永遠色の夏

              1

 その年のことを、僕は今でも鮮明に覚えている。
 昭和三十八年。僕は小学校の三年生だった。
 当時の帯広市内は、戦後の貧しい時代から、ようやく経済成長の時代へと一歩足を踏み入れようとしているところだった。町の中では自家用車の姿をよく見かけるようになってきてはいたが、石炭を積んだ荷馬車がわがもの顔で道路のまん中をのんびりと歩いていた。そしてデコボコ道路のあちこちに黄土色の馬糞が散らかり、風に舞っていた。
 テレビは、もちろんまだ白黒画面で、それまでNHKだけしか見られなかったのだが、その年の夏にようやくHBCとSTVが見られるようになったばかりだった。僕の家族は、何よりも金曜日の夜八時からのプロレス中継が楽しみで、力道山の空手チョップが出るまで、悪役の覆面レスラーに罵声を浴びせ続けた。
 テレビと言えば、オープンカーに乗ったケネディ大統領の頭から血飛沫が飛び、上体が座席に倒れ込む白黒の映像が何度も映し出されたのも、この白黒画面でだった。

 この年、僕のまわりで、いくつかの忘れられない出来事が起きた。(もちろん当時の他の小学校三年生と同じように、何が起きようとも僕は気に病むことなどなく、毎日が夢のように楽しいことの連続だった。)
 その年、どんな出来事があったかいうと、例えばこんな具合だ。 八月に帯広を大雨が襲い、帯広川が決壊した。そして帯広川と十勝川に挟まれた細長い地域が水に浸かった。運悪く僕の家も、その地域にあった。帯広川の堤防を破って流れ出た水が、だんだんと自分の家の近くに押し寄せてくるのを見ていると、不安感よりも、わくわくと期待するような不思議な気分の高揚を覚えた。
 やがて洪水の先端が僕の家に達し、両親や祖父母が大慌てで家具や荷物を二階に運び上げる時に至ってもなお、僕は、お祭騒ぎのような高揚感を消し去ることができなかった。
 洪水の翌日は、雲ひとつない快晴の空で、朝から蒸し暑かった。あたりはすっかり水が引き、家の周りには水に流されてきた板切れやら糞やらゴミやらが散乱していて、気分の悪くなるような異臭が漂っていた。そしてどの家の壁にも、洪水の高さまで焦げ茶色の跡が染みついていた。
 ポンプの汲み水は飲むなという保健所からの指示が出て、市内に住む親戚の伯父さんが一升瓶につめた飲み水を持ってきてくれた。 わが家に水道が取り付けられたのは、それから間もなくのことだった。

 帯広動物園が開園したのも、その年のことだ。さっそく町内会の役員のおじさん達が、僕たち小学生を動物園へ連れていってくれた。といっても、まだ自家用車がそれほど普及してなかった時代のことで、僕たちは緑ケ丘公園まで自力で歩かなくてはならなかった。 当時、園内にはまだ遊戯施設などなく、動物の檻の数も、今と比べるとずっと少なかった。それでもトラや白クマやペンギンなどをじかに見るのは生まれて初めての体験で、檻の鉄柵に首を突っ込んで、いつまでも飽かずに動物たちの動きを目で追っていた。
 楽しみにしていた百獣の王ライオンはというと、僕らの期待を大いに裏切って、むこうを向いて寝たきり、ちっとも動こうとはしなかった。そして時折しっぽを弓なりに振り、頭をゆっくりともたげては、眠たげな細い目で僕らを眺めた。ゴリラの檻では、白い唾のようなものを吐きかけられるという珍事もあった。
 昼におにぎりを食べた後は、動物園内の東側にあったグランドでソフトボールをして遊んだ。
 下水溝の穴に落ちて足を捻挫したのは、その帰りのことだった。当時、市内にはまだ下水道が整備されておらず、歩道と車道の間に深さが一メートルほどの下水溝が走っていて、五メートル間隔くらいに大きな穴が開いていた。歩きながら友達とのお喋りに夢中になっていた僕は、気がつくと、ふわりと溝の底に向かって落下していた。溝の壁面に付着している灰色の苔に滑って転び、僕の身体は汚水の中に倒れ込んだ。
 役員のおじさん達が、あわてて飛んできて僕の身体を下水溝から引き上げてくれたが、衣服はずぶ濡れで、甘酸っぱい異臭を放っていた。右膝の皮は剥がれて血が滲んでいた。歩こうとすると、左の足首がズキンと痛んだ。
 おんぶって行ってあげようという役員のおじさんの言葉を断り、僕はびっこを引き引き歩いて帰った。
 動物園で遊んできた興奮はすっかり消え失せ、気分は最悪そのものだった。

 

 

