ライク・ア・ハリケーン

 帯広駅の薄暗い構内を抜け、正面のドアから外に出て、僕は立ち止まった。
 透き通った紺碧の秋空を背景に、眼前に現出した駅前の街並みと、脳裏に残っている記憶の街並みとを重ねてみる。
 目の前にあった古い木造のバス待合所が高いビルに変貌し、東側には新しい道路が加わり、左手には大きなホテルが聳えている。
 大まかな印象は変わってはいないが、通りも建物も都会的に変貌している。
 僕は、十五年という遠い空白の時の流れに想いを馳せながら、茫然とした感慨にとらわれていた。
 駅前に並んだ車の列から、クラクションが苛立たしげに何度も鳴り響いているのに、僕はふと気づく。見ると真紅のロードスターの中で、掌がひらひらと揺れている。美穂は相変わらずだと、逆に安心するものを感じながら、僕はその車に近づいて行った。
「やあ、久しぶり」と、僕は助手席の窓から、薄暗い室内をのぞき込む。
「何を、ボケっと見とれてるの?」
 僕を嘲るような笑みを浮かべた美穂のほっそりとした顔がそこにあった。以前に比べるとやや濃い化粧で、肌にも張りはないが、猫のように吊り上がった両目と、いきいきと輝いている茶色の瞳は昔のままだった。
 野性的とも言える彼女の言動に、十五年前の僕は、どれだけ混乱させられ、苦汁を味わわされたことだろうか。
「さあ、乗ってよ」という声に急かされて、僕は小さなショルダーバッグを膝に抱えて助手席に乗り込んだ。
「変わってないでしょ?」と、車を発進させながら美穂が唐突に訊く。
 街のことを訊いているのか、それとも美穂自身のことを訊いているのか、僕は分からず咄嗟に答えることができない。
「…ああ、まあね」と、僕は曖昧に答える。「嘘つき。本当は老けたって思ってるんでしょ? 顔に書いているわよ」
 どうやら美穂のことらしい。
「変わってないよ」と答えながら、僕はつい小さな笑い声を洩らしてしまう。
「何、可笑しいの? 気味悪い人ね」と、気分を害したような声音。
「ごめん。……昔とちっとも変わってないなと思ったら、嬉しくってさ」
 彼女の運転する車は街の雑踏を抜け、西五条通りから、緑が丘公園の手前の、林に囲まれた大きなホテルの駐車場に入る。
 車を降りて、目の前に立った美穂の姿を、僕はさりげなく眺める。濃い茶色のスーツにシンプルな白いブラウスを纏っている美穂は、歳のせいか体つきが全体に丸みを帯びているが、ほっそりした印象は変わっていない。「ここのレストランで、何か食べない?」と、美穂が僕の前を歩き始める。左足を引きずり、体をやや傾けてびっこを引きながら。
 それを見た瞬間、長い間僕を苦しめてきた罪悪感が、改めて僕の意識にくっきりとした輪郭をつくる。僕は、つい目を背けたくなる。しかし自分を罰するつもりで、美穂の醜い歩行の姿をしっかりと凝視める。
「何してるのよ?」と、いぶかしげな顔つきで美穂が振り返る。
「いや、……別に何でもない」
「私の歩く格好、そんなにおかしい?」と、美穂がわざとらしくおどけた口調で訊く。
 僕は、ドキリと美穂の顔を凝視める。
「もう、慣れちゃったわ。今は、これがあたりまえ」と、やや寂しげな微笑。
 僕は、美穂の隣まで行くと、軽く彼女の背中に右腕を当て、彼女をかばうような格好で、美穂の歩調に合わせて歩き始めた。
「びっくりしたわ、本当に、あなたから電話をもらった時には。でも、声を聞いて、すぐにあなただってわかった」

 

