした。
 オートバイが使えないので、やむをえず僕は毎朝バスに乗って事務所に出掛けた。そして暗く冷え冷えとした誰も来ていない部屋でお湯を沸かし、コーヒーを淹れた。湯気とともに立ち昇ってくるコーヒーの甘酸っぱい香りをかぎながら、一刻でも早く里美からの電話が掛かってくることを僕は心から願った。一秒でも、一分でも早く里美の声が聞きたいと思った。
 たまたま取材の少ない時期で、僕は一日中事務所で原稿の整理をしたり、レイアウトの手伝いをして過ごした。そして机上の電話が鳴るたびに、里美からの電話かもしれないと思ってあわてて受話器を取るのだった。でも彼女の高く透き通る声が聞こえてくることは一度もなかった。
 月曜日も、火曜日も、水曜日も里美からの電話はなかった。
 一日の仕事が終わり、僕は失望感と諦めが黒いタールのように重く淀んだ身体を引きずって事務所を出た。きっと何か、すぐに電話を掛けられない理由があるんだと僕は自分に言い聞かせ、翌日へ何のあてもない希望を先送りにした。
 水曜日の夕方から、珍しく激しい雨が降った。横なぐりの強い雨に、まるで服を着たままプールでも泳いできたかのように全身ずぶ濡れになって僕は部屋に帰った。
 服を着替え、風呂が沸くまでと思ってテレビのスイッチを入れると、画面に雪国の風景が映っていた。
 うらさびれた田舎町の雪道を一台のオンボロ軽トラックが走ってくる。そして、とある雑貨屋の前で止まる。中年の男が運転席から降りてきて、その店の中に入り、ニコニコ笑いながら『おばちゃん、いるかい』と大声で怒鳴る。店の奥から、前掛けで手を拭き拭き出てきた女が、男に向かって『いやあ、今朝はシバレタねえ』と親しそうに答える。
 故郷だ、と僕は思った。詳しい場所はどこかは分からないが、これは北海道だ。言葉遣い、服装、人なつっこそうな笑い顔、そして北国の風景。間違いなく、これは故郷の北海道だ。
 心の闇のどこかで、北海道への懐かしさが小さな炎となってポッと灯ったような気がした。
 一時間のそのドラマが終わる頃には、富良野近辺の山あいが舞台で、妻と別れて故郷に帰ってきた中年の男と、その二人の子どもがドラマの中心人物だということが分かってきた。
 来週は、どんな話の展開になるんだろうと期待する気持ちで、その夜、僕は床についた。
 次の朝、カーテンから射す陽光で目が覚めた。ベランダを開けて空を見上げると、雲ひとつなく青い空が広がっていた。青く澄んだ紺碧の空をじっと見上げていると、その奥へ真っさかさまに転落していくような感覚があった。
 僕はピーンと張り詰めた冷気の底を、何日か振りでオートバイに跨がって出勤した。濡れた路面に太陽光が反射して、時折視界が眩しくて何も見えないことがあった。頬にぶつかる風は痛いくらいに冷たく、背筋がゾクゾクと震えた。でも、雨に洗われ、生まれたばかりの新鮮な空気が気持ちよくて、路面の水溜まりを蹴散らしながら僕は走った。
 こんな晴天の日こそ、間違いなく里美から電話が来るにちがいないと、僕は溌剌とした思いで確信するのだった。
 でも、電話は来なかった。そしてその翌日も。その翌々日も。
 事務所で原稿を書いていても、バイクで取材に出ていても、里美のことが頭から離れなかった。取材で外に出ている時は、今頃事務所に里美からの電話が入っているのではないかと何度も思うことがあった。そして、事務所に帰り、すぐに机の上を見るのだが、里美から電話があったというメモが乗っていることはなかった。
 土曜日が過ぎ、日曜日になった。
 僕は、朝から東京にでて、六本木の彼女の事務所まで行ってみたり、以前里美が住んでいたアパートのあたりをうろついてみたり、それから彼女がよく買い物に行くと言っていた渋谷の西武デパートに入ってみたりもした。でも、当たり前のことだが、里美の姿を見かけることはなかった。
 久し振りに排気ガス臭い東京の空気を吸ったせいか、西武デパートから出る頃になると、軽い吐き気と頭痛を覚えた。これじゃ、もうシティ・ボーイに戻れないや、と独りごちると、自然に苦笑いが口許に浮かんでいた。
 そう言えば、先週の日曜日は新大久保のスタジオで録音があると言っていたことを思いだし、僕は山の手線に乗って新大久保のスタジオに行ってみることにした。でもそのスタジオは、シャッターが降りていて誰も人がいる気配はなかった。
