進めマンガ少年

 握っていたペンを置いて、何気なく顔を上げた。見ると、掛け時計の針は、もう五時二十分を回っている。えっ、もうこんな時間なの?とビックリして、僕はすぐに後片づけを始めた。
 中学校から家に帰ってきて、マンガのペン入れに取りかかったのは、まだ四時前だった。始めたばかりなのに、気がつくと、もうこんな時間だ。大好きなマンガ描きは、本当に時間がたつのが早い。勉強している時は、まるでミミズが這ってるようにノロいのに。
 今日のペン入れ作業は、三ページ目の二コマ分だけだった。でも明日に、残りの二コマを仕上げれば、三ページ目はなんとか仕上がりそうだ。僕は、今日の自分の出来に、ちょっとだけ満足感を味わいながら、インク壺やペン軸、筆、ホワイト、それに定規などを小箱にしまった。それから押入のフスマを開け、小箱は押入の下段に、まだ乾きかけのマンガ原稿は上段の布団の上に置いた。ここに置いておけば、寝る頃までにインクは完全に乾くはずだ。
 今、取りかかっているのは、十二ページ物のSFっぽい話だった。ストーリーは、ざっとこんな内容だ。
 ある中学生の少年のもとに、誰からともわからない葉書が送られてくる。葉書の裏面を見ると、時間と場所を指定した上で、少年と待ち合わせをしたいと書いてあった。その場所に出かけていって、謎の相手を待つ主人公。少年の前を、家出人風の少女や、不良少年の一団が通り過ぎてゆくが、待ち合わせの相手は、なかなか現れない。まもなく空を黒い雨雲が覆いはじめる。ふと見上げると、丸く光る物体が上空から飛んでくる。突然、街角を激しい通り雨が襲う。やがて雨の上がった街角に、少年の姿はない。
 マンガが完成したら、僕は、『COM』という雑誌に投稿するつもりだった。
 『COM』は虫プロが発行している月刊誌で、手塚治虫の『火の鳥』や石森章太郎の『ファンタジー・ワールド・ジュン』、それに永島慎二の『フーテン』なんかが連載されていた。巻末には、読者からの投稿作品を採点しているページもあって、僕は、そこに応募するつもりだった。
 マンガの用具を片づけて十分もしないうちに、階下からゴトゴトと玄関の開く音が伝わってきた。兄が帰ってきたに違いない。
 兄は、去年の春、大学受験に失敗してから、この二年ちかく家でタクロウをしている。毎日、昼間は市の図書館で勉強して、夕方の五時半すぎに帰宅する。家に帰ってからも、夕飯以外はずっと部屋に閉じこもって、明け方近くまで勉強している。最近は、だんだんと頬が痩せこけてきて、まるで病人のような青白い顔をしていた。
「おい、ヨントウゴラクって知ってるか?」と兄に訊かれたことがある。何のことかさっぱりわからなかった。
「ゴラクっていうから、なにか楽しいことかい?」って答えたら、
「お前の頭じゃ、十年たってもわからないべな」と鼻で笑われた。
 中学生になる時に、「もうマンガはやめろ。読むのも、描くのもだ。これからは勉強に集中しろ」と僕に言ったのも、この兄だった。
「とにかく勉強して、テストの点数だけは取れるようになれ。そうしないと、将来、自分の希望する大学には進めないからな。希望する大学に進めないってことは、なりたい職業にも就けないってことだ。わかったか?」
 僕は、兄の前で「もう、マンガを読むことも描くこともしません」と、ほとんど無理矢理に誓わせられた。
  そんなことがあってから、僕は兄の目を盗んで、マンガを読んだり描いたりするようになったのだ。
 その後一度だけ、夏頃に自分の部屋で石森章太郎の『サイボーグ009』を読んでいるのを、兄に見つかったことがあった。
 兄は、僕の手許から本を取り上げると、
「オレとの約束を覚えてるか?」と険しい目つきで睨んできた。
「……うん……」と僕は頷くしかなかった。
「よーし、わかってるんだな」と呟くなり、兄は、開いた窓から、その本を外に向かって放り投げた。
 物置の屋根をバサバサと転がっていく音が、いつまでも耳の奧に残った。
  兄が勉強部屋に戻り、十分ほど様子を窺ってから、僕は泥棒猫のように、そっと階段を下り、玄関から外に出た。
 本は、カバーが半分ちぎれた状態で物置の軒下に転がっていた。拾い上げて、カバーの上から何度も撫でているうちに涙がこぼれてきた。
 そんなことがあってから、僕は買ってきたマンガは、すべて物置の段ボール箱の中に隠すことにした。兄が家にいる時は、マンガを描いたり読んだりすることもやめた。
 電気コタツのテーブルの上に数学の教科書とノートを広げると、間もなく階段を上がってくる足音が聞こえてきた。僕の部屋の引き戸がガラリと開けられる。
「今、帰ったからな。……おっ、勉強やっとるな」と、それだけ言うと、兄は自分の部屋に入っていった。
  最初から勉強するつもりなんてなかった僕は、すぐに階下に降りていって、台所の薪ストーブを火をつけた。そして電気炊飯器のスイッチを押した。
 両親が帯広の中心街で小さな洋品店を営んでいるので、母親の帰りは、いつも6時過ぎだ。それまでに、僕はいくつかの家事を終わらさなくてはならなかった。

