二十年前の彼女と二十年後の僕

「大原君、お久しぶり! 本当に北海道の帯広からやって来たのね」

 名古屋駅の裏にあるフレンチレストラン「ラ・メール」の店内に足を踏み入れた途端、淡い水色のスーツを着た、肉付きのよい女性が笑いかけてきた。とっさに相手が誰なのか、わからなかった。

「私のこと、覚えてないの? ったく困っちゃうわね。私、明日香よ、清水明日香。今は、結婚して高野って名字に変わってるけど」 

 名前を聞いて、すぐに思い出した。それにしたって、ほっそりと痩せてた若い頃のイメージとはすっかり変わった。

「忘れるわけないだろう」

 そう言ってごまかしながら、もしかしたら葵も来ているのではないかと、店内をさりげなく見回した。

 明日香は、すぐに僕の心を察したようだ。

「葵を探してるんでしょ? 残念だけど彼女は来てないわ。お子さんの調子が急に悪くなっちゃったの。でも心配しないで、彼女、元気にやってるから。

 ……それで、大原君、クラス会が終わったら、ちょっと私につきあってくれない。少し話したいことがあるの」

 たぶん葵の話なんだろう。いいよ、と答えたとこへ、太い男の声が割って入ってきた。

 ふりむくと、二十年目のクラス会を企画してくれた幹事が、握手を求めて手を差し出してきた。彼の手を強く握ったところで、明日香は「じゃあ、後でね」と僕の耳元で囁き、軽い身のこなしで去っていった。

 予定の二時間半は、すぐに終わった。全員で乾杯してお開きになり、次は二次会だと言いながら店外へ出たところで、明日香が僕の横にすり寄ってきた。

 僕らは、クラスの仲間と別れ、歩いて五分ほどのスターバックスに入った。

 窓際のテーブル席につくなり、明日香が怒ったような口調で僕に訊いてきた。

「で、葵のことは、どこまで知ってるの?」

 どうして明日香に怒られなくちゃならないのか、わからないまま答えた。 

「卒業する頃、葵とタカオがつきあい始めたってところまでは知ってるよ。でもその後のことは何も知らない。だって名古屋にきたの、ほんとうに二十年ぶりなんだ」

「本当にそうなのね? ……じゃあ、どこから話をはじめようかしら」と小さく呟いて、遠くを眺める目つきをした。

    ☆    ☆    ☆

 大学三年生の夏頃から四年生の冬にかけて、僕とタカオと葵と明日香の四人は、仲の良いグループを作っていた。

 グループができたきっかけは、「フランス近代文学」のゼミを一緒に受講したことだった。ゼミが終わると、僕ら四人はなんとなく学生会館の喫茶室に席を移し、そこで雑談するようになった。最初の頃、たまたま一緒にいるだけの関係だったが、夏休みに知多半島へ二泊三日のキャンプに出かけてから、仲間としての意識が強まった。

 僕ら四人は、それぞれ性格が、可笑しいくらいに正反対だった。

 タカオは、ソフトテニス部の選手で、真っ黒に焼けたスポーツマン。やや自信過剰の傾向があって、何でも大風呂敷を広げて話すような明朗快活な男だった。 

 僕は、まさにその逆で、部屋に閉じこもって音楽を聴いたり、本を読んでるのが好きな、どちらかというと暗い性格の学生だった。

 女の子の一人、明日香は、お姉さんタイプの典型で、僕ら四人が楽しく過ごせるようにいつも気配りをしてくれた。

 葵は、どちらかというと自由奔放で気ままな女の子だった。心に思ったことは何でも口に出してしまうが、時にはその言葉で自分自身が傷ついてしまうような感受性の強い面もあった。

 僕らは、ゼミの日以外も、学校近くの「河」という喫茶店に集まって、一時間でも二時間でも好き勝手にお喋りして楽しんだ。

 好みのCDや本を貸しあったり、一緒に映画やコンサートなどに出かけたりした。タカオが出場するテニスの試合に応援に行ったり、明日香が所属するギター・マンドリンクラブの演奏会を聴きに行くこともあった。

 男二人に女二人のグループなんて、カップルができたりしてすぐに壊れやすい。でも僕らは、四人がうまい具合に距離感とバランスを保ちながら、仲の良い仲間関係を維持することができた。

