北北東に進路を取れ

 美穂が、不意に僕の心に現れた。
 学生会館の食堂で、百三十円のA定食を貪り食っている時のことだ。もっと正確に言えば、小骨のやたらと多い魚のフライを、うんざりした気分で食べている時のことだった。
 僕の隣では、同じ学部の友人が、終わったばかりの英文学史の教授の悪口を盛んにまくしたてていた。あたりは二、三百人あまりの学生が、あまり広くもないホールにひしめき合って、それぞれお喋りをしたり、喚いたり、大声を出したりしながら、安くてまずいランチを食べているところだった。
 美穂の悲しげな顔が、僕の胸に明確な輪郭を伴って立ち現れてきたのは、そんな時のことだ。イメージの美穂は、俯き加減のまま黙って僕の方を見ていた。そして、どことなく悲しげな表情で、何かを僕に伝えようとしていた。僕は、箸を宙に浮かべたまま、心の中の美穂の映像にじっと見入った。
 どれくらい時間が過ぎただろう。「スギモト!」と僕の肩を叩く手で我に返った。その瞬間、あれほど鮮明だった美穂の顔がフッと虚空に消えた。
「どうしたんだよ?」と、怪訝そうな顔つきで、友人が僕の顔をのぞき込んでいた。
「いや、別に……」僕は、何気ない振りをして、その場を取り繕った。でも突然に現れた美穂の悲しげな表情が、なかなか脳裏から離れなかった。
 もしかしたら、これは何か虫の知らせなのだろうか。札幌の美穂に何かトラブルか事件が起きて、僕に助けを求めてるのではないだろうか。そんな思いがよぎった。
 美穂とは、高校を卒業したこの三月に、帯広駅前の『葡萄』という喫茶店で会ったのが最後だった。以来、もう八ヶ月近くも顔を合わせていない。いや、顔を合わせていないどころか、電話も手紙も何の連絡もしていない。
 あの時、喫茶店前の舗道で、「じゃあ、また」と声を交わし、僕たちは黙ったまま向き合った。彼女は、ちょっと困ったような、微かに戸惑うような、それでいてやや哀しげな笑みを口許に浮かべたまま、僕を五秒ほど見ていた。僕が何も言わないので、彼女は諦めた表情を浮かべ、踵を返すとゆっくりと東へ向かって歩き始めた。
 アイボリー色のコートの背中に声を掛けようかどうしようかと迷っているうちに、彼女の後ろ姿は少しずつ小さくなり、もう僕の声も届かないほど遠くなっていた。
 帯広駅前は、雪解けの水溜まりに春の陽光が乱反射して、目も開けられないくらい眩しく輝いていた。
  あの時、何も言わずに別れたのは、二人の未来に自信が持てなかったからだ。札幌の大学に行く美穂と、東京の大学に進む僕。もちろん彼女との関係が切れてしまうのは、胸が引き裂かれそうなくらい辛いことだった。でも、たとえお互いが相手を思う気持ちを約束し合ったとしても、二人は異なった環境で、別々の人間関係を築きながら生活していかなくてはならない。僕にも、彼女にも、新しい生活の中で、新しい相手が現れないとも限らないのだ。そうだとすれば、あえてお互い相手を拘束するような約束なんてしない方が、美穂のためにもいいのではないだろうか。そんな結論を、僕は悩んだあげく導き出したのだった。それで、あえて何の約束もしないまま、いつも通りの「さよなら」をしたのだ。
 四月から始まった美穂のいない東京での生活は、予想以上に辛く寂しいものだった。夏休み頃まで、正直なところ、毎日美穂のことばかり考えて一人悶々として過ごした。でも、このことでは絶対に後悔しないんだと、僕は自分に強く言い聞かせ続けた。
 そんなふうだから、もちろん東京で新しい彼女なんてできる筈もなかった。
 イメージの美穂を見た後、昼からの講義は、ほとんど頭に入ってこなかった。
