遅い春〈標津抒情2)

 四月の上旬に俊夫が標津に赴任した当初、中学校のグランドは溜池かと思えるほどの泥水に浸かっていた。そして周囲には薄汚れた雪の山が冬の残骸を晒していた。それが日いち日とみるみる雪の山が消え、泥水は地中に吸い込まれていった。
 四月の下旬頃になると、泥沼の底からようやく地面が顔を出し、毎日のようにグランドから濛々と白い湯気が立ち昇った。グランドの向こう側が見渡せないくらい激しい量の水蒸気だった。
 たまたま俊夫の机が窓側を向いていたので、仕事の合間に顔を上げると、そのグランドの光景が自然と視界に入ってくるのだった。
 春の柔らかな日差しの中を、白い湯気が虹色にきらめきながら、ゆっくりと海側にたなびくように漂い上がってくる。そして地面から二メートルほど立ち昇ったあたりで、まるで水蒸気が空気中に溶け込むように消えてなくなるのだった。
 俊夫は、綿のように惚けた意識で、その光景を五分も十分も眺め続けた。そして、東京では見られないこんな光景を、美沙にもぜひ一度見せてあげたいものだと、意識の片隅で何気なく考えていた。
 それから、はっと我に返り、大学を卒業する時に東京の美沙とは別れてきてしまった過去を改めて思い出すのだった。
 俺はくる日もくる日も美沙の幻影を抱きながら生きていかなくてはならないんだ、と絶望的な気持ちに陥り、ふたたび机の上に意識を振り向けた。
 俊夫は、一年生と二年生の英語、そして養護学級の美術を教えることになった。空き時間になると俊夫は英語の授業の計画を必死に練った。教科書と教師用の指導書を交互に眺めながら、一時間の授業の展開を雑な字でノートに書き込んでいった。次から次へと授業のイメージが思い浮かぶこともあったし、どのように進めたらよい考えが纏まらないこともあった。
 次はどのようにしようかと思い悩んでいると、いつの間にか窓の外を眺めている。白い靄が激しく地面から舞い昇る光景が、網膜に焼き付けられるほどじっと眺めて続けている。ああ、俺は今、外の景色を眺めているんだな、と意識の奥で自覚しながらぼんやりと見ていた。
 そして時々、自分がまだ大学生で、今は一時、この標津の中学校へ教育実習に来ているような、あと何週間かしたら再び東京の大学へと帰っていくような幻影に捕らえられることもあった。
 でも、もう東京へは戻ることはない。美沙と会うこともないだろうと自分に言い聞かせる。そして、とめどもなく哀しい気分に落ち込んでいった。
 そんな繰り返しを続けているうちに、時は過ぎ、いつの間にか五月になっていた。
 暗く茶褐色に沈んでいた風景の奥から、光り輝くばかりの新緑が色鮮やかに風景を染め始めようとしていた。そして、身に突きささるように冷たかった風が、時折頬にやわらかい温もりを感じさせるようになってきていた。
 北の果てにも、遅い春が訪れようとしていた。
 グランドから立ち昇っていた白い湯気は、いつの間にかその姿を消していた。日毎に、地面は乾き、やがて生徒達がグランドで走り回る姿が見られる季節になっていた。
 生徒達の明るい姿と、春めいた優しい陽光に誘われるように、俊夫も昼休みには戸外に出ていった。
「先生、一緒にキャッチボールしようよ」と、いつも俊夫に声を掛けてくる生徒がいた。養護学級の中島という男の子だ。
 養護学級には、一年生の佐藤正子と山崎明美という二人の女子生徒と、三年生の中島光の三人がいた。
 佐藤正子は、ほっそりと痩せた顔をし、細く吊り上がった目をしていて、機転もきき、思いつくことを何でもよく喋った。
「先生、私たち、生まれながら頭悪いから、この教室に入れられているのよね。でも、別に好きで頭悪いわけじゃないんだから、みんな、私達のこと馬鹿にしなくてもいいのにね。私、ホント腹立っちゃうわ」とリズム感のある話し方をする。
「そうよねえ……」と、隣に座って、ややしどろもどろに相槌を打つのが山崎明美だ。青白い顔にまん丸な目をして、いつもニコニコと笑っている。