              2

「おい、ちょっと待てよ」という太い声で、僕は立ち止まった。振り返ると、僕より十センチ以上も背の高いと思われる年上の少年が二人、両側から挟むようにして僕を見下ろしていた。雰囲気から察すると、小学校の五、六年生くらいだった。
 僕に声をかけた右側の少年は、やや太り気味の大柄な体格だった。坊主頭に、湯たんぽのような楕円の赤ら顔をしていて、切れ長の細い目が僕を凝視めていた。そして僕を威嚇する不気味なうすら笑いを口許に浮かべていた。傲慢そうな顔つきといい、薄汚れた黒いジャンパーといい、膝あてのついた紺色のGパンといい、身体から漂う雰囲気は、いかにも素行の悪い不良少年そのものだった。
 左側は、ニンジンのような逆三角形の頭をしたやや痩せ気味の少年で、何かに怯えているのか、目をキョロキョロとせわしなく動かしながら、時折僕を睨みつけた。
 土曜日の昼下がり、西二条九丁目の東側の歩道でのことだ。
 僕は、当時両親の営んでいた駅前にある洋服店に向かって、自宅から西二条通りを一人で歩いているところだった。
 道路向かいには、鉄筋六階建ての『藤丸デパート』が、つい2年前にオープンしたばかりで、『三井金物店』を挟んで『金市館』の二階建の建物も並んでおり、あたりは当時帯広で一番の繁華街だった。
 ただその時、歩道の人通りは、あまり多くはなかったように記憶している。それでも、大声をあげて助けを呼べば、誰か近くを歩いている大人が、すぐに駆けつけてくれる状況にはあった筈だ。しかし、それは大人になった現在の自分の判断でしかない。
 からまれた経験など一度もなかった少年の僕は、まるで蛇にでもにらまれた蛙のように、不安感と緊張感ですっかり萎縮してしまい、声すら出せない状況だった。ただびくびくと怯えながら二人の少年の恐ろしい顔を上目遣いに見上げているにすぎなかった。
「話があるから、こっちへ来いよ」と、右側の少年が、僕を建物と建物の間にある狭い路地の方を指をさした。
 言いようのない不安感で、僕はじっと立ちすくんでいた。僕の返事を待たずに、大柄な方が僕の右腕を掴み、そのまま引っ張って歩き始めた。僕は、ただ導かれるままに、その少年について路地へと足を踏み入れた。
 幅一メートルもない、狭く薄暗い路地だった。そこに一歩足を踏み入れると、あたりはひんやりと涼しく、小便の匂いがつんと鼻をついた。両側の建物の壁には、緑色のカビのようなものがうっすらと覆っている。見上げると、屋根と屋根の狭い隙間から、青い空が、まるで遠い記憶の断片のようにわずかに覗いて見えた。
 ついさっきまで五月の陽気を楽しみながら、のんびりと歩いていたのが、まるで嘘のようだった。
 ニンジン頭の痩せた方の少年が、逃げ道を塞ぐかのように、僕の後ろから路地に入ってきた。歩道から五メートルほど進んだあたりで、僕を引いてきた大柄な少年が立ち止まり、僕に正面から対峙した。そして、相変わらず不敵なうすら笑いを浮かべたまま口を開いた。
「あのな、別にお前に文句があるわけじゃないんだけどな、そっちにいる奴が、お前の親父にひどい目に合わされたんだ」
『親父』という言葉を聞いて、ぼくは、理由もなく動揺した。いったい自分の父親とこの少年達の間に何があったんだろうかと、いぶかる気持ちで、僕は正面の少年の顔を上目遣いに見た。
「この前、俺とあいつが藤丸のゲームセンターで遊んでいたらよ、お前の親父が、『こんな所で子供だけであそんだらダメだ』って言って、あいつの頭を叩いたんだ。いくら大人だからってよ、子供の頭を叩いていいってことにはならないべ? えっ、そうだべ?」
 その少年は、怒ったように目を光らせて、威嚇する強い口調で言い切った。それから右手の握り拳で、僕の胸を小突いた。
 僕は、二歩ほど後退ってから、相手の言葉に反論する術を持たないまま「うん」と小さく頷いた。否定でもしようものなら、すぐにでも殴りかかってきそうな殺気が、相手の身体に漂っていた。
「それで、お前には悪いけどよ、お前の親父に殴られた分を、お前にお返しさせてもらうからな。いいべ?」
 僕は仕方なく、再び「うん」と頷いた。
「じゃあ、後ろ向けや」
 僕は、振り返って、ニンジン頭の痩せた少年に向き直った。その少年は、不安気な目つきで僕を睨んだ。
「お前の親父によ、二発、頭殴られたから、俺も二発叩かせてもらうからな」と、やや引きつった甲高い声で言うと、その少年は平手打ちの構えに右腕を横へ引いた。
 僕は、あわてて目を閉じ、両足を踏ん張って、しっかりと顎に力をいれた。やや間をおいてから、僕の左頬に衝撃が走った。顔が右側へ捩じれ、後ろへ身体が倒れそうになった。
 顔を正面へ戻し、目を開けようかと思っているところで、「もう一発いくからな」という声が聞こえた。
 僕は、再び顎に力を入れた。
 今度は、右の頬に衝撃が来た。
 しばらく目を閉じていた。それから、ゆっくりと目を開けた。目を開けたとき、涙が一筋、頬を伝って流れ落ちていった。
 見ると、僕を平手打ちした少年が、満足気な目つきで、僕の背中の大柄な少年の方を見ていた。
 打たれた瞬間、何も痛みを感じなかったが、やがて、じんわりと両頬から耳のあたりがヒリヒリと熱くなってきた。
「おい、こっち向けや」と、背中の少年が低い声で言った。
 僕は言われるままに、再びそちらへ向き直った。その少年は、やや顎を持ち上げ、傲慢な笑いを浮かべたまま僕を見下ろしていた。「これでよ、あいつはウサをはらしたかもしんないけどよ、オレだって、お前の親父のせいで面白くない思いをしたんだからな。それは分かるべ?」
 僕は、何も言わずに、その少年の顔を見た。おでこに大きなニキビが二つ、黄色く膿みかけていた。
「それでよ、お前には悪いけど、おれも一発殴らせてもらうからな。そうしないと、オレだって、ウサをはらせないんだ。いいべ?」 僕の返事を待つ様子もなく、その少年は握り拳を作ると、右腕を脇へ引いた。と思う間もなく、今度は前と比べものにならないくらい激しい閃光が、僕の左頬を貫いた。激しい衝撃で、世界が一回転した。気がつくと僕の身体は、路地の地面に仰向けに倒れていた。目を開けると、二人の少年が、まるで巨人のように、遙か高みから僕を見下ろしていた。口の中を甘い液体が、とろとろと喉の奥へ流れていった。
「あんたら、そんなとこで何してるの!」と女性の怒鳴る声が、どこからともなく聞こえてきた。