 それは、まったくの偶然の出来事だった。渋谷で人と待ち合わすことになっていた。三十分ばかり時間の余裕があって、僕は通りすがりの本屋に寄り、何の気なしに詩集の棚の前を通りかかったのだった。
 『川瀬美穂』という名前が、僕の目に飛び込んできた。同姓同名っているんだと思った。でも彼女は、きっと結婚して姓も変わっているはずだから、もう同姓同名とも言えないのかもしれない。そんな事を考えながら、その詩集を書棚から抜き出してみた。奥付のページを開き、筆者の略歴と住所を見て、僕は愕然とした。
 『川瀬美穂(かわせみほ)帯広大谷短期大学卒、住所=北海道帯広市 中学校教員』
 美穂に間違いなかった。結婚していないのか。今、どのような生活をしているのか。次から次へと様々な疑問が湧いてきた。今すぐにでも美穂に電話をかけて、その後の生活の様子を聞いてみたい衝動に駆られた。でも、僕はその詩集をそのまま書棚に戻し、何もなかったようにその本屋を出ることにした。
 妻も子供もいる三十代後半の中年男が、今さら昔の女性と話をして、いったいどうなるのだろう。僕は、そう自分に強く言い聞かせていた。でも、それから三か月後に、札幌への出張が決まった時、僕はすぐに詩集を買い求め、彼女への連絡先を調べていた。

 

 午後のやわらかな日差しがいっぱいに溢れるレストランの窓辺に、僕たちは向かい合って座った。
「まだ詩を書いているんだな。本屋で買ってきて、何度も読んでみたよ。言葉のリズムは面白いけど、難しすぎてわからなかった」
「みんなに難解だって言われたわ。でもいいの、結局、詩なんてものは自己満足の世界にすぎないんだから」と言いながら、タバコの煙を窓ガラスに向かって吹きつけた。
 逆説的なレトリックも、昔のままだ。大事なものは、どうでもいいようような物言いをする。そして、自分自身も傷つけてしまう。「でも、賞を取ったということは、みんなに評価されているってことだろう。すごいじゃないか。自己満足の域じゃないよ」
「そりゃあ命は賭けてるわよ。だって私には、これしかないんだもの。他には、何もないから」
『他には、何もないから』という美穂の言葉を、僕は心の中で繰り返してみる。
 他には、何もないから……。
 僕は、意を決して口を開く。
「結婚してなかったんだな。……もしかして、その足のせいだったんだろうか」
「関係ないわ、この足なんて。勘違いしないでちょうだい。……結婚に値するだけのイイ男にめぐり会わなかっただけのことよ」
「僕は、桂木さんあたりと結婚するんじゃないかって思っていたよ」
「あの人とは、最初から何も関係なんてなかったわ。あなたが勝手に思い込んでいただけのことよ」
 僕は、返事をしない。窓を外へ視線を移すと、尾の白い小さな鳥が、紅く染まった葉の間から飛び立っていくところだった。

 

 バイトで絵のモデルをしているという話は、美穂自身から何度か聞いていた。でも、どんなモデルをしているのかは、彼女は何も言わなかった。高校で美術を教えている桂木というその画家が、市民会館のホールで展覧会をやっているという話を友人から聞いて、気軽な気持ちで出掛けていった。
 入口を入ってすぐの百号以上もの大きな絵の前に立った時、僕は、眩暈を覚えた。頭から血の気が下がっていくが分かった。
 背景は居間らしい部屋の壁だ。窓には、真っ白なレースのカーテンが掛かり、眩しい外の陽光を映している。手前のフロアリングには、全裸の女性が床に尻をつけ、こちらに向かって両足を大きく広げて座っている。立てた両膝に両肘を乗せたまま。
 開いた股間のあたりは翳としてぼんやりと描かれてい。しかし、モデルがこのような姿勢をとれば、正面にいる画家の目には、モデルの全てが晒されていた筈だ。
 モデルは、髪形やつり上がった目つきや、やせ細った顔の形から、あきらかに美穂に間違いなかった。
 奈落に突き落とされたような絶望感と、ひりひりと胸を焦がして突き上げる嫉妬と、美穂への激しい渇望が、心の中で激しい嵐となって渦巻いていた。僕は、身動きもできず、ただその場に立ち尽くしているだけだった。 どれくらい時間が過ぎただろう。男の話声で、僕はふと我に返った。展覧会場の奥を見ると、小さなテーブルに座った男が、どこかの婦人と笑いながら話をしていた。
 ジーンズに赤いトレーナー姿の、三十過ぎくらいの男だった。細めた目つきが、いかにも鋭い。長い髪をオールバックにした雰囲気からみると、桂木という画家に違いない。その男が、ふと僕の方を見た。僕は、自分の心の中が見透かされているような狼狽を覚え、すぐに視線をそらしてしまった。
 視線をそらしてから、美穂の裸体の全て見てしまっている男と目を合わすこともできない自分に憤りを感じる。最初から負け犬を決め込んでいる自分が情けなかった。

