ムーンライト・セレナーデ

              1

 その頃、僕の精神状態は、かなり不安定だった。まるで洞窟の奥底にでも閉じ込められているような息苦しく暗澹とした気分が、くる日もくる日も続いていた。そして、その洞窟の暗闇から逃げ出すこともできず、じっと自分の死を待っているような狂おしい閉塞感に、僕は苦しめられていた。
 大学で勉強している時も、食事をしている時も、そして下宿にいる時も、僕は、そんな閉塞感から逃れることはできなかった。
 夜、眠りにつく時に目を瞑ってしまうと、そのまま深い闇の奥底へ引きずりこまれてしまいそうで、なかなか寝つけなかった。ようやく眠りについても半覚醒のような断続的なまどろみを繰り返し、不気味な夢を切れぎれに見続けた。そして睡眠不足の頭痛を抱えて目を覚ますが、もうその時には、得体のしれない不安感に喉元をギュッと締められているのだった。
 そんな神経症的で不安定な精神状態が、大学四年目の秋頃に、突然、僕を襲った。就職も卒業も一年延ばし、まるで暗い深海の底で己の光のみを頼りに生きるアンコウのような気分で、僕は狂いかけた心と対峙しながら、ひっそりと静かな冬を迎えた。

              2

 大学のキャンパスで久子と逢ったのは、冬休みが明けてすぐのことだった。彼女と顔を合わすのは、十月の大学祭以来、ほぼ三ヵ月振りだった。
 夕暮れの太陽が校舎の端にかかり、枝ばかりの裸の樹木が、骸骨のような影を褐色の芝生の上に落としていた。ゼミの演習を終え、文学部棟の横を裏門に向かって歩いていた時、僕は、久子に声をかけられた。
「どう、元気だった?」と、久子は寒そうな微笑を浮かべて、僕に近づいてきた。
「相変わらずだよ」と答えて、僕は久子と並んで歩き始めた。
 取り立てて話すことはないが、それでもぽつりぽつりと言葉を交わしながら、僕たちは裏門を出て、久子がいつも乗っているバス停へと向かう。時折、冷たい風が通りに沿って背中から吹いてきた。その風の彼方から、どこからともなく犬の哀しそうな鳴き声が微かに聞こえてきたが、あたりは冬特有の透明な静寂に包まれていた。空は、まるで透明な青いセロファンでも貼りつけたように深く澄み、指を伸ばすとパリッと破けてしまいそうだった。
「ねえ、なぜオオカミ男が月夜に変身するか、知ってた?」
 僕の隣を、肩を接しながら歩いていた久子が、悪戯っぽそうな微笑を口許に浮かべて、僕を横から凝視めた。
 オオカミ男が月夜に変身するということも知らず、僕は、「さあ、どうしてだろう」と曖昧に答える。
 久子は、とたんに嬉しそうな輝きを目に浮かべる。
「これは、そもそも古代バビロニアで始まった占星学に始まるんだけれど、昔の占星学では、月の光というのは魔力的な力を持っていて、それを浴びると気が狂うと考えられていたのね。英語で、MOON-STRUCK、つまり月に打たれるという言葉があるんだけれど、これは『気の狂った』という意味なの。それから月を表すLUNAの派生語で、LUNATICというのは、『発狂した』とか『精神異常者』という意味の言葉なのよ。つまり、オオカミ人間というのは、月の光が持っている魔力的な力を表す象徴的な存在というわけなのよね」
 そこまでいっきに喋ると、久子は満足そうに僕を見た。
「まさか、オオカミ男と月の光の関係性が卒論のテーマだった訳じゃないだろう?」と僕は、わざと言ってみる。
「それも面白かったかもね。……実は、卒論関係の文献を漁っていた時に、たまたま発見したことなの」
「卒論は、何書いた?」
「忘れたわ。どうでもいいような下らない内容よ」と久子は、吐き捨てるように冷たく言う。
 ゆっくり歩いているつもりが、気がつくと、僕たちは広いバス通りに来ている。すでにライトを灯した車が道路を激しく行き交い、通りの西側に面した商店街には明かりが灯っていた。
「ねえ、村瀬君、どうして卒業しないの?」と突然、久子が真剣な目つきで僕を睨んだ。
「ゼミの単位を落としてしまったからだよ」と僕はごまかす。
「嘘ついてるわ。チーコに聞いたのよ。あなたが、ゼミの教授のところに行って、わざと単位を落としてくれるように頼んで来たって。卒論だって、書いて出してしまったんでしょ?」
「うん」とだけ言って、僕は次の言葉を探しだそうとする。でも、すぐには見つからない。
 僕は、今の社会にうまく馴染んで生きていけだけの自信が、全く持てないでいた。生活すること自体が、そのまま他人との競争原理の上に立っているこの社会で、他人を打ち負かしてでも生きのびていこうとする図々しさが、生来的に僕には欠けていた。それに僕自身、そんな図々しい人間になりたいと思ったこともなかった。
 僕は、誰とも競争せず、社会の片隅でひっそりと静かに生きていければ、それでよいと考えている消極的な人間の一人にすぎなかった。
 でも実際のところ、今の社会で、そんな人間などは求められてはいない。空気のように何気なく生きていける場所など、どこにもないのだ。
 どうしようかと、ぐずぐず迷っている間に就職戦線は始まっていた。友人達は、ネクタイに背広姿で、目指す会社を飛び回り始めた。激しいジレンマと将来に対する不安感の中で下宿に閉じこもっていると、突然、精神的な変調に襲われた。朝、目が醒めた時から重苦しい気分で、理由もなく動悸に襲われたり、突然、形容しようのない不安感に苦しめられるようになった。時折、学校に顔を出すのが精一杯で、とても会社訪問だの就職試験などという精神状態ではなかった。
 卒論にしても、図書館で借りてきた本の内容を、ただ繋ぎ合わせただけの、テーマも内容もいい加減な代物にすぎなかった。
 そんな事情を、どんな風に久子に説明すればいいのかと迷いながら、僕は言葉をにごした。
「社会に出ていく自信がまだ持てないんだ。いろんな意味でね」と、僕はそれだけを言う。
「私だって、別に自信があるわけではないのよ。でも教員試験に受かったし、今はとにかく卒業して就職するしかないと思っているだけよ。いつまでも学生の身分なんかではいられないでしょう」
 彼女の考えの方が正論だと僕は思う。だから、何も言い返すことはできない。
「君なら、きっと中学校の英語の先生としてうまくやっていけるよ。英語の力もあるし、それに決断力や行動力もあるし」
「他人事みたいに気やすく言わないでよ。正直言って、とっても不安なのよ、私に中学生の指導ができるのかなあって。校内暴力とか生徒同志のケンカなどがあった時に、ほんとに私に対処できるのかなあって」
 彼女の言葉が、重い鉛の玉のように、僕の胸にずしりと深く食い込んでくる。彼女も、彼女なりの不安を抱えているのだ。しかし、僕のように立ち止まってはいない。
「……でも、とにかくぶつかってみるしかないじゃない? 不安だからって、じっと隠れているわけにもいかないんだから」
 彼女は、見えない敵にでも吐き捨てるように、強い声音で言い切る。
 卒業もせずに大学に残ろうとしている自分の甘えが糾弾されているようで、僕は何も言えない。僕は、自分の足元を凝視めながら、久子の歩調に合わせてひたすら歩くだけだ。
 冷たい北風が、二人の隙間を甲高く鳴きながら吹き抜けてゆく。その冷たさが、僕の心に鋭い痛みとなって突き刺さる。
「……ゴメンなさい、感情的な言い方しちゃって。でも、大学生活って、そんなに楽しかったわけでもないけれど、いざ卒業するとなると、妙に淋しくなったり、すぐにイラついたりしちゃうのよね」 僕の気持ちに勘づいたのか、久子は目を細めて、淋しそうな微笑みを口許に浮かべた。それから軽いため息をフウッと洩らすと、すぐ目の前から僕の顔を覗き込んだ。
「でも、卒業しないなんて、最高にズルいと思うわ」
 彼女の柔らかい微笑みが、雨雲を割って射し込む木漏れ日のように、僕の暗い心に眩しく入ってくる。
「ズルいかもしれないけれど、別に楽しい事じゃないよ。一緒に入学した連中はみんないなくなるし、就職のめどが立っているわけじゃないし。仕送りが一年延びて親には嫌な顔されて、自己嫌悪には陥るし、悪いことばかりだ」と僕は小さく呟く。
「自己嫌悪くらい安いもんじゃない。私なんてしょっちゅうよ」
「でも、君は就職先も決まって、四年で大学を卒業だ。僕なんか、就職もできず一年居残りだ。この差は大きいよ」
「今さら愚痴るなんて卑怯じゃない。自分で決心して、もう一年残るってことにしたんでしょ。とにかく頑張りなさいよ。それしかないじゃない。私も不安だけど、教員の仕事、やれるところまでやってみようって思っているもの。あなたも覚悟を決めなさいよ」
 久子は、励ますというよりも、姉が弟にでも言い含めるような説教口調で僕に向かって話す。
 いつの間にか、僕の口許に笑いが浮かんでいる。
 この四年間に、何度、僕は彼女の、こんな説教口調を聞いたことだろう。でも、彼女が卒業してしまえば、そんな風に僕に言葉をかけてくれる女性もいなくなってしまう。
 久子のいないキャンパスは、きっと無人の街のように空虚で寂しいだろう。そう思うだけで、まるで胸の肋骨を一本抜き取られるような痛みが、心に突き刺さる。
 僕は、隣を歩く久子の横顔を改めて凝視めた。つり上がった細い目が、睨むようにじっと前方を凝視めている。頬はうっすらと紅色に染まり、セーターの襟元までのショートカットの髪が、時折吹きつける寒風にゆるく靡いている。そして風が流れる度に、半透明の薄い耳たぶの下で、銀色の星型のイアリングが小刻みに揺れる。
 彼女の頬にそっと触れてみたい気持ちで、僕は彼女の横顔に見とれる。こうやって久子の顔を見られるのも、これで最後になるかもしれない、と僕はふっと思う。
「どう、頑張れそう? 来年は絶対卒業するのよ。そして、ちゃんと就職もするのよ」
「やれるだけやってみるさ」と僕は、彼女が去ってしまう寂しさを悟られないように、わざと投げやりな口調で答える。
「ダメよ、いい加減な気持ちじゃ。真剣に頑張らなくちゃ」
「うん」と言いながら、目の前の久子の顔が切なくて、僕はなんとなく東の空を振り仰いだ。
 先ほどよりも更に微妙に色合いを深めて、濃い藍色に空は冴え渡っていた。まるで、石ころを投げると円形の波紋を広げて、無限の彼方までも吸い込まれて行きそうなほどの透明感だった。
 ふと見ると、家並みの屋根に近い東の空に、明るい星が清楚な光を放って輝いていた。
 中途半端な気持ちのまま、久子が卒業していったら、自分がひどく惨めになるように思えて、どこかで気持ちを整理しておかなくてはならないと、その星を眺めながら、僕は考えていた。

