グスコーブ鳥の休日

『私のような者は、これからたくさんできます。私よりもっともっとなんでもできる人が、私よりもっとりっぱにもっと美しく、仕事をしたり笑ったりして行くのですから』

 

「……それで、今回の公演が終わったらさ、私、やめようかなぁって考えてるのよね」
 カオリは、そう言いながら、胸の奥までたっぷりと吸い込んだタバコの煙を、天井に向かって一息に吐き出した。
 僕は、どう返事をしてよいのかわからないまま、窓の外へと視線を移した。
 海岸の向こうには、黒潮の海が茫漠と広がっている。遠い沖合から大きなうねりが次々と押し寄せてくる。ゆっくりと盛り上がった海面が、陽光をいっぱいに反射して細かく光り輝いていた。
「私やめたら、劇団、困るんでしょうね」
 劇団をやめたいと言ってるのは、カオリ一人ではない。僕が知る限り、彼女でもう三人目だ。本当に三人とも抜けたら、このグループを単独では維持できなくなるだろう。
「多分な。でも、そうだったとしたら、引きとめることは、できるのか?」
 彼女は、疲れた笑いを口許に浮かべて、小さな溜息をもらした。
 僕は、再び窓の外へと視線を移す。
 民宿の前の広場で、劇団の女の子たちが二人、犬と遊んでいる。久しぶりの休みで、今日は朝からみんな好き勝手に時間を過ごしていた。まだ部屋で寝ている者もいれば、久しぶりの洗濯だといって、朝早くからガタガタと洗濯機を回している者もいる。
 ひと月前にフェリーで小樽に上陸してから、公民館だの学校の体育館だので小中学生相手の公演をしながら、日本海沿いに宗谷まで上がり、そのままオホーツク海を網走、根室へと降りてきた。上演と移動の連続で、今日までほとんど休みらしい休みはなかった。
「なんか、もう疲れちゃってさ、こういうジプシーみたいな、あてどない生活……」
 僕に慰めの言葉をかけてほしそうなカオリの目つきを、僕はわざと無視する。
「劇は……捨てられるのか?」
「……劇、ねぇ……」
 今から七年前に、カオリが劇団に入れてほしいと事務所を尋ねてきた時のことを、僕は今でも鮮明に覚えている。髪をポニーテールに結び、化粧っ気のない幼い顔で、僕を睨みつけるように、玄関に突っ立っていた。歳を訊くと、まだ十八だと答えた。
「ステージに命を捧げる覚悟で家を出てきました。よろしくお願いします」
 キザな言葉を喋る女の子だと思った。
 あの時の、カオリの若々しく燃え上がるようなエネルギーは、いったいどこに消えてしまったんだろう。
「やめて、どうするんだよ。何か次のあてでもあるのか……」
「……別に、ないよ、そんなもん」
 理由がない筈はない。彼女に新しい男ができたという噂は聞いていた。多分その男と一緒になりたいのだろう。こんな離ればなれの生活をしていたら、男と女の関係なんて長続きするわけがない。
「でも、名古屋に帰るまでの、あとふた月はこのまま続けるつもりなんだろう?」
 カオリは何も言わない。
 僕は、大きく息を吸ってから、黙ったままのカオリを食堂に残して廊下に出た。
 歩き始めた途端、玄関横の電話が甲高く鳴りだした。また妻からの電話かと思って、一瞬体が凍りついた。
 民宿の小母さんが、台所から飛び出してきて、受話器をひょいと掴み上げる。漁師訛りの強い言葉で快活に話し始めた彼女の隣を抜け、サンダルをつっかけて玄関から外に飛び出した。妻からの電話に怯えている自分自身が、腹立たしくも可笑しかった。
 日差しは思ったよりも暖かい。見上げると、雲はほとんどなかった。秋らしく晴れ上がった紺碧の青空が天いっぱいに広がっている。僕は、潮臭い空気を胸一杯に吸い込んだ。

 