 僕を見下ろしていた二人の巨人の姿が、一瞬静止したかと思うと「やべえ!」という声とともに、路地の奥へと風のように消えていった。ゴム製の短靴が地面を蹴るパスパスパスという軽快な音が、だんだんと遠ざかってゆく。
 通りの側から、ゆったりした別の足音が近づいてきて、僕の傍らで立ち止まった。
「ぼく、大丈夫かい?」と白髪まじりの婦人が、心配気な表情で僕の顔を見下ろした。
 久しぶりに女の人の顔を見るような気がして、僕はその婦人の丸い顔をぼんやりと眺めていた。助かったんだという実感は、まだ湧いてこなかった。
 その婦人に手伝ってもらい、なんとか地面に起き直った。
「あの逃げてった子たちは、ぼくの友達なの?」
 僕は、黙ったまま首を横に振った。
「知らない子に、殴られたの?」
 僕は、こくんと頷いた。
「ひどい子たちね。……大丈夫? どこかケガはない? 頭は打ってないのかしら……あら、鼻血じゃない」と言いながら、その婦人は、ハンドバッグからチリ紙を取り出して、鼻のあたりを押さえてくれた。
 鼻の中にチリ紙を突っ込んでもらってから、僕はゆっくりと立ち上がった。あたりの世界がくらりと揺れた。その婦人が、「あらあ、土だらけ」と言いながら、僕の服についた土をていねいに払い落としてくれた。
「ぼくの家は、この近くなの?」と婦人が訊いた。
 僕は、小さくこくんと頷いた。
「ぼく、一人で帰れる?」
 僕は、何も言わず、黙って建物の壁を眺めていた。一人になると、またあの二人組が戻ってくるのではないかという不安があった。「じゃあ、おばさんが一緒についていってあげるわね」
 その婦人に背中を押されながら、僕は路地を出た。
 昼下がりの陽光を浴びた街が、白っぽく光り輝いていた。僕は軽い眩暈を覚えた。目の前の風景はつい先程と同じ筈なのに、別な街を眺めているような違和感があった。
 その婦人に付き添われて、僕は両親の営んでいる洋服店まで歩いて行った。
 婦人とともにガラスのドアを押して店に入っていくと、レジのあたりに立っていた母親が、すぐに僕の姿に気づいた。僕の様子の異変を察したらしく、顔つきが変わった。そして、僕の背中に立っている婦人に軽い挨拶を送りながら、目の前にやって来た。
「何か……」と、母親が戸惑いの口調で婦人に声をかけた。
「あの、そこの九丁目の路地の奥で、お宅のお子さんが、二人組の年上の男の子たちに殴られていたんですよ。……声をかけたら、その子たちは、すぐに逃げてゆきましたけれども」
「まあ」という驚きの声を上げると、母親がしゃがみこんで、僕の顔を正面から凝視めた。「どしたの? だいじょうぶ? ケガはしてないの?」と、まるで怒ったような目つきで、僕の頭や顔を両手でまさぐりながらくまなく点検した。
「鼻血が出てたんで、それは止めたんですけれど」と、僕の頭上で婦人が言い添えた。
「誰? 知ってる子に殴られたの?」
 母親が、真剣な目つきで、僕を正面から見据えていた。
 僕は、首を横に振ってから「知らない」と口のなかで呟いた。
 いつの間にか父親がやって来て、母親の背中に立ち、僕と母親のやりとりを黙って聞いていた。
「おまえ、誰かかばってるの?」と母親が訊いた。
「本当に、知らないんだ」と僕は、再び首を横に振った。
「それで、何されたの?」
「右と左の頬っぺたを平手で叩かれて、それからもう一人の男の子に殴られた」
「どうして、おまえのことを叩いたの? 何も理由を言わないで、ただ殴ってきたの?」
 僕は、じっと母親の顔を凝視めた。
「何か理由を言って、それでおまえを殴ってきたの?」
 僕は、母親のやや目尻の下がった目を凝視めたまま、黙っていた。どういう風に答えればいいんだろうと、僕は内心迷っていた。父親が、藤丸のゲームセンターで、その子たちの頭を叩いて、その仕返しとして僕が叩かれたんだと言っていいものなんだろうか。今まで知らなかった、そういう父親の暴力的な一面を白状してしまうことで、父親から憎まれるばかりか、母親をも傷つけてしまうのではないだろうか。父親の行為の代償として、僕が殴られた事実を、このままそっと隠しておいた方が、僕と父親の関係も、母親と父親の関係も、すべてがこれまで通りうまくいくのではないだろうか。そんな事を、僕は小さな頭の中でめぐらせていた。
「お金を出さないと、おまえを殴るぞっておどかされたの?」
 僕は、首を横に振りながら、「わからない」と答えた。
「だって、何も理由を言わないで殴ってくる人なんていないわよ」 母親は、なおも答えようとしない僕に、いぶかる表情を浮かべた。
「それとも、おまえのお母さんかお父さんに何かされて、そのお返しとして、おまえを殴るんだって言われたの?」
 心臓がドキリと鳴った。もうこれ以上、黙っているのは無理かもしれないと、あきらめかけた。
「そうなんでしょ?」と、自信のある強い口調で念を押され、僕は無意識のうちにこくんと頷いていた。
「なんて言ってたの?」と、母親がなだめるような笑みを口許に浮かべて訊いた。
「お父さんが……」と口に出してから、僕は上目遣いに、父親の顔を見た。これで僕は、父親から永遠に嫌われてしまうかもしれないと思うと、暗澹とした気持ちになった。
「お父さんが藤丸のゲームセンターで、どっかの男の子を『こんなとこで子供だけで遊んじゃダメだ』って、頭を叩いたんだ。そして、その仕返しに、子どもの僕を叩くんだって言ってた」
「おまえ、そんな事、本気で信じてたわけじゃないでしょうね」と言いながら、母親が背中にいる父親を見上げた。
 僕も、おそるおそる父親を見上げた。激しく怒っている父親の表情を予想していた僕は、馬鹿にしたように笑っている父親の顔を見て、拍子抜けしてしまった。
「お父さんが、藤丸のゲームセンターにたった一人で行く筈なんかないじゃないか。それに、そんな所に、なんの用事があるんだよ」と、父親が低くやさしい声音で言った。
「そうよ。それに、そんな知らない男の子の頭なんか叩くようなお父さんじゃないってこと、おまえがよく分かっているじゃない……おまえ、騙されたんだよ。そういう嘘の理屈をつけられて、ただ殴られたんだよ」
 母親の言葉を聞いているうちに、突然、視界が歪んだかと思うと、涙が頬を伝って流れ落ちていった。僕は、大声をあげて泣いていた。母親のわらかい両腕が、そっと僕の頭を抱きしめてくれた。
 二人の少年に殴られてから今まで、じっと自分の中で抑えていた感情が、まるで堰を切ったように激しい勢いで流れだし、自分でもそれを抑制することができなかった。感情の奔出に流されるままに、僕は、激しく喘ぎながら泣き続けた。