              3

 久子と会ってから一週間ほどして、僕は彼女に手紙を書いた。書き終わって手紙の封をした時、僕は、この四年間の迷いに、ひとつの決着をつけたことを確信した。

 前略
 先日、大学の裏門からバス停まで君と一緒に歩いた時、君のことについて心の整理をつけておかなくてはならないと思い、手紙を認めることにしました。
 今さら、こんな手紙を書く必要などないのかもしれません。少なくとも、君にとっては無意味な手紙でしょう。でも、僕には、君が卒業してしまう前に、伝えておきたい事がたくさんあるのです。吐き出してしまいたい想いが、はち切れるほどあるのです。だから書くことにしました。君の気分を害することもあるかもしれませんが、君への最後の手紙です。ご容赦ください。

『一目惚れ』という言葉がありますが、君の事に関しては、まさにその言葉がピッタリと当てはまります。あれは入学して間もなくの五月のことだったと思います。フランス文学部の連中何人かと学生会館の喫茶室で雑談をしていると、たまたまそこにほっそりと痩せた女の子が、誰かを探している様子で現れました。膝までのミニのワンピースからすらりと伸びた健康そうな足が目にとまり、僕は何気なく視線を上へ移していきました。その女の子の横顔を見た瞬間、自分の身体から魂だけがフッと抜け出して、その娘の方へ惹きつけられて行くような眩暈を覚えました。
 漣のような細かな感情までも映しだしそうな澄んだ茶色の瞳と、恥ずかしそうに微笑む笑顔が、僕の気持ちを捉えて、離そうとしませんでした。
 その女の子は、同席していたフランス文学部の女の子と言葉を交わすと、そのまま喫茶室を出ていきました。僕は、胸の高鳴りを押さえて、できるだけさり気なくその子に『今の娘、誰?』と訊きました。『英文学部の高野久子って子よ。いっしょにワンダーフォーゲル部に入ったんだけど、誰か先輩を探しているみたい』
 その『高野久子』という名前が何かの啓示のような気がして、僕は何度もその名前を心のなかで繰り返していました。
 これが、僕にとっての君との最初の出会いでした。そして、その瞬間、僕は君に恋をしていました。
 大学に入る以前から山歩きには興味はありましたが、ワンダーフォーゲル部に入ってみようと決心したのは、実は君の存在を知ってからです。
 どんな風に初めて君と言葉を交わしたのか、実はもう憶えていません。最初は単なる部員同志という関係に過ぎなかったのが、夏合宿でたまたま同じパーティだったこともあって、いつの間にか、僕たちはどんな話題でも語り合える親しい友達になっていきました。今から考えてみると、二人は、趣味や好みは全く違ってはいましたが、たまたま同じような問題意識を抱えている時期だったせいか、よく二人で喫茶店に入って、人生だの、孤独だの、愛だの、家族についてだの、真剣になって話し込んだものです。 君は、僕が予想していた通り、誰よりも真実を見抜く鋭い感性の持ち主でした。でもそのせいで、君は心の中では誰よりも深い傷を負っているようでした。僕は、君の内面を知るにつれて、ますます君に惹かれていきました。そして、こんな事を言うと生意気そうに聞こえますが、僕は僕なりに、君の傷ついた心を支えてあげられる存在になりたいと強く望むようになりました。でも君は、そんな僕のささやかな気持ちの範囲内に留まっているような女性ではありませんでした。君は、何かに拘束されることを嫌い、それこそどんな男とでも親しく言葉を交わし、親交を広めていこうとする外交的な女性でした。
 夏の終わり頃、君は好きな男がいること、そしてその男からも気持ちを打ち明けられて、付き合うつもりでいることを僕に教えてくれました。
『私、周りのみんなから認めてもらえるようなオープンで前向きな付き合いをしたいと思っているの。コソコソと人目を気にするような後暗い付き合いはしたくはないし、付き合うことでお互いを拘束し合うようにもなりたくないわ』君は、そんな内容の言葉を力強い勢いで僕に語ってくれました。
 僕は、出来るかぎり穏やかな笑みを顔一杯に浮かべ、『おめでとう、うまくいくといい』と君を祝福したように思います。
 でも本心は、そんな穏やかなものではありませんでした。まるで激しい雨に叩かれて、全身びしょ濡れになっている野良犬のような惨めな気持ちでした。君が、遙か遠くに離れていってしまうようで、その男の所有物になってしまうようで、とても悲しく、やりきれませんでした。そして僕の脳裏に、君がその男とキスをしたり、セックスをしたりする情景が鮮明に浮かんできて、僕の心を強く苦しめました。
 その後、時折、君と彼がキャンパスの中を二人で一緒に歩いている姿を何度か目撃することがありました。その度に、僕は、狂おしく激しい絶望感に押し潰されそうになりました。
 本当は、もうその時点で、君のことを諦めてしまえばよかったのです。そうすれば、三年以上も君のことで苦しめられずにすんだ筈なのです。そのことは今日まで何十回も何百回も考えてきました。でも僕は諦め切れなかった。君を忘れることはできませんでした。それは同じワンゲル部員としてよく君と顔を合わしていた事と、君が以前と全く同じように親しく僕に声を掛けてくれたからでした。君にしてみれば、僕は単なる心安い男友達の一人だったのかもしれません。でも、気軽に声を掛けられる僕の方の気持ちは、そう単純に割り切れるものではありませんでした。
 君が『彼と別れたわ』と暗い顔で教えてくれたのは、それから半年も経たないうちのことです。
 君には申し訳ないけれど、その事を聞いて、僕は内心嬉しかった。跳び上がって喝采を叫びたいほどの気持ちでした。
『憂さ晴らしをしたいから、今夜つきあってよ』と君が僕を誘い、二人でパブに出かけた時の事も、忘れられない思い出です。
『今夜は、何も分からなくなるくらい思いっきり飲ませてね』と君は最初からウイスキーを早いピッチで呷っていきました。君は、盛んに坂口安吾の『堕落論』の事を口走り『人間なんて、とことん堕落しなくては、本当の救いなんてありはしないのよ』と呪文のように同じセリフを唱え続けました。いつの間にか、君は一人でボトルの三分の二ほどを空けてしまい、だんだんと呂律も回らなくなっていきました。
 僕は、これ以上飲ませられないと判断して、君を店から連れだすことにしました。ふらつく君の肩を支えてドアを出たところで、君は突然僕に寄り掛かり、『お願い、私をめちゃくちゃにしてほしいの』と激しく泣きじゃくりながら抱きついてきました。
 僕は、心臓が飛びだすほど驚き、そして激しく動揺しました。
 僕は君を抱きたかった。いや、君を初めて見た日から、僕は君を抱きたいと望み続けてきたのです。その長い間の願望が叶うかもしれない。僕は、くらくらと眩暈がするほどの喜びで、君を支える腕が震えるほどでした。
 でも、本当に抱いていいのか、僕は躊躇していました。
 僕は、ベロベロに酔っぱらっている君を抱きたくはなかった。そうではなくて、普段の、当たり前の君を抱きたかった。僕は、僕を愛してくれる君を抱きたかった。他の誰かを愛していて、それを忘れさせるために抱くなんて、僕が望んでいたことではなかった。
 僕のコートの胸のあたりに顔を埋め、激しく嗚咽する君をどうすることもできず、僕は力なく両腕を君の背中に回しているだけでした。大きく上下する君の背中の温もりを感じながら、きっといつか、君が僕を愛してくれる日がやってくるだろう。そして、その時こそ、僕は君を抱くんだ、と自分に言い聞かせていました。
 もしかしたら、その夜の出来事がきっかけとなって、僕と君との仲が進展するのではないかという僕の淡い望みとは裏腹に、その後、急に君は僕を避けるようになりました。君の心のなかで何があったのか、その当時の僕は知る術もなく、ただ途方に暮れるばかりでした。あの夜に、君を抱いておくべきだったのかと、思い悩んだこともあります。君が、同じ部の先輩と楽しげに話している様子や、英文学部の男子生徒と笑い声を上げながら昼食を食べている様子を遠くから眺めながら、僕の気持ちはひたすら落ち込んでいくばかりでした。
 思い切って君の家に電話して、ゆっくりと話がしたいと伝えたのは、二年生になったばかりの四月のことです。
 待ち合わせの喫茶店に十五分も遅れてやってきた君は、今にも手首を切ってしまいそうな暗い表情を浮かべていました。僕たちは、たまたま二人とも読んでいた石原吉郎の『望郷の海』について三十分ばかり言葉少なに感想を述べ合ったように覚えています。