「先生、オレは本当は高校に行きたいんだけれど、やっぱ勉強できないし、家も金ないから、中学校卒業したら、家の手伝いすることになっているんだ。でも、漁師なんていやだよなあ。オレ、海嫌いなんだよな」
 いち語いち語、はっきりと区切りながら、つっかかるように話すのが中島だ。坊主頭で、角ばった顔立ちをしており、いつも寸足らずの、薄汚れた学生服を着ている。
 以前、養護学級の担任の先生から、次のような話を聞いたことがあった。『中島の家ってとっても貧しいんだ。まるで帆立て小屋のような汚い家にね、父親と二人で住んでいるんだよ。母親は、中島が小学校に入る前に家を飛び出して何処かへ行ってしまったらしいし、父親という男も、中島と同じで、ちょっと知能的に劣っているような所があってね。だから、あいつは本当に恵まれない環境で育ってきているんだ。つくづく可哀そうな奴だと思うよなあ』
 その養護学級の生徒達は、昼休みになると校舎の東側の玄関の脇で、三人寄り添うようにつっ立っている。彼らは決して普通学級の生徒達と遊ぼうとはしなかった。普通学級の生徒達も、表面的には彼らを排除したり、拒絶したりするような態度を取る訳ではないのだ。でも、普通学級の生徒たちの様子をよく観察していると、まるで養護学級の三人の姿が見えないかのように行動していることが分かる。三人が透明人間でもあるかのように、そこに存在していないかのように、行動しているようだった。
 そんな普通学級の生徒たちの気持ちを機敏に察知してか、三人も三人だけの世界に閉じこもるようになったのかもしれない。お互いの間に、まるで見えない壁が存在しているように俊夫には感じられた。
 そして、俊夫が玄関を出て、ぶらぶらとグランドに出ていこうとすると、養護学級の三人が彼の姿を見つけて飛んでくるのだった。
「先生、このグラブ、いいだろう?」
 その日、中島は真新しい茶褐色のグラブを持って、俊夫の前に現れた。
「どうしたんだよ、そのグラブ? 新品じゃないか」
「父ちゃんがね、中標津で買ってきてくれたんだよ」
「そうかあ、よかったな、中島。前から新しいグラブ、欲しいって言ってたもなあ」
「やったしょ、先生」
 中島は、目を細め、屈託のない明るい笑いを顔一杯に浮かべながら、ボールを何度かグラブに放り投げた。
「よし、やるか」
 俊夫は、玄関まで戻り、自分のロッカーからグラブを持ってきた。そしてグランドの隅で、中島とキャッチボールを始めた。正子と明美の二人は、やや離れたところでニコニコ笑いながら眺めている。中島は、まるでプロ野球の投手がするような大袈裟なフォームでボールを投げてきた。その度に、ボールは上下左右に大きく変化した。
「中島くん、ちゃんとしたボール投げなさいよ。岡田先生、取れないわよ」と、正子が時々横から声を掛ける。
「大丈夫だよ。オレ、変なボール投げないから」
「何よ、みんな変なボールじゃない」
「うるせえな……岡田先生、なかなかやるね。オレよりは下手だけどさ」
「先生はな、バレーボールより小さい球は苦手なんだ」
「毎日、オレと練習してたら、そのうち上手になるよ」
「そうだな」
 時折、高い球や左右に離れたボールが飛んできて、俊夫の後ろに転がっていくことがあった。すると正子が紺色のスカートの裾を翻して走って取りに行ってくれた。
 そんなふうにして昼休みは瞬く間に終わり、予鈴のチャイムがスピーカーから鳴り響く。
「岡田先生、また明日の昼休みにやろうね」という言葉と満足そうな笑顔を残して、中島は正子や明美と一緒に生徒玄関に姿を消した。
 それから一週間ばかり過ぎた木曜日のことだった。その日、二年生の英語の授業中にちょっとしたトラブルがあった。以前から授業態度が悪くて何度か注意をしてきた横山という男子生徒が、その日も、隣や後ろの男子に話しかけたり、丸めたノートで体をつついたりしていた。
 授業が始まってからすでに何回か注意していた。いささか俊夫も腹が立ち、大声で怒鳴りつけてしまったのだった。
「自分が授業を受けたくないからと言って、まわりの生徒の勉強の邪魔までしなくてもいいだろう。そんなに勉強したくないなら、おまえ一人で教室から出ていけ。おまえがいるとみんなの迷惑だ!」