 ただ僕は、グループができた当初から、葵に対する強い片想いの恋情をずっと抱いてた。感受性豊かに変化をみせる彼女の表情が、僕にはとてつもなく魅力的だった。

  でも、グループの維持を優先に考えて、僕は自分の恋愛感情を必死に抑えた。葵への気持ちが、言葉づかいや態度に出ないよう神経質なくらい気をつけた。

 そんな僕の態度が、葵には冷たく感じられたらしい。

 ある日、葵から、「ねえ、大原君、私のこと嫌いなの?」と真顔で訊かれた。

「なに言ってるんだよ。僕が君のこと、嫌いなわけないだろう」と、びっくりして答えた。

「それってホント? だってあなた、いつも私とは距離を取ろうとしてるじゃない。あなた、私と明日香への態度が全然違うわよ」

 葵の勘の鋭さに、内心うろたえた。

「そんなことないよ。僕は、明日香にも君にも同じように接してるよ」

 できるだけ平静を装って答えた。

「あなたは、明日香には、にこやかに話しかけるけど、私にはあんまり笑おうとしないわ。っていうか、私には、なんとなくよそよそしいのよね。それって、どうして?」

「あのさ、明日香とは、入学した当時から同じ講義を受けたりして、もともと仲がよかったんだ。それだけだよ」

 答えながら、胸がドキドキしてるのが分かった。

「それって、なんか弁解めいて聞こえるんだけど」

「うそじゃないよ。……でも、君に誤解されるような態度を取ってたんなら謝る。これからは気をつける」

 僕は、申しわけなさそうな顔を作った。

 葵は、しばらく僕を睨みつけるような目で見ていた。

「もういいわ。私の勘違いなら、べつにそれでもかまわないし」

 二人の会話は、そこで終わった。

 憮然とした気持ちを抱えたまま、僕はアパートに帰った。

 オレは、いったい何をやってるんだと、床に寝転がりながら自問した。こんなに辛い思いをしてまで、葵への恋愛感情を押し殺さなくちゃならないのか? 四人のグループって、そんなに大切なのか? 考えれば考えるほど、自分のやってることが分からなくなってきた。

 でも、自分の気持ちを手繰ってくうちに、心の底に隠れてる本音に行き着いた。

 僕が自分の恋愛感情を押し殺してるのは、なにもグループ維持を優先してるからじゃない。そうじゃなくて、たんに葵に告白してフラれるのが怖いからなのだ。

 もしもフラれたら、今までように葵と仲良く会話できなくなる。そうなるくらいなら、まだグループ内の親しい仲間として、葵のそばにいる方がましだ。

 そんな卑しい計算を、僕は無意識のうちにやってたのだ。

 そのことに気づいた時、僕はちょっと愕然とした。自分の気弱な魂胆に、自己嫌悪を覚えた。でも、そうかといって現状を打ち破るだけの勇気が、僕にはなかった。

 僕はため息をつきながら、この宙ぶらりんな現状維持を、これからも続けていくしかないんだと、自分に言い聞かせた。

 

 帯広の実家で年越しして、名古屋に戻ってきた翌日の午後、葵から下宿に電話が入った。すぐに栄まで出てこれないかと言う。僕は、いつもの四人が集まるものだと思って、バスに乗って栄まで出かけた。