 気がつくと、僕たち二人は重い沈黙の中でじっと身動きもせず向かい合っていました。それは、何も話すことがなくなったという沈黙ではなく、お互いに胸の中で激しく逆巻く言葉の渦をぎりぎりの地点で耐え忍んでいるといった沈黙でした。全てを吐きだしてしまえば、自分も相手をもズタズタに傷つけてしまうような言葉を、一人ひとりがようやくの思いで支えているという重圧感のある沈黙。 その沈黙を最初に破ったのは君の方でした。
「私も、私なりに努力したのよ」
「努力って、何を?」
「あなたを好きになろうって……でも、なれなかった。フッ、可笑しいでしょ。ホントに好きになってたら、まるで三文小説よね」
「三文小説じゃ、ダメかい?」
「……いいわよ、私は。でも結局、傷つくのはあなたの方よ。本当に愛されていない女を抱いても、あなたは幸せになれる?」
「なれるかもしれない」
「うそ。あなたは、そうは思っていないわ。だって、あなたは私を抱くチャンスがあったのに、抱かなかったじゃない? あなたは、そんな適当なところで妥協する人じゃないわ」
「……じゃあ、君は、これから二人の関係をどうしたい?」
「このままがいいわ。今のまま。あなたには、ずっと私の友達でいてほしいの。何でも相談できる友達でいてほしい」
「なぜ?」
「なぜって、何でも気やすく話せる人って、私にはあなたしかいないからよ」
「そんなの、君の我儘だ。僕は、君の友達のままでなんかいられないよ」
「どうして? どうして友達のままじゃダメなの?」
「もう、さんざん苦しんできたんだ。これからも、ずっと僕に苦しめって言うのかい」
「……私、あなたを失いたくないの。何でも話せる、何でも打ち明けられる男友達としてのあなたを失いたくないの。私、あなたを失うのがとっても怖い。でも、男としてのあなたを好きにはなれないの。好きになろうって努力したんだけれど、好きになれなかった」「君は、身勝手だよ」
「そうよ、私はエゴイストよ、身勝手よ。そんなの分かっているわ。でも、それが私の本心なんだもの、しょうがないじゃない」
 君も僕も涙を流していた。落ちても落ちても、とめどなく涙が溢れてきた。
「私、あなたに甘えすぎていたと思うわ。その分、あなたをずいぶんと傷つけてしまった。だから、最近はできるだけ、あなたに近づかないように努力してきたの。でも、正直言って、淋しかった」
「ねえ、大丈夫だよ、きっと僕を好きになる日がくるよ。だから、つきあってみようよ」
「ゴメンなさい」
 君は、木綿のハンカチで頬の涙を拭うと、まるで能面のような無表情な顔つきになった。
「あなたって、人がよすぎると思う。よく今まで、私の我儘にじっと耐えてきてくれたわね。感謝するわ。でも、もう今日限りで、そんな無理をすることもないのよ。それじゃ」
 君は、コーヒー代をテーブルに置くと、そのまま喫茶店から姿を消していきました。僕は、溢れ出てくる涙を止めようがなく、君の姿が消えていったあたりの風景を放心したように眺め続けていました。
 連休が明けると、君の籍はワンダーフォーゲル部から抜けていました。そして僕も、夏休みの合宿が終わると同時に、僕自身の個人的な理由で部を辞めました。
 君の姿は、時折キャンパスで見かけましたが、お互いに言葉を交わすことはなくなりました。
 僕たちは、出会う前と同じように、赤の他人に戻ったのです。でも、あくまでそれは見せかけの現象にすぎません。
 君の姿を見つけた時の胸の高鳴りや、君を恋焦がれ気持ちに以前と変わりはありませんでした。僕は、来る日も来る日も、君の事ばかり考えて暮らしていました。目に映った出来事、読んだ本、感動した映画、僕の経験した全てを、君と分かちあえたらどんなに素晴らしいことだろうと思いました。朝、目が醒めた時から、夜眠る時まで、僕の心の中心に、いつも君が静かに微笑んでいました。そして、僕の心を激し苦しめました。
 やがて夏の過酷な暑さが過ぎ、銀杏の葉が黄金色に輝く季節が訪れました。僕は、徐々にではあるけれど、君の呪縛から解き放されようとしていました。
 天の彼方まで空気が透明に澄み渡り、雲ひとつない青空が無限に広がっていた秋の朝に、大家さんの小母さんが、僕に電話が掛かってきたことを告げました。
 受話器を取り、君の声を聞いて、僕は驚きました。君は、用事もなくただ何となく電話をしてしまったというふうな話し振りで、僕も、出来るだけサラリと受け答えをしました。でも、内心は、身体が地上から十センチばかり浮き上がるような嬉しさで胸がはち切れそうでした。
 君は、ESSに入って英会話の練習をしているとか、ディベートのコンクールがあるとか、アルバイトで選挙カーに乗って手を振ってきたとか、『カサブランカ』には泣けたといったような、その後の身辺の出来事を細かく僕に教えてくれました。
 何ヵ月振りかで聞く君の声は、まるで天使の囁きのように、僕の心の中で反響しました。僕は、君の言葉はひとつも逃すまいと、受話器を強く耳に押しつけて、君との会話を夢中で楽しみました。
 気がつくと、一時間以上も時間が過ぎていて、電話を切る間際に『ねえ、喫茶店でコーヒーでも飲みながら話したいね』と誘いをかけたのは僕の方でした。でも、きっと君も、それを望んで僕に電話を掛けてきた筈です。
 半年ぶりに君と会うことになった日の前夜、僕は一睡もできませんでした。君と会って話ができる嬉しさのために興奮していたからでしょう。でも、夜が仄かに明けてくる頃になると、嬉しさよりも、胃壁を穿つような憎しみがギリギリと沸き上がってきて仕方がありませんでした。
 君への激しい恋情に、気が狂うほどに苦しめられてきて、ようやく少しずつ君への呪縛から逃れられそうになってきた矢先に、なぜ電話など掛けてきたのだろう。君に会えば、また同じ苦しみの繰り返しじゃないか。どうして、君は、そんな簡単なことも分からないのだ?
 君への断ちがたい想いが強いだけに、その憎悪も激しいものでした。心の中で、君への恋情と憎悪が衝突しあい、気も狂わんばかりの苦悩に七転八倒しながら、僕は、君と会わない決心を固めることにしました。
 昼になり、君と会う約束の時間に、僕は近くのロック喫茶で、ニール・ヤングの『アメリカン・スターズン・バーズ』の強烈に波うつサウンドに身体を委ねていました。そうでもしていなければ、僕はいてもたってもいられなかったのです。君が一人、椅子に座って、僕が来るのをぼんやりと待っている姿が、どんなに振り払っても僕の脳裏から消えませんでした。僕は目を瞑り、グッと奥歯を噛みしめ、木の厚いテーブルの端を両手で掴んでスピーカーから飛びだしてくる音の炸裂に身を浸そうとしました。
 そして何度も何度も時計を見ては、もう君は帰っただろうか、まだ今であれば、電話をすれば間に合うのではないだろうかと逡巡し続けました。約束の時刻を一時間過ぎ、二時間過ぎても、まだ君が約束の喫茶店で待っているような気がしてなりませんでした。
 その夜も、僕は眠れませんでした。君を断ち切るためには、これしかなかったんだと、僕は何度も自分に言い聞かせました。
 それから一週間ほど経って、キャンパスで君と擦れ違うことがありました。僕は、学生会館の階段を降りて、文学部棟へ向かう道を歩き始めたところでした。花柄のフレアースカートをなびかせてリズミカルに歩いてくる君の姿が、突然に講堂の脇から現れました。君は、同じ英文学部の女子学生と何やら楽しげに会話を弾ませている様子でした。
 一瞬足が止まりそうになるのをこらえて、僕はそのまま歩き続けました。心臓が異常に高鳴っていて、僕は、そのまま通り過ぎようという気持ちと、一言、君に声を掛けなくてはならないという本能的な思いが交錯し、二、三メートル手前で、つい足を止めてしまいました。そして君の顔を凝視めました。君の笑い顔が、天使の微笑みのように美しく魅力的に見えました。それは君の笑顔が永遠に僕の手の届かない場所へと去ってしまったからかもしれません。
 君は、まるで物でも眺めるように冷たく僕を一瞥すると、そのまま学生会館の方へと歩き去ってしまいました。
 あの時の、僕の狂おしい気持ちは、とうてい君には分かって貰えないと思います。あの日、僕は下宿に戻ってから、声を上げて激しく泣いてしまいました。冷たい目つきの君の顔を思い出しながら、涙の涸れるまで泣き続けました。泣いても泣いても、涙は止まろうとはしませんでした。そして、これでよかったんだと、僕は自分に言い聞かせました。