 

 

              3

「それから、どうなったんだ?」と、右側に座っているヒロシが僕の顔をのぞきながら訊いた。
 ヒロシは、僕の同級生で、身長は僕より低く、やや小太りで、運動よりも読書の方が好きだという勉強家タイプの少年だった。彼の家は、北栄小学校から南へ向かって歩いた、帯広川の堤防沿いにあった。
「うん」と答えながら、僕は向こうの川岸で竿をさしている中学生くらいの年嵩の少年の姿をぼんやりと眺めた。
 麦わら帽子に膝までの黒い長靴をはいたその少年は、上流側に糸を投げ入れては、川の流れにあわせて竿を移動し、下流側までくると糸を引き上げ、再び上流側に投げ入れる動作を、先程から何度も飽きずにくりかえしていた。
 その当時、帯広川は僕らの身近な釣り場で、フナやウグイなどがひんぱんに釣れた。そして毎年六月には、小中学生対象の釣り大会なども開催されていた。決してきれいだと言えるような水でなかったが、それでも今の帯広川に比べると遙かに透明で、魚影が川底を横切り、水草や藻などが水の流れに揺れていた。
「オレの腕ををつかんで引きずりこんでいった男のほうがサ、『俺にも殴らせろ」って言って……」
「なに? そいつにも殴られたのか?」
「うん」
「何発よ?」
「一発」
「そんなもん、殴りかえしてやればよかったのに」
「だって、相手は二人だし、それにオレよりもずっとでかいんだぞ。変なことしたら、もっとひどい目にあったよ」と僕は、ヒロシがもしも自分の立場だったら何もできないくせにと、腹を立てながら答えた。
「……それにしても、ひでえ奴らだよなあ。親父の仕返しだとか何とか理屈こいて殴らせろなんて、腹たつよな。なあカズちゃん?」と、ヒロシは、身体を前へ乗り出して、僕の左側に座っているカズヤへ視線を送った。
 カズヤは、体が僕よりひとまわり大きく、運動神経が抜群のスポーツマンだった。走るのも速く、夏の運動会でも冬のスケート大会でも、必ず学級対抗リレーのアンカーに選ばれていた。
 彼の家は、国道三十八号線を渡った北側にあった。家はお互いに離れていたが、カズヤとヒロシと僕の三人は、放課後になるといつもいっしょに遊ぶ仲間だった。
「帯広小学校の奴らだべか」と、さっきから黙っていたカズヤが、ポツリと呟いた。
「わかんないけど、そうじゃないべか。川の向こうは帯広小学校の区域だからなあ」と僕は、何の確信もないまま答えた。
「このままにしとくのか?」とヒロシが、僕に訊く。
「……うん」と内心、もう二度とあの連中とは顔を合わせたくないと思いながら、返答を濁す。
「やられっぱなしじゃないか」とヒロシは、僕にというよりも、カズヤに向かって決断を促す。
 じつは僕もヒロシも、カズヤがなんと言いだすかを待っているのだ。カズヤが、『その連中を探し出して、仕返しをするべ』と宣言すれば、僕だってそれなりに腹をくくるし、カズヤが『しかたがないから諦めるべ』と言えば、僕は速やかに今回の忌まわしい記憶を忘れるだけなのだ。
 カズヤは、川面を眺めながらしばらく黙っていた。僕もヒロシも、じっと息をこらすようにして、カズヤの決断を待った。カズヤ自身にしても、彼の決断が、そのままこの三人の行動を決定するということは十分に自覚しているのだ。だから、慎重にならざるを得ない。
「そうだな……」と、ようやくカズヤが口を開きかけた時、ヒロシが突拍子もなくでかい声を張り上げた。
「おい! あれ!」と、立ち上がったヒロシは川の真ん中あたりを指さしていた。
 突然のヒロシの大声にびっくりしながらも、僕は彼の指さしたほうへ視線を移動した。
「うわあ! かわいそうだなあ!」と、僕も無意識に大声を張り上げていた。
 川の中央部のいちばん流れの速いあたりを、ダンボール箱が滑るように移動していた。そのダンボール箱は、三分の一ほどがすでに水に没し、蓋の隙間からは、焦げ茶色の子犬が首をちょこんと突き出して、あたりを見上げながらクーンクーンと鳴いていた。
「助けるべ!」というカズヤの声を聞くか聞かないうちに、僕たちは、川岸の草原を駆け降り、ブロックの河岸をジャンプして飛び下り、そのまま川の中ほどまで突き出している中州へ向かって走った。
 僕らが中州の端に辿りつくのとほぼ同時に、二メートルほど離れたあたりを子犬を乗せたダンボール箱が通り過ぎた。子犬は、僕たち三人の姿に気づいたのか、悲しそうな目つきで僕らを凝視めて、クィーンと鳴いた。カズヤが、地面に身を伏せ、川の流れに思い切り右腕を突き出したが、遙かに及ばなかった。
 ダンボール箱は、川の流れに乗ってゆらゆらと遠ざかっていく。中州から眺めているうちに、やがて西一条橋の下へ差しかかっていく。
「どうする? このままにしといたら、死んじゃうぞ」と、ヒロシが僕ら二人に向かって声をかける。
「カズちゃん!」と僕は、カズヤに決断を促す。
「よし、追うべ!」という、カズヤの号令を聞いて、僕らは、再び中州からブロックの河岸へ駆け登り、そのまま岸に沿って走った。 子犬を乗せたダンボール箱は、川の中央部あたりを、速いスピードで流され続けた。底から水が染みてくるのか、少しずつ下へ沈んでいく。僕らは、助ける術も知らないまま、ただダンボール箱を追ってひたすら川岸を走った。
「どうしよう?」とヒロシが叫ぶ。
「だんだん沈んでくぞ」と僕も叫んだ。
「とにかく追いかけるんだ!」とカズヤが僕らに檄を飛ばす。
 西一条橋から大通り橋、そして三十八号線の橋のあたりまでは中州がない。帯広神社の横あたりに来ると、それほど深くはない浅瀬があって、川底の砂利の上を容易に歩くことができる。
「橋を渡って、向こう岸から川に降りるぞ!」というカズヤの怒鳴り声に、僕らは息を切らしながら懸命に走ってダンボール箱を二十メートルばかり追い越し、三十八号線の橋にたどり着いた。横目でダンボール箱の動きを確認しながら橋を渡り、車の途切れを待って道路を横断する。神社横の河岸に降りると、ちょうどダンボール箱は僕らの目の前を流されていくところだった。
「どうする?」と、ヒロシが不安そうな声を上げた。
 ダンボール箱は、すでに六割かたが沈んでいる。もうこのあたりで助け上げないと、下流の柏葉高校の裏あたりは川底が深く、とても子犬を助けることはできない。それにダンボール箱だって、ほとんど限界にきているようだった。水中に没するのは、もう時間の問題だった。
「よし、飛び降りんだ!」と言いながら、カズヤが一番に川の中にジャンプした。続いて僕も河岸を蹴って、川の中に飛んだ。白い水しぶきがあたりに跳ね上がり、軽いショックとともに、僕は川の中の砂利の上に着地した。川は、ちょうどゴムの短靴が隠れるくらいの浅さだった。
 見ると、ダンボール箱は、もう僕らの先へ進んでいた。カズヤは川水を蹴散らしながら、ダンボールの流れている少し先あたりを目指して駆けていく。僕も、あわててカズヤの後を追った。川底は、だんだんと深くなっていき、玉砂利の表面が滑って、とても走りにくかった。
 もうじきカズヤが、ダンボール箱に手が届きそうだという所で、突然水しぶきをあげて転んだ。水の中で暴れているカズヤの手の先三十センチばかりのところを、沈みかけたダンボール箱が通り過ぎていく。
 玉砂利の表面の苔に転ばないように気をつけながら、僕はカズヤの川下のあたりを目指して進んだ。川は膝のあたりの深さになり、足にのしかかる水が重くて、思ったように歩けない。僕が追いつく前に、すでにダンボール箱は下流へ通り過ぎようとしていた。
『もう、間に合わない。無理だ』僕は心の中で叫んだ。その時、僕をじっと凝視めている子犬の寂しげな瞳が、視界に飛び込んできた。僕に助けを求めている瞳。
 僕の背中を、電流のような激しい痺れが走った。
『僕しか、この子犬を救うことはできないんだ』そう思った。
『ええい!』かけ声とともに、僕は無意識のうちに水のなかに頭から飛び込んでいた。水の中で、両足を思い切りバタバタと振り動かした。指の先に、ダンボール箱の堅い感触がふれた。僕は、夢中でダンボール箱の縁を掴んだ。
 懸命にダンボール箱を両腕で抱え込んで、川底に立ちあがろうとした。しかし川底は思ったよりも深かった。川の水が、腰以上もある。
 両足を踏ん張って立ち止まろうとするが、川の流れに押されて、徐々に川下へと流されていく。大きなダンボール箱を抱えているせいで、水の抵抗が身体の何倍も強いのだ。川上に戻ろうとしても、せいぜい流れに逆らって立ち止まっているのが精一杯だ。それもほんの二、三秒で、再び流れの勢いに押されてしまう。
 僕の身体は、少しずつ深みに向かって移動していく。腰のあたりだった水が、だんだんと胸のあたりまでに深くなってきていた。
「おーい、助けてくれ……」自分では、大きな声で叫ぼうとしているのだが、かすれた声しか出てこない。不測の事態に遭遇すると、人間は思ったような行動がとれなくなるという事を、僕はその時に知った。
 ダンボール箱を手離せば、自分だけは助かるだろうと思った時、不意にぐいと襟首のあたりが誰かに掴まれるのを感じた。
「頑張れ!」というカズヤの声が聞こえた。
「箱を離すな!」
「分かってる!」とカラ元気を出して大声で答えたものの、僕自身は、もう自力では身動きもできない限界にきていた。
 カズヤ自身にしても、僕の身体を引っ張ろうにも引っ張りきれないぎりぎりの状態だったのだと思う。川下に流されるでもない、かと言って川上に戻ることもできない、ちょっとした作用で均衡が崩れてしまう微妙なバランスだった。
 ダンボール箱の蓋から首を出した子犬が、不安げな目つきでじっと僕とカズヤを凝視めていた。
「ヒロちゃん! 早く降りてこい! いっしょに引っ張れ!」とカズヤが怒鳴った。横目で見ると、ヒロシはまだブロックの河岸に立ったまま、呆然とした様子で僕らを眺めている。
「ヒロちゃん! 早く!」と、再びカズヤが怒鳴り声を上げた。
 ふっと我に返ったようにビクンと身体を震わせると、ヒロシは河岸のブロックにへばりつくようにして一段一段降りはじめた。それから川の中にゆっくりと降り立ち、一歩一歩慎重な足取りで僕らに向かって歩き始めた。
 ところが、あと五メートルばかりのところまで近づいてきた時、ヒロシは突然足を止めた。
「ダメだよ、これ以上行けない」と、眉を八の字にして、今にも泣きだしそうな声で訴える。「滑って転びそうなんだ。……もう、これ以上進めない」
 身体は冷えきって痺れてきているし、流れに逆らって立っているだけで莫大なエネルギーを使いはたした僕は、もう体力の限界に達していた。ダンボール箱を掴んでいる腕の感覚もなくなってきていた。
「もう、これ以上掴んでられないよ」
「ヒロちゃん、頼むから……」と、カズヤが悲痛な声を上げる。
「カズちゃん、ごめん、オレ水が怖いんだ」と、涙まじりのヒロシの声。
 もうダメかもしてないと思った、その時だった。
「オーイ、お前ら、大丈夫かあ!」と大人の男の怒鳴り声が、すぐ右岸の頭上から聞こえてきた。
「そこで、待っとるんだぞお!」
 助かった。そう思った瞬間、身体の力が抜けた。腕の間から、ダンボール箱がふわりと離れた。ゆらゆらと二メートルほど流された後、見る見るダンボール箱は水中に沈んでいった。僕が抱えている間に、川の水をたっぷり吸い込んだでいたのだろう。
 ダンボール箱を追いかけようと、一歩進みかけたが、カズヤが僕の襟首を掴んだまま、僕を離そうとはしなかった。
 子犬は必死な仕種で首を水面に上げようともがいたが、水没していくダンボール箱から抜け出ることはできなかった。僕たちの方を透明な黒い瞳で凝視めると、最後にクイーンという鳴き声を残して、まもなく水中に消えていった。
 突然奇跡が起きて、ダンボール箱を抜け出た子犬が、水面から顔を出すことを心の中で必死に祈ったが、それっきりダンボール箱も子犬も、再び川面に姿を現すことはなかった。
「ごめんよう! 助けられなくて……ごめんよう!」と、僕はダンボール箱が沈んでいったあたりに向かって泣きながら叫んだ。

 

 

