5年後のプロポーズ

 電話の呼び出し音が耳の奥で鳴っていた。
 ……三回、四回、五回……。十回まで数えて出てこなかったら、電話をかけるのは、もうこれっきりにしようと思った。
「はい、高田です」
 ミユの弾む声が伝わってきた。昔とちっとも変わらない懐かしい声。でも「高田」という姓を聴いた時、本当に電話をしてよかったんだろうかと改めて思った。
「……あ……オレ……」
 とっさに、それ以上の言葉が出てこなかった。ミユも押し黙ったままだ。次になんて言えばいいんだろう。そう考えているうちに、十秒くらいがあっという間に過ぎた。
「……ゴメン。やっぱり、電話切る」
 それしか言えなかった。
「ま、待ってよ。アキラ君、なんでしょう?」「……ん?……うん、久しぶり」
「よく、ここの電話番号がわかったわね」
「……まあね」
「今、どこにいるの?」
「家だよ。ホンベツの親んところ」
「帰ってきてたの?」
「うん、もう三ヶ月くらいになるかな」
「東京の仕事は?」
「辞めた……っていうか、体こわしてね。腎臓の方を悪くして、療養かねて帰ってきちゃったんだ」
「……そう、全然知らなかったわ」
「誰も知らないよ。ほとんど友達にも会ってないしさ」
「それで腎臓の方は、よくなったの?」
「まあ、だいたいね。そろそろ働こうかなって考えてる」
「そう。……また、東京に出てくの?」
「いや、もう行かない。雑誌の編集者みたいな大変な仕事、もうやりたくない」
「五年前は、編集者になるんだって、ホンベツを捨てて出てったんじゃないの?」
「あの時は、まだ若すぎて世の中の厳しさってもんが、よくわかってなかったんだ……」
 受話器の向こうから、ミユの含み笑いが聞こえていた。
 よし、チャンスだ。この言葉を口にするのは今しかないと思った。
「ねえ、もしよかったらさ、会って話できないかな?……」
 ミユの笑い声が、突然に消えた。
 いくら元恋人だったとはいえ、今は他人の妻だ。こんな誘い、やっぱり断られるのかもしれない。そう思った。
 しばらく沈黙が続いた。
「ごめん、変なこと言っちゃったかな。今の言葉、取り消すことにするよ」
 受話器の向こうから、小さな溜息が聞こえた。
「……いいわ。私も、久しぶりにアキラ君に会ってみたいし……でも、二人で会ってるところ、他の人にはあんまり見られたくないな。これでも今は、いちおう人妻なんだし」
 僕らは三日後の正午過ぎにに、町の東側の神居山頂上の展望台で会うことにした。

 その日、僕は早めの昼食をすませて、駅裏の登山口から神居山の山頂をめざして登り始めた。
 空は春霞みがかかったようなぼんやりとした水色で、深く息を吸うと、あたりから春の香りが匂ってきた。冬を越えた裸木の枝先から小さな若芽が芽生え、山全体が淡い萌葱色に染まっていた。でも山の中の日陰には、まだ枯葉にまみれた黒い雪が残っていた。
 頂上までは、ほんの十五分ばかりの登りだ。でも展望台に着く頃には、すっかり息が切れてしまった。
 展望台の建物に着き、僕は狭く急な階段を昇って見晴台にでた。
 視界が大きく広がった。
 僕は、手すりにもたれて、タバコに火をつけながら眼下の細長い町並みを眺めおろした。
 僕の生まれ育った町ホンベツ。神居山と利別川とのわずかな狭間に伸びている小さな町だ。高校生までの僕は、早くこの町から飛び出して、都会に出て行くことばかり夢見ていた。札幌で大学生活を送り、いったんはホンベツに帰ってきたものの、やっぱり大都会への憧れが捨てきれず、一年で東京に出ていった。それが五年前のことだ。
 しかし、東京での生活は散々なものだった。
「早いのね、もう来てたの?」
 不意にミユの声が背中から聞こえた。僕は、あわてて振り返った。ほんのりと顔を上気させたミユが、汗をぬぐいながら近づいてくる。懐かしさが胸一杯に溢れてくる。
「ううん、オレも、ついさっき着いたところ」
「息が切れちゃって、もう、しんどい」と、ミユは右手で胸のあたりを押さえ、わざとらしく大きな息を何度も繰り返した。
「もうすぐ三十よ。すっかり体力が落ちちゃってるわ」
「オレも、むちゃくちゃ息切れた」
「これ、飲む? のど乾いたでしょ?」と、ミユがジャンパーのポケットからペットボトルの飲み物を取り出す。
「ありがとう」と答えて、僕は受け取った。
 ミユは以前からこういう細かな心遣いができる女性だった。僕たちが、かつて恋人同士だった時も。