 君も知っていたように、僕は三年生の夏休み頃から、同じフランス文学部の女の子と何ヵ月か付き合っていたことがあります。
 彼女は、君と違って、心の底から人の良いお嬢さん育ちの、上品で温和な性格の可愛い女の子でした。でも彼女と一緒にいても、僕の心はいつもどこか満たされない渇望感から逃れることができませんでした。まるで胸の中にポッカリと空気穴が開いているようで、充実した喜びを得ることができなかったのです。
 でも、やがて僕は、その原因に気がつきました。それは、君の存在だったのです。僕の心の中における君の存在があまりにも重く、大きすぎて、彼女では、まったく太刀打ちできなかったのです。その事実に気がついた時、僕は自分でもショックでした。
 君と僕とが、表面上は特別に気兼ねなく、気軽に声を掛けられるようになったのも、ちょうど僕が彼女と付き合っていた頃のことでした。たまたま僕が学生食堂の玄関から出てきたところを、君が『最近、どう? 元気だった?』と声を掛けてくれました。
 あの時の、君の春風のように爽やかな微笑みも僕には忘れることができません。
 君も、僕が例の女の子と付き合っていることを知っていて、逆に気軽に声を掛けやすかったのかもしれません。僕も、君が特別の存在ではないというポーズを取りやすく、ごく普通に君と対応することができたのだと思います。僕たちは、そのまま喫茶室で一時間程、その後のお互いの近況を報告し合いました。
 その時から、僕たちはキャンパスで会えば、気軽に挨拶を交わす関係に戻りました。
 でも実際のところ、僕は密かにある決心を固めていたのです。その決心とは、もう絶対に君に特別な感情を抱かないという事です。そうしなければ、間違いなく同じ苦しみを再び味わうことになるだろうと察したからでした。
 その自戒を、僕は、今日まで貫き通してきました。いや、貫くことができたからこそ、これまで君と一定程度の距離を置いた関係を維持してこられたのだと確信しています。
 やっと、この手紙も終わりに辿り着いたようです。どうして、今になって僕はこんな手紙を君に書かなくてはならなかったのか。それは、やはり君を心の底から愛していたからです。君を始めて見た日から今日まで、僕は一日たりとも君を想わない日はありませんでした。これまでの人生で、君のように、僕の真正面から僕にぶつかってきて、僕の心を虜にし、苦しめ、強く揺さぶり続けた女性は他にはいません。と同時に、僕にとって、君ほど理解しえたと思える女性もいませんでした。君は、高野久子という人格でありながら、まるで僕の人格の一部分であったような気がします。君の怒り、哀しみ、苦しみ、喜びは、そのまま僕の怒り、哀しみ、苦しみ、喜びでもありました。君は、それほど僕にとってかけがいのない大切な存在だったのです。こんな事を書くと生意気に聞こえるかもしれませんが、僕ほど君を理解できた男は、他にはいないと僕は信じています。僕は、君の体を一度も抱くことはありませんでした。でもそんな事は問題ではありません。僕は、君とセックスした他のあらゆる男よりも、君を理解していた筈だと確信しています。