 叱っているうちにますます腹が立ってきて、自分の思い以上に言葉が勝手に口から飛び出していた。やや怒り過ぎかと感じながら、でもこれくらい叱っておけばきっと静かになるだろうという安易な気持ちもあった。ところが、その横山という生徒は、両目を吊り上げて俊夫を睨み返すと、そのまま後ろのドアから廊下に飛び出して行った。
 廊下を駆けていく上靴のキュッキュッという音を聞いて初めて、俊夫は自分の指導の仕方が間違っていたことに気付いた。俊夫はあわてて前のドアから廊下に出ると横山の後を追って走り始めた。
 横山に追いついたのは階段を下りて、体育館に向かう渡り廊下の途中だった。俊夫は、駆けていく横山の左腕を必死の思いで掴まえた。
「いてえな、離せよ」横山が鋭い声を上げる。
「悪かった。腕は離すけれど、ちょっと話を聞いてもらいたいんだ」
 横山は、俊夫が離した左腕を大きく振りほどくと、不満そうな顔をして、下から俊夫の顔を睨みつけた。
「先生が教室から出てけって言ったんだからな」
「ああ、それも悪かったと思っている。教師として言うべき言葉じゃなかったと思う」
「じゃあ、謝れよ」
 横山が勝ち誇ったような表情で、俊夫の顔を凝視めた。 俊夫は、ややしばらく躊躇してから「済まなかった」と小さな声で言って、頭を下げた。
 横山は、フンと鼻を鳴らすと、相変わらず不満そうな顔付きで俊夫の顔を凝視め続けた。
「でも、おまえだって、周りの生徒にちょっかいを出して、人に迷惑をかけたんだじゃないか? その事は悪いとは思わないのか?」
 横山は、何も言わずに、顔を窓の外に向けた。
「ああでもしてなくちゃ、退屈でたまんないんだよ」
「退屈でつまらない授業しかできないのは悪いかもしれないが、だからといって、他人の勉強の邪魔をしてもいいという理由にはならないだろう?」
 横山は、相変わらず窓の外へ不愉快そうな視線を向けたまま、何も言わずに、じっと押し黙っていた。
「お前だってさ、少しは真面目に勉強して、いい成績取れるように頑張らなくちゃ、後になって困るんじゃないいかな。高校いくんだろう?」
 横山は、しばらく貝のように口を噤んで外を見ていた。それから、ゆっくりと顔を移動して俊夫の顔を横目で凝視めた。
「俺は、標津高校だから勉強しなくてもいいんだよ。あすこは誰だって入れるんだから」
「標津高校だから中学校で勉強しておかなくてもいいという理屈はないだろう? 高校入っても、英語の勉強は続くんだぞ。その時になって困るのはお前じゃないのか?」
 時間の流れが淀んだような重苦しい沈黙がしばらく続いた。
「ウチは漁師だから、高校卒業したら親父と一緒に船に乗らなくちゃなんないんだ。だから、どっちみち英語なんて関係ないんだよ」
「そんなことないさ、これからの世の中、英語が話せたらきっと役にたつ時がくるよ。勉強なんて、みんなそういうもんなんだ。将来のいつ、どんなふうに役に立つか分からないけれど、でもやっておけば必ず役に立つものなんだ。そういうものなんだよ、勉強って」
「そんなの、先生みたいに頭のいい奴のへりくつだよ。俺みたいに頭悪い人間が、いくら勉強したって、いい点数なんか取れないし、それに先生みたいに英語なんか話せるようにもなれないんだ」
「そんなことないさ。人間誰だって努力すれば……」
「もう分かったよ。うるせえな。授業に出ればいいんだろう、授業に出れば。あんまりカッコつけるなよな」
 吐き出すように呟くなり、横山は、わざと俊夫の左肩にぶつかるような恰好で、教室に向かって歩き始めた。
 俊夫は呼び止めようと思いながらも、まるで唖にでもなったように声が出てこなかった。心の底の栓が抜けて、そこからエネルギーが流れ出てしまったようだった。
 自分の無力さを、白日の下に晒されてしまったような気持ちだった。一人の生徒も指導できない自分がみじめで、情けなかった。
 その日、それからずっと、自分一人だけが暗い井戸の底にでもいるような気分だった。
 また横山とトラブルがあった時に、どのように対処したらよいか分からない不安感と恐怖感が、腹の底から滲みだすように湧いてきた。