              4

「せんべいの耳でも買ってきて食べるか」と最初に言ったのはヒロシだった。
 土曜日の昼下がり、僕の家の裏の路地で缶蹴りをしてから、ヒロシの家の横の空き地に移動してビー玉遊びと陣取りごっこをした後だった。そろそろ遊びに飽きかけていたのと、自転車にでも乗って気分転換をはかりたい頃合いだった。それに、お腹も空きかけていた。「よし、決まった。行くべ」と、例によって決断を下すのはカズヤの役目だ。
 西二条五丁目の電信通りの路地裏を入ったところに、小さな手焼きのせんべい工場があった。円い鋳物に挟まれたせんべいが焼き上がる寸前に、鋳物からはみ出た部分を割って落とす。そのかけらを僕らは『せんべいの耳』と呼んでいた。五円も出すと、大きな紙袋いっぱいのせんべいの耳を買うことができたのだ。
「でも、オレ金持ってないんだ」と僕は、やや淋しい想いをしながら半ズボンのポケットに両手を突っ込んで呟いた。
「心配すんなって。オレ十円持ってっからよ。二つ買えるべ」と、カズヤが半ズボンの右ポケットから薄汚れた茶褐色の十円玉を出して、僕に向かってニタリと微笑んだ。
「いいのかあ? 悪いな」
 さっそく僕らは、それぞれの愛車にまたがって出発した。
 愛車といっても、どれもが赤錆だらけの中古の自転車だ。僕のは、これで持ち主が三代目という、ライトも荷台もついてない茶色の自転車だった。まだ僕の身長には大きすぎて、ペダルが下がった時には靴の裏から離れてしまうという難点があった。ヒロシのは、逆に彼の身体には小さすぎて、小太りのヒロシが跨がるとギシギシとか細い音を立て、今にもフレームが折れそうなくらいだった。カズヤのは、僕のよりももっと大きい大人用の自転車で、彼はサドルに座らず、三角のフレームの横から右足を入れる、いわゆる『三角乗り』をしていた。
 それでも僕らは、まるで月光仮面にでもなったような気分で、西二条通りの未舗装の歩道を颯爽と風を切って、めざすせんべい工場へ向かった。
 そのせんべい工場は、年老いた夫婦二人で営まれていた。モンペ姿に日本手拭いで頭を頬かぶりした婆さんが、せんべいを焼く係だ。機械の前に座って、せんべいの耳を落とし、鋳物の蓋を開けて中からせんべいを取り出し、手早くその中に油を薄くひき、せんべいの素となる白い液体を注ぎ、ゴマをまぶし、再び蓋を下ろす。その単調な作業を日がな繰り返していた。
 爺さんの方は、焼き上がったせんべいをダンボール箱に詰めたり、機械の炭火具合を調節したりしながら、薄暗くて蒸し暑い工場の中をのろのろと歩き回っていた。
 僕らは、狭い工場の片隅で買ったばかりの袋を左腕で抱え、せんべいの耳をパリパリと齧りながら、せんべいが焼かれる様子をしばらく眺め続けた。
 やがてそれにも飽きると、僕らは袋を抱えたまま、西二条の歩道に座り込んで、道路を行き交う自動車やオートバイや馬車などを眺めながらせんべいの耳を食べ続けた。
 晴れ渡った七月の青空に、アンパンを積み重ねた形の雲が浮かんでいた。頬を撫ぜて通り過ぎる風は心地よく、夏の到来を感じさせる、じつに素敵な午後だった。
 僕らは、帯広川で助けそこなった子犬のことや、その後家に帰ってから両親にこっぴどく叱られたことや、虫取りのことや、魚釣りのことや、これからやってくる夏休みのことなどを気儘に話して楽しんだ。
 「おい……」と背中から声をかけられたのは、そんな時だった。三人がいっせいに後ろを振り返った。
 見知らぬ少年が、緊張した表情を浮かべ僕らの方を見下ろしていた。ヒロシかカズヤの知り合いかと思いながら首をもとに戻そうとした瞬間、鮮やかな記憶が網膜に蘇ってきて、一瞬、血の気が引いた。彼は、僕を路地に引きずり込み、平手打ちを食らわせたニンジン頭の少年に間違いなかった。
 何気ない振りをして、そのまま僕は前を向いた。このままどこかへ消えてくれればいいのに、今度は何をされるのだろうと不安になった。でも、今日は相手は一人のようだし、僕にはヒロシもカズヤもついているんだと思うと、ちょっとだけ安心した。
「おい、君だよ」と再び背中で声がした。
 心臓がドキンと高鳴った。
「ユウちゃんに声をかけてるみたいだぞ」と隣に座っているカズヤが僕の横腹を肘でつついた。
 ゴクリと唾を飲み込んでから、ゆっくりと背中を振り返った。その少年は、怒ったような顔をして、今度はあきらかに僕を睨んでいた。まずいなと思いながら、僕は素知らぬ風を装って彼を見上げた。
「なに……?」
「オレのこと、覚えてないか?」
「さあ」と僕は、とぼけた振りをして首を傾けた。
 その少年は、一瞬どうしようかと戸惑う表情を浮かべてから、意を決したように口を開いた。
「ほら、このまえ町の中で、もう一人の男といっしょになって、お前のことをひっ叩いたべ」
「なに!」と驚きの声をあげて、まっさきに立ち上がったのはカズヤだった。それに続くようにヒロシも立った。
「おまえ、ユウキに変な言いがかりつけて殴ったんだって? 今日は何の用だ!」とカズヤが、やや緊張した口調でしどろもどろにまくし立てた。
「そうだ、何の用事だ?」とヒロシが、カズヤの陰に隠れる位置に下がりながら、小さな声ではやし立てた。
「ちょっと待ってくれ。オレは、そっちの奴に話があるんだ……」「だから何の用だよ?」とカズヤ。
「おい、君……」と、再び僕が呼ばれる。
 自分一人だけがそのまま座り続けているのはバツが悪くて、やむを得ず僕も立ちあがることにした。でも真正面から、その少年の顔を凝視めるのは躊躇われて、やや下に視線をずらす。
「オレのこと、覚えてるべ?」
 僕は、上目遣いに彼の顔をチラリと確かめてから、「うん」と頷いた。ニンジンのような逆三角形の頭と八の字の眉。間違いない。 胸が、締めつけられるように苦しかった。
「オレ、じつはあの時のこと、お前に謝りたいって、ずっと思ってたんだ」
『えっ?』っと思って、僕は顔を上げた。
「いまさら謝ったからといって、それでいいと思ってんのかよ!」とカズヤが、相手の神妙な態度に安心したのか、やや強気の口調で怒鳴った。
 その少年は、横目でチラリとカズヤの方を見てから、再び僕の顔を正面から凝視めた。
「信じてくんないかもしんないけどよ、お前のこと殴んないと、逆にオレの方が、アイツから殴られそうだったんだ。それで仕方がなくてお前のこと殴ったんだ。ゴメン、悪いことしたと思ってる」と言いながら、その少年はこくりと僕に向かって頭を下げた。
