貝の哀しみ (標津抒情 1)

 

 煙突なしの丸い石油ストーブの熱気だけで、部屋の中は汗ばむほどに蒸し暑かった。俊夫は、椅子から立ち上がり、ストーブの火を消した。
 夕暮れ間近のオレンジ色の陽が、窓から斜めに射していたが、それは明るいというほどではなく、机の上の卓上スタンドの周りだけが、白く浮かび上がって見えた。
 俊夫は、もう一度椅子に座り、便箋に二枚半ほど書きかけた手紙を読み返した。そして、自分の気持ちを、便箋に何枚書こうが何十枚書こうが、美沙はそれを分かってくれることもなければ、ましてや北海道にやって来ることもないだろうと思った。それも、こんな標津という北海道の地の果てまでは…。
 俊夫は、胸の中に重苦しく沈み込んでいく虚しさに、じっと耐えるように、窓の外へ視線を投げかけた。

 三月下旬の北海道には、雪がまだ残っていた。遙かに広がる白銀の雪原の中を、俊夫の乗った列車は、雪煙を舞い上げながら走っていた。そんな車窓の風景を眺めながら、「北海道はまだ冬だったんだ」と俊夫は改めて感じた。
 東京の大学を卒業し、北海道で中学校の教員として働くことも決まり、とりあえず帯広の親許へと、俊夫は向かっていた。
 東京では、もうすぐ桜が咲こうというのに、この北海道はなんと寒い土地なんだろう。まるでシベリアの収容所へと強制的に送られてきた囚人のようだと、俊夫は列車の振動に揺られながら思った。この北海道が、自分の生まれ育った故郷の地であるという愛着心や懐かしさは全く感じられず、東京から遠く離れてきてしまった淋しさだけが、俊夫の心を締めつけていた。大学を卒業するまで、自立への自信や意欲が持てないまま、ただ教員採用試験に合格したというそれだけの理由で、北海道に帰ってきてしまった自分が、みじめで情けなかった。
 上野駅に見送りに来なかった美沙のことを想うと、なおいっそう甘酸っぱく、やるせない後悔に、胸が引き裂かれるようだった。

「俺、北海道に帰って、中学校の先生やることにするよ」と、俊夫が決心を美沙に伝えたのは、去年の十一月のことだった。
「私も、北海道に行っちゃおうかな」などと、少し悪戯っぽそうに瞳を動かしながら、冗談めかして美沙は相槌を打っていた。
 でも、俊夫が「俺といっしょに、北海道へ行かないか」と真面目に誘いかけても、決して美沙は「行くわ」とは答えなかった。「だって北海道の冬って長いんでしょう。私、寒いの苦手なのよねえ」といった調子で、本心から話をしようとはしなかった。
 そんな美沙のとらえどころのない点が、俊夫にとっては心惹かれる不思議な魅力のひとつだった。掴んだと思ったその瞬間、指の間からするりと逃げ出している。追いかけても追いかけても、美沙の心まで達することができない。そんなもどかしい気持ちを抱いたまま、美沙の我が儘な面をも含む彼女の全てを愛してあげようと願いながら、これまでつき合ってきたのだった。
 雑誌の編集をすることが、以前からの美沙の夢だったが、年が明けても望むような就職先は決まらないようだった。そんな美沙の様子を、俊夫は、可哀想だと感じながら、でも北海道に一緒に来てくれるのではないかという淡い期待で見守っていたのだった。
 美沙が急に俊夫を避けるようになったのは、二月に入ってからのことだった。俊夫が何度電話をかけて呼び出そうとしても、別な用事があるからと、会おうとはしなくなった。
 東京を離れる日が近づいてきて、あせる気持ちの俊夫が、半ば強引に美沙を喫茶店に呼び出したのは、すでに三月も中旬のことだった。いざ会ってみると、すでに美沙の表情から以前のような温かさや優しさは感じられず、まるで能面と向かい合っているように俊夫には思えた。見知らぬ他人のように押し黙っている美沙と向かい合いながら、俊夫の中で熱く燃えていたものが、見る見るうちに消え去るように萎んでいった。そして、狂おしいあきらめだけが、燃えかすのように心の中に残った。
