人を焼く

 腹が減っていた。
 いや、腹が減ってるなんてもんじゃない。腹が減りすぎていて、動くのも、喋るのも面倒なくらいだ。小便や大便をしに、林の奥へ歩いていくのも億劫だった。
  朝、昼、晩の三食に配給される食べ物といえば、サツマイモの小片が二、三個と、米粒がわずかに浮かんでいるお粥だけだ。それも、貰える量は、飯ごうの半分もない。二口か三口も啜ると、あっけなく胃の中に消えてしまう。
 飯ごうの底にくっついてる、半分ほど溶けかかった米粒まできれいに啜っても、満腹感なんて何もない。かえって、食べる前以上の飢餓感に、じわじわと苛まされてしまう。食後三十分ほど、決まって胃のあたりが、もの悲しくシクシクと痛んだ。
 こんな食事統制が、沖縄本島の玉砕した後、もう二ヶ月以上も続いていた。
 初年兵の小島章太郎は、しばらく飯ごうの底をじっと見つめた後、それを横に置いて、小さくため息を漏らした。
 章太郎の所属する歩兵砲分隊は、宮古島北部の海岸に面する小山の地下を縦横に巡る穴掘りの作業に従事していた。穴といっても大砲を引っ張って歩ける、縦横一間半くらいの大きさのトンネルである。
「おい、こんなシケた飯くらいじゃ、もう一寸だって、穴なんて掘れねえぞ」と、古参兵の阿部が、吐き捨てるように言った。
 一瞬、同じ場所で食事をしていた班の雰囲気が気まずい沈黙に包まれる。他の兵隊で、阿部の言葉に相槌を打つ者はいない。でも、みんなの心の中は似たりよったりだ。
 章太郎は、できるだけ阿部とは視線を合わせないようにしながら、ゆっくりとした動作で、地面に仰向けに横になった。
 愚痴っても、飯の量は増えないし、穴掘りの仕事がなくなるわけではない。アメリカとの戦争が終わらない限り、食事も、作業も、この状態がずっと続く。今は、愚痴をじっと腹の底に押し殺したまま、少ない量の食べ物を胃に流し込み、ふらつく体で穴掘りの作業に耐えるしかない。余計な心配をしたって、疲れるだけのことだ。
「だいたい、沖縄が玉砕して、次は、この宮古島が狙われてるって噂じゃねえか。そうだってえのに、なんで、こんなしけた量の飯しか俺たちに喰わせないんだ? 米軍が上陸してきたら、こんな弱った体で、敵と戦えると思ってるのか?」
 阿部の愚痴は、誰かに向かってという訳ではない。とりあえず悪態をつきたいだけのことなのだ。昼休みが終われば、奴もあきらめ顔に戻って、また穴掘りの仕事に戻る。
「ああ、ボタモチが喰いてえぁ。お袋が作ったボタモチ、たった一個でいいからよお。そしたら、米軍の奴らがどんだけやって来たって、命を賭けて戦ってみせっからよ」
 阿部の言葉に、班のあちこちから失笑が漏れた。章太郎も、無意識のうちに口の中で小さく笑っていた。
  お袋の作ったボタモチか、旨いべなあ。小豆色の塊が脳裏に浮かんできた途端、口の中に唾液が溜まってきた。
 そんな思いに囚われていた時、遠くから甲高い空襲警報のサイレンが聞こえてきた。
「おい、たき火を消せ!」誰かが怒鳴った。
 火や煙は、敵機の攻撃の標的になりやすい。
 章太郎は、あわててトンネルの入り口に立てかけてあったスコップを小走りに取ってきて、たき火の上に土塊を放り投げた。紫色の煙を上げながら、火が消えていく。その上から、他の兵士が何度も燠火を踏んでいた。
「さあ、これでよし。穴に隠れるぞ」と、班長が大声でどなった。
 章太郎は、スコップを持ったまま、人の後に続いてトンネルの中へと駈けていった。
 入り口から十間あたりの場所まで行って、他の兵と一緒に地面に腰を下ろす。
 どうせ、宮古島の上空を通り過ぎていくだけのグラマン機だ。
 沖縄本島が米軍に落ちてから、決まって朝と夕の二回、島の上を飛んでいくようになった。台湾に空襲をかけているんだという話だった。宮古島が目的地ではないが、通りすがりに機銃掃射や、残った爆弾を気まぐれに落としていく。
 それにしても、こんな昼下がりに敵機が現れるなんて珍しい。
 トンネルの入り口から、グラマン機特有の低いエンジン音が聞こえてきた。そんなに沢山じゃない。せいぜい五機か六機くらいだろう。遠くから、爆弾の爆裂音が響いてきた。一つ、二つ、三つ。
 爆裂音は、それだけで終わった。エンジン音も、だんだんと遠ざかっていく。通りすがりの立ち小便のつもりなのかもしれない。
「さあて、眠気も吹っ飛んだし、また穴掘りに戻るか……」と、班長の男が面倒くさそうに呟いた。
 章太郎は、ひとつため息を漏らしてから、おもむろに立ち上がった。ああ、腹が減ったと、心の中で独りごちた。