 教えられたパブスナックに入っていくと、葵一人だけが、窓際のテーブル席に腰を下ろしていた。意外な展開に、すこし戸惑いながら、葵の向かいに腰を下ろした。

「他のみんなは?」

「タカオくんも明日香も、用事があって出てこれないんだって」と、投げやりな口調で答える。

「ふうん、そうなんだ」

「みんなが集まらないと、つまらない?」

「べつに、そういうことじゃないけど、ちょっと予想外だったからさ」と、わざと何気ない口調で答えながら、目の前の葵を見た。

 背中のあたりまで伸びていた髪が、ボブカットふうに短く切り揃えられ、葵のほっそりした顔つきにとてもよく似合ってた。

「みんなの都合が合う別の日に招集をかければ良かったのに」

「私は、なんとしても今日、飲みたかったの」

「わかったよ。じゃあ、僕でよかったら、とことんつきあってあげる」

 内心、葵と二人だけでデートできることが嬉しかった。だって、それは心の底で強く願ってきたことだから。でも、はしゃぎたくなる気持ちを、僕はじっと抑えた。

 二月に控えてる試験週間の話をしていた時、葵が、不意に訊いてきた。

「ねえ、大原くんに好きな人なんているの?」

 不意打ちのような質問に、いささか驚いた。

「……うん、まあ、いるよ。もちろん一方的な片想いだけど」

 ドギマギしながら、なんとか答えた。

「その子に、告白しないの?」

「たぶん、告白しないと思う。告白してもフラれるのがわかってるから」

「そんなの、言ってみなくちゃわからないでしょ?」

「それは確かにわからないさ。でもたぶんフラれると思う。相手の子は美人だし、男の子からも人気があるんだ」

「へえ、そうなの……?」と、僕を馬鹿にしたような目で見る。     

「じゃあ、君はどうなの? 好きな人は、いるのかい?」

 話題を変えたかったし、ちょうどいいチャンスだと思って訊いてみた。

「いたわよ。でも、さっき別れてきた」

「へえ?」と、それしか言えなかった。

「高校時代の一年先輩。野球部のキャプテンだった人。今、南山大学の四年生で、三年ほどつきあってたの」

「ふうん」

「彼、大学卒業したら、東京に就職しちゃうの。それで、もう別れようってことになった」

「だったら一年後に、君も東京に就職すればいいじゃない?」と、とりあえずアドバイスめいたことを進言してみた。

「私も、そうするって言ったんだけど、遠距離恋愛は、お互い辛くなるから、ここで思い切って別れようって言われた」

 葵は、ジョッキのビールを勢いよく呷った。

「あのね、大原くん、好きな人がいるんなら、ちゃんと告白すべきだと思うわ」

 葵が、怒ったような口調で呟く。

「だいたい私、告白しないでウジウジしてる男って嫌いなのよね」

 横目で葵をうかがうと、酔いのせいで目の焦点が合っていない。それなのに口調だけが、ますます勢いづいていく。

「……わかった、じゃあ、そのうち告白するよ」

 仕方なく、そう答えた時だった。

「ねえ、私、ダメ。吐きそう」

 突然、葵は口許を両手で押さえると、あわててトイレへ駆けていった。

 結局、その夜、僕は葵を地下鉄で送っていくことになった。

 電車の振動に揺られながら、葵はずっと僕の肩に頭をもたせかけて眠っていた。

 酒臭い息の匂いにまじって、柑橘系の甘い香りが、葵の首筋からほのかに漂ってきた。

 僕に寄りかかって眠っている葵が、僕の恋人だったら、どんなに素敵なんだろう。そんなことを、しみじみと思った。

 

 春休みが終わり、四年生になった。

 受講しなくてはならない演習や講義の数がが一気に減った。大学へは週に二、三日も顔を出せばよくなり、四人が以前のように頻繁に集まることもなくなった。

 でも、ゼミの終わった後だけは、いつもの喫茶店に席を移し、二時間くらい雑談で盛り上がった。

 五月に入って、不意にタカオが僕の下宿にやってきた。

 僕らは床に寝ころんで、卒論や就職のことなんかを、思いつくまま喋った。

 そうこうするうち、話が、明日香と葵のことへと移っていった。

「なあ、大原。正直なところ、お前は葵と明日香のこと、どう思ってるんだよ?」

「どう思うって、二人ともいい子だと思うよ。個性や性格は正反対だけど」

「お前の答ってさ、優等生すぎてつまんないんだ。ここは男としての本音で話そうぜ」と、タカオは僕を小馬鹿にする口調で呟いた。

「明日香は、まあ顔は十人並みってところかな。スタイルも、まあまあ平均的だけど、あの大きい胸だけは魅力的だな。それに世話好きだし、気持ちも優しいから結婚相手としては最高だ。明日香と結婚する男って、幸せな家庭を作れると思うぞ。

 葵は、好みの違いはあるかもしれないが、美人には間違いない。スタイルだって申し分ない。ほっそりした体のわりに、オッパイやお尻も大きいしな。たださ、アイツって気が強いし、自由奔放だろう。まあ美人だから、それも許せるって言えば許せるんだけどさ。お前、アイツのこと、どう思う? 好きか?」