 あと一月足らずで卒業式です。君を初めて見た日から、実に様々な出来事が通り過ぎていきましたが、気がつくと、もう別れの季節になってしまいました。君は卒業し、僕は大学に残ります。同じ街に住んでいるとはいえ、この大都会で君と偶然に出会うことは二度とないでしょう。

 僕の青春に、君という女性がいたことを感謝します。死ぬまで、君のことは忘れないでしょう。元気で、そして永遠にさようなら。

              4

 久子に宛てた手紙を書き終わった時、僕の心の中で、何か憑きものが落ちたような気持ちの浄化作用があった。胸の中の鬱屈した感情を全て吐きだしてしまうと、その代わりに、爽やかな空気が胸の奥まで流れ込んできた。
 これで久子を断ち切れると、僕は信じた。
 でも、その手紙を投函したからと言って、特別、僕の毎日の生活に変化が起きるわけではなかった。急にドクドクと動悸が襲ってきたり、得体の知れない影のような不安感が足元から湧き上がってきて、僕を怯えさせることが相変わらず続いた。
 これは、あきらかに精神的な変調に違いないとさんざん迷ったあげく、僕は市立病院の精神科で診てもらうことにした。でも、それはとても勇気のいることだった。
 病院に行こうと決めたものの、翌朝には気が変わっている。そんな事を何度か繰り返したあげく、やっとのことで僕は病院に足を運ぶことができた。
 僕を診察してくれたのは、五十代くらいの、髭を生やした柔和な顔の医者だった。彼は、時折相づちを打ちながら、終始にこやかに僕の話を聞いてくれた。そんな医者の態度が、僕の不安感を、水素入りの風船のように軽くしてくれた。
 医者は、僕の説明を一通り聞いてから、「君の症状はね、一般に不安神経症と呼ばれているものなんだ。真面目でね、物事がきちんきちんと進んでいかないと満足しない人にかかりやすい病気なんだ。まあ、病気と言っても、君の話を聞いていると、ほんの軽症にすぎないけれどね」と言って、僕に規則的な生活や食事、そして適度なスポーツと身体的な疲労の必要性を説いた。
「朝昼晩と食事を取って、授業にはちゃんと出て、それから汗を流すようなスポーツもして、夜はグッスリ眠り、物事を考えすぎたり、余計な心配なんかしないようにすれば、だいたい君の場合はすぐに治るよ」
 彼の自信の満ちた説明を聞いていると、彼の言う通りだと思えてくるのだった。でも、心の一方では、そんな優等生みたいな人間ばかりが世の中に溢れたら、逆に恐ろしいような気がしないでもなかった。
 飲み薬を出してもらい、僕は病院を出た。心が十グラムくらい軽くなったような気がしたが、医者の言葉が、あまりに規範的すぎて、信用できない気持ちも拭い去ることができなかった。
 その夜も、例によって僕はすぐに寝つかれず、説明のできない不安感に襲われながら浅い眠りを繰り返した。そして切れぎれに久子の夢を見た。

 どことも知れない大きな駅のホームで、僕は列車を待っている。やがて列車は到着するのだがドアが開こうとしない。あせってホームを行き来するが、間もなく発射を知らせるベルが鳴り響く。列車の窓の奥では、久子がどこかの男と楽しそうにお喋りをしている。その男は、一年生の時の久子の彼のようであるが、僕の幼なじみの男にも似ている。窓を叩いて、彼女に僕のことを知らせようかとも思うが、二人の会話を邪魔するようで、それもできない。見ると、一緒にホームに並んでいた人達はみんな姿を消している。僕は必死になってドアを開けようとするが、ドアはびくとも動かない。やがて列車は動き始め、僕は無念な思いで、列車を見送る。
 気がつくと、僕は改札口を出て、赤電話を探している。あちこち歩き回ったあげく、ようやく階段の踊り場に赤電話を見つける。僕は、久子の家に電話を掛けようと、ダイヤルを回す。運良く電話口に出た久子に『僕の手紙、読んだ?』と訊きたいが、声が全く出てこない。『どなたですか』と繰り返す久子の声に、気持ちばかりが焦る。僕は、片手で喉のあたりを掴んで、声を出そうと必死に頑張る。でも、声はやはり出てこない。哀しさとも怒りともつかない感情に、僕は押し潰されそうだ。
 そこで目が醒めた。
 声が出なくて、どうしようもなく惨めだった気持ちだけが、目が醒めた後も余韻のように僕の胸に漂っていた。

              5

 二月の十日から後期の試験週間が始まった。普段まったく顔を出していない科目が半分近くあったが、一応全部の試験を受けることにした。問題の意味が分からず、でたらめな事を書いて、試験の途中で部屋から出てきたこともあった。成績は何であれ、単位が少しでも取れれば、それでいいという投げやりな気持ちだった。

 僕と同じフランス文学部の吉本の遺体が、講堂脇の地下へ降りる階段の下で発見されたのは試験週間の最終日の午後のことだった。 僕が、その事を知ったのは、学生食堂を出て講堂の前を通りかかった時だった。中庭に赤いランプを点滅させて救急車が止まっていた。そして階段のあたりに、かなりの数の学生が集まっていた。変に思って足を向けると、同じ学部の男が、吉本の遺体が発見されたことを教えてくれた。彼は、どうも飛び下り自殺らしい、と険しい顔つきで呟いた。
 救急車は、吉本の死亡を確認しただけで、そのまま彼の遺体を残して帰っていってしまった。それから、どこかの葬儀社がやって来て、彼の遺体をライトバンに積み込んで運んでいった。
 今にも雪が降りそうな曇り空の下で、じっとその様子を眺めていると、体が凍りつくほど冷えてしまった。奥歯が、ガチガチと震えて仕方がなかった。
 その夜、郊外の斎場で通夜が行われた。
 僕は、粉雪の舞い降ちる夜の街を、同じ学部の友人の車に乗って、その斎場へと向かった。どこまでも続く暗い道路の上を、車の風圧に煽られて、雪煙が舞い上がっていた。
 辺りを畑に囲まれた斎場の建物は、まるで世界の果てにあるかのように暗闇の底にひっそりと佇んでいた。
 通夜は、学生が十五人ばかりと、着いたばかりの彼の両親によって寂しく行われた。二百人くらいは入りそうながらんとした薄暗い式場に座っていると、あたりから黒い影が密かに忍び寄ってくるような気がした。彼の父親と母親は、一番前のイスに力なく背中をうなだれて座り、石膏像のように動こうともしなかった。
 その夜、僕は、五人ほどの仲間と吉本の両親と一緒にその会場に泊まることにした。僕たちは、床から寒気が忍び上がってくる寒い部屋の中で、誰かが買ってきたビールや酒を飲みながら、夜が明けるまで吉本について語り合った。
 多少は内向的で神経質な男だったが、どうして自殺しなければならなかったのかは、誰にも分からなかった。ただ、事実として明らかになったことは、最近つきあっていた女の子と別れたらしい事と、卒論が書けずに卒業できなくなった事、すでに就職先が決まっていたので、本人が困っていたらしい事などだった。でも、実際のところ、何が彼を自殺に追い詰めたのかは、誰にも分からない事だった。
 吉本の父親は、彼の小学校時代のエピソード(小学校二年生の時に、学芸会の劇で『桃太郎』の赤オニをやった事)とか、中学校の時にマラソン大会で二位になった事とか、高校時代はずっとブラバンでトランペットを吹いていた事などを語ってくれた。でも、ひたすら酒を呷っているうちに、だんだんと激しい口調で意味不明な事を口走るようになり、夜が明ける頃にはベロベロに酔っぱらって寝入ってしまった。
 彼の母親は、みなさんのような友人に囲まれて、マサキはきっと幸せだったに違いないと、同じセリフを何度も小さな声で呟いた。 翌朝の告別式には、同じ学部のほとんど全員と、教授が三人ばかりと、そして着いたばかりの彼の姉が参列して行われた。それでも、総勢で五十人たらずの淋しい式だった。女の子達が、涙を啜っていたが、僕は涙も流れなかったし、悲しい気持ちも湧いてはこなかった。人間の死というものの実感を、うまく掴み取ることができなかった。
 告別式の後、みんなと一緒に、火葬場までついて行った。
 彼の棺桶を炉に入れる時、酔っぱらった彼の父親が棺桶に抱きついて『俺も一緒に燃やしてくれ!』と泣き叫んだ。彼の母親も姉も、何も言わず、ただ涙を流しているだけだった。
 困った顔をして立ちすくんでいる職員に悪いと思って、僕たちは、棺桶にしがみつく父親を何人かで引き離そうとしたが、彼は自分の息子の名前を叫びながら激しく暴れ、決して棺桶を放そうとしなかった。
 でも五分ほども暴れると、彼は、へなへなと力なく床に座り込んで、静かに声を出して泣き始めた。
 火葬場の職員は、何事もなかったかのような表情で、棺桶を炉の奥へ押し込むと、慣れた手つきで戸を閉めた。
 彼の骨を拾い終わると、もう何もすることはなかった。僕は友達と二人で、火葬場からバスに乗って下宿に帰ることにした。バスから窓の外を見ると、灰色の街に、白い細雪が音もなく舞い落ちていた。その雪の白い冷たさが、僕の心を、芯まで凍らせてしまうような気がした。
 バスの中で、友達が「自殺した霊は、決して成仏できないんだってよ。地獄のような暗闇で永久に苦しみ続けるそうだ」と真顔で呟いた。
 その言葉が、僕の心から、しばらく離れなかった。

