ローリングストーンズなんて好きじゃない

 

「私、ビートルズは好きで、よく聴くんです。でもローリングストーンズって好きになれません。ミック・ジャガーの、あの脂ぎったオオカミ顔を思い浮かべるだけで、ザワザワと鳥肌が立ってきちゃうんです」
 そう言いながら、葵は照れるような笑顔を浮かべた。
 昼休み、学生会館三階にあるワンダーフォーゲルの部室には、僕と葵しかいなかった。僕らは、長テーブルに向かいあって、たわいもない雑談をしていた。
 葵は、入りたての新入部員で、つい一週間前に最初の登山に出かけたばかりだった。一泊二日の山行の間、サブリーダーだった僕は、ずっと葵の面倒をみた。そんなことで、彼女とは、多少うちとけた雰囲気で話ができるようになっていた。
 一年生の彼女は、体つきが小柄で、どこか中学生のような可愛さを漂わせていた。
「それ、わかるよ。僕も昔はたいして聴きもしないで毛嫌いしてた。でも、じっくり聴いてみると、けっこういい曲もあるんだ。たとえばさ……」
 そう言いかけたとき、部室の入り口に立つ人影が見えた。膝丈の短いワンピースを着た佳織だった。
 佳織は、僕と葵の姿に気づくと、ちょっと戸惑うように立ち止まった。でも、すぐに部室に入ってきた。  
「こんにちは!」。葵がイスから立ち上がって元気よく挨拶した。
 佳織は、葵の方に小さく挨拶を返すと、そのままロッカーの前まで進んだ。そして、戸を開けると、手に提げていた袋からホエルブスやペグなどの道具を取り出し、棚に押し込んだ。
 僕は、佳織の様子を眺めながら、イスに座り直した葵に向かって話を続けた。
「『It's Only Rock'n Roll』ってアルバムがあるんだ。その中に入ってる『Time Waits for No One』は、切々と歌い上げる名曲だよ。あれを聴けば、きっとオオカミ顔も好きなれる」
 僕は、わざと声のボリュームを上げ気味に言って、さも可笑しそうに笑った。
「それってホントですか? いくら先輩の話でも、ちょっと信じられませんね」
 佳織は、ロッカーの戸を閉めると、振り向いて僕らのほうを見た。それから口を、わずかに開きかけた。でも、僕と葵の会話の間に入るのを遠慮したのか、何も言わずにそっと口を閉じた。そして、そのまま静かに部室から出て行った。
 僕は、葵と話を続けながらも、横目でじっと佳織の後ろ姿を見ていた。
 じつは、二ヶ月前の春休み、佳織を、大学近くの喫茶店に呼び出して、自分の気持ちを告白したことがあった。
 スタイルがよくて、目鼻立ちのしっかりした佳織のことが、ワンゲル部に入ったときからずっと好きだった。
 彼女は、利発で頭の回転も速く、物言いも、好き嫌いもはっきりしていた。それがまた彼女の魅力だった。
 佳織は、まわりの男子学生からも羨望の眼差しで見られる存在で、彼女に好意を抱いてる男子学生を、僕は五人まで知っていた。
 だから、佳織に告白したって、たぶんフラれるだろうとは覚悟していた。
 もともと僕は、まったく目立つところのない平凡な男子学生だった。もちろんハンサムでもないし、スポーツだって得意ではない。
 ただ佳織とは、ワンゲル部の中で、何でも気軽に話せる親しい間柄だった。だから『もしかして』という期待も、心の中になかったわけじゃない。
 喫茶店で、向かいに座った佳織は、僕の話を最後まで聞いていた。そして、少し間を置いてから、おもむろに口を開いた。
「ごめんなさい。佐伯君が、そんなふうに私のことを見てたなんて、今まで思ったこともなかったの。だから今、何て言ったらいいのか、正直言ってさっぱりわからない。佐伯君って、何でも気軽に話せる相手だし、一緒に話してて楽しいし。でも、こういう言い方しちゃって本当に悪いんだけど、私が心惹かれるタイプじゃないの。だから、これから先も含めて、私があなたに夢中になることってないと思う。そういうことだから、佐伯君の気持ちは受け入れられないわ」
 佳織は、本当に申し訳なさそうに言った。
 一年間の片想いは、その瞬間、あっけなく撃沈した。
 その後、ワンゲル部の活動で、佳織と何度も顔をあわせることはあった。でも、僕らは、もう以前のように軽口を叩きあうことも、冗談を言って笑いあうこともなかった。
 僕らは、必要なことだけ手短に話し、それ以外は、まった言葉を交わさなくなった。
 僕は部室の中でも、登山に出かけた時も、あえて佳織を冷たく無視するような態度をとり続けた。そうすることで、粉微塵に砕けた自分の心を必死に持ちこたえていた。
  昼休みに部室で佳織と顔を合わせた日、下宿に帰った僕は、気持ちが激しく落ち込んでしまった。
 佳織の前で、ことさら葵と楽しそうに話していた自分に嫌悪感を覚えたからだ。
 佳織にフラれた痛手から、もう立ち直ってるんだという姿を、わざと佳織に見せつけようとした自分が浅ましく感じた。
 まだ佳織のことを諦めきれずにいる自分の姿に、さらに気持ちが落ち込んでいった。
 僕は、鬱屈した気持ちを紛らわすため下宿から外に出た。そして二時間あまり、夜の街をあてもなくほっつき歩いた。
 でも、どれだけ歩いても、心が晴れることはなかった。