「葵みたいに、何でもハッキリ言う子って、僕は嫌いじゃないよ」

「じゃあ、ずばり訊くけどよ、お前は明日香と葵のどっちが好みだ?」

 答えかけたところで、言葉が止まった。タカオに自分の気持ちを打ち明けるのに躊躇があった。理由はよくわからないけど、どこか警戒心が働いた。

「……二人とも、それぞれ良さがあるしさ、どっちか一人なんて決められないよ」

「なんだ、つまんないな。オレは、はっきりしてる。恋人にするんなら葵だ。一緒にいて退屈しないと思うし。ベッドの方だって激しそうだしさ」

 そう言って、タカオは、口の中で小さな笑い声をたてた。

「恋人となると、やっぱりセックスが楽しめる相手じゃないと、つまんないだろう?……おい、ところで、お前って、女とやったこと、あるのか?」

 これも、答えに詰まった。まだ経験がないなんて、ちょっと恥ずかしくて言えなかった。

 タカオは、僕の返答を察知したようだった。

「……やっぱりまだか。そうじゃないかなって、ずっと思ってたんだ」

 しばらくして、タカオが不意に立ち上がった。

「おい、金あるか? 今から、名古屋の駅裏へ遊びに行こうぜ。あすこのヘルスゾーンで、女性の体を実地体験してこよう。オレも久しぶりに出したいしよ」

「いや、いいって。オレは、そんなことでお金、使いたくないし」

「おまえはアホか? お金ってのは、そういうことに使うためにあるんだぞ。つべこべ言わず行こうぜ。それによ、ちゃんと経験つんでおかないと、好きな女とやる時に失敗しちゃうぞ。そんなことになったら、相手に悪いだろ」

「お前一人で行けよ。とにかくオレは行かないから」

 そんな押し問答を十五分ほどつづけたあげく、結局タカオの勢いに押されるまま、僕は駅裏まで出かけることになった。

 僕の初めての相手をしてくれた女性は、二十代前半の小顔の美人で、形のよい胸をしていた。とても明るい女性で、僕らは楽しく話をしながら狭いベッドの上に横になった。でも部屋の蒸し暑さと、初体験という緊張感のせいで行為は失敗に終わった。

 

 卒業後の就職先のことは、最後まで迷った。帯広の親から、せめて北海道には帰ってきてほしいと言われ、当初僕は、故郷の教員採用試験でも受けようかと考えた。でも、他の三人から名古屋に残るようにしつこく誘われ、秋になってから名古屋市内にあるメディア関連の会社を五つほど受験することにした。

 片想いは叶わないとわかっていたが、やっぱり葵に未練があった。このまま名古屋にいたら、万が一というチャンスが巡ってくるかもしれない。そんな淡い期待があった。

 十月に入り、合格通知をもらった二社のうちの一つに、僕は就職を決めた。

 

 正月休みを帯広の実家で過ごし、名古屋に戻ってきた僕のところに、突然タカオから電話がかかってきた。急で悪いんだけど、すぐに会って話がしたいという。

 待ちあわせの喫茶店に入って、タカオの向かいに腰をおろすなりタカオが口を開いた。

「あのさ、オレ、葵と個人的につきあおうって考えてるんだ。おまえ、いいだろ?」

「えっ?……」。口ごもったまま、何が何だかわからずタカオの顔を見ていた。

「おまえに、いいかって了解を求めるのも変なんだけどよ、とりあえずオレと葵、つきあうことになったから。……ってゆうか、もうオレたち、そういう関係になっちゃってさ」

 そこまで言って、タカオは下卑た笑いを浮かべた。          

「ずっと四人で仲良くやってきたのに、おまえを出し抜いた形になっちゃって悪いと思ってるよ。でも、もちろん四人の仲間関係は、今まで通り大切にするから。まあ、これからもみんなで楽しくやってこうぜ」

 飲みこみの悪い僕にも、ようやく事態の状況が見えてきた。たぶん僕の知らないところで、タカオと葵の関係が進んでいたのだ。そして今、それについての了解を、僕から取り付けようってことらしい。

「ごめん、とにかくそういうことだから、よろしくな」

 そう言って、タカオは、コップの水を、ゴクゴクと旨そうに飲んだ。

「話は、それだけなのかい?」

 しばらくたって、ようやく声を出すことができた。

「ああ、オレの話は、それだけだ」

「わかった、じゃあ、僕は帰る」と言い置いて、すぐに喫茶店から出た。

 街灯に照らされた薄暗い舗道を、何も考えられずに、ただひたすら歩いた。どれくらいの間歩いてたのか、自分でもわからない。

 立ちどまって顔を上げると、街灯の白っぽい光の中を、銀色の曳航を引きながら雨粒が次々と落ちてくるのが見えた。

 不意に、葵の白い裸体とタカオの日に焼けた体が、ベッドの上で絡みあっている映像が頭に浮かんできた。

 とうとう葵を失ってしまったんだ、と僕は思った。そう思った途端、涙が、とめどなく溢れてきた。街灯の光が滲んで見えなくなった。

 