 俊夫は、美沙と二人で楽しい時を過ごして来られたことに対し、言葉少なに感謝の気持ちを伝えた。そして、あまりに深い空しさに、それ以上話す言葉を見つけることができなかった。
 それまで黙りこくっていた美沙が、突然しゃくりあげるようにして、
「あなたって、本当に自分勝手なエゴイストよね」と涙を流し始めた。
 そして、そのまま何も言わずに喫茶店から出て行ってしまった。俯き加減で、最後の気力を振り絞るようにして歩き去る美沙の後ろ姿を眺めながら、なす術もなく、ただ茫然と俊夫は椅子に座っているだけだった。
 東京を発つ前の夜、俊夫は美沙の家に電話を入れ、上野を出発する時間と、列車名を伝えた。
 美沙は、「そう、さようなら」と答えただけだった。
 上野を夜の十時過ぎに発つ寝台特急に、俊夫は乗ることになっていた。美沙が見送りに来てくれるのではないかと、出発を告げるベルの音が止むまで、俊夫はホームに立って、遠く人波を眺めていた。でも、ついに美沙の姿を見つけることはできなかった。
 軽い振動とともに、列車は動き始めた。間もなくホームの明るさが途切れ、列車は都会の暗闇の底へと滑り込んで行った。

 気がつくと、部屋の中はひんやりと肌寒いくらいになっていた。火を点けようかと椅子から立ち上がってから、俊夫は思い直して、ジャケットを着こみ、部屋を出た。板張りの廊下は、歩を進めるたびに、ぎいぎいと軋んだ音を鳴り上げた。
 俊夫が住むことになった独身寮は、二十年以上も経つと思われる古い建物だった。壁のあちこちには茶色いまだら模様のしみが広がり、表面がでこぼこにへこんでいた。床の傷も激しく、俊夫の部屋の畳は隙間だらけで、部屋全体が北側にやや傾斜していた。
 寮の玄関を出ようとしたとき、俊夫の背中に、しわがれ声がかけられた。
「買い物に行くんかいのお」
 七十近い寮母さんだ。玄関脇の部屋に、腰が大きく曲がった爺さんと二人で住んでいる。深い皺だらけの顔で、ちょっと見には笑っているようだが、話してみると、そんな様子でもない。皺のせいで、そう見えるだけなのだ。
「ええ」
 俊夫は、半ば振り向き加減のまま、気のない返事をした。「今日は日曜だからねえ。晩メシ、作らんことになっとるからねえ。まあ、よろしゅう頼むわ」
「はい、わかってます」
「町でさあ、なんぞうまいもんでも喰ってきてちょうだいねえ」
「そうします」
 まだ何か喋りたそうなそぶりを無視するように、俊夫は玄関の戸を開けて外に出た。
 瞬間、凍りつくほどに冷たい風が、俊夫の体を包み込んだ。深く息を吸い込むと、冷気が喉を通って胸の奥まで入ってくるのが感じられる。
 空は、夕暮れ間近の、うすい藍色に沈んでいた。淡いオレンジ色の太陽は、遙か地平線の彼方に、まるで静止したように浮かんでいる。
 寮の玄関から、舗装道路までの三十メートルばかり、雪解け水でぬかるんだ道を歩く。
 道の傍らには、泥と見分けられないほどに薄汚れた雪の塊があちこちに散らばっていた。夏には畑として使われているらしく、雪と泥に混じって、何か植物の太い茎のようなものも転がっていた。
 俊夫は、シューズを濡らさないように、水たまりを避けながら、ゆっくりと歩いた。
 公民館の十字路を曲がり、神社の脇を通り過ぎ、二、三分ほどで町の大通りに着く。食料品店、衣料品店、雑貨屋などが通りの両側に何軒か立ち並ぶだけの寂しい中心街だ。東京から来たばかりの俊夫の目には、僻地のうらさびれた集落としか映らない。自動車で走ると、ほんの数分で通り過ぎてしまう小さな漁師町にすぎない。