 そんなことよりも、一刻も早く美穂に会わなくてはならない。会って、最後に別れた時、僕がどんな気持ちで、どんなことを考えていたかということを、きちんと美穂に話さなくちゃならない。そんな想いばかりが頭の中をぐるぐると回っていた。
  講義が終わると、僕はすぐに下北沢にある自分のアパートに帰った。そして、ファンシーケースの奥に隠していある封筒を取り出して、中の現金を確かめた。仕送り前ということもあって、封筒には一万円札が一枚しか残っていなかった。僕は次に、机の引き出しを開けて、四月に美穂から一通だけ届いた葉書を探し出した。そして葉書の裏に書いてある札幌の美穂の住所を確認した。
 財布と葉書をショルダーバッグに押し込んでから、北海道の寒さを考えて厚めのオーバーを着込んだ。念のために高校時代から使っているシュラフも持った。そして夕暮れの下北沢駅から、上野を目指して電車に乗った。
  上野駅の切符売り場で、運賃の一覧表を見て愕然とした。上野から札幌までの乗車運賃だけで七千四百円もするからだ。手持ちの一万円札を出してしまうと、三千円あまりしか残らない。札幌まで何日かかるか分からないけれど、残りの三千円で、これからの食費をまかなわなくてはならなことになる。本当に、このまま札幌に向かって出発してしまっていいんだろうか。それに、札幌まで行ったとして、その後、どうやって東京まで帰ってくればいいんだろう。そんな不安やら迷いやらで、しばらく気持ちが揺れた。運賃一覧表の前で、僕は行き交う通行人に体をぶつけられながらも十分ほど考えあぐねた。
 とにかく今回の旅の目的は、札幌の美穂に会って、黙ったまま別れた理由をきちんと説明することなんだ。それが達成できたら、その後のことなんて、また改めて考えればいい。いざとなれば、帯広の親のところに行けばいいんだし。
  そう心を決めて、僕は窓口に近づいていった。ガラス窓の穴に一万円札を差し出しす時、指が微かに震えた。おつりと札幌駅までの切符を受け取ってしまうと、逆に力強いエネルギーが胸の底からじわじわと湧いてきた。僕は切符を強く握りしめると、勢いよく改札口に向かって突き進んだ。
 というわけで、昭和五十一年十一月十三日の夕方、僕は上野駅十八時六分発、宇都宮行きの普通列車に乗り込んだ。出発したとき、車内は身動きもできないくらい混んでいた。でも駅に止まるたびに乗客は降りていって、宇都宮に着く頃には二人用座席に、一人優雅に寝そべられるほどまでに空いていた。
 宇都宮から、次に黒磯行きの列車に乗り換え、更に福島行きの列車に乗り継いで、午前零時前に福島駅に着くと、もう接続の列車はなかった。
 僕は、駅の狭い待合室の隅にシュラフを敷いて、その中に潜り込んだ。薄汚れた電灯に照らされた待合室には、浮浪者風の男が五、六人ほどいて、板張りのイスに座ったり横になったりしていた。一時間おきくらいに、ゴトゴトと地面を揺らして列車が通り過ぎていき、僕は一睡もできないまま朝を迎えた。
  翌朝、六時十五分発、小牛田行きの普通列車に乗ってから、一関、盛岡、八戸でそれぞれ乗り継いで、ようやく青森駅にたどり着いたのは、その日の夜十時半過ぎのことだった。
 青函連絡船用の待合室で三時間あまり待ってから、午前一時十五分発の「十和田丸」に乗り込んだ。幸いなことに、船はそれほど混んではいなかった。乗船して、畳敷きの二等船室に横になった。シュラフを広げ、その中に入って目をつむると、すぐに眠気が襲ってきた。出航を知らせるドラの音や、「蛍の光」の寂しげなメロディが、まるで子守歌のように遠くから優しく聞こえてきた。