 日がたつにつれて、混乱した気落ちは、少しずつ落ち着いてきた。葵のことも、四人の仲間のことも、多少は冷静に考えられるようになった。

 そもそも四人の関係が、いつまでも続くと勝手に信じ込んでいた自分が愚かだったのだ。それに葵のことにしても、もともと何の行動も起こさなかった自分が悪いのだ。だから自由に恋愛を楽しんでいるタカオや葵には、何の非もない。

 そんなふうに考えているうちに、僕自身の中で、心の整理がついてきた。

 僕は、すぐに帯広の実家に電話をかけた。父親に、とにかく何でもいいから、四月から働ける場所を探してほしいと頼みこんだ。

 父親は、何を今さらという口調だったけど、僕が帰ることは嬉しそうだった。

 

 タカオと会って十日ほどすぎた頃、たまたまキャンパスを歩いていて、明日香とすれ違った。

「今から、みんなで喫茶店に集まろうって話してるの。一緒に行かない?」

 明日香は、いつものように柔らかい笑みを浮かべて僕に近づいてきた。

「悪いけど、ちょっと用事があるんだ。だから僕は、行かない」と、できるだけ感情を押し殺した声で言った。

 明日香は、そんな僕の口調に怪訝そうな顔を浮かべた。

「それから、もう三人とのつきあいはやめることにしたんだ。だから、みんなにも、そう伝えておいてくれないか。……それじゃあ」

 明日香は、何かを言いかけようとした。でも、そんな彼女を無視し、僕はきびすを返した。背中から、「大原くん」と僕を呼ぶ声が聞こえた。でも僕は、それを振り切るようにして歩きつづけた。

 三日ほどして、明日香から、下宿に電話がかかってきた。

「ねえ、大原くん、いったいどうしちゃったのよ?」

「別に、どうもしてないよ。この前、話したとおりさ。もうみんなとのつきあいは、やめることにしたんだ」

「どうして? どうして急につきあいをやめるの? タカオ君と何かトラブルでもあったの?」

「……いや、べつに何もないよ」と答えながら、まだ明日香は、葵とタカオの関係を知らないんだと思った。

「うそ。何かあったんでしょう? はっきり言ってほしいわ。いったい何があったの?」

「……何があったかは、タカオか葵かのどっちかに訊いたらいいよ。きっと詳しく教えてくれるから」

「タカオくんか葵……?」

 電話口で、明日香がしばらく黙り込んだ。

「二人とも、何も言ってないわよ」

「とにかく、二人のどっちかに訊いてくれ。これ以上、僕は話すつもりがないから」

 それだけ言って、僕は受話器を置いた。わけのわからない苛立ちが、胸の中で激しく渦巻いていた。        

 二月に入ってすぐに、葵と明日香から、たてつづけに手紙が届いた。僕は、どっちも開封しないまま、すぐに引き裂いて、ゴミ箱へ投げ捨てた。

 葵にも明日香にもタカオにも、誰にも顔をあわせたくなくて、大学の事務室の了解をもらい、卒業式に出ないまま帯広へと帰った。

    ☆    ☆    ☆

「大学卒業して、一年もしないうちに葵とタカオくんは結婚したの」と、明日香がストローでカフェラテを啜りながら話し始めた。

「多分そうなるだろうと思ってたよ」

「私は、二人の結婚には反対だったんだけどね……だいたい、あんただって悪いのよ」と明日香が口をとがらせる。

「どうして僕が悪いんだよ? 僕は何もしてないよ」

「だから、それが悪いって言ってるのよ。どうして何もしないで、黙って帯広に帰っちゃったのよ?……まあいいわ、この話は後でする。それで、二人の結婚生活っていうのが、これまた悲惨な結末でね」

「悲惨な結末?」

 明日香は、再びカフェラテを啜ると、大きくため息をついた。

「式を挙げて半年もしないうちに子どもが生まれたの。でも、その子、生まれつき病気でね。遺伝子だか染色体の異常だかっていう、そんな重い病気よ」

「それは大変だな」

「ところが、タカオくんったら、赤ちゃんの異常がわかったとたん、それは葵の方の遺伝が原因だとか、急に訳のわかんないこと言い出して、すぐに家を出てっちゃったの。サイテーよ、あの男」