 ここ標津は、シベリアから吹き降ろしてくる冷気の底に、一年中うずくまっている小さな漁村だ。人も家も、みんな心細げだ。太陽の光さえ、この地には十分に届かないような気がする。そして僕は、この地の果てで、これからずっと生活していくんだ。東京にいる美沙のことを、来る日も来る日も想い焦がれながら…
 俊夫は、雑貨屋に入り、すぐ生活に必要な物をいくつか買った。それから、その店を出て、どこか食堂でも探そうと歩き始めた時のことだった。白い自動車が俊夫の脇を走りすぎ、ウィンカーも出さずに急ブレーキをかけて十メートルほど先で止まった。助手席のウィンドウがするすると下がり、無精髭を生やした顔が現れる。
「先生、岡田先生……」
 瞬間、誰を呼んでいるんだろうかと、軽い戸惑いがあった。岡田という名前を聞いて、やや暫くしてから、自分が呼ばれているんだと理解できた。これから自分は、先生付けで呼ばれるんだなと納得しながら、俊夫は自動車に向かって歩いた。
 俊夫を呼んでいたのは、同じ中学校の数学教諭で、原田という三十過ぎの男だった。
 つい前日、中学校に挨拶に行ったばかりで、俊夫は、その原田という教員とも、ほんの少ししか言葉を交わしていなかった。
「いやあ、大変だねえ、買い物かい」
「ええ、ちょっと……」 
「引っ越してきたばかりだから、色々と足りない物もあるだろうからね。これから、まだ買い物かい」
「いえ、どこか食堂で夕食でも食べようかなと思って」
「ああ、そうか。今日は日曜日だから、寮は食事が出ないんだ。そうだ先生、ウチに来て、晩飯食べないかい」
「いいですよ、そんな」
「たいしておかずもないけどさ、そんな遠慮しなくてもいいよ。まあ、車に乗んなや」
 原田の開けたドアから、俊夫は買い物袋を胸に抱えて、助手席にすべりこんだ。
「どうだい、標津は。まあ東京みたいな大都会から比べたら、ずっと田舎だし、かなり寒いかもしんないけど、それもじきに慣れるさ。住みなれたら、いいとこだから。食べ物もずっとうまいしさ、とくに魚介類は、獲りたての新鮮なやつが食べられるからねえ。これが、東京じゃ、そういう訳にはいかんでしょう」
「それは、そうですね」
「特にホタテの獲りたてはねえ、舌にのせると、トロリと溶けるような感じがするんだよ。これは、もう最高だねえ」「ああ、そうですか」
 相槌をうちながらも、俊夫の心は、なんとなく空白だった。原田の話す話題には、特に関心が持てなかった。
「そうだ、岡田先生、まだ来たばかりだから、このあたりのことはよく知らんでしょう。ちょっと案内したげるよ」
 自動車はUターンすると、北に向かって走り始めた。原田は俊夫に向かって、これが役場、あれが漁協の事務所、こちらが水産加工場と、道路脇の建物をあれこれ説明してくれた。
 まもなく市街地が途切れ、雪に覆われた平野をしばらく走ってから、自動車は羅臼へと向かう海岸道路に入った。
「このあたりはね。ずっとウチの中学校の校区。あと三十分ほど行くと、今度は薫別って町があってね、そこには小中併置の学校があるんだ」
 小さな漁村を通り抜け、あとは崖づたいに、低い灌木の間を曲がりくねった道が続いていた。道路の右手眼下には茫洋と広がるオホーツク海、左手には白銀の雪に覆われた知床山脈が、遥か天の彼方へと盛り上がるように連なっている。
「いやあ、今日は海がきれいだ」