 教員試験に合格したから先生になってしまった安易さの罰かなと思ってみたり、所詮オレには教員は無理なのかもしれないとも考えた。
 仕事を終えて職員玄関から外に出たのは、もう六時近かった。昼間の暖かさに比べ、冬に逆戻りしたかと思えるほどの風の冷たさだった。陽は西の空に広がる薄い雲の裏に隠れていたが、まだ戸外はそれほど暗くはなかった。青いシルクのスクリーンを一枚、風景の上にそっと被せたような仄暗さだった。
 風に流されて、切れ切れに海鳴りのざわめきが聞こえてきた。
 力なくトボトボと歩いて校舎の東端まで来た時だった。生徒玄関のコンクリートの踏み段の上に座っている中島の姿が俊夫の目に入ってきた。
「どうしたんだ?」
 俊夫は驚いて、中島に近づいて行った。
 中島は、答えようともせず、うなだれた首をゆっくりと横に振った。
「何かあったのか?」
 再び中島は、首を横に振る。
 俊夫は中島の体を眺めてみたが、頭も服も、特に泥で汚れているような所は見当たらなかった。誰かとケンカをしたとか殴られたという事ではなさそうだった。
 あたりを見ると、すぐ横に布製の肩掛けカバンとグローブが置いてあった。
「何があったんだよ?」
 もう一度俊夫が優しく訊いた。
「ボールが……」
 下を向いたまま、中島が消え入りそうな声で呟いた。でも、言葉がよく聞きとれない。
「え、ボールがどうしたって?」
 やや沈黙があって、
「ボールを………取られた」
 よく見ると、グローブはペチャンコに潰れている。中にボールが入っていないようだった。
「ボールを取られた? 誰にだよ」
「カラツ……」
「……カラツ……?」
「三Aのカラツ・タカシ……」
 俊夫は三年には授業を教えに行っていないので、名前を聞いても、どんな生徒なのかピンとはこなかった。
「三年A組のカラツ・タカシにボールを取られたんだな」 中島が、微かに頷く。
「どうして取られたんだ?」
 中島が、さあ分からないというように首を横に動かす。「いつだよ」
「今、先生が来るちょっと前」
「今? そのカラツって生徒はどっちに行ったんだ? 先生が取り戻してきてやる」
 俊夫の胸の中で、カラツという生徒に対する激しい憤りが沸騰していた。養護学級の生徒からボールを取り上げるなんて最低な奴だ。理由はどうあれ、絶対に許せないと俊夫は思った。
 中島は、初めて顔を上げると、校舎の裏へ続く道を指差した。
「ちょっと待ってろ」と中島に言い残して、俊夫は走り始めた。五十メートル程行くと、舗装道路にぶつかる。そこから町の方を見ると、公民館へと曲がる角のあたりに学生服を着た二人連れの姿が認められた。俊夫は全力で、その二人連れを目指して走った。
 途中、息が苦しいことも忘れて、俊夫は懸命に走った。とにかく、そのカラツという生徒から、中島のボールを取り返すことしか頭の中にはなかった。
 新しいグローブを買ってもらったと言って嬉しそうに微笑んでいた中島の笑顔が何度も俊夫の脳裏に蘇ってきた。「おい、そこの二人、ちょっと待ってくれよ」
 俊夫は、彼らに五メートル程まで近づいてから、声を掛けた。その時になって、自分の息が随分と荒くなっていることに気付いた。
 二人の生徒は、足を止めると、びっくりしたように振り返って俊夫を見た。左側の背の高くて髪をスポーツカットにした生徒の手に、白いボールが握られていた。
「おい、君、カラツっていうのか?」
 その生徒は、「うん」と軽く頷いた。
「君が持っている、そのボール、君のか?」
 カラツは、困ったようにニタリと笑うと、隣の生徒と顔を見合わせた。それから、そのまま「俺のだよなあ」と呟いて、俊夫の方を見た。
「そのボール、中島のじゃないのか?」
「いや、これ、俺のだよ」カラツは再び、隣の生徒へ顔を向けた。
「先生、中島が、こいつにボールをくれたんだから、もうこのボールはこいつのもんだろう」隣の生徒が、助け船を出すように言った。
「どうして、中島がお前にボールをくれたんだよ? お前が中島から取り上げたんじゃないのか?」