「じゃあ、子どもは、葵一人で育ててるのかい?」

「ええ、もちろんよ。でも、葵一人じゃ無理だし、実家のご両親にも手伝ってもらってるみたいよ。子どもが小さい頃は、何回も手術を受けてたわ。でも、手術を受けたからって完治する病気じゃないみたいだし」

 そこまで一気に喋ると、明日香はふたたび大きなため息をついた。

「苦労してるんだな、葵は」

「そうね。でも彼女、逞しくなったわよ。もう大学時代のような華奢で繊細な女の子じゃないわ。多少のことには挫けない、タフで元気なオバちゃんよ」と言いながら、明日香は楽しそうな笑い声を上げた。

「それで、タカオはどうしてる?」

「誰も、タカオくんのことは話したくないのよ」

「どうして?」

「……彼、自殺しちゃったの」

 とっさに言葉が出てこなかった。相づちも打てなかった。

「原因は?」

「さあ、詳しいことは、私もわからないわ。……彼、葵と別れた翌年に、他の女性と再婚したの。でもその相手とも二年ほどで離婚しちゃった。どうもタカオくんの浮気が原因らしいんだけど。それで、しばらくしてまた別の女性と結婚したって噂も聞いたけど、よくはわからない。彼が自殺したって聞いたのは、その後のことよ」

「女性関係が原因なのかな。それにしても、あいつが、そんなに女にだらしない男だとは思わなかったな。結婚したら、家庭を大事にして、バリバリ働くヤツだと思ってた」

「そうかしら? 私は、そうは思わなかったわ。彼って、表向きは爽やかで豪快なスポーツマンを演じてたけど、人一倍勝ち負けにこだわる神経質な男だったわ。いつも他人と自分を比較したり、人の成功をうらやんだりしてた。そんなみみっちい男よ」

 しばらく二人とも黙り込んだまま時間が過ぎた。

「ねえ、あなた、どうして葵をタカオくんなんかに譲っちゃったのよ? どうして、葵を自分のものにしなかったの?」

「何を言ってるんだよ。そもそも僕なんか、葵の相手にされるような男じゃなかったよ」

「あんたって本当にヌケてるわよね。鈍感もいいとこだわ。たしかに葵って、自由奔放で気ままなところもあったし、男の子にもモテたわ。でもあの子、感受性が強すぎて傷つきやすいところもあった。だからこそ、あなたみたいに思慮深くて、物事をひとつひとつを丁寧に考えて判断できる男の人に惹かれてたのよ。

 あの子、あなたに対して時々シグナルを送ってたでしょう? 私のこと、守ってほしいって。そういう目つきや仕草、あなた気づかなかったの?」

 僕は、ポカンとしたまま明日香の顔を眺めた。

「ったく、あきれちゃうわね」

「ちょっと待ってよ。三年生の冬に、葵から呼び出されたことがあるんだ。あの時、葵は、つきあってた南山大学の先輩にふられたって言ってた。葵は、その男のことがずっと好きだったんじゃないのかい?」

「あなたと葵が二人で飲んだ話は、私も聞いてるわ。葵は、あなたに心惹かれるようになったから、南山の先輩と別れたのよ。そして、自分がフリーになったってことをあなたに伝えるため、わざわざ栄のパブに呼び出したのよ」

「まさか。ウソだろう?……」

 僕は、まだ明日香の言ってることが信じられなかった。

「卒業前の正月、帯広から帰ってきたとき、タカオから今池の喫茶店に呼び出されたんだ。そこで、あいつから、もう葵と個人的につきあってるって言われたんだ」

 僕の言葉を聞いて、明日香が鼻先で小さく笑った。

「大原くん、まだわかってないのね。あなた、まんまとタカオくんに騙されたのよ。タカオくんは、あなたを出し抜いて葵を手に入れるためにウソをついたの。あの頃、葵はタカオ君となんかつきあってなかったわ。

 だから、あなたが何も言わないで四人のグループから抜け出てしまって、葵、ひどく動揺してたのよ。彼女がすっかり落ち込んでる姿は、可哀想で見てられなかったわ。

 それで四月になって、タカオくんから猛烈なアプローチを受けて、なんとなく二人はつきあうようになったの。あなたは北海道に帰っちゃったし、たぶん葵は心のよりどころがほしかったんだと思う。ところが、すぐに子どもができちゃってね。それで、とりあえず籍を入れたってわけ。そういうことなの」