 

 二回の錬成登山が終わり、夏合宿に向けて本格的な取り組みが始まった。
 ワンゲル全部員が、五つのグループに分かれてパーティを組んだ。六月下旬、鈴鹿山脈と中央アルプスの事前登山に出かけた。
 僕と佳織は、別のパーティに所属することになった。でも、ワンゲル部全体として同じ日程、同じコースで移動していくので、否応なく遠くから佳織の姿を眺めることになる。
 佳織は、テント設営する間も、食事の準備をしてるときも、休憩を取っている間も、いつも同じパーティの男子学生たちに囲まれ、楽しそうに話をしていた。
 どんなに離れていても、佳織の甲高い笑い声だけが、僕の耳に伝わってきた。
 僕は、落ち込みそうになる自分をなんとか励まし、自分のやるべき仕事に黙々と取り組んだ。
 同じパーティに入った葵が、暇になると僕のそばに寄ってきて、色々と話しかけてきた。葵に特別な感情を抱いていたわけではないが、年下の可愛い後輩から好意を寄せられるは、まんざら悪い気がしなかった。
 でも葵と話していても、佳織の時のような心ときめく充実感は少しも得られなかった。
 七月に入り、いよいよ夏合宿へと出発した。夏合宿の目的地は南アルプスの主峰・北岳だ。
 思いもかけず佳織が僕に声をかけてきたのは、登山が始まって四日目のことだった。
 両俣小屋に着き、翌日の北岳登頂を控え、みんな自由に午後の時間を過ごしていた。
 僕は一人で川原のそばに横になっていた。
「ねえ、佐伯くん」。不意に佳織の声が頭上から聞こえた。ドキッとして、あわてて目を開けた。佳織が、僕のすぐ横に立っていた。
「休んでるところ、ごめんなさい。じつは明日のことで訊きたいことがあるの。あなたのパーティは、明日の登り、どんなふうに休憩を取りながら登っていくのかしら。ほら、ウチのパーティにいる一年生のアッキ、極端に体力がないでしょ。だから、リーダーのタケオ君も、どうしようかって迷ってるの」
 両俣小屋から北岳の山頂まで、1200mほどの標高差がある。特に、左俣大滝から稜線上までは急登が続く難路だった。セオリー通りにいけば、五十分歩いて十分休憩というのが原則だ。でも、もっと細かく休憩を取るという方法もある。
「僕らのパーティは、稜線まで一気に登ってしまおうかって考えてる」
「じゃあ、二時間、ずっと休みなしで登り続けるってこと?」
「ああ、休みを取ると、その後もひたすら続く急登が、逆にしんどく感じるんじゃないだろうか。それだったら、ゆっくりとでも休まずに登っていくほうが楽かもしれない。そんなふうに、リーダーと話してるんだ」
 僕の話を聞いて、佳織は、ちょっと思案する表情を浮かべた。
「それも、ひとつのアイディアね。もしかしたら、そっちの方がアッキには辛くないのかもしれないわ」
「たぶん……」
「ありがとう、とても参考になったわ」と言い置いて、佳織は歩きかけた。
 でも二、三歩進んだところで立ち止まると、振り返って僕を見た。
「ねえ、葵ちゃんって、とっても可愛い娘ね。佐伯君、今度はうまくいくんじゃない?」
 僕が言い返そうとする前に、佳織はもう遠くへ歩き去っていた。
 腹立たしさと、淋しさの入り交じった感情が、心の底からじわりと湧いてきた。

 

 北岳から下山して、名古屋に帰ってきた夕方、駅近くの居酒屋で打ち上げが開かれた。
 最初はパーティごとに集まって飲んでいた。でも三十分もしないうちに、それぞれ好き勝手なテーブルへと移動が始まった。
「佐伯先輩、ここ座ってもいいですか?」
 葵が笑顔を浮かべて僕の隣にやってきた。
 僕らは、味噌カツを頬張りながら、夏合宿の感想などを好き勝手に喋った。
 葵は、北岳から大樺沢の雪渓を下りた時の話を何度も繰り返した。
「後ろのカイ君が足を滑らして転ぶたびに、私のお尻を思いっきり蹴っ飛ばすんですよ。少なくとも五回は蹴っ飛ばされました。ぜったい青痣ができてると思います」と、忌々しそうに言ってジョッキのビールを飲んだ。
 葵の話に相づちを打ちながらも、僕は、横目でさりげなく佳織の様子を伺っていた。
 佳織は部屋の入り口近くで、二、三年生の男子メンバーに囲まれて、大笑いしながら話をしていた。
 そのうち「イッキ!イッキ!」の掛け声が手拍子とともに湧いてきて、ジョッキを片手に持った佳織が立ち上がった。掛け声がさらに盛り上がり、それに鼓舞されるようにジョッキを高く掲げると、佳織は勢いよくビールを呷った。飲み終わると、周囲からさらに大きな歓声と拍手が湧き起こった。
 そんなことが、三十分くらいの間に、二、三度繰り返された。
 飲み会は、二時間ほどで終わった。
 僕が、部屋を出て登山靴をはこうとした時、三人ほどの男子と一緒に玄関を出て行く佳織の姿が見えた。完全に酔っ払っていて、体が前後にふらついていた。
 僕が居酒屋の玄関から外に出たのは、その一分ほど後のことだった。
 あたりはすっかり暗くなり、目の前の四車線道路を、ライトを点けた車が激しく行き交っていた。
 僕は、駅に向かってゆっくりと歩き始めた。