              6

 吉本の葬式から一週間くらい、眠れない夜が続いた。眠ってしまうと、吉本の霊が、僕を暗い世界へと引きずり込んでしまうようで、目を瞑るのが恐ろしかった。
 十日ほど過ぎて、ようやく気持ちが落ち着いてきた頃に、思いもよらず久子から電話が掛かってきた。
 その朝、下宿の庭にも、道路にも、向かいの家の屋根にも、綿のように柔らかそうな真白い雪が積もった。それが陽光を反射してキラキラと白く輝いていた。まるで銀色の紙吹雪を街いっぱいに敷きつめたような眩しさだった。
 大家さんの小母さんに呼ばれて、僕は母屋の電話を手に取った。「まだ寝てた? ごめんなさい、起こしちゃったみたいで」
 わざと甘えたような久子の澄んだ声が耳に伝わってきた。
 受話器をそのまま置いてしまいたい腹立たしさが、一瞬、心の底で凍りついた。
 彼女に手紙を書いてから、もう二度と久子とは口もききたくない嫌悪感が胸の中でくすぶっていた。それは、彼女宛に手紙を書いた後で、僕の心の中に湧き上がってきた不思議な感情だった。久子に振り回され続けてきた自分から一刻も早く逃げ去ってしまいたい忌避の気持ちが、彼女への嫌悪感へと繋がっていったのかもしれない。でも、その嫌悪感にしても、久子を諦めきれない気持ちの裏返しにすぎないのかもしれなかった。
 どんなふうに答えたらいいか一瞬言葉に詰まってから、
「いや、別に構わないよ」と僕は、いつもの口調でさりげなく答えることにした。
「寝てたんでしょ?」
「うん……」
「ごめんなさい。昼過ぎに電話したら、きっと部屋にいないんじゃないかと思って」と久子が困惑したように囁く。
「かもしれない」と僕は、そっけなく答える。
「毎日、何してるの? バイトでもしてる?」
「何もしてない」
「私はね、毎日、自動車学校へ通ってるの。けっこう緊張感があって楽しいわよ」
「そう」
 ちょっとした沈黙の重みが、受話器のこちら側と向こう側とで、シーソーのように揺れ動く。
「試験週間、どうだった? 予定の単位は取れそう?」
「分からない」
 久子の口ぶりが不自然に明るい。多分、僕の無愛想な返事に、どう話を繋げていっていいのか当惑してるのだろう。それが分かっていながら、僕は愛想よく応答できない。その上、自分の意地の悪さに、喜びを感じている部分もある。自分ながら、最悪だ。
「どっちみち落としてもいいんだ。どうせ、もう一年大学に残るんだから」
「なんか、投げやりな口調ね。いつもの村瀬君らしくないわ」
 彼女の言葉に、ますます僕は腹が立ってしまう。
「時々、僕らしいと他人から思い込まれている人間を演じるのが嫌になることがあるんだ。四六時中、愛想ばかり振りまいてもいられないさ、僕だって」と、つい声を張り上げてしまう。
 そう叫んでしまってから、僕は激しく後悔する。
「……ごめん。なんか君につっかかっているみたいだな」
「そんなことない。あなたの言う通りよ」と久子が沈んだ声で答える。ひと呼吸、置いてから
「ねえ、私のこと、避けてる?」と冗談めかして、久子が明るい口調で訊く。
 僕は、試験週間の二日目の出来事を思い出す。学生食堂で昼食を取った後、文学部棟の玄関へ入って行った時のことだ。久子が二階の階段から降りてくるところだった。僕の姿に気づいた久子は、微笑みながら僕に声を掛けようとした。僕は、そんな彼女の様子を視界の片隅で捉えながら、彼女を無視するように黙って振り返り、そのまま玄関から外に飛びだしていた。どうしてそんな行動に出たのか、自分でも分からなかった。久子を避けたいという強い衝動だけがあった。僕は、背中に久子の視線が突き刺さってくるのを痛いほど強く感じながら歩き続けた。久子の、落胆した暗い表情を思い浮かべると、理由もなく哀しくて仕方がなかった。
 その時のことを、久子は訊いているのに違いなかった。
「だったら、どうする?」と僕が逆に訊く。
「私を避ける理由を聞いてみたいわ」
「あの手紙を書いて、もう君とは口をきかないって決めたんだ」
「どうして?」
「そう、心に決めたからだよ」と僕は冷たく言い放つ。
 答えながら、自分でも理不尽な事を言っていると感じる。
 受話器から、大きく息を洩らす音が耳に伝わってくる。まるで、久子の息が、直接僕の耳に吹きかけられるようだ。
「ねえ村瀬君。あなた勝手よ」と、感情を押し殺した声が響く。
「どうして?」
「だって、そうじゃない? あなたは四年間の気持ちを、ああやって手紙にぶつけて、私に送ってしまったから、胸の中はスッキリしたかもしれないわ。でも、私は……私の気持ちは、どうやって整理すればいいの? 私だって、私なりにあなたのことについては、この四年間、随分と悩んだり苦しんだりしてきたわ」
 今度は、僕が大きな溜め息を洩らす番だった。
 僕は、開け放った戸から、なんとなく外の景色を眺めた。庭先の小さな楓の木の枝に積もった雪が、太陽の光に暖められて緩み、地面に落ちてくるところだった。すると、リスくらいの小動物でも落ちたようなザクッという重い音が聞こえてくる。
 結局のところ、四年間の僕の一方的な片想いに過ぎなかったのだ。だから、もうこのまま放っておいてくれた方が、僕にはありがたいのだ。僕は、二人の関係を、早く葬り去ってしまい。今さら、どんなにあがいてみたところで、僕と久子の関係なんて、もうどうにもなりはしない。それが、どうして久子には分からないんだ?
「だったら……どうしたらいい?」と僕はようやくの思いで訊く。 受話器の向こう側で、しばらく沈黙が続いた。
「ねえ、あなたオーチス・レディングのベスト・アルバム持っていたでしょう?」と、久子が、急に優しい口調で言う。
「あれはチーコに貸してあるよ」
 急に何の話題を話しているの分からずに、僕は答える。
「違うの。実はチーコの下宿に遊びに行った時に、私、あの子から借りてきちゃったの。あのアルバムに入っている『ドッグ・オヴ・ベイ』って曲、気に入っちゃったものだから」
 久子の素直な話し方に、僕の気持ちもなんとなくほぐれてくる。「あの曲は、オーチス・レディングが飛行機事故で死んじゃった後にヒットした彼の遺作なんだ。僕が中学二年生の時だった。今でも、あの曲を聴くと、当時のことを鮮明に思い出すんだ。好きだった娘とか、中学校の校舎だとかね」
「いい曲よね」
「プレゼントするよ、そのLP。君の就職祝いに」
「ううん、返すわ。それで、そのついででいいから、私の話も、ちょっと聞いてくれない? あなたの手紙を読んだ私の気持ち、あなたに聞いてもらいたいの」
 一瞬、迷いが心の隅を駆け抜ける。
「……わかった」と、僕は、力なく答える。そして少しの間、僕たちは、お互いに口を閉じたまま、静かな沈黙を味わった。
  しばらくして、久子の声が、僕の意識に入ってきた。
「それじゃ、そろそろ電話切るわ。自動車学校に行かなくちゃならないの」
 僕たちは、久子のスケジュールに合わせて、待ち合わせの場所と日時を確認して電話を切った。