 帰りの電車に揺られながら、里美が別れて半年も経ってから、なぜ急に電話をしてきたり、僕と会う気になったのだろうかと考えてみた。彼女との電話の内容や、鎌倉で会った時の彼女の様子や話した言葉を思いだしてみたが、これといった糸口は見つからなかった。ただ里美の痩せこけた顔と、何かに深く悩んでいる様子だけが強く心にひっかかっていた。
 僕との再会は、二人の関係を元に戻すことが目的だったのではなく、ただ単に彼女の抱え込んでいる悩みから一時的にでも逃避することが目的だったのかもしれないとも思った。
 僕はじっと目を瞑り、巨大な徒労感が僕を押しつぶそうとするのに、必死で堪えていた。
 再び新しい週が始まった。金曜日には印刷所に版下を入れなくてはならないので、取材はほとんどなかったが、校正の仕事をしたり、日に何回も写植屋に通ったりと時間に追わることが多くなった。
 里美からの電話を待っているうちに、水曜日になった。その日の夜、僕は何かを期待するような気持ちで、再びテレビのスイッチを入れ、富良野を舞台にしたドラマの続きを観た。
 妻との生活に破れ、東京という都会の生活にも挫折し、夢敗れて故郷に帰ってきた中年男が、農家の廃屋を自力で直し、北海道の大地に向かってたくましく生きていこうとする姿に、僕は感嘆に似た気持ちを感じていた。
 ドラマの途中で時折挿入される大自然のシーンも、息を飲むくらい美しかった。遥か彼方まで続く白銀の雪原、夕暮れの赤い陽光を受け噴煙を上げる十勝岳、林間をゆったりとした足取りで歩いていくキタキツネ、視界を真っ白く染めて激しく吹きつける吹雪。そのあらゆる風景が僕の記憶のスクリーンに映し出されて、まるで僕自身がその場所に立って眺めているような新鮮な驚きがあった。
 住んでいた頃には何も感じられなかったあの北海道の風景が、これほど素晴らしいものだと知らなかったことに、自分自身を憎悪したくなるような気持ちもあった。
 一時間のドラマは、気がつくと、もう終わっていた。
 心の中で、北海道への郷愁がダイヤモンドのように光り輝くのを僕は感ぜずにはいられなかった。

 里美から手紙が届いたのは、その翌日のことだった。
 内心、もう里美からの手紙は来ないだろうと諦めかけていた。結局あれは里美の気まぐれによる再会だったのだと、僕は自分に言い聞かせ、里美のことは忘れた方がいいと思い始めていた矢先だった。
 僕は、事務所に届いた手紙を持ち、逸る心を抑えて近くの喫茶店に向かった。でもいざ読もうとすると、すぐに手紙の封を切るのも躊躇われ、コーヒーを注文してから、震える手でゆっくりと封を引きちぎった。

 前略
 今日は朝から天気がよくて、太陽の明るい日差しが私の座っているテーブルの脇まで差し込んできています。真夏の頃から比べるとずんぶんと部屋の奥まで日差しが入ってくるようになったのだと今更のように驚いているところです。もう秋なんですね。そう言えば、さっきから頬杖をついてぼんやりと眺めているベランダの外の花壇には、白や赤やピンクのコスモスの花が風に揺られています。
 微かな風に、右や左にふわりふわりと揺れるコスモスを見ていると、まるで今の私の心のように思えてきます。
 もう朝から何時間も、この白い便箋に向かっているのですが、何をどのようにあなたに書けばよいのか、心が迷いに揺れるばかりで書き進む決心がなかなかつきません。
 だって、本当のことを書けば、間違いなくあなたを傷つけてしまうのですから。もう二度とあなたを傷つけることなんかしたくないと決心していたのに。
(また三十分ほど、ぼんやりとしてしまいました。)
 今、私は富樫さんという同業の方と一緒にこの部屋に住んでいます。彼との生活は、あなたと別れてすぐに始めたので、もう半年以上になります。でも、だからと言って、二人の関係がとてもうまくいっている訳でもありません。
 実は、今から二ケ月ほど前に私は妊娠していることが分かりました。子どもを生むか生まないか、私達は何度も夜遅くまで話し合いました。
 私は生んで、育てたいと思いました。これを機会に、籍も入れて正式に結婚したいとも考えました。