 右手下に眺められる海面は波ひとつなく、まるで鏡のように静止していた。遥か沖合の、空と海が接するあたりには、白い流氷が不連続な線を作って横に並んでいた。空は、上にのぼるにしたがって、藍色から青色、紫色、ピンク色、淡いオレンジ色へと輪郭をぼかしたルノアールの油絵のような色彩となって、虚空を染めあげている。鏡となった海面も、藍色からオレンジ色へと変貌する色彩に染められている。白い流氷線を線対称とした夢幻の世界が、俊夫の視界いっぱいに広がり、秒刻みに変化していた。
 ふと、東京の美紗のことを想う。
 言いしれぬ哀しみが凝縮して一滴のしずくとなり、夢幻の鏡となった心の表面に、ポツンと波紋を広げて落ちてくるような気がした。

 標津の町に戻ってくるころには、すでに陽も沈み、あたりは暗闇の底にひっそりと静まりかえっていた。
 通りの商店街は閉められ、水銀灯の白い光だけが道路の両側に続き、薄汚れた町並みをぼんやりと浮かび上がらせている。路上に人の気配はなく、まるで死の町のように、俊夫には感じられた。
 自動車は、中学校の横を過ぎ、町営住宅団地の中へと入っていった。
「さあ、着いたよ」
 俊夫は、原田に誘われるままに、ブロック住宅の玄関に入った。
「おーい、お客さん連れてきたよう!」
という原田の声に、家の奥から、二十代後半と思われる女性が、エプロンを両手で拭きながら顔を出した。色白で、ほっそりと痩せている。
 その顎のとがった顔の輪郭が、美紗に似ていると俊夫は思った。でも脂気のない髪を頭の後ろで無造作に束ねた様子が、いかにも所帯じみた印象を与えていた。
「今度、ウチの中学校にきた岡田先生って言うんだ。新卒のばりばりだよ」
「あら、そうですか。さあ、どうぞ中に入って下さい」
 俊夫は軽く会釈してから、靴を脱いだ。
「いやねえ、町でばったり会ったちゃってさ、ちょっと薫別の方まで車で案内してきたんだよ。それで、今日は日曜日だから、ほら、寮では飯が出ないだろう。それで家に連れてきたんだ」
 三、四歳の男の子が小さな鋼鉄製のおもちゃを片手に掲げ、原田に向かって駆け寄ってきた。
「ブウーン、ガガガガ、バキーン。おとうちゃん、ガンダムだぞう、ぶうーん」
「そうかそうか、ガンダムかあ」
 原田は、その子の頭を撫でながら、居間へと歩いていった。
 俊夫は、こんな和やかな家庭の団欒に混じるのが、今の自分にはふさわしくないと思った。どこか、うら寂しい食堂の片隅で、古雑誌をめくりながらラーメンでも啜るのが、今の自分らしいと思った。
 そう思いながらも、こんな寂しい漁師町に、暖かな家庭の雰囲気があることに、眩しいような心安まる感慨を味わっていた。
 俊夫は、言われるままに、テレビの前の座布団に座った。部屋のあちこちに散乱しているおもちゃを、原田の妻が、あわてて片付けていた。
「おい、すぐビール出してよ」
 原田の妻は、おもちゃを段ボール箱に入れると、すぐに台所からビールを二本運んできた。
「大学では、何を勉強なさっていたんですか」と、原田の妻が、俊夫のコップにビールを注ぎながら聞いた。
「フランス語です」
「あらあ、フランス語ですか、すごいですねえ。それじゃ、フランス語、話せるんでしょ」
「いや、少ししか話せません」
 フランス人と何でも話せるほどになっていたら、今ごろ東京の大企業に勤めている。こんな北海道の片隅で、中学校の教員なんかになりはしないと俊夫は思う。大学の勉強においても、女性のことでも、自分は敗残者だ。
「でも、大学でフランス語を専攻なさってきたんでしたら、中学校では何を教えるんですの」
「英語を教えます。英語科関係の単位も取っておいたので、一応英語の免許もあるんです」
「努力家なのね、先生は」
 そうじゃない、と俊夫は思う。教員の免許だけは取っておいた方がよいという親の言葉に、ただ従ったまでのことだ。大学の単位なんて、真面目に授業に出なくても、レポートを出したり、試験だけでも受けておけば、だいたいは取れるものだ。