 世界がぐるりと裏返しにされて、別の地点に自分が立ってるような気がした。僕が見てきたのと、まったく違った景色が目の前に広がっていた。

「ねえ大原くん。お願いがあるの。ぜひ葵に会ってあげてほしいの」

 どう答えていいのかわからず、僕はしばらく口を閉じていた。

「彼女、あなたに会えたら、きっと元気になると思う」

 そう言うと、明日香はテーブルの上に、小さく折りたたんだ紙片を置いた。

 その紙片を手にとって開いてみると、葵の住所と電話番号がメモしてあった。

 

 翌朝の九時過ぎ、僕はホテルの窓に立ち、スマホの画面に向かって電話番号を押していた。

「はい、もしもし高野です」

 呼び出し音の後、明日香のおっとりした声が聞こえてきた。

「ああ、僕です、大原です」

「あら、大原くんなの? 昨日はお疲れさま。……ねえ、葵に電話してくれた?」

「うん、そのことで、ちょっと君に話しておきたいことがあるんだけと、今いいかな?」

「ええ、かまわないけど。どうしたの?」

 僕は、一晩じゅう考えた思いを、心の中で反芻しながら、おもむろに口を開いた。

「少し長くなるんだけど、聞いてもらいたいんだ。

 二十年前、大学を卒業して、むこうに帰ってからも、葵のことが忘れられなかった。五年くらいかな、ずっと引きずってた。でも、いつまでも葵の呪縛から逃げられない自分に嫌気がさして、それで職場の女性と思いきって結婚したんだ。じつは、そんなに好きって気持ちはなかったんだけど、彼女と結婚すれば葵のことが忘れられるんじゃないかって、そんな魂胆もあった。それで、思い切って結婚したんだ。

 でも、現実はそんなにたやすくなくてね、やっぱり葵のことはすんなり忘れられなかった。妻の体を抱きながら、葵を抱いてるような気持ちになることもあったりした。そんな自分が、つくづく嫌になることもあったよ。

 ところが、そのうち子どもができたりして、自分の家庭ってものにだんだんと愛着が湧いてきたんだ。まあ、当然と言えば当然の話なんだけどさ。で、今は、息子が中学生で娘は小学生になった。ありきたりなんだけど普通に家族の幸せみたいなものを感じてる。

 そうは言っても、いまだに時々、葵の夢を見るんだ。年に五、六回くらいかな。葵も僕もまだ大学生で、彼女に自分の気持ちを打ち明けようとするのに、見知らぬ男に葵を連れて行かれちゃうんだ。それで、すごく悲しい気持ちになって、いつも目が覚めるんだ。

 もしかしたら、僕は今でも心の奥底では、葵を求めているのかもしれない」

 ため息をひとつついて、いったん僕は口を閉じた。こんな話を打ち明けてる自分は、本当に最低な男だと思った。

 電話口の向こうから、明日香がゆっくりと息を吸うのが聞こえた。きっと彼女も、同じようなことを考えてるのかもしれない。そう思うと、口許に苦笑いが浮かんできた。

「わかったわ、大原くんの言いたいこと。そういった事情では、気軽な気持ちで葵になんか会えないかもね」

「……正直に言えばさ、今すぐ葵に電話をして、彼女の声が聞きたいんだ。二十年後の葵がどんなふうに変わってるのか、自分の目で確かめたい。でも葵に会ってしまったら、自分がどうなるか、自信が持てないんだ」

「ごめんなさい。私、安易な気持ちで大原君に頼んじゃったかもしれないわ」

 二人の間で、しばらく沈黙が続いた。

「大原くんって、そんなに葵のことが好きだったのね」

 僕は口の中で自嘲的に笑った。

「そういうことだから、このまま電話をしないで、帯広に帰ることにする」

「わかったわ。話してくれてありがとう」

「うん。それじゃあ」

 電話が切れた。

 僕は、視線を上げて、目の前に茫漠と広がる薄汚れた街並みを眺めた。

 この街のどこかで、悪戦苦闘しながらであっても、葵はきっと彼女らしく元気に暮らしてるはずだ。

 そんな葵の姿を、僕は心の中で思い浮かべた。