 でも彼の考えは私と反対でした。要するに、子どもは欲しくないということなのです。彼は彼なりに、様々な理由を挙げて私を説得しようとしましたが、彼はまだ自由でいたいのだとしか私には理解できませんでした。私達の話し合いは、どこまでも続く平行線で、そのうち、私の方が根負けしたというか、そんなに子どもがほしくないのならば、生んでも堕ろしてもどうでもいいという投げやりな気持ちになってしまいました。そして自分が、彼のことを愛しているのか、いないのかも分からなくなってきてしまいました。
(彼も、同じような気持ちだったのかもしれません)
 そして結局、お腹の子どもは堕ろしてしまいました。
 病院から帰ってきた日、彼は部屋には戻ってきませんでした。誰もいない部屋の中で、電灯も点けずに暗闇の中に座っていると、自分がひどく惨めで、世の中から一人拒絶されているような寂しさに取り憑かれてしまいました。孤独で、孤独で、気が狂いそうで、誰でもいいから縋りついてしまいたい、そんな不安な気持ちでした。
 あなたに電話をしたのは、その翌朝のことでした。あなただったら、私のことを以前のように優しく包み込んでくれるのではないかと思ったからです。
 電話で話していると、あなたは以前と全く変わっていない様子で、私はとても安心できるものを感じました。あなたが会おうと言ってくれるのを、私は内心待っていたような気がします。だから、あなたの言葉を聞いて、とても嬉しく思いました。
 でも、受話器を置いてから、あなたと会うべきなのか実は随分と迷いました。私の一時的な気紛れで、あなたと会うのはいいけれど、再びあなたを振り回すことになりはしないのか。あなたの心をもて遊んだり、傷つけたりすることになりはしないのか。
 私は、友達のような気軽な気分で会うのだから構わない、と自分に言い聞かせて、日曜日を待ちました。
 でも、北鎌倉の駅で、あなたに会った時、あなたが私を凝視める真剣な眼差しを見て、私は後悔していました。あなたは、まだ私を以前のように思っている。あなたの真面目な人柄を考えれば、それは当然予想されるべきことでした。
 もっと気軽に、友達のように会えると思っていた自分の浅はかさを私は呪いました。私が、昼過ぎから録音があると言ったのは、実はとっさに思いついた嘘なのです。あなたと、ゆっくり会っているのが怖くなったからなのです。
 でも、大仏様の前で、あなたが言ってくれた言葉を聞いて、私はとても嬉しかった。正直言って、心を揺り動かされました。あなたと、もう一度やり直したい、このまま別れたくないと思いました。それも本当の気持ちです。
 以前のようにあなたの腕に縋りついて歩いている時、私は心の底から幸せでした。嘘ではありません。
 でも、あなたと別れ、帰りの電車の中で、私は誰かに凝視められているような気がしてなりませんでした。あたりを見回しても、誰も知っている顔はありません。その時、私はハッと気付きました。私が堕ろした子どもだ。私が堕ろした二ケ月の胎児が、暗闇の奥から大きな目を光らせて、うらめしそうに私をじっと凝視めている。 私はゾッとし、やはりあなたと会ったことは間違いだったのだと知りました。だって、そうでしょう? 今一緒に生活している男との子どもを堕ろし、そのすぐ後に、以前の男と会って幸せを感じるなんて、正常ではありません。人の道にはずれています。
 今、私は、富樫さんとの生活を、できるところまで続ける決意でいます。そしてそれが、今の私にとって精一杯の良心だとも信じています。
 もしかしたら、私は、これまでの自分勝手で、自分の幸せしか求めて来なかった生き方の罰を受けているのかもしれません。でもきっとそれが、今の私に相応しいことなのだと思います。
 色々と書きました。できるだけ本当のことを書こうと努めましたが、本当の気持ちというのはなかなか言葉では言い表せないものです。
 私の軽率な行為で、再びあなたの心を傷つけてしまったことをお詫びします。本当に申し訳ありませんでした。
 私のような身勝手な女のことなど早く忘れて、あなたのことを大切に思ってくれる女性を見つけて幸せになって下さい。きっと、あなたに相応しい素晴らしい人に出合えると信じています。
 それでは、これが最後の『さようなら』です。お体を大切にしてこれからもご活躍下さい。