 でも、あの頃の僕は、そんな彼女のやさしさを何とも思っていなかった。当然のことくらいにしか考えてなかった。ミユのやさしさに気がついたのは、東京で生活するようになってからだった。
 途中まで飲んで、僕はペットボトルを彼女に返そうとした。        
「ううん、私は、いらない」とミユは首を小さく振る。
 以前だったら、同じ飲み物に口をつけることを何とも思っていなかったのに。
「ゴメンね……」と、僕の気持ちを察したのか、彼女の口から謝りの言葉が洩れる。
 僕は、彼女の言葉をわざと無視して、ペットボトルの飲み物を一気に飲んだ。
「もしかしたらさ、来ないんじゃないかって思ってた」
 彼女は、何も答えなかった。
「オレのこと、ひどい男だって今でも恨んでるんじゃないかなって」
「アキラ君のこと、自分勝手な男だとは思ったことあるけど、恨んだりはしてないわ」
 その言葉に、胸が詰まる。
 彼女とつきあっていたのは、大学を卒業してホンベツに戻ってきてからの一年間だけだった。
「……東京の編集者生活って、どうだったの? すごく興味あるな」
「むちゃくちゃ忙しかったよ。だってプロダクションの編集者なんて、出版社にしてみたら使い捨てライターみたいなもんだからな。体を壊したら、また若くて元気な編集者を雇えばいいんだ」
「東京での生活は、それなりに楽しかったんでしょう?」
「そんなことないよ。休みの日だって仕事に出ることが多かったし、たまに新宿とか渋谷に行ったって、ただ人の群れを眺めてるだけだったし。オレには、都会の生活は合わないんだってつくづく思ったよ」
「そう……取材で歌手とかアイドルなんかには会わなかったの?」
「色々と会ったよ。ドラマや歌番組の取材で、キムタクとか浜崎なんかにも会ったしね」
「へえ、スゴイわね!」
「……別にすごくはない。ただ単に、そういう仕事をしてただけさ」
 僕は、改めてミユの横顔を見た。
「……なあ」
「うん、なに?」
 僕は、深く息を吸い込んだ。
「こんな話をするために、ミユをここに呼び出したんじゃないんだ。実は……オレ、ミユに謝らなくちゃならないってずっと考えてた。ミユの気持ちのことなんか何も考えないで勝手に東京に出てっちゃって。それに手紙も電話も全然しないで」
 ミユは、俯いたまま黙って僕の話を聞いていた。
「オレさ、本当は、電話してミユに会いたいなんて言えるような人間じゃないんだ。それは、よくわかってる。でも、ミユに会って、ちゃんと自分の気持ちを伝えたかった」
「さっきも言ったでしょう。アキラ君のこと、別に恨んでなんかいないって……」
「オレさ、東京に出てって、やっとミユの優しさに気づいたんだ。それで、オレってバカだなあってすっごく後悔した。ミユに合わせる顔なんてないって、ずっと思ってた」
 ミユは、何か言いたげな顔つきで、僕を凝視めた。
「……今さらダンナと幸せに暮らしている昔の彼女に会って、謝る必要なんてないだろうって、自分に言い聞かせてたんだ。でも……」
 そこまで話たところで、僕はいったん口を閉じた。それ以上話そうとすると、言ってはならない言葉まで口を突いて出てきそうで怖かった。小さなため息をついて、手すりに凭れて遠い景色を眺める振りをした。
「……ありがとう」 
 僕は、首を横に振った。
「アキラ君が東京に出てっちゃった後で、友達から『あんた、弄ばれただけなのよ』って言われたの。でも、私、弄ばれたなんて一度も考えたことなかった」
「弄んだなんて、そんなことは絶対にないよ」
「うん、わかってる。私さ、アキラ君が東京で自分の夢をおいかけて頑張ってるんだったら、私も幸せだなって、ずっと思ってた。ただそれだけのことよ」
「でも、ミユには辛い思いをさせたと思ってる」
「大丈夫。今はもう幸せにやってるから、謝らないで」
「……オレさ、東京で雑誌の編集者やるんだなんてカッコつけて出ていって、結局夢がかなわないで、すごすごとホンベツに帰ってきただろ。だから本当はすごくヘコんでたんだ。完全に負け犬だなって……」
「そんなことない。アキラ君ってすごいと思うよ。だって、自分の夢に挑戦したんだもの。とても勇気があると思う」
「ありがとう。ミユにそう言ってもらえると、なんかすごく嬉しい……」
 胸が一杯になって、僕は、しばらく何も言えなかった。
「……ねえ、ところで、ダンナは、ミユのこと大事にしてくれてるのか?」