「あなた、どっちを選ぶつもりなの? 劇団、それとも家庭?。もうそろそろ、はっきりと決めてちょうだい。あなたの結論次第で、私もこれからの生活を決めなくちゃならないんだから……ねえ、わかってるの?」
 妻から、民宿に電話がかかってきたのは、昨日の夕食後のことだった。
「……わかってる」
「わかってるって、そのセリフ、もう何年も前から耳にタコができるほど聞き飽きてるわ。あなたが劇団やめるつもりないなら、今度こそ、本当に子供を連れて家を出るわよ。今度は本気よ。だって、そうでしょ? ほとんど家にいない人と、どうやって一緒に家庭生活をしてけっていうのよ?子育ても全部私に押しつけて」
  激しく叱責する口調に、僕は何も言えない。妻の感情の高ぶりがおさまるのを、首を引っ込めたカメのように自分の殻の中でじっと待ち続ける。
「もう一週間もタカシは小学校に行ってないのよ。友達にいじめられるから学校に行きたくないって毎朝泣いてるの……」
「……担任の先生には相談したのか?」
「そんなこと、あたりまえでしょ!毎日、家庭訪問もしてくれてるわ。でも、どうしても学校に行けないのよ……私一人じゃ、もうどうしたらいいのかわからなくって……」
 しばらく妻の押し殺した泣き声が、受話器を通して伝わってきた。
 慰めの言葉が喉まで出かかってきた。でも自分には、それを言うだけの資格がないのだと思った。
「……また明日、電話するわ。それまでに、どっちにするか決めておいて……」
「……わかった」と答えている途中で、電話は唐突に切れた。

 

「おじさんたち、なんて劇やってるの?」
 玄関を出たところで、民宿の若夫婦の子どもに突然声をかけられた。幼稚園の年長組だというから五つか六だろう。小学校二年生のタカシより二つ下だ。笑うと、黒い虫歯で歯がスカスカになっている。その笑顔が、また何とも言えず可愛い。
「おじさんたちがやってるのは『グスコーブドリの伝記』って劇だよ」
 僕の言葉に、男の子はちょっと考え深げな表情を浮かべた。
「……ふ~ん、それって、どんな鳥なの?このへんには、カモメとかカラスとかスズメとか、そんな鳥しかいないよ」
 その子の、あまりに真面目な顔つきに、つい吹き出しそうになるのを必死にこらえた。
「あのね、『グスコーブドリ』っていうのは、鳥の名前じゃなくてね、人の名前なんだ」
 僕は、その子のプライドを傷つけないように、できるだけ優しく答えた。
「ふ~ん、そうなんだ……それで、そのグス…グスコドリって、どんな劇なの?」
「うーんと、それはね、この世界を幸せにしようとして、死んでいった男の人の話だよ」
「せ、世界って……?」
「世界ってかい? そうだな、世界って、君のまわりのみんなってことだよ」
「じゃあ、そのグスコドリは、みんなを幸せにしようとして、死んじゃったんだ」
「まあ、そういうことだな。自分から、みんなのために死んでいったんだ」
「それで、みんなは幸せになったの?」
「なったよ」
「ふ~ん……」

 

『私のような者は、これからたくさんできます。私よりもっともっとなんでもできる人が、私よりもっとりっぱにもっと美しく、仕事をしたり笑ったりして行くのですから』

 

 妻と息子を家に置き去りにしたまま、日本国中をドサ回りしている自分は、グスコーブドリの足下にも及ばない。普の父親以下だ。みんなどころか、自分の家族さえ幸せにすることもできないのだから。
「……杉本さ~ん!」
 遠くで劇団の女の子が僕を呼んでいた。振り返ると、さっきまで犬と遊んでいた筈の女の子たちが、海岸の方から駆けてくるところだった。
「今、船が上がってきたところよ!親父さんが、コンブ干しを手伝ってくれって」
「わかった、任しとけ!」と、僕は女の子たちに大きく手を振った。 
 民宿と漁師兼業の親父は、僕らが朝飯に起きる前に、もうコンブ漁に出かけていた。
 間もなくガタゴトとエンジン音を轟かせて荷台いっぱいにコンブを積んだトラックが海岸から戻ってきた。トラックは、民宿前の砂利敷きの広場までやってくると、ブルンと身を震わせて止まる。
  玄関から他の団員も現れる。親父が荷台から下ろしたコンブを、みんなして一本一本ていねいに砂利の広場に並べた。
 こうやって秋空の下でコンブ干しをするのは、もう何度目になるだろう。毎年、北海道の巡回公演をするたびに、この民宿に泊まり、決まったようにコンブ干しを手伝ってきた。
 劇団自体が経営面で行き詰まっていたり、辞めていく団員が多かったりして、解散ぎりぎりまでいったことが何度もあった。でも、今年もまたこうしてコンブ干しをしている。劇団に入って十五年。長いようで、あっという間の年月だった。
 コンブ干しは一時間ほどで終わった。民宿の若夫婦が買ってきたアイスキャンディーを広場の隅に座って食べる。
 ふと気がつくと、先ほどの男の子が、隣に座ってキャンディーを食べながら、僕を見上げていた。
「……ねえ、おじさん?」
「うん、なんだい?」
「さっきの、グスコドリって男の人のことなんだけどさ、どうして、みんなのために死ななくちゃならなかったの?」
「うんとね、その年はとても寒くて、この地球を暖かくするために、火山を爆発させなくちゃならなかったんだ」
「地球って?」
「僕たちが生きてる、この星のことだよ」
「……それで、火山を爆発させるために、グスコドリは死んじゃったの?」
「そうだよ」
「でもさ、グスコドリが死なないで、火山を爆発させることはできなかったのかな? だってさ、死んじゃったら、もうおしまいだろう?」
「うん、そうだな」
「やっぱりさ、死なないで、みんなを幸せにした方が、絶対いいと思うな……」
 男の子と真剣な顔つきを見ていると、再び可笑しみが込み上げてきた。
 宮沢賢治もかたなしといったところだ。
「そうだね、君の考えの方が正しいと、おじさんも思うよ」
 僕の言葉に、男の子はさも納得したようにニタリと微笑んだ。