「だって、ホントにくれたんだもなあ?」
 カラツが、隣の生徒に同意を求めるように呟く。
 隣の生徒も、「そうだよなあ」と言って何度か頷いた。「先生、なんか勘違いしてるんじゃないか? 中島の奴が、ほんとにこいつにボールをくれたんだぜ。アイツが、ボールやるから、一緒にキャッチボールしてくれってこいつに頼んだんだ」
 隣の生徒が、やや不満そうに強く言った。
「一緒にキャッチボール?」
「そうだよ。それで、こいつが中島とキャッチボールをして、それからボールを貰ったんだ」
「ホントにか?」
「うん」とカラツが頷く。
 俊夫は、鋭利な刃物で、胸を激しく刺されるような傷みを感じた。
 この四日間、俊夫は忙しくて、昼休みはずっと職員室で仕事をしていたのだった。養護学級に行ったり、廊下で中
島に会う度に「先生、昼休みにキャッチボールしようよ」と何度も言われていたのだが、中島の希望を叶えることができないでいた。
 中島としては、新しいグローブで俊夫とキャッチボールをすることを来る日も来る日も楽しみにしていたのに違いない。あるいは、それだけを楽しみに学校に来ていたのかもしれない。それが、俊夫の一方的な理由で、希望が果たせないでいたのだろう。今回の中島の行動は、きっとそれが原因だったのだ。
 真新しいグローブを持って笑っていた中島の嬉しそうな顔が、再び俊夫の胸に蘇った。彼に済まないことをしたと俊夫は心の底から思った。
 どうすれば、この償いをすることができるのだろうか。俊夫は、何かに縋りつきたいような必死な想いで、深く息を吸い込んだ。
「ねえ、悪いけど、そのボール、いちど返して貰えないかな。明日、新しいボールを買って、必ず返すから」
「うん、それは別に構わないけど……」
 カラツは、やや戸惑ったように呟くと、俊夫にボールを差し出した。
「ありがとう。明日、必ず買って返すよ」
 俊夫が再び生徒玄関まで戻ってくると、中島は先程と同じ場所で、石膏像のように身動きもせずに、じっとうなだれたまま座っていた。
「おい、取り返してきたぞ」
 中島は、ゆっくりと顔を上げて俊夫を凝視めた。やや驚いたような表情を浮かべた後で、口許からゆっくりと笑みが顔全体に広がっていった。
「さあ、キャッチボールしよう」
 俊夫は、職員玄関に戻ってグローブを取ってくると、中島を連れてグランドに入って行った。
 青い闇がさらに濃くなっていたが、白いボールだけは、充分に見分けることができた。俊夫がボールを投げると、薄暗い闇の中を山なりの弧を描いて白い航跡が消えていく。やがて闇の奥からパシンとグローブの固い音が伝わってきて、中島がボールを受けたことが分かる。
「先生、いくよ」
「よし、いいぞ!」
 微かな風を切る音が聞こえ、闇の向こう側から白いボールがだんだんと鮮明になって現れてくる。グローブに軽い衝撃が飛び込み、俊夫はボールを右手で掴み取る。
「いくぞ!」
「いいよ」中島の溌剌とした声が聞こえてくる。
 右腕を振る。ボールが再び弧を描いて消えてゆく。
 パシンとボールを受け取る音。
「ナイスキャッチ!」
 俊夫は大きな声で闇に向かって叫んだ。
 昼間のトラブルで燻っていた気持ちが、闇に溶け込むように消えてなくなっていた。青く澄んだ闇に、心の中まで染められたような清々しい気分だった。
 今、こうして中島を喜ばすことができるだけでも、教師になった甲斐があるのかもしれないと俊夫は思った。
 たとえたった一人であったとしても、自分の存在が他人の役に立つのであれば、満足しなくてはならないのかもしれない。とりあえず、一度踏み始めた道だ。教員としてどこまで進むことができるか分からないが、行けるところまでは行ってみよう。ダメだったら、また改めて別の道を考えればいいのだから。でも、今はまだ結論を出す時期ではない。もう少しだけ頑張ってみよう。もう少しだけ。そう俊夫は自分に言い聞かせていた。
「さあ、いくぞ!」
 俊夫の声は、鋭いダイヤモンドのように煌めき始めた星空に吸い込まれるように高く昇っていった。

【「鹿追文藝」第17号 平成4年発行 掲載】