「おい、この中に、オンボ焼きの経験者はいるか?」 
  歩兵砲分隊の兵士全員が招集をかけられた場所で、隊長の浅野が、三十名余の列をゆっくりと見渡した。
「はいっ!」と、章太郎は、威勢よく返事をしながら右手を高く掲げた。 
  しまった! その直後、章太郎は、自分の馬鹿正直さを悔いていた。彼以外に、誰も手を上げている者がいなかったからだ。
「よしっ! 小島。お前を、オンボ焼き班の班長に任命する。手伝いを三、四人使って、佐藤の遺体を焼いてくれ!」
「はいっ!」威勢よく返事をしたものの、自分の間抜けさ加減が忌々しかった。死体を焼く作業よりも、暗いトンネルの奥で穴掘りをしているほうが、まだましかもしれない。それを馬鹿正直に手を上げてしまうなんて。
 解散してから、オンボ焼きの経験が本当にないのか、何人かに訊いて回った。確かにオンボ焼きをしたことがあるのは、章太郎一人だけのようだった。
 分隊の兵士は、ほとんどが内地出身者だ。ただ一人の北海道出で、焼き場も何もないような十勝の瓜幕で生活していた章太郎は、兵隊に来る前に二度ほどオンボ焼きの手伝いをしたことがあった。
 とりあえず気を取り直して、普段から仲のよい四人ほどの兵隊に、手伝ってくれるよう頼み込んだ。
 佐藤という兵隊が死んだのは、前日のことだった。宮古島に来た時から、顔色の悪い病気がちの男だった。それが、最近の食料統制で、すっかり栄養失調状態に陥り、ミイラのように痩せこけてきていた。一週間ほど前からは、体調がすぐれないからと言って、作業も休み、毛布にくるまったまま穴の奥でじっと横になっていたのだった。
 昨日の朝、班の仲間がお粥の入った飯ごうを持って行った時には、ギョロリと見開いた目を暗闇に向けたまま、息をしていなかった。
 形ばかりの葬式は、お寺の住職だったという隣の分隊長にお願いして、お経をあげてもらった。遺体を入れる棺桶は、元大工だった兵隊が手近の材料を使って一時間ばかりで組み立てた。
 章太郎たちのオンボ焼き作業は、焼き場を作るところから始まった。分隊がトンネルを掘ってる小山から四半里ほど離れた平坦な林の中を焼き場に決めた。これだけ離れていたら、人を焼く臭いが、分隊まで届くことはないだろう。スコップや鎌などを使って、灌木や下草を取り除き、ちょっとした空き地を作った。
 一番苦労したのは、マキ作りだった。そもそも死体を焼くには、多量のマキが必要になる。章太郎は、仲間とともにナタやノコギリを持って山の中に入っていった。生木は燃えにくい。本当であれば、乾燥し切った三方六がほしいところだ。章太郎は、できるだけ枯れたような松の古木を探した。
 七月の日差しは強く、三十分も作業をしないうちにダラダラと汗が噴き出してきた。作業は楽ではないが、いつも暗闇の底で穴掘りをしている身には、陽光の下での作業は気持ちがよかった。
 切り出してきたマキを交差させながら二段に組み上げた。その上に棺桶を乗せる。棺桶を囲むように、さらにマキを立てかけた。
 死んでから、まだ一昼夜しかたっていないが、この宮古島の暑さで、遺体の腐敗はかなり進んでいるようだ。棺桶の周囲には、息も詰まるほどの腐臭が濃密に立ち籠めている。
 棺桶の底のマキに火をつけた。
 生乾きのマキは、煙ばかりで、なかなか火勢が強くならない。それでも、棺桶に炎が移ってくると、だんだんと火の勢いがよくなっていった。
 ところが、棺桶が焼け落ちる頃になっても、死体は、まだほとんど燃えていなかった。体内から滲み出てきた油が、下着のシャツに移り、ジリジリと音を立てて燻るだけだ。あらかじめ下着を脱がしておくんだったと後悔した。
  木の枝で棒切れを二、三本作った。その棒切れの先を、焼け焦げたシャツの穴から突き刺すようにして布地を破り、少しずつシャツを死体から剥がしていった。
 布地が剥がされて、皮膚が露出したあたりの部分から、炎の熱で黒く変色しながら溶けていく。死体が焼け焦げる臭いが、作業をしている兵士達の体にまといつくように立ち昇ってくる。章太郎を初め、作業の兵士達は、息を止めるようにしたまま、棒の先でシャツを剥がす作業に没頭した。
  ようやく下着の布地をすべて剥がし終わった頃には、陽が傾きかけていた。しかし、死体は、まだ半分も燃えてはいない。準備したマキは、もう残り少なくなっていた。陽が落ちる前に、もう一度山に入ってマキ作りをしなくちゃならない。
 そんなこと考えていた時だった。ひんやりと涼しくなってきた微風を震わすように、空襲警報のサイレンが遠くから流れてきた。