              7

 時折、大学へ行くことがあったが、春休みのキャンパスは、まるで幽霊でも住んでいるようにひっそりと静まり、人の影もほとんど見えなかった。講堂の横を通りかかると、階段の横に白い花束と線香の燃えさしが置いてあった。
 僕は、それらを軽く一瞥し、早足にその場所を通り過ぎた。
 陰鬱で孤独な毎日が過ぎていった。
 久子に会う日の朝、目が醒めると、外は雨だった。
 布団の中で雨垂れの音を聞いていると、いつものように形容のできないような暗い気持ちが胸を締めつけてきた。何かに掴まらないと、まるで自分の体が布団の底へ沈み込んでいくようだった。
 こんな気分では、とても久子に会いに出掛けられないと思いながら、しばらく布団の中に横たわっていた。
 軒先から滴り落ちる雨垂れの音の聞いていると、なお気が滅入ってきそうで、僕はやっとのことで布団から起きだした。

 雨は、夕方まで降り続いた。
 約束の時間の二十分ほど前に待ち合わせの喫茶店に着いてしまい、僕は窓側のイスに座って、街並をぼんやりと眺めた。
 灰色の空が少しずつ薄暗くなりかけ、街全体が海の底のように青ざめて見えた。ちょうどネオンが灯り始める時刻で、赤や青や黄色などの色鮮やかな光が、雨粒に濡れた窓ガラスにぼやけて映っていた。
 夕方の買い物客の時間と重なったせいか、喫茶店前の通りには、色とりどりの傘をさした人波がひっきりなしに行き交っていた。その人波をぬって、こちらに近づいてくる姿に僕は目がとまる。
 ピンク模様の傘にアイボリーのコート。ほっそりと痩せた姿と足を抜くような歩き方。じっと目を凝らして見なくても、僕には、それが久子だと直観的に分かってしまう。
 彼女は、喫茶店のドアを開けて、右手に持っていた傘を大きな壺に差すと、店内を見回す。そして僕の姿に気づき、こわばったような微笑を口許に浮かべた。久子のこんな淋しげな笑みを見るのは初めてだと思いながら、僕は軽く頷いた。
「今日ね、仮免に受かったのよ」と、久子はテーブルの横でコートを脱ぎ、僕の前のイスに座りながら、独り言のように呟いた。
 僕は、何と返事をしてよいか分からず「そう」とだけ答える。それ以上に言葉が出てこない。
「でも、私なんかに路上運転なんてできるのかしら。全然、自信がないわ」
「大丈夫だよ」と僕は、ありふれた相槌を打つ。でも気持ちが少しもこもっていないと自分でも思う。彼女も同じことを感じたのか、急に口を閉じる。
 二人の間に、とりとめのない時間の淀みが漂う。
 再び、久子が思いなおしたように、天気の話だとか、彼女の友達の就職先だとか、最近見た映画の話などをポツリポツリと僕に話しかける。僕は、相変わらず「そう」とか「へえ」などと口先だけの返事を繰り返す。
 そんなふうにして、三十分くらいが、列車から見える風景のように無感動に過ぎていく。
「先日ね、勤務することになった中学校へ行ってきたの。校長先生と話をしてきたんだけれど、『生徒が、ちょっと荒れ気味だから、そのつもりで覚悟してくるように』って言われて、落ち込んじゃったわ」と、久子が諦めたような口調で呟く。
 僕は、彼女を励ましたほうがいいのか、それとも、いやになったら無理をせずにすぐに辞めてしまったほういいと勧めたほうがいいのか、しばらくの間考えてみる。でも結局、考えがまとまらず、「大変そうだね」とだけ答える。
 久子は、投げやりな目つきで僕の顔を睨んでから、「そんな言い方、ないんじゃない?」と口の中で小さく囁いた。
 僕の口から、つい大きな溜め息が洩れてしまう。それから、二、三度呼吸を整え、短距離走のスタート時のような弾みをつけて僕は口を開いた。
「ねえ、今日呼び出したのは君の方なんだよ。僕に言いたいことがあるんなら、早くそれを言ってしまったほうがいい」
 何も言わずに、久子は水の入ったグラスに焦点の合わない視線を送る。口を閉じたまま、彼女は心の迷路の暗闇で出口を探しているようだ。
「僕は一方的に好き勝手な事を書いて君に送った。だから、今日は君の話を聞くつもりで来たんだ。黙って聞くから、何でも思っていることを言ってほしいんだ」
 やがて久子は軽く頷くようにしてから僕を凝視める。
「そうね……さっきから、どんな風に切りだそうかと考えているんだけれど、上手い言い方が見つからなくて」
 久子は左手で、肩までの短い髪を耳の後ろにかき分けた。
「私、あなたの手紙を読んで、ショックだったというか、とっても心を動かされてしまったの。まるで心臓にナイフでも突き立てられたような、そんな感じがしたの。……うまく口では説明できないんだけれど」
 そこまで一息に言ってから、久子はグラスの水を啜った。
「私、あなたの気持ち、ずっと分かっているつもりだったけれど、でもあなたの手紙を読んで、本当はあなたの気持ち、ちっとも分かっていなかったんだなって思い知らされた気がした。ほっぺたでも叩かれたような感じだった。私が思っていたよりも、あなたの気持ちって、ずっとずっと激しいものだったんだなって……」
 そうだよ、と僕は、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。この四年間、僕は君を狂うほど恋い焦がれてきたんだ。
「……それで、確かに仕方がない面もあったんだけれど、それにしても、私の言葉や行動が、あなたを随分と深く傷つけてきたんだなって思ったら、あなたに申し訳なくって」
「別にいいよ、そんなこと」と僕は口を開いた。「君に謝られる筋合いのものでも何でもない。もう終わってしまったことだし、それに、君が悪いわけではない。僕が勝手に君を好きになって、それで勝手に傷ついたり、苦しんだりしていただけのことなんだ」
 話している間、自分のコーヒー・カップを見ていた。ふと視線を上げると、久子は何かを訴えるように僕を凝視めていた。
「そんなことない」と、久子は小さく呟くような声で、でも断言する強さで言い切った。
「私、あなたを傷つけているなあって分かっていながら、自分の我儘を通していたこと、けっこう多かったように思う。でも、言い訳に聞こえるかもしれないけれど、私は、自分の気持ちに嘘をつきたくはなかったし、中途半端なところで妥協はしたくなかったの。確かに、あなたに甘えている部分もあったと思うわ。でも、私なりに、いつも必死だった。それは分かってほしいの」
 僕は、じっと黙ったままテーブルの上を眺め続けた。
「ねえ、あの手紙に書いてあるように、そんなに私のこと好きだったのなら、どうして私を抱かなかったの? どうして強引にでも私のこと抱いてくれなかったの?」
 嗄れて聞こえないほど小さな声だった。