「おい、このマンガ、なんか不気味で、むちゃくちゃエロいだろう?」とヒロシが、僕に差し出したのは『ガロ』という雑誌のページだった。見ると、やたら陰影が多く、暗くてオドロオドロシイ雰囲気の絵柄だ。主人公の中年男の目つきが、半分閉じたようで、これまた薄気味悪い。表紙をめくると『ゲンセンカン主人』と書いてある。作者は『つげ義春』という人だ。始めて聞く名前だった。
 友達と一緒に期末テストの勉強をしてくると親には言ったけれど、じつは僕よりもマンガ狂いの友達の家に遊びに来ているのだった。もちろん、最初から勉強なんてするつもりはなかった。
「なんか、読んでるとヘドが出そうな気分になってくるよ。話の終わり方も、よくわからないしさ」
「じゃあ、こっちはどうだ?」
 次は、『佐々木マキ』という人のマンガだった。こちらは、脈絡のつながらないイラストが、ただ並んでいるだけだ。
「なんだよ、これ。どっから読んでいいのかもわかならいよ」と正直に言うと、
「だからさ、そこがいいんだよ、テツガクテキでさ」と、ヒロシが笑いをこらえたような顔で答える。
「……そうだ、お前が描いてるって言ってたマンガ、もう完成したか?」
「いや、まだだよ。あと五枚くらいペン入れが残ってるんだ。期末テストも近いしさ。少しは勉強しないとまずいだろ。ウチは、親よりも、アニキの方がうるさいんだよ」
「勉強にうるさいアニキがいるなんて、お前もとことんフコウなヤツだよなあ。……ところでよ、期末テストって、いつだったっけ?」
「何ボケたこと言ってるんだ。来週の水曜日からだろう。もう四日しかないんだぞ」
「ええっ?そうだったっけ……」と、途端にヒロシの顔がどんよりと暗くなる。
「今頃みんなは、勉強の真っ最中だぞ」
「……まっ、いいか。今さらアセってもしょうがないしよ。なるようになるさ」と呟くと、ヒロシは手に持っている『エイトマン』の続きを読み始めた。
「オレの作品は、期末テストが終わったら、すぐに完成させるからさ、そしたら読ませてやるよ」
「そうか、楽しみにしてるからな」
 僕は、日の暮れる前にヒロシの家を出た。

 部屋の引き戸が開けられる音さえ、僕は気づかなかった。それくらい、ペン入れに熱中していた。
「何やってるんだ?」という怒気を含んだ声で、僕は初めて室内に誰か入ってきていることに気づいた。
  横を見ると、兄が目を吊り上げて、僕を睨んでいた。バレタ!と思った。でも、もうどうしようもなかった。
 期末テストが終わった夜のことだ。
 一週間以上もマンガ描きから遠ざかっていた欲求不満が解放されて、僕の気持ちは浮き足立っていた。
 隣の部屋で勉強している兄に見つからないようにマンガくらい描けるさ。そんな甘い判断があった。一刻でも早く自分の作品を完成させたいという思いもあった。
 夜の九時過ぎになり、そっと押し入れから用具やら下絵を取り出して、隣の物音に注意を払いながら、ペン入れを始めたのだった。でも、いざ始めると、僕の意識は、ペン先に集中し、周りの物音なんて全く聞こえなくなっていた。
 兄は、ドスドスと重い足音を立てて近寄ってくると、描きかけの僕の原稿を、電気ゴタツのテーブルの上から勢いよく取り上げた。
「フン、まだこんなバカなことやってたのか?」と、半分は独り言のような、半分は僕を問いつめるような口調で呟いた。
 僕はテーブルの上に視線を置いたまま、黙って頷いた。
「いつからやってたんだ?」
「……ずっと……」
「ずっとって、中学校に入ってからもずっとってことか?」
「……うん……」
「オレと、マンガのことで約束した後もか?」
 僕は、黙ったまま、そっと頷いた。
 その時だった。空気を引き裂くような鋭い音が頭上を走った。
 一瞬、息ができなかった。
 しばらくして、バサリと、半分に切り裂かれたマンガ原稿が、テーブルの上に落ちてきた。ペン入れもほとんど終わり、あとは消しゴムをかけるまでに仕上がっていた原稿だった。
「他にもあるんだろう……? 全部出せ!」
 僕は、何も答えなかった。じっと押し黙ったまま、半分に切り裂かれた原稿を見つめていた。
 殴られても、蹴られても、ゼッタイに原稿なんて差し出すものか。あれは、僕の命より大切なものなんだ、と心の中で呟いていた。
「……ふん、まあいいさ。そのうち見つけたら、全部処分してやるからな。……いいか、もう一度言うけど、これはお前のためなんだぞ。勉強する上で、マンガは邪魔なんだ。お前のためにならないんだ。いい点数を取るために、マンガなんてやめろ。いいな……」
 そう言うと、兄は再びドスドスと足音を立てて僕の部屋を出て行った。
 僕は、切り裂かれたままのマンガ原稿を、ぼんやりと眺めながら、大きなため息をついた。まるで自分の心を真っ二つに切り裂かれたような痛みが、ずっと胸の奥で疼いていた。
 ゆっくりと両手を伸ばし、半分に引き裂かれた原稿を持ち上げた途端、こらえていた涙がボロボロと溢れてきた。