           6

 空気を引き裂くような甲高い音が、ずっと聞こえていた。それがエアコンの送風音なのか、機外から伝わってきているジェット音なのかは分からなかった。
 僕は、鼓膜が圧迫されるような気がして、二回ほど唾を飲み込んでみたが、鼓膜の圧迫感は消えなかった。
 窓の外は、先程から白い雲のかけらが、飛び散るように後方へと過ぎ去っていくばかりで、いっこうに視界は開けてこなかった。
 僕は、ついさっき、離陸をしてから数分間、眼下に広がっていた東京の街並みを思い出していた。
 暗い雲の下で、道路も、家も、橋も、川も、あらゆる物が、臓物にまみれた死骸のような醜悪さを晒して、遥か地平線の果てまでも続いていた。どこまでも、視界の彼方までも延々と広がっていた。そして、その上空には薄汚れた灰褐色のスモッグが、重苦しく垂れ込めていた。
 まるで地球の癌のようだと僕は思った。これは地球の表面にできた皮膚癌のようなものなのだ。地球ばかりでなく、そこに住む人間までも食い滅ぼして広がっていく。
 僕は、その地球の癌のようなコンクリートの街並みに憧れて四年前に上京し、そして今、夢敗れて立ち去ろうとしている。
 僕を甘く誘い寄せ、淡い夢を打ち砕き、タコ部屋の囚人のように酷使し、絶望させ、そしてさり気なく拒絶した東京の街。
 僕は、このゴミ溜のような東京の街並みを死ぬまで忘れないんだと心に誓うように、窓の外をじっと睨みつけた。
『結局のところ、俺は敗残兵のように立ち去っていくんだな』と思うと、言いようのない侘しい感情が込み上げてきて、狂おしく泣き叫びたい気持ちになった。

 里美の手紙を読み終え、里美が今の男との間の子を堕ろしたという事実を知った時、僕は足元が抜けたような虚脱感に襲われた。里美が、呪わしいほど汚く感じられ、騙された自分が、ひたすら惨めだった。里美を恋い焦がれていた自分が、ひどく滑稽で、情けなかった。
 何も考えられず、僕はしばらくの間、手に持った里美の手紙を、意味もなく眺め続けていた。
 やがて、泣きたいような可笑しみが、腹の底からくつくつと湧き上がってきた。
 里美の半年間の空白など何も知らないで、自分勝手な夢を描いていたのは俺の方なのだ。過去の里美の姿を、現在の里美に重ね合わせて、そこに溺れていたのは俺の方なのだ。
 女と男が結ばれ、子どもが出来てしまったり、堕ろしたりするなんて、今時どこにでも転がっていることじゃないか。なぜ、里美だけが例外であり得るのだろうか。
 それに、里美が汚いなんて、どうして言えるだろうか。好きでもない久子を抱いた俺の方が、愛している男と交わって妊娠した里美より、よっぽど汚いのではないか。俺なんかに、里美を憎悪する権利なんてありはしないのだ。
 一人で、ハムレットばりの悲劇の主人公になりきっていた自分が可笑しくて、僕は声を出して笑おうとしてみたが、実際に口から漏れてきたのは、途切れ途切れの小さな嗚咽でしかなかった。
 それから何日間か、僕は虚空を掴むような空疎な思いで毎日をすごした。仕事をしていても、まったく身が入らなかった。
 そんな時、ふと僕の心に、富良野を舞台としたテレビドラマの風景シーンが、色鮮やかに甦ってきた。それが、キラキラと輝くような大自然の強烈なイメージとなって、僕の網膜に浮き上がってきた。
 あの北海道の、まぎれもない原初の姿だけが、揺るぎない真実のように思えた。あの大自然の、冷徹なまでの美しさだけが、唯一確かなもののような気がした。それは、僕の生活のように脆く、儚いものではなく、力強いエネルギーを放ちながら、永遠に、確固な形として存在し続けるもののような気がした。
 そして、僕は、あの雄大な自然の中で、見失いかけている自分の姿を、もう一度探してみたいと思った。
 でも、そう思いながらも、決断を下すまでの勇気が、まだ持てないでいた。
 十一月の中旬のことだった。茅ヶ崎の鉄砲通りにある『アルハンブラ』という喫茶店を取材した時、たまたまトイレに入ると、鮮血のように真紅の小便が出てきた。
 真っ赤な小便が出てきて、一瞬緊張した。同時に尿も止まった。もう一度、ゆっくりと力を抜くと、再び真っ赤な小便が出てきて便器を紅く染めた。そこに自分の死を見たような気がして、頭から血の気が引いていった。