  函館港到着を知らせる船内アナウンスで、目が覚めた。腕時計を見ると、まだ午前五時前だった。睡眠時間が中途半端だったせいか、後頭部のあたりが鈍く痛んだ。丸い船窓の外を見ると、まだ夜の暗闇が広がり、遠くで白っぽい光がゆっくりと後方へ移動していた。
 ぼんやりとした意識のまま、ショルダーバッグを探した。寝る時に、確か頭の右側に置いた筈だなのに、どういう訳か足元に移動していた。不思議に思ってよく見ると、ショルダーバッグのチャックが開いていた。そこで始めて異変に気づいた。僕は、あわててバッグをたぐり寄せて、中身を確認した。
 焦げ茶色の折りたたみ財布がなくなっていた。バッグの中をくまなく探したが、やっぱり財布だけが見つからない。「やられた!」と思ったが、もう後の祭り。財布の中には、札幌までの乗車券と千円札が二枚入っていた。財布だけでも、シュラフの中に入れて眠ればよかった。そんな後悔が湧いてきた。
 ジーパンのポケットに手を突っ込んでみた。中から小銭が数枚出てきた。金額を確かめると、全部で八百六十円ある。これが、今の僕の全財産ってわけだ。知らず知らずに大きなため息が何度も湧いてきた。ここから札幌まで、切符もなしに、たった八百六十円の所持金で、どうやって行けばいいんだろう。すっかり気持ちが落ち込んでいるところで、船がガクンと揺れた。
「ただいま本船は函館港に接岸いたしました」という船内放送が流れた。
 他の旅行客は大きな荷物を抱えて、次々と出口に向かって歩いていく。立ち上がる気力もなく、そのまましばらく座り込んでいた。でも、いつまでも座ってるわけにはいかない。仕方がなくヨロヨロと立ち上がり、ショルダーバッグとシュラフを肩に担いでから、出口に向かって歩き始めた。
 二等船室のドア横に立っている係員に事情を説明すると、船を降りて函館駅の窓口まで行くようにと言われた。指示通り駅の窓口で事の経緯を話すと、今度は副駅長のところに連れて行かれ、また同じ説明をさせられた。五十過ぎの痩せぎすで厳めしい顔つきの副駅長から、旅行の目的は何なのかとか、どこからどこまでの切符を買ったのかとか、どことどこの駅で、どのように列車に乗り継いできたのかといった細かなことを根掘り葉掘り訊かれた。上野駅から各停の普通列車を乗り継いで来たと説明すると、まるでキセルの常習犯でも見るような不審な目つきで睨まれた。
 それでも三十分ほどの尋問の結果、僕はどうにか函館駅構外へ無罪放免となった。
 駅の外に出ると、東の空が薄明るくなっていた。空気はシバレるくらいキンと冷え込み、深く息を吸うと胸の奥まで凍り付きそうだった。いったん駅舎に戻り、トイレの手洗い場で顔を洗った。鏡を見ると、無精ひげの生えた、浮浪者風の疲れ切った顔つきの若者が、ぼんやりと僕を見ていた。
 もうここまで来たら、何が何でも札幌まで行くしかない。列車がダメだったら、ヒッチハイクでも何でもするぞ。僕は、疲れた若者の顔に向かって気合いを入れた。
 ところが、いざヒッチハイクを始めてみると、思ったほど簡単に車は止まってくれなかった。吹きっさらしの寒風の中で三十分くらい立ってるのはごく当たり前で、一時間近くも車が止まってくれないこともあった。その上、ようやく止まってくれた車の目的地が、つい隣町までなんてこともあって、気持ちは落ち込みっぱなしだった。
 でも何度か試しているうちに、僕は、少しずつドライバーの心情に訴えるコツのようなものをつかんでいった。歩道に突っ立って、ただ手を上げていたって車は止まってくれない。車が遠くに見えた時から、身振り手振りで大げさに体を動かして、「乗せてくれ!」って気持ちを大胆に表現する。すると車を止めようかどうしようかと迷ってるドライバーは、だいたい止まってくれた。