 僕は、まだ事態がよく飲み込めず、どのように相手に対応したらよいのか分からないまま、茫然とその少年の顔を眺め続けた。
「あれから、もうアイツとのつきあいは止めたんだ。結局、アイツから三発、ぶん殴られちゃったけどさ。……でも、あの時は、どうしてもアイツに逆らえなかったんだ。ゴメン、お前には本当に悪いことしたと思ってる。許してくれないべか?」
「謝って、それで許されると思ってんのかよ。それだったら警察いらないべ!」と、ますます図に乗ってカズヤが怒鳴る。
 その少年は、目を吊り上げるとジロリとカズヤを睨みつけた。今にもカズヤに殴りかかるのではないかと、僕は肝をつぶす。
 カズヤは、一瞬たじろいだ表情を浮かべて口を閉ざした。でも、少年を睨み返すむ目つきは、負けていない。
 少年は、じばらくの間じっとカズヤの顔を凝視めた後、再び僕へ視線を戻すと、怒っている目で僕を見た。
「分かった。じゃあ、あの時オレ、お前のこと二発叩いたから、同じだけ叩いてくれ。それだったら許してくれるか?」
 思いがけない事態の進展で、どう答えようかと考えあぐねているうちに、
「ユウちゃん、そうさせてもらえ」とカズヤが先に答えてしまう。 ええ!? だって……と思いながら、僕は少年の真剣な表情と、カズヤの噛みつくような激しい目つきを交互に眺める。
 そうしている間に、少年は目をつぶり、やや顎を引きつらせると、顔を前へ突き出す仕種をした。そうすれば、彼よりも十センチばかり背の低い僕でも叩きやすいと考えたのだろう。
「さあ、ユウちゃん」とカズヤが威勢よく声をかける。
「思いっきりやっちゃえ」とヒロシの弱々しいかけ声。
 僕は、深く息を二回吸い込んだ。そして少年の目を閉じた顔を凝視めた。
 どうしようか、まだ迷っていた。別に、仕返しをしたいわけではなかった。しかし、成り行き上、叩かないわけにはいかない状況になっていた。
 僕は、おずおずと右腕を高く掲げた。
 人の顔を叩くなんて、初めての経験だった。言いようのない緊張感と不安感があった。鼓動が高鳴った。
「さあ!」とカズヤの声。
 僕は心の中で、『いち、にい、のー、さん』とかけ声をかけて、思い切り少年の顔に向かって掌を叩きつけた。手が少年の頬に当たる瞬間、恐怖感で自分の目を閉じていた。
 掌にパアンと衝撃が突き抜けた。
 手を振り切った姿勢のまま、僕は凍りついたように静かな時間の中に佇んでいた。指先のあたりが熱っぽく、痺れたような痛みが心臓の鼓動とともに湧き上がってきた。
 やがて掌の痛みとともに、何とも形容しようのない罪悪感が、じんわりと伝わってきた。
「さあ、もう一発だ!」とヒロシが怒鳴った。
 僕は、首を振りながら「もう、いいよ」と口の中で呟いた。
「どうした?」と、カズヤが心配そうに、僕の顔を覗いた。
「もう、いい」と、僕は少年の顔を見たまま言った。
 人の顔を叩くことの、なんと不愉快なことか。それは、僕の気持ちに、まるでそぐわない行為だった。
 それに僕は、ある事実に気づいていたのだった。
 ここで僕がもう一発平手打ちをくらわしたところで、あの時に僕の身体と心に受けた二発の痛みは、決して相殺されることはないということを。あの時の痛みは、もう取り返しのつかないことで、ここで今さら彼を叩いても、消え去るものではないということを。それどころか、自分にとっても相手の少年にとっても、また別な痛みを生み出してしまうにすぎないということを。
 掌からヒリヒリと滲んでくる痛みを覚えながら、そんな事を、僕はぼんやりと感じていた。
「もういいんだ」と小さく呟いてから、僕は腕を下ろした。
「ゴメン、痛かっただろう?」と僕は、少年に囁いた。
 少年は、首を振ると、「もう、これで許してくれるか?」と僕に向かって訊いた。
 僕は、大きくこくんと頷いた。
 少年は、しばらく僕の目を凝視めた後で、ふっと小さな笑いを口許に浮かべた。
「なんか胸の中につっかえていたものが、スッキリしたような気がする」と呟いた少年の顔は、本当に晴々としていた。
 その少年の表情を見て、僕自身も救われた気がした。自分の行為が、彼から許された安堵感を覚えていた。
「じゃあ、これでおあいこだな」と少年が呟いた。
「うん」と僕は、はっきりと答えた。
 少年は、僕の顔をしばらく凝視めてから、
「一人で、町ん中を歩かないほうがいいぞ。いろんな奴がいるからな。……じゃあ、また」とやわらかい声で言うと、ヒロシとカズヤにも「それじゃあ」と挨拶して、西二条通りを駅の方へと向かって歩き始めた。
「なあ、おい……」と、少年の背中に遠慮がちに声をかけたのは、やはりカズヤだった。
 その少年は怪訝そうな表情を浮かべて振り向いた。
「まだ、何か用か……?」
「お前といっしょにいたっていう、もう一人の男の名前はなんていうんだよ?」
 少年は、急に暗い顔つきになったまま、カズヤの顔をしばらく見た。
「そんなこと聞いて、どうする?」
「いや、ただ知りたいなと思ってさ」
 少年は、こちらを振り向いたまま、少しの間迷う様子を見せた。「ダイスケ……クロキ・ダイスケ」と、少年は汚れたものでも吐き捨てるように投げやりに言った。
「クロキ・ダイスケ……? 家はどっちの方なんだ?」
「あっちの方。学校の向こうだ」と、その少年は左腕を上げると、西の方を指さした。
 それから、やや躊躇する表情を浮かべてから、「お前ら、ダイスケだけには関わらないほうがいいぞ。ケンカも強いけど、アイツのバックにはヤクザがついているからな。悪いこと言わんから、早くダイスケの事は忘れろ。な?……それじゃあ」
 そこまで言うと少年は僕らに背を向け、ゴムの短靴をパタパタと鳴らしながら再び歩き始めた。
 少年の言葉を聞いて、僕は内心ゾッとしていた。二度と、あんな少年とは関わりたくないと心底思った。
「名前なんか聞いてどうするつもりなんだよ」と僕はカズヤに小さな声で訊いた。
「一応、聞いておこうとおもってさ」とカズヤが苦笑いを浮かべながら答える。
「オレは、仕返しなんかできなくてもいいんだ。イヤだよ、あんな奴にまた会うなんて。カズちゃんも早く忘れてくれていいよ」
「分かってるって、心配すんなよ」
「ほんとだぞ」と、僕は念を押す。
 僕らは、だんだんと小さくなってゆく少年を後ろ姿を、せんべいの耳を齧りながら眺めていた。