  その瞬間、章太郎を初め、死体を囲んでいた五人の兵士達が、体の動きを止めて、黙ったままお互いの顔を見合わせた。
 多分、全員が頭の中で同じことを考えていた。オンボ焼きの火を消すべきか、このままにして逃げるべきか。
  火を燃やしたままだと、我々五人は、煙を目印に間違いなくグラマン機の標的にされてしまうだろう。しかし、半燃えの遺体や燠火に土をかけて火を消してしまったら、また今の状態に戻すまでに二時間以上もかかってしまう。ようやくここまで作業が進んだのに、その手間暇が惜しかった。
 三秒くらい、沈黙が過ぎた。
「おい、このままにして、逃げるべ!」章太郎が大声で怒鳴った。
 その怒鳴り声が終わらないうちに、五人の兵士達は、四方八方へと思い思いに駈けだしていた。
 グラマン機の低く唸るようなエンジン音が東の方角から急速に迫ってきたのは、章太郎が、まだ十メートルも走らないうちだった。
  断続的な機銃音が中空で炸裂した。その直後、空気を切り裂く弾丸音が、続けさまに章太郎の体に向かって飛んできた。
 太い唸り声を上げた弾丸が 背中から腹へと貫通するように、一直線に走り抜けた。
  やられたと思った。宙を蹴って、地面に倒れ込んだ。お腹のあたりを確認してみたが、どこにも出血の跡はない。まだ、生きているんだと思った。
 見上げると、二機のグラマン機が、紺色の機影を旋回させながら頭上を通り過ぎてゆくところだった。機体の胴に描かれている白い星印に、一瞬激しい憎悪を覚えた。飛行曲線の描き方から、また舞い戻ってくるような予感がした。章太郎は、立ち上がると、再び狂ったように林の奥へと駈け出した。

  幸いなことに、五人の兵隊の誰にも怪我はなかった。敵機が去り、それぞれオンボ焼きの場所に戻ってきて、お互いの無事を確認しあった。それから、日が暮れる前にと、改めてマキ作りのために山の中へ入っていった。
 陽が沈んでからは、手近の木の枝にランプを吊してオンボ焼きの作業を続けた。
 章太郎が瓜幕で経験したときは、七、八割まで焼けたところで、死体の上にムシロを被せた。そうすることで、燠火の熱が、死体を燻すようにじんわりと焼き上げるのだ。
  ところが、宮古島ではムシロが手に入らなかった。仕方がないので、交代で夜中じゅう起きて、遺体を最後までしっかり焼き上げることにした。
 章太郎は、南という若い兵隊と組んで前半の作業に当たった。
 二人は、オンボ焼きの横に並んで座り込み、マキをくべたり、棒切れで突ついて体の焼き加減を確認したりした。 
「腹減ったな」と南がポツリと呟いた。
「うん」
「おい、小島は、どう思った?」
「どう思ったって、何が?」
「ほら、佐藤の体を焼いててよ、これが、豚とかニワトリなんかの家畜の丸焼きだったら、どんなにいいだろうって、そうは思わなかったか?」
「いや、べつに」
「そうか。オレは、ずっとそんなこと考えてたぞ。もしそうだったら、焼いた肉を腹一杯に食えるのになあって」
「そうか」
「人間の肉って、喰えるのかなぁ?」
「……さあ?」
 この話題は、そこで終わった。 
  佐藤の体は、もともとミイラのように痩せ細っていたから、食べられるような肉の部分なんて、初めからなかったかもしれない。そんなことを考えながら、章太郎は赤っぽく光る燠の炎をぼんやりと眺めていた。

 ふと気がつくと、隣に座っている南が、口をモグモグと動かしている。何を食べているんだろうと訝りながら、南の横顔を見ていた。
「ほら、お前も喰えよ。これ、ウマいぞ」と言って、南が小枝に突き刺した肉のようなものを章太郎に差し出した。
「うん」と、小枝ごと肉を受け取った。見ると、ちょうど良い加減に焼き上がった肉片だ。肉の表面から、脂肪がポタポタと滴り落ちていた。こりゃあ久しぶりのご馳走だ。何も考えることなく、章太郎は肉片に勢いよくむしゃぶりついた。
 囓ってみると、意外と堅く筋も多い。あんまり旨い肉とは言えないが、文句は言えない。なにせ久しぶりの肉なのだから。
 噛んだ肉片を、ごくりと喉の奥に飲み込んだ。その時、隣の南が章太郎の方を振り向いた。その顔をよく見ると、南ではなく、死んだ筈の佐藤だった。
「旨かっただろう。それ、オレの太腿の肉なんだぞ」と、死顔の佐藤がニタリと笑った。
 げっ!と驚いたところで、目が覚めた。
 横を見ると、オンボ焼きの薄い紫煙が、地面から微かに立ち昇っている。
 宮古島の空は、朝から真っ青に晴れ渡り、木々の間から強い陽光が斜めに射し込んでいた。今日も三十度を越える暑い一日になりそうだ。
 空腹で、章太郎のお腹がグウと鳴った。
 ああ、腹が減った。