 札幌に着くまで、いろいろな車に乗った。運送用の大型トラック、セールスの商業車、一人旅の自家用車、農家の軽トラック、中には陸送中の新車っていうのもあった。
 その日は、どうにかこうにか苫小牧まで辿り着けた。いつものように駅の待合室で、シュラフにくるまって寝た。北海道の寒さに体の芯まで冷え切ったせいか、なかなか寝付けなかった。それでも、夜中過ぎから明け方まで眠ることができた。
 翌日、車を六台乗り継いで、ようやく札幌市内に入ったのは午後になってからのことだった。テレビ塔の下で車を降りてからは、札幌の厚別区にある美穂のアパートを目指してひたすら歩いた。通りがかりの通行人や交番で道を尋ねながら、なんとか美穂の住んでる「秀英荘」を見つけたのは、日が落ちかけた夕暮れの頃だった。
 僕は、アパートの外階段を昇り、二階の西端にある五号室の前に立った。ドアの左上に貼られた厚紙に、「山崎美穂」という名前が、彼女独特の丸っこい字体で書いてあった。
  間違いない、美穂の部屋だ。そう思うと、安心感で急に力が抜けた。上野駅を出発してから、数えて丸三日。予想以上のしんどい旅だったけれど、とにかく目的地までなんとかたどり着けた。何とも言えない達成感がじんわりと湧いてきた。あとは、美穂に会って、この春の別れの理由を伝えることができれば、この旅の目的は果たせる。
 僕は、道すがら何度も頭の中で繰り返してきたセリフを確認してから、ドアベルのボタンを押した。
 しかし中からは何の返事もなかった。もう一度押したが、同じだった。美穂は、まだ大学から帰ってきてないのかもしれない。そう納得して、僕はいったん階段を下り、道路向かいの塀に寄りかかって、美穂の帰りを待つことにした。五時前に日が沈むと、途端に気温が下がってきた。さすが北海道だ。立ってると足元からシンシンと身体が冷えてくる。まるで冷凍庫の中のアイスシャーベットにでもなった気分だ。じっと寒さに耐えながら美穂の帰りを待ち続けたが、午後十時を過ぎても彼女は戻ってこなかった。
 何か特別な事情があって今夜は帰らないのかもしれない。夜明けまでずっと立ってるわけにもいかないし、僕は、とりあえず札幌駅に行くことにした。二時間近くかかって駅まで歩き、例によって待合室の床にシュラフを敷き、その中にもぐり込んだ。でも、夜中じゅう人が行き来してたのと、札幌まで辿り着けた興奮とで、ほとんど眠れなかった。
 翌朝、また美穂のアパートまで歩いていった。ドアベルを押しても、やはり応答はない。仕方がなく僕は、前日と同じ場所に立って、美穂の帰りを待つことにした。日中、ひっきりなしに寒風が吹きつけ、時折雪が飛ばされてきて視界が白く染まることもあった。
 見覚えのあるアイボリー色のコートを着た美穂がアパートに戻ってきたのは、陽の落ちかけた四時過ぎのことだった。
 僕は、美穂に見つからないように、そっと近くの路地裏に身を隠した。美穂は、紺色のダッフルコートを着た若い男に背中を抱えられるようにして階段を昇ると、そのまま部屋の中へと入っていった。
 身体の中が、まるでぽっかりと穴でも開いたようだった。喪失感とも脱力感ともつかない気分に、しばらく陥っていた。気がつくと、一時間以上も経っていて、あたりは夜の暗闇にどっぷりと沈んでいた。
 これでよかったんだと、僕は自分に言い聞かせた。この四日間の苦労は、ほとんど無駄に終わったけれど、この春以来ずっと引っかかっていた胸のつかえは、これできれいさっぱりと取り除くことができた。その上、美穂が新しい恋人と幸せそうに暮らしているってことも確かめられた。だから、やっぱり札幌まで来てよかったんだ。僕は、そう自分に言い聞かせてから、白っぽい雪の闇に向かって足を踏み出した。