 

 

              5

 あと一週間で夏休みだった。
 教室の窓枠から見える青い空に、白い積乱雲が力強く天に盛り上がっていた。朝から蒸し暑く、教室の固いイスに座って先生の退屈な話を聞いているだけで、背中が汗ばんでくるほどだった。
 土曜の午前授業が終わるのが、待ち遠しくてならなかった。ばたばたと騒ぎ出そうとする気持ちを、必死に抑えていた。
 帰りの会と掃除が終わると、僕は走って家に帰り、誰もいない家でお茶漬けをすすった。食べ終わるとすぐに水泳パンツをはき、その上から半ズボンを重ねた。気持ちは、すでにひんやりと冷たい水の中だった。何をするのももどかしく、あわてて自転車にまたがり、学校のプールへとペダルを必死に漕いだ。
 プールといっても、当時は防火用の水槽を兼ねた小さな施設に過ぎなかった。シャワーも消毒槽も、更衣室すらもなかった。水を浄化する装置などもついてなくて、水はいつも藻が生えたように緑がかって見えた。
 プールに着くと、ヒロシもカズヤもすでに水の中で遊んでいた。プールのあちこちで飛び跳ねる水しぶきが、陽光を反射してキラキラと輝いて見える。あたりから湧き上がる笑い声や歓声に、心臓がキュンと締めつけられる。僕は自転車を体育館の脇に立てると、その場で半ズボンと半袖シャツを脱ぎ、自転車の籠に突っ込む。それから、水の中で僕に向かって手を振っているカズヤとヒロシに、手を振り返し、「ヒャッホー」と奇声を上げながらプールサイドまで駆けていく。そして、そのままの勢いで、僕はプールの中に足から飛び込んだ。
 白い水飛沫が、あたりに飛散する。視界が、跳ね上がった水飛沫でいっぱいになる。ひんやりと冷たい水の感触がゾクゾクと足元から背中に駆け上がってくる。体が痺れるほどの冷たさ。髪の毛が逆立つほどだ。それでいて天に昇るほどの爽快感。
 この一瞬の喜びのために、午前いっぱい蒸し暑い教室の中で、じっと堅いイスに座って耐えていたんだと思う。
 ヒロシとカズヤが僕に水をかけてくる。僕も負けずに水をかけ返す。それに飽きると、僕等は水の中で鬼ごっこをしたり、底に投げた石ころを潜って探したり、飛び込みの練習をしたりして遊んだ。体が冷えてきて歯ぐきがガタガタと震え始めると、プールサイドの熱した玉ジャリの上に横になって体を温めた。
 気分はすっかり夏休みだった。
 三時を過ぎると、風がひんやりと涼しくなってくる。そろそろ泳ぐのにも飽きて、僕らは体育館の壁の蔭で、フリチンになって着替えた。それから自転車に乗って、どこに行くあてもなく、ただブラブラと自転車のペダルを漕いだ。
 三吉神社の林の中を通りがかった時だった。突然カズヤが自転車を止めて、僕とヒロシを振り返った。カズヤの表情が、いつになくこわばって見えた。目が怒っている。
 どうしたんだろうと不信に思いながら、僕はカズヤの横で、自転車から降りた。
「何した?」
「ユウちゃん……いっしょに来てくれるか?」
「うん、どこへ?」
「……来ればわかる。ヒロちゃんも、頼むな」
「おう、いいよ」と、ヒロシは呑気な口調で答える。
 カズヤが、何か戸惑っている表情を浮かべててから、意を決したように自転車を押すと、素早く右足を三角のフレームの中に突っ込んで、僕らの前を走りはじめた。僕とヒロシは、カズヤの後ろを追って、西五条の橋を渡った。
「おい、どこ行くんだよ?」と僕は、二メートルほど先を行くカ
ズヤに向かって大声を張り上げた。
「まあ、いいからついて来いや」と、カズヤが、相変わらず暗い表情で、僕を振り返る。僕は、カズヤの背中に、何かいつもと違うものを感じる。不吉な予感。
「どこ行くんだべな……?」とヒロシに声をかけようと思って振り返ると、ヒロシは僕よりもさらに五メートルほど後ろを、額に玉の汗をいっぱい浮かべ、必死の形相でペダルを漕いでいた。ヒロシが跨いでいる小さな自転車は、路面の小さなでこぼこを越えるたびに、壊れるのではないかと思えるほどか細い悲鳴を上げた。
 西5条通りの西側は、湿地帯が広がり、あたりにはヨシなどの丈の高い草が一面に生い茂っていた。道路から百メートルほど入ったあたりに、赤いレンガの壁だけとなった古い倉庫の残骸が、空に向かって屹立していた。
 石炭を積んでのんびりと歩く馬車を追い越したところで、先頭を行くカズヤが道路を左に折れた。僕とヒロシもそれに続く。
 あたりはちょうど帯広小学校の西のあたりだった。通りから、さらに狭い路地を入ったところでカズヤが自転車を止めた。僕とヒロシも自転車から降りた。
 同じ外観の古ぼけた焦げ茶色の平屋の家が、幾棟か並んでいた。二軒長屋で、玄関が東端と西端についている。そしてどの家も、窓の下まで薪の束がぎっしりと積んである。
「ちょっとここで待ってれや」と言い残して、カズヤが路地の奥に姿を消した。
 そのままカズヤはなかなか戻ってこなかった。陽が少しづずつ翳り始め、遠くで野良犬の吠え声が聞こえた。他には、何も聞こえない。夕暮れ前の静寂。
「遅いな、カズちゃん」と、ヒロシが呟く。二人顔を見合せ、どうしようか、と目配せを交わす。
「行ってみるか」という僕の呟きを合図に、二人はおそるおそる路地の奥に向かって歩き始めた。五メートルほど進んだところで、左側の家の玄関が突然開いた。そして、そこから怒ったような表情を浮かべたカズヤが肩をいからして出てきた。カズヤの背後から、背の高い少年が続いて出てきた。その少年の顔を見た瞬間、僕の視線は凍りついた。頭から血の気が引き、背中に鳥肌がザワザワと立った。足が竦んで、身動きできなかった。
 カズヤの背中に立っているのは、僕を路地に引き込んで殴った二人組の少年の片割れ、あのクロキ・ダイスケという名前の少年に間違いなかった。
 でも、どうしてカズヤがダイスケの家なんか知ってたんだろう?そして、なぜカズヤは僕やヒロシをここまで連れてきたんだろう?そんな疑問やら驚きなどが、僕の心の中をぐるぐると駆け回った。「よお、久しぶりだな」と、ダイスケが不敵なうす笑いを口許に浮かべて僕を見下ろした。
 僕は、ごくりと唾を呑み込み、返事もできないままダイスケの顔をじっと凝視めた。
 カズヤが、「行こう」と僕の腕を掴んで引っ張った。僕は、後ろからついてくるダイスケのペタペタという短靴の音を背中で聞きながら路地を戻り始めた。
「カズちゃん、いったいどうなってんだよ?」と、僕はカズヤの耳元に口を寄せて囁いた。
「後で話す」と、言ったきり、カズヤは口もきかず、自転車を止めた場所に向かって僕の前を歩いた。
 僕たちは、再び自転車に跨がり、西5条に向かって先程通ってきた道を戻った。ダイスケも、大人が乗る黒いフレームの自転車に跨がって、あいかわらずニタニタと薄気味悪い微笑を浮かべながら、僕たちの後をついてくる。
 カズヤが僕の横に来て並走しながら、僕に向かって口を開いた。「帯小にいる友達に、クロキの家の場所を聞いたんだ。それで、実はこのまえ、一人であいつの家に行ったんだ。そしてユウちゃんの話をして、謝れって言ったら、一対一のサシで勝負して、オレが勝ったら、あいつが土下座して謝ってくれるってことになったんだ。それで、これからユウちゃんとヒロシに立ち会ってもらって、あいつと勝負するんだ」
『えーっ、まさか!』と、僕は心の中で叫んでいた。
「……だって、無理だべさ、そんなの。あいつの方がでかいよ。カズちゃんが勝てるわけないべさ」
 僕の脳裏に、ダイスケの巨体がカズヤの小さな体を殴り飛ばすイメージが鮮やかに浮かんできて、心臓がドクドクと高鳴った。
「勝てるか、勝てないか、やってみなくちゃわからんべ」と、カズヤが緊張した声で呟く。
「そりゃ、そうかもしんないけどさ。でも、オレのために、ケンカなんかしなくてもいいって。カズちゃんに怪我されると、オレ困るもん。それに、オレ、あんな奴に謝ってもらわなくていいよ」
「……違うんだ」
「え、何が?」
「ユウちゃんのためだけじゃないんだ。あいつに会って、話してたら、なんか、こうムカムカ腹が立ってきて、やらなくちゃ気がすまないって気分になっちゃったんだ。それだけだ」
「……あいつのバックには、ヤクザもついてるっていうしさ、あいつをやっつけたって、また別な連中にひどい目に遭わされるだけだよ。だからやめて帰ろう。そうしようって」と、僕は、ほとんど哀願する口調で言った。
 でも、カズヤは首を横に振ったきり、もう何も答えようとはしなかった。三角乗りをして、体を大きく上下させながらカズヤの体が僕の前へ抜けていった。
 絶対無理だよと、僕は心の中で叫んだ。勝てるわけがない。
 僕たちは、西5条の道路脇に自転車を止めてから、西側に広がるヨシの草原へと細い踏み跡を入っていった。丈が僕らの身長以上もあるヨシが繁茂していて、十メートルも行かないうちに、町の家並みが見えなくなった。
 僕は、まるで自分達が世界の果てにでも向かって歩いているような、そんな心細い気持ちになっていた。
 カズヤ、僕、ヒロシ、そしてダイスケの順で、しばらく歩いていくと、誰かが草を刈って、そこだけが広場のようになっている平らな場所に出た。あたりには家の姿はひとつも見えない。遠く南に、赤いレンガの壁が見えるだけだ。
 背中に張りついたシャツの汗が冷えてきて、うすら寒い。でも、ぎっちりと握りしめた掌には汗が滲んでいた。