 

「もしもし……」
「あっ、お父さん? ねえ、今、どこにいるんだよ?」
 呼び出し音が切れるなり、タカシの声が受話器から聞こえてきた。
「おぉ、タカシか。……今はな、北海道の霧多布って所にいるんだ。北海道の右の端の方だよ」
「ふう~ん。ねえ、次はいつ帰ってくるんだよ?」
「……そうだなぁ、そっちに帰れるのは、あと二ヶ月くらいしたらかなぁ?」
「二ヶ月?そんなに先なの?」
「うん。……北海道が終わったらさ、次に東北の方も回らなくちゃならないんだ。お父さんたちの劇を、楽しみに待っている子供たちが、まだたくさんいるんだ…」
「そうなの……」
「どうだ、元気だったか?……お母さんから聞いたんだけど、学校を休んでるんだって?」
「……うん」
「どうした、何かあったか?」
「……うん」
「友達とケンカでもしてるのか?」
「……あのね、クラスの友達が、僕にいじわるするんだ。……だから、あんまり学校に行きたくない」
「今日も、休んだのか?」
「……うん」
「友達に、いじわるされたら、やり返せばいいだろう。負けていてどうするんだ?」
「……」
「なんだったら、お父さんが学校まで行って、そのいじわるしている友達を懲らしめてあげようか?」
「そんなの無理じゃないか。だって、お父さん、こっちに帰ってくるの、ずっと先なんだろう?」
「何言ってるんだ。タカシが困ってるんだったら、お父さん、いつでもそっちに帰っていくよ。そんなの、あたりまえだろう」
「……ほんと?」
「ホントだよ。じゃあ、明日帰るか?」
「……いいよ、そんな無理しなくても」
「でも、一人じゃ学校に行けないんだろう?」
「……そんなことないよ」
「じゃあ、明日は学校行けるか?」
「……うん、頑張ってみる」
「よし。頑張れ。……でも、どうしても困ったら、お父さんに言うんだぞ。お父さんは、いつでもタカシのところに帰るからな」
「うん、わかった……」
「よし……ところで、お母さん、いるか?」
「……うん、いるよ。ちょっと待っててね」
 タカシが、母親を呼ぶ声が遠くから聞こえてきた。
「……どう、決めた?」
 僕は、玄関のガラス戸の外に広がる深い闇を見ながら、ゆっくりと息を吸い込んだ。
 本当に、これでいいんだろうかと、まだ迷ってる気持ちがあった。
「……劇団は、やめることにした」
 言ってしまってから、後悔に似た気持ちが激しく湧き上がってきた。これまで、劇に捧げてきた自分の人生はいったい何だったんだろうか? 
「でも、今すぐやめるというわけにはいかない。今年いっぱいくらいは、待っててくれないか」
「それはわかってるわ。でも、やめるっていうのは嘘じゃないのね?」
「嘘じゃない。……タカシのために、俺は家にいた方がいいんだろう……?」
「そんなの、決まってるじゃない」
「そうだな……それと……」
「え……?」
「……ずっと、おまえにタカシの子育てを任せっぱなしにしてきて、悪かったっと思ってる。色々苦労かけたな……」
「……また、タカシに電話してやってね」
「うん。それじゃ……」
 受話器を置き、これから劇団のみんなに、どうやって話をしていこうかと考えてると、突然グスコーブドリの最後のセリフが耳元に甦ってきた。 

『私のような者は、これからたくさんできます。私よりもっともっとなんでもできる人が、私よりもっとりっぱにもっと美しく、仕事をしたり笑ったりして行くのですから』

【十勝毎日新聞 2002年(平成14年)3月3日掲載】