「とってもやさしくてくれてるよ。洗濯手伝ってくれるし、晩ご飯だって交代で作ってくれるしね。アキラ君ほどハンサムじゃないけど」と言いながら、再びミユが口の中で笑う。
「そっか。それだけ確かめれば、もうこれ以上、オレが言うことなんて何もないな」と、こわばる顔で笑みを作った。でも心の一方では、自分の切ない気持ちがあった。
「仕事は、どうするの?どっかあてでもあるの?」
「いや、何も」と僕は首を横に振った。
「別にホンベツにこだわってる訳じゃないし、仕事があれば帯広でもどこでもいいんだ」
「私も、友達に訊いてみようか?」
「いや、もうこれ以上、ミユには迷惑かけられないよ」
 ミユのやさしい気持ちに触れてしまうほど、僕は激しく苛立ってしまう。
 しばらく二人とも押し黙ったまま、眼下の景色を眺めていた。ミユが腕時計を眺めてから、おもむろに口を開いた。
「昼休みが終わっちゃうわ。私、もうそろそろ帰らなくちゃ」
「今日は、わざわざ会ってくれて、どうもありがとう。オレのわがままをきいてくれて感謝してる」
「いいの。私も、久しぶりにアキラ君に会えて嬉しかった」
「……あの、もう、電話しないよ。ダンナに悪いし、ミユにも迷惑かけそうだから」
 自分の気持ちとは裏腹に、とりあえず、そう言ってみた。気持ちのどこかに、ミユの反応を伺おうとする浅ましい魂胆があった。
「うん、それじゃあ、元気でね」と、ミユが右手をヒラヒラと肩のあたりで振ってから、階段の降り口へ向かって歩き始めた。
 心の中で、抑えていた切ない感情が激しく揺れていた。もうこれ以上、自分の気持ちに嘘はつけなかった。
 ミユが二、三歩進んだあたりで、僕の足が無意識に動き始めた。ミユが階段を降りかけたところで、僕はミユに追いついた。
「ちょっと待ってくれないか!」
 僕は、ミユの右手首をつかんだ
「なに?」と振り返ったミユの顔が、不安そうに揺れていた。
「オレたち、もう一度やり直せないか?」
 声が震えているのが、自分でも分かった。
 ミユの顔に驚きの表情が横切った。
「……もう一度、やり直すって……?」
「だからさ、ダンナと別れて、オレと一緒になってくれないかってことだよ」
 大きく見開いた目が、じっと僕を凝視めていた。
「前のことは謝る。本当に悪いことをしたと思ってる。でも、もう二度とミユには辛い思いはさせないよ。きっと幸せにする。だから、ダンナと別れて、オレと結婚してくれ」
「……そんな……そんなこと、なんで今頃になって言うのよ」
 ミユはしばらくの間、じっと僕を凝視めていた。突然、開いた目から、大粒の涙が見る見る溢れ落ちていった。
「ひどいわ……そんなの。だって、私、ずっとアキラ君のこと待っていたのよ。今日こそは連絡くれるんじゃないかって、来る日も来る日も。でも、何も連絡がないから、もうアキラ君のことは諦めて、それで今の人と結婚して、やっと最近になって、忘れられるようになってきたっていうのに。それが今になって、そんなこと言うの?」
 この五年間の空白の重みが、改めて僕の心にずっしりとのしかかってきた。取り返しのつかない五年間。
「……それに、もう手遅れなの。あの人とは、もう別れられない」
「どうして?」
「だって……生理が遅れてるの。もしかしたら、あの人の子供がお腹にできたのかもしれないの」
 一瞬、言葉に詰まった。何と言えばいいのか、しばらく分からなかった。
「……いいよ、それでも構わないじゃないか。オレと二人で育てればいいだろ……?」
 しばらく僕を凝視めた後で、ミユは左手の甲で頬の涙を何度もぬぐった。
「やっぱり、そんなことはできないわ。あの人を裏切るなんて、私にはできない……」
 僕の手を振りほどくと、ミユはゆっくりと振り返って階段を降り始めた。
 気持が激しく動転していた。これから自分一人でどうやって生きていけばいいのか全然分からなかった。
 ミユを失いたくないというせっぱ詰まった感情だけが、心の中で渦巻いていた。
 ふと気がつくと、降り始めたミユの背中に向かって自分の手が伸びていた。その手が、彼女の背中を強く前に押し出す。
 ミユの体が、ふっと前のめりになったかと思うと、お腹のあたりを下にしたまま、地面に向かって宙を飛んでいた。 
  森の中を、細長い絶叫が切り裂いた。

【十勝毎日新聞 2003年(平成15年)1月19日 掲載】