 僕とヒロシは、道路へ戻る細い踏み跡のあたりに並んで立ったまま、カズヤとダイスケの様子を、息を殺して眺めた。
「ねえ、ユウちゃん、いったいどうなるんだべ。警察、呼んでこなくていいべか?」と、今にも泣きそうな声で、ヒロシが囁く。
 僕は、どう返事をしたらいいのか分からない。何の脈絡もなく、不意に自分の母親や父親や担任の先生の顔が浮かんできた。誰か、助けを呼びにいかなくちゃならないと思う。でも誰を呼んでくればいいんだろう?
 広場の中心あたりに、カズヤとダイスケの二人が向かいあって睨みあった。ダイスケは、どこからでもかかってこいという風に、あいかわらずニヤけた笑みを浮かべ、腰に手をあてて仁王立ちの恰好で突っ立っている。カズヤは、やや姿勢を低くし、握った拳を胸の前に構えて、今にも飛びかからんばかりだ。
 ダイスケとカズヤとでは、身長差が二十センチくらいもあり、体つきにしても筋肉質のダイスケに較べると、カズヤの体は、見るからにひ弱そうだ。勝負を始める前から、結果は見えているようなものだった。
 僕は、できるなら目を閉じて、これから起こる出来事をいっさい見ないですませたいと思う。
「ユウちゃん、ヒロちゃん、絶対手を出すなよ。オレと、こいつの一対一の勝負なんだからな!」と、カズヤが、ダイスケを睨んだまま、大声で叫ぶ。その直後、カズヤは「ウォー」と獣の声を発してダイスケに向かってぶつかっていった。
 頭から、ダイスケの腹のあたりに飛び込む。ダイスケは機敏に体を横へ逸らし、カズヤの頭を脇に抱えると、二、三歩後退し、そのままの勢いでカズヤの体を後ろへ投げ飛ばした。カズヤの体が宙に舞って、地面に叩きつけられる。でも、すぐにカズヤは立ち上がり、ふたたび頭からダイスケの腹に突っ込んでいく。ダイスケは、先程と同じように横へ避けようとするが、今度はカズヤもダイスケの動きを読んでいた。突っ込んでいく方向を微妙に修正し、横へ移動していたダイスケの腹に、カズヤの頭が食い込む。ダイスケの体が二つに折れる。カズヤはそのままダイスケのお腹を両腕で抱え、ぐいぐい押していく。ダイスケは二、三歩後退するが、そこで動きが止まる。カズヤは必死で押しているが、ダイスケも負けてはいない。カズヤの体を持ち上げると、そのまま地面に投げ飛ばす。
 素早くカズヤは立ち上がると、再び二人は真正面から睨み合う。カズヤの顔も、半袖シャツも半ズボンも、すでに泥だらけだ。
 カズヤがまた、頭からダイスケの腹に飛び込んで行った。一瞬、ダイスケの巨体が揺らぐ。そのまま何歩かダイスケは後退すると、カズヤの勢いに、今度は背中から草原に倒れ込んだ。
 カズヤは、ダイスケの胸の上に馬乗りになると、拳をダイスケの顔めがけて一発打ち下ろした。
 でも、カズヤの攻撃はそこまでだった。馬乗りになっていたカズヤの体が、ふわりと宙に浮くと一メートルほど投げ飛ばされていた。ダイスケは、猫のように身軽に起き上がると、まだ横になっているカズヤの体に飛びつく。そして今度は逆に、ダイスケがカズヤの体に馬乗りになった。
 ニタリと微笑んだダイスケの鼻から、赤い滴がとろりと線を引いて流れ落ちる。
「馬鹿だな、お前。俺とケンカしようなんてよ」と組み敷いたカズヤに向かって勝ち誇ったように呟くと、ダイスケは、立て続けにカズヤの顔に向かって拳を降り下ろした。ダイスケの拳が、カズヤの顔に食い込むたびに、肉が砕ける鈍い音が響いた。
 五、六発ほど殴ると、はあーっと大きな息を吐いてから、ダイスケはカズヤに向かって訊いた。
「まいったか?」
 カズヤの鼻から流れ出た血が、口のまわりや頬に広がって、顔を赤く染めていた。そして右の目が半分くらい潰れていた。
 これで終わったと、僕は思った。僕のためにカズヤが、体を賭して闘ってくれた。傷だらけになりながら。でも、もうこれで終わったんだ。気がつくと、頬が濡れていた。
 その時、「馬鹿やろう。これくらいで、貴様なんかにまいるかよ!」というカズヤの怒声が聞こえた。
 息が、止まるかと思った。
「カズちゃん、もういいよ! 頑張ったじゃないか。もうこれ以上やらなくてもいいよ。頼むから!……」泣きながら、僕は大声で訴えていた。
「まだ、こいつなんかに負けてないよ」というカズヤの声。
 ダイスケは、カズヤを睨みつけると、拳を大きく振り上げて、打ち下ろそうとした。
 その時だった、僕の隣に立っていたヒロシが「この野郎!」と怒鳴りながら、ダイスケに向かって突進していった。
 ヒロシの体が、ダイスケの上体を押し倒し、その上に重なる。ダイスケは、びっくりしたように両腕を振り上げながら、「お前も、やろうっていうのか!」と怒鳴り声を上げる。一瞬のうちに、ヒロシの体は撥ねのけられ、ダイスケは立ち上がっていた。
「いい根性してるんじゃねえか」とダイスケが、起き上がろうとしているヒロシを睨みつける。
「止めろ。一対一の勝負なんだ」と、地面に横たわったままのカズヤが弱々しく呟く。
 怯えと恐怖が、ヒロシの瞳に浮かんでいた。
 ふと気がつくと、僕の足が自然に動き出していた。訳もわからず「チクショー!」と雄叫びを上げながら、僕はダイスケの横腹に頭から突っ込んだ。ダイスケの体が倒れる。僕は必死にダイスケの体にしがみつく。ヒロシも同じようにダイスケの体に押しかぶさってきた。僕たちは、盲滅法にダイスケの顔や胸を叩いた。
「おおー」という野獣の声が上がり、激しいうねりで僕たちの体は草原に叩きつけられる。立ち上がろうと膝をついた瞬間、顔面に猛烈な衝撃が走る。視界がふっきれて、僕は再び地面に叩きつけられる。なんとか立ち上がり、僕は、ダイスケらしき人影に向かって突進していった。そしてまた、顔面や腹に衝撃が走ったが、それ以後のことは、よく覚えていない。
 気がつくと、夕暮れの濃紺の空に、清冽な白い光がひとつ瞬いていた。背中が濡れていて、ひんやりと冷たかった。どうして、こんな所で寝ているんだろうと、ぼんやりした頭で考える。頭の奥が鈍く痛み、吐き気がした。
 目を開けようと思うが、半分ほどしか開かなかった。口のなかが粘っこくて、甘ったるい味がした。口の中に溜まっているドロドロの固まりを吐き出そうとした時、前歯が折れているのに気づいた。 頭を持ち上げ、あたりを見回す。僕のすぐ隣で、ヒロシが地面にうつ伏せになって泣いていた。半袖のシャツが大きくめくれ上がり、はだけた背中が泥で黒く汚れている。
 反対側を見ると、広場の端のあたりに、カズヤが仰向けになって横たわっていた。
 僕は、ゆっくりと起き上がった。
「だいじょうぶ?」と、僕はヒロシの背中に声をかけた。声を押し殺して泣きつづけるヒロシを抱き起こす。右目のまわりが紫色に腫れ上がり、血糊で口のあたりがドス黒かった。
 もう一度、「だいじょうぶ?」と声をかける。ヒロシは涙を流しながら、「うん」と小さく頷いた。
 草原に座ったまま、ヒックヒックと泣きつづけるヒロシを残して、僕はカズヤのところまで歩いていった。
「カズちゃん、だいじょうぶ?」と言いながら、僕はカズヤの肩を揺らした。
 カズヤの顔はヒロシよりひどかった。両目のまわりがブス色に大きく腫れ上がり、目はほとんど潰れかけている。頬も口のまわりも血糊と泥で黒く汚れている。それに引き裂かれた半袖のシャツも、足も泥だらけだった。
「ああ……」と、目を閉じたまま、カズヤが答える。
「起きれる?」
「……なんか、俺のせいで、みんなを巻き添えにしちゃったみたいだな」と、横たわったままカズヤが微かに呟く。
「そんなことないよ」
「ヒロちゃんは、……どうだ?」
「泣いてるけど、だいじょうぶみたい」
「……ヒロちゃんが飛びかかっていくとは思ってもなかった。あの弱虫がさ」
「うん」
「ユウちゃん、お前もな」
「……カズちゃん、どうもありがとう」
「え?……」
「俺、ヒロちゃんがやられるんじゃないかって、夢中でダイスケに飛びかかってったんだ。夢中で、何も考えずにさ。でも自分が、そんなことができる勇気があるなんて、今まで思ってもなかった。そんな度胸があるなんてさ。今日初めてわかったんだ。俺だって、殴り合いのケンカができるんだって、やる気になればできるんだってさ」
「うん……」
「俺は弱虫で、人とケンカもできないダメな人間だって、ずっと思ってたんだ。……だからさ、なんか、今とっても嬉しい気分なんだ。なんていうか、やったーって気分なんだ」
 カズヤの手が伸びてきて、僕の右手をギュッと握りしめた。
 僕も、カズヤの手を強く握り返した。
 頭も顔も口の中も、そして体のあちこちもズキズキと痛んでいた。でも、僕の心の中は、とても清々しい充実感に満ち溢れていた。「今度、やる時は絶対に勝つべな」
「うん」と答えながら、僕はカズヤの握った手を引っぱって、彼を立たせた。それから僕は、カズヤの肩を支えながらヒロシのところまで歩いた。
「ヒロちゃん。立てるか?」
 ヒロシは泣きながら小さく頷くと、おもむろに立ち上がった。
「元気出せって。もう、泣くなよ」と僕はヒロシを励ました。
 薄暗くなりかけた闇の底を、僕らは、ビッコを引きながら、自転車の置いてある場所に向かって歩きはじめた。

 

【帯広市図書館「市民文藝」第36号1996年発行 掲載】