 それに俊夫の場合、英語の教師をめざして、これまで勉強してきた訳でもなかった。教員の免許を取り、たまたま教員採用試験に合格したから、この仕事に就いたようなものだ。中学生に英語を教えようなどと、かつて一度も考えたことなどなかった。
 はたして、これから中学生相手に、英語の教師として、英語を教えていけるのかどうか、俊夫には全く自信がなかった。
「岡田先生、俺たちは中学校の教員としてね、英語だとか数学という教科を、生徒達に教えていかなくちゃならないよね。でもこれは、教員として最低限やらなくてはいけない仕事だしさ、とにかくそれを一生懸命教えていくことで、生徒の信頼も得ていくと思うんだよね」
「はい」
「でもねえ、じき分かることだけどさあ、教科の指導なんて、教員の仕事全体から見るとね、せいぜい五割くらいなもんだよ。学級担任を持ったら四十何人の生活のめんどうを見なくちゃいけない。部活の指導に、生徒会活動の指導もあるでしょう。マラソン大会だ、バス学習だ、やれ体育祭だ、文化祭だと、まあ行事の合間をぬって授業をしているようなもんだね。いやホント」
「そんなに忙しいんですか」
「だけどもね、実は、その授業以外のところが、教師と生徒が本当にふれあっていく場所なんだよね。奴らは、ウチらが口先で言うことなんて、実はたいして信用なんかしていないんだよね。ところがね、我々教員が、どんな風に行動しているか、これはよく観察しているよ。言うことと、やっていることが違っているなんていう点は、実に細かいところまでね。だからさ、とにかく生徒には体全体でぶつかっていく、これしかないねえ。まあ初めは大変かもしんないけどさ、そのうち楽しさもわかってくるよ。さあ、先生、どんどん飲みなよ」
「ええ」
 ビールのコップを口許に運びながら、つい十日ほど前までは、自分が「学生」として教授連中を見上げていたのが、今では「先生」として生徒から見上げられる立場に変わってしまったことに、未だ実感として納得できない戸惑いを感じていた。そして、美紗を中心にして動いていた東京の生活が、完全に過去のものとして絶たれてしまった今、どこに身を委ねてよいか分からない不安を感じていた。
 原田の子が、俊夫の脇にすり寄ってくると、
「これ、あげる」
と小さな手で、俊夫に一枚の貝殻を差し出した。
「あっはっはあ、このチビねえ、新しいお客さんが来ると、浜で拾ってきた貝殻を必ずプレゼントするんだよねえ。こいつの趣味だね、こりゃあ」
 掌に載せてみると、淡いピンク色の二枚貝の片われだった。海辺でよく見かける、何の変哲もない貝だ。裏返しにしてみる。白く乾いた表面が、濡れたような赤や青に染まり、玉虫色に輝いていた。
「どうもありがとう」
 そう子どもに言い、俊夫は貝殻をズボンのポケットに入れた。子どもは、少し照れたように微笑んでから、原田の膝に座った。
 原田の妻が、次から次へと出してくる料理をつまみ、ビールを飲み、原田の教育談義を聞いているうちに夜の九時を過ぎた。
 原田の子どもが、俊夫と原田に向かって「おやすみなさい」と挨拶をして隣室にはいったのを機に、俊夫も原田の家を辞することにした。

 外に出ると、濃い霧がながれていて、点在する街路灯の明かりが、ぼんやりと滲んで見えた。
 車も人気もない道路を、俊夫は畑に沿って歩いた。深い静けさの中で、俊夫の乾いた足音だけが響いた。
 夜気は、耳や鼻が痺れるほどに冷たかったが、火照った顔にはかえって快かった。俊夫は、酔いを醒ますように、大きく深呼吸しながら、ゆっくりと寮に向かって歩いた。