 その翌日、僕は不安な気持ちで、藤沢の市立病院を訪れた。
 病院特有の、薬品と、患者の汗と、便所の匂いが入り交じった廊下を歩いていると、このまま病院のベッドで朽ち果てるのではないかという恐怖が、静かに僕の胸を締め付けた。
 問診を受けてから、レントゲン写真を撮った。撮影台の上に横たわり、造影剤の注射液が血管から入れられると、胸がムカムカして何度も吐きそうになった。
「腎臓結石ですね」と僕の前に座った、四十くらいの医者はレントゲン写真を見ながら、軽く微笑んだ。
「結構、大きくなっているから、いずれ、手術をして取り出さなくてはならないでしょうね」と、その医者は、風邪でも診断するように何気ない口調で言った。
「手術ですか?」
「そうですね。しばらく経過を見てから、いずれは切るしかないでしょうね」と、彼は、小豆ほどの大きさで白く写っている部分を、ボールペンの頭で軽く叩いた。
 その夜、何時間も考えた末に、僕は、こちらの生活にピリオドを打つ決心を固めた。「腎臓結石」は、誰もが認めてくれる帰郷の理由に相応しかった、僕自身を含めて。
 それから一週間ほど経った夜、僕は事務所の帰りがけに、久子のアパートを訪れた。久子は玄関で僕を見ると、驚いたような顔をしてから、「入って」とだけ言った。
 電気炬燵に足を入れて向かい合っていても、二人の会話はほとんど弾まなかった。いつものように彼女の淹れてくれたインスタントコーヒーを飲み終えてから、今年いっぱいで『湘南プレス』の仕事を辞め、北海道に帰る決心を伝えた。帰郷の決心を彼女に伝えることが、僕の良心であるような気がしたからだ。久子は、僕の言葉を聞くと、何も返事をせずに、能面のような無表情な顔つきで、じっとテーブル板の隅を睨みつけていた。僕は、凍りつかないように動かない久子を残して、静かに立ち上がった。そして音を立てずに玄関に向かった。
「ねえ、もう一度だけ抱いて」という久子の消え入りそうな声が、僕の耳に微かに触れた。
 僕の足が止まり、そのまま動かなかった。抱くべきかどうか迷いながら、僕は玄関のあたりの薄暗がりを凝視めていた。僕は、息を殺すような思いで少しずつ空気を吸い込んでから、思い切って振り返った。久子は相変わらず、夢遊病患者のような焦点の合わない目で、炬燵の上をひたすら睨んでいた。
 やがて、彼女の痩せ細った頬を伝って、涙がひとすじ流れた。
 僕は再び大きく息を吸い込んでから、彼女に近づいていった。
 久子の痩せた体を、カーペットの上に押し倒しながら、僕の意識に、ペニスの先から鮮血に染まった真っ赤な精液が出てくるイメージが微かに浮かび上がってきた。
 その夜、僕のペニスは勃起しなかった。

 気がつくと、しばらく眠っていたようだ。まだ覚醒していない意識の中で、『俺は、闘いに敗れ、尻尾を巻いて故郷に帰っていくんだ』という言葉が、悪夢でも見ているように何度も何度も繰り返し甦ってきた。
 目を開けて、窓の外を見ると、ちょうど眼下に襟裳岬があった。まるで地図帳の上から眺めているように、右からは日高の海岸線が押し寄せ、左からは十勝の海岸線が湾曲して続き、その交点の襟裳岬が鋭い角度で太平洋に突き出していた。
 そして襟裳岬から、何重もの皺のように日高山脈が北海道の中央に向かって伸びてきていた。飛行機は、その山脈の上空を越えて飛んでいるところだった。飛行機の後方の地平線の上には、オレンジ色の夕陽が静止したように浮かんでいて、弱々しい光を放っていた。山脈の右の日高側は夕陽を受けてオレンジ色に輝いていたが、十勝側は山脈の蔭に隠れて、暗闇の中に沈んでいた。 
 ポンと弾けるような音が響くと同時に、『シートベルト』のサインが点灯する。時折、真空でも落下するような揺れとともに、みるみるうちに飛行機は高度を下げ始めた。
 日高山脈の黒い皺がだんだんと目前に迫ってきたと思う間もなく飛行機は闇の世界を漂っていた。
 心の中で、『全て、終わってしまったんだ』と呟くと、急に熱い感情が込み上げてきた。僕は、何度も何度も『全て、終わってしまったんだ』と繰り返した。でも、諦めきれない、無念な思いが消え去ることはなかった。
 僕の乗った飛行機は、暗闇の底へと、静かに、ゆっくりと沈んで行った。