「それにしてもよ、ヒサンな出来事だな」と、ヒロシが呟くように言った。
 僕は床に置いた座卓の上で、ヒロシは勉強机の上で、それぞれマンガを描いていた。
「うん、まあな」と僕は、ペン先を動かしながら答えた。
 土曜日の午後、僕はヒロシの部屋にいた。
 あの日の出来事以来、僕は、マンガの原稿や用具を全てヒロシの家に持ち込んでいた。もう、家でマンガを描くのは無理だと思ったからだ。
「オニだよな、お前のアニキ。人間の心があるんだったら、人が苦労して仕上げた原稿を破くことなんてできるか?」
「……うん……あの時はホントにショックだったよ。……まあ、オレに、なんとかして勉強させたいってアニキの気持ちはわかるんだけどさ」
「オレだったらさ、闘うね。だって命よりも大切な原稿だぜ」
「でもさ、アニキにはむかっていったって、軽くぶっ飛ばされちゃうだけだよ。オレたち、アトムじゃないんだからさ」
「100万馬力があれば、小指の先でポイなんだけどな……」と言いながら、ヒロシが口の中でプッと笑う。
「ホントさ。アニキなんてポイポイのポイだよ」と、僕も口の中で笑った。
「おい、ところでさ、もしもオレが自分の家から追い出されたら、ここでお前と一緒に住めるかな?」と僕はヒロシに訊いた。
「何だよ急に。家出すんのか?」
「いや、そうじゃないんだけどさ、もしもあの家に住めなくなったら、どうしようかなって、そう思ったからさ……」
「ふうん……まあ、お前だったら、オレは一緒に住んでもいいぞ。毎日一緒にマンガ描けるしな」とニタリと微笑む。
「そうか。その時は、たのむな」
「おう、まかしとけよ」

 電気コタツのテーブルの上には、英語の教科書やノートが開いて置いてある。でも、この一時間あまり、僕の意識にアルファベットの文字はひとつも入ってきていない。僕は、さっきから隣の部屋の気配にじっと聞き耳をたてている。
 不意に、壁越しにイスのキャスターが引かれる音が伝わってきた。続いて、足音が部屋を横切り、ドアを開く音。足音は、そのまま僕の部屋の前を通って、階段を下りていく。
 僕は、コタツの中に隠していたドライバーを右手に掴むと、静かに立ち上がった。部屋の引き戸を開けて、そっと耳を澄ます。
 階下に下りていった兄が、すぐに戻ってくる気配はない。
 僕は、足音を殺したまま、兄の部屋の前まで行って、そっとドアを押した。思いがけず、ギィという高い音が鳴り、僕の心臓は縮み上がる。
  気持ちを落ち着けてから兄の部屋に入っていき、勉強机の前まで進む。
 見慣れない記号や数字が並んだ本が開いてあった。ページのあちこちに赤線も引いてある。本を閉じると、表紙に「数ⅡB」という文字が見えた。
 僕は、右手に掴んだドライバー強く握りなおし、高く掲げると、本の表紙に向けて思いっきり叩きつけた。瞬間、手首に痛みが走った。
 ドライバーの先が本を貫通してるかと思ったけれど、先端がわずかに突き刺さっているのに過ぎなかった。僕は、もう一度高く掲げると、渾身の力をこめてドライバーを振り下ろした。切っ先がグイと突き刺さる感触があった。よし、もう一度だと思って、右腕を再び振り上げた時だった。部屋のドアを開けて入ってきた兄の姿が、視界の端に映った。
「何やってるんだ!」と兄の怒声が聞こえた。
 かまわず、僕は右手に握ったドライバーを力をこめて振り下ろした。
 ドライバーの先が本に突き刺さったと感じた瞬間、側頭部に衝撃が走り、僕の視界は壁に向かって吹っ飛んでいた。 

 

【『ふゆふ』第6号 2006年4月発行 掲載】