 何でいまさら、そんな言葉が吐けるのかと腹立たしいほどの怒りで、僕は何も言えずに、久子の瞳を凝視めた。茶色の瞳の奥で白い光が揺れていた。でも瞳の奥にある久子の気持ちは読めなかった。 僕は、3年前に久子が僕に言った言葉を心の中で唱えてみる。『男としてのあなたを好きにはなれないの。好きになろうって努力したんだけれど、好きになれないの』そう断言する女性を、はたして強引に抱くことなどできるだろうか。少なくとも僕にはできなかった。僕には、自分を愛してくれていない女性を無理やりに犯すことなどできはしない。そしてそれが、僕が、僕らしくあるための生き方だったのだ。
 しばらくの間、僕と久子の視線が絡みあった後、彼女が先に僕の視線を避けた。
「こんなふうに言うと、あなたは軽蔑するかもしれないけれど、女って抱かれてしまうと弱い面もあるのよ」
 久子はため息でもつくように囁いた。しばらくしてから、
「女の子が言うべき言葉じゃないわよね」と、吐き捨てるように言う。
 僕は、腹立たしくて、悲しくて、狂おしくて、そしてバカバカしいほど可笑しかった。
 僕は、強引に久子を抱いてしまえばよかったのか? それで、全てが解決したというのか? それが、久子の、女としてのあからさまな気持ちだったというのか?
 混乱した感情を必死になって自制しようと、僕は口を閉じたままテーブルの上を眺めていた。
「ねえ、馬鹿みたいでしょ」と突然、久子の自棄的な声が聞こえた。「私、つきあっている人がいたの。でも、あなたの手紙受け取ってから、気持ちが混乱しちゃって。こんなに一生懸命私のこと愛してくれてるのは、あなたじゃないかって思えてきて……」
 久子は、ハンドバッグからハンカチを取り出すと、口許を軽く押さえて、鼻を啜った。
「それで実は、昨日、私、その人と別れてきたの。あなたの手紙のこと思い出していたら、このまま、その人と付き合っているのは自己欺瞞だと思えてきて……ねえ、どうしてもっと早く手紙書いてくれなかったのよ?」
 久子の声が、少しずつ涙声になっていくのが分かった。でも僕は久子の顔は見てはいなかった。
 何度か大きく呼吸を繰り返してから、再び久子の声が聞こえた。「それで、昨日はちょっとした修羅場だったの。髪の毛つかまれて引き回されたり、叩かれれたり、蹴られたりして……もう散々だったのよ」
 僕は、途中から久子の話は聞いてはいなかった。
 初めて久子を、学生会館の喫茶部で見かけた時のことを、僕は思い出していた。ほんの四年前の出来事だ。まだ僕も彼女も高校を卒業して二ヵ月と経っていない頃のことだ。
 久子の顔を見た瞬間、僕の心に、新鮮な春風が吹いてくるのを僕は感じた。あの時、僕は本当に若葉のすがすがしい香りをかいだような気がしたのだ。
 四年前。まだ大学生活にも、これからの未来にも夢と期待が溢れていた季節。ほんの少し前のことだ。
 でもそれは、永遠の彼方へと過ぎ去ってしまった。
 もう一度、あの頃の爽やかな久子に逢えたらと思う。そして僕自身も、無垢な心で彼女に憧れていた頃に帰れたらと切実に思う。あの素晴らしい季節に戻れたらと。
 我に返ると、久子の独白は終わっていた。店のスピーカーからはフランシス・レイの『白い恋人たち』が低く流れていた。
 久子は、ハンカチで口許を押さえて俯いたまま、テーブルの上を凝視めている。
 どんなふうに久子に声をかけたらいいのだろうかと考えながら、僕は窓の外へ視線を移動する。もうすっかりあたりは暗くなり、ネオン灯はさらに色鮮やかに明滅していた。それが道路の水溜まりに乱反射して、毒々しい印象を与えるほどだった。夜の街は、眩しいネオンの下、家路を急ぐサラリーマンやOLで賑わっていた。通りを行く人達が傘を差していないところをみると、雨は上がったのかもしれない。
「ねえ」と僕は口を開く。「もう僕たち、終わっちゃったんだよ。多分、二年生になった春休みに終わっていたんだ。ただ僕自身が君を諦め切れずに、つい最近まで引きずっていただけなんだ。でも、もうとっくの昔に終わっていたことなんだ。そして、この前の手紙で、僕の気持ちにもけじめがついたんだ。やっとね」
 僕は、ずっと外を眺めていた。
「そういうことに、しておこうよ。もう、これ以上、お互いに傷つけ合う必要なんてないじゃないか」
 言っているうちに、瞼が熱くなってきた。次の言葉が喉の奥で詰まって出てこなかった。
 僕は、この四年間、充分に久子を愛してきた。他の誰にも負けないくらい久子を愛してきた。久子を一度も抱くことはなかったけれど、でも他の誰よりも久子を愛してきた。
 そして、終わったんだ。
 しばらくしてから「もう、出ようよ」と言って、僕はレシートを掴んで立ち上がった。久子は何も返事をせずに、空になったグラスのあたりを見ていた。顔に垂れかかった髪をよけようともせず、まるで蝋人形のように動かなかった。
「ねえ、最後に一言だけ言わせて」と、顔を俯けたまま、久子が口を開いた。
「確かに、あなたは私を真剣に愛してくれたのかもしれない。でも、それは、あなたが勝手に作り上げた私のイメージを愛していたにすぎないのよ。『私を抱いた他のあらゆる男よりも私を理解していた』なんていう言葉は、あなたの勝手な思い込みだわ。あなたの傲慢だわ。あなたは、私の本当のありのままの姿なんて、何も分かっちゃいないわ。肉体を持った、ありのままの私なんて、一度も愛してくれてないわ」
 彼女の言葉が、僕のみぞおちあたりに深く食い込んできた。何も言えずに、僕は、久子の真白い首筋を眺めていた。頭の中は、スパークしたように真っ白だった。
 二時間くらい、そのまま立ち竦んでいたような気がするが、実はほんの十秒ほどだったかのしれない。でも、僕には、まるで永遠のとも思えるほど長い時間が経過したような気がした。
 彼女に言い残したい言葉を、やっとのことで呑み込み、「それじゃあ」とだけ声をかけて、僕はレジに向かって歩き始める。
 歩いているうちに、どうしようもなく涙がポロポロと零れてきて仕方がなかった。
 店のドアを出ると同時に、足元から勢いよく寒風が立ちのぼってきた。ゾクゾクと寒けが背中を走る。春には、まだ遠い冷たさだ。暗く寒い冬が、まだしばらく続きそうだった。
 歩きだす気力もなく、その場に蹲ってしまいそうな自分を励まして、僕は足を踏みだした。
 このまま店に戻り、久子を近くのホテルにでも連れ込んで犯してしまおうかという考えが、ふと脳裏を横切る。でも、それができるのであれば、僕は別な四年間を送ってきた筈なのだ。
 僕は、舗道の人波に押し流されながらバス停へとゆっくりと向かった。夜の街にさんざめく喧騒やネオンの明かりが、まるで別世界のようだった。僕の歩く地点だけが、ドロリと重たい闇に閉ざされていた。
 ふと、あたりに、ネオンや街灯とは違う光りが射しているような気がして、僕は建物に挟まれた夜空を見上げた。ちょうど雲の裂け目から、満月に近い歪んだ月が、あたりを青白く染めながら、プラチナ色の冷たい光を放っていた。
 こんな気が狂いそうな思いを抱いて、いつまで生きていかなくてはならないんだと、僕は狼男のように、月に向かって激しく吠えてみたいと思った。

【帯広市図書館「市民文藝」第33号1993年発行 掲載】