 前方遠くに、佳織と一緒に外に出た男子連中が、のんびり歩いている姿が見えた。
 でも、不思議なことに佳織の姿がない。
 そのことが気になりながらも、アルコールの酔いを覚ますつもりで、ゆっくりと駅に向かって歩いた。
 階段を降りて、明るい地下街に入ったところで、もう一度、先を歩いていく連中の姿を確かめた。やっぱり佳織の姿は見えなかった。
 どこかで吐いているのかもしれない。探しに戻ろうか。ふと、そう思った。
 いや、佳織のことなんか放っておけばいいんだ。吐いてたとしても、それは自業自得ってことだ。
 立ち止まって、しばらく迷っていた。
 僕は心を決め、降りたばかりの階段を逆に登り始めた。すれ違う部の連中が、変な顔をして見ている。
「居酒屋に忘れ物をしてきちゃってさ」と言い訳してごまかした。
 居酒屋まで、細い路地裏などを覗き込みながら歩いた。でも、どこにも佳織の姿は見えなかった。
 居酒屋の前でいったん立ち止まった。しばらく考えてから、駅と反対の方へ進んでみることにした。すると、五メートルも進まない細い路地の陰に、しゃがみ込んでいる佳織の姿を見つけた。彼女の足もとには、白っぽい嘔吐物が広がっている。
 僕は、佳織に近づいて行った。
「だいじょうぶかい」
 僕は、かがみ込んで佳織の背中に手を当てると、ゆっくりと上下に動かした。
 佳織は、何度か嘔吐の発作を起こした。でも、口の中からは何も出てこなかった。
「バカだな。おだてられてイッキ飲みなんか何度もするからだよ」と言って、佳織の背中を撫で続けた。
 十分ほど続けているうちに佳織の症状が、少しずつ落ち着いてきた。
「ありがとう。だいぶよくなってきたわ」
 そう言って佳織が、おもむろに立ち上がった。
「歩けるかい?」
 佳織は小さく頷くと、大きなため息をついてから、ゆっくりと歩き始めた。
「ちょっと、はしゃいで飲みすぎちゃったわ」
「そうだよ」
 佳織は、照れたようにフフフと笑う。
「どうして、私がここにいるって分かったの?」
「地下街まで行って、君を捜してまた戻ってきたんだ。でも、途中どこにも見当たらなかった。だから店を通り過ぎてみたんだ。そしたら、すぐに見つけた」
「そうだったの……」
 僕らは、しばらく黙ったまま歩き続けた。
「あのさ、誤解されるのが嫌だから言っとくけど、僕と葵とは何の関係もないからね。同じパーティの後輩だから、面倒をみてるんだ」
「それってホント? 今日の打ち上げだって、葵ちゃんと一緒に座って、仲よさそうに話してたじゃない」
 もう弁解するのも面倒になって、僕は黙ったまま歩いた。
「ねえ、佐伯君、私のワガママ、きいてほしいんだけど、いいかしら?」
「なんだよ?」
「私たちって、また昔のように何でも気軽に話せる友達に戻れないかしら。じつは私、あなたとお喋りしてるのが好きだったの。小説や音楽や映画なんかの話を、気まま話してるのが。あなたと言葉を交わさなくなってから、そのことに改めて気づいたの。……だから、もしあなたが、いいよって言ってくれるんなら、また以前のような関係に戻りたいって思ってる。ただ、あなたが望んでるような恋人関係は無理だと思う。だから『私のワガママ』だって言ってるんだけど」
 話を聞きながら、なんて身勝手な提案なんだろうって思った。佳織に都合のいいことばかりで、僕にメリットなんて少しもない。
 この三ヶ月、僕は心の整理をつけようと、なんとか必死に頑張ってきた。それが、佳織の提案を受け入れてしまうと、また振り出しに戻ることになる。
 でも……佳織とは、何でも気軽に話せる関係に戻りたい。それが僕の正直な気持ちだ。どうしたらいいんだろう。
 迷いながら、心を決めかねていた時、佳織がまた口を開いた。
「ねえ、じつは私もローリングストーンズの『Time Waits for No One』、大好きなの。そのこと、早くあなたに伝えたいなって、ずっと思ってた」
「その曲が入ってるLP、持ってるんだ。今度貸してあげるよ」
「ありがとう」
 その時、ミック・ジャガーが哀切に歌い上げる曲のフレーズが、僕の耳許に聞こえてきた。