 街路灯のない薄暗い街区を過ぎ、寮へと曲がる十字路まで来て、俊夫は立ち止まった。静かに耳を澄ますと、遥か暗闇の彼方から、微かに海鳴りのさざめきが、谺するように響いてくる。
 俊夫は、急に美紗の声が聴きたくなった。なぜかは分からないが、この泣きたいようなやるせない気分に、狂おしいほど美紗の声を聴きたいと思った。
 公民館の前に電話ボックスがあったような気がして、俊夫はポケットの中を探ってみた。百円玉と十円玉が何個か出てきた。これだけあれば二、三分くらいは東京と話ができるだろう。俊夫は、十字路を真っすぐに歩き始めた。
 思っていた通り公民館の正面に電話ボックスはあった。ドアの前で立ち止まり、電話をかけようかどうしようかと、俊夫は少しためらった。
 今さら、美紗に電話をすることに、何の意味があるんだろう。お互いに、傷つけ傷つけられて別れてきた相手である。それに、北海道と東京の距離だ。電話の声など、今の二人にとって何の役にも立ちはしない。それよりも、癒えようとしかけている恋の傷口を、改めて裂くようなものだ。そして結局は、今よりも、なおいっそう辛く寂しい気分にさせられるだけのことだ。
 そうとは知りつつ、それでも俊夫は美紗の声が聴きたかった。
 俊夫は電話ボックスの中に入り、受話器を手に取った。03を押してから、いつものように美紗の家の番号をかけた。呼び出し音が鳴ると、すぐに声が通じた。
「はい、里山でございます」
 美紗の母親の声らしかった。
「もしもし、岡田といいますが、美紗さんはいらっしゃいますか」
「あら、美紗ですか。今は家にいませんの。何とかいう男の方と会ってくると言って、夕方に出てったきり、まだ帰ってきてませんの」
「そうですか……」
「もうじき帰ってくるとは思うんですけどね。何か伝えておきましょうか」
「いえ、結構です。どうも失礼しました」
「いいえ、どうもごめんください…」
 俊夫は受話器を置いた。
 誰と会っているんだろう。俺の知っている男と会っているんだろうか、戸電話ボックスのドアを押しながら、俊夫は思った。俺の知っている男でも、そうでなくても、もう俺とは何の関係もないんだと自分に言い聞かせながら、ひりひりと焼けつくような嫉妬の感情が、胸の中へこみ上げてくるのを俊夫は感じていた。そして、自分だけが、遠く時の流れから置き去りにされてしまった侘びしさに、慟哭したいような気持ちにかられていた。
 俊夫は、狂おしく叫び上げたくなる心を抑えながら、暗闇の底を静かに歩いて寮に戻った。
 部屋のドアを開ける。蛍光灯を点け、石油ストーブの点火スイッチを押す。赤い炎が、丸い輪をつくって、ゆらゆら燃えあがる。
 ジャケットも脱がず、俊夫はストーブの覗き窓から、じっと炎の揺れる様子を凝視めていた。
 机の上の書きかけの手紙が、ふと目にとまる。手に取って、初めから読み返してみる。
 文字を負いながら、電話口での「何とかいう男の方と会ってくると言って」という母親の声が思い出されてくる。
 自分の見知らぬ男と、笑い声を弾ませながら、酒を飲んでいる美紗の姿が、脳裏に浮かんで、消えた。
 俊夫は、便箋を真ん中から二つに切り裂くと、棒のようにねじって、部屋の隅のくずかごへ放り投げた。
 この標津にいて、美紗のことを想い続けることは苦痛以外の何ものでもない。早く美紗のことは忘れてしまおう。もう電話も手紙もやめよう、と自分に言い聞かせながら椅子に座ろうとした時、畳の上に、何かが落ちた。
 拾ってみると、それは原田の子が俊夫にくれた貝殻だった。
 玉虫色に輝く白い貝殻の表面を、人差し指で撫でながら、もう片方の貝殻を失った貝の哀しみが、俊夫には分かるような気がした。