 

 ホテルのレストランを出てから、美穂は僕をドライブに誘った。『グリュック王国』の建物を遠くに眺めて、中札内の坂本直行記念館に僕らは向かった。窓の外は、晩秋の十勝野が遙かに広がる。積んだニオの山が規則的に並び、秋蒔小麦の細い緑の列が続く。ビートはまだ収穫前のようだ。
 この畑の風景だけは、十五年前と何も変わってはいない。懐かしい田舎の薫り。
「南君。今、幸せ?」と、運転している美穂が何気なく訊く。
「さあ、どうなんだろう。幸せなんだろうか。文句も言わずに面倒をみてくれる妻がいて、子どもが二人いて、……会社では上司にペコペコしながら体も神経をすり減らして、毎日一時間以上も通勤電車に揺られて。それが幸せと言えるのなら、あるいは幸せなのかもしれない」
「……よかった。私のせいで、逆にあなたの人生を狂わせてしまったんじゃないかって、ちょっと心配な気持ちもあったの」
「確かに、三十過ぎるまでは、結婚しようなんて気持ちにはなれなかった。あの事故で大怪我をさせた君のことが頭から離れなくて……誰とも結婚しないで、ずっと一人で生きて行こうと心に決めたこともあった。……ところで君は、今、どんな生活をしてるんだろう。中学校の先生やってるんだって?」
「ふふ……生意気なガキどもを相手に、毎日悪戦苦闘してるわ。ねえ、知ってた? ショーガイって」
「ショーガイ?」と僕は訊き返す。
「身体障害者のショウーガイよ。ツッパリが私を罵倒する時の言葉。今の中学生にとって、ショーガイっていうのが、相手を侮蔑する最大限の表現方法なのね」
「ショーガイか……」
「ねえ、私、白状するけど、あの事故で車がぶつかる瞬間、このまま南君と一緒に死んでも構わないって、ちょっとだけ思った。あの頃、毎日生きてるのがとても辛くて、これで楽になれるのなら、それもいいって思った」

 

 大学を卒業する最後の冬だった。
 美穂を知ってから二年が過ぎてきた。就職先が東京都内に決まり、もうほとんど美穂のことは諦めかけていた。桂木さんを始め、美穂がつきあっているらしい何人かの男の噂も聞いて知っていた。
 それでも美穂のことは好きだった。彼女ののびやかな感性や、人の心を読み取る鋭さや、男の心に媚びるコケティッシュな微笑や、それでいて悪女ぶるところや、自由奔放に生きようとする姿勢や、少女のように脆く傷つきやすい心や、そんな彼女の全てに惚れていた。
『あなたは、友達として大事につきあっていきたい人だけど、私が身も心も溺れてしまうタイプの男じゃないわ』という美穂の言葉が、最終的な結論だったろうと思う。
 これが彼女との最後のデートだと思って、僕は美穂をスキーに誘った。車は、友達に借りた中古のカローラだった。
 僕等は、朝早く富良野に向かって帯広を出た。狩勝峠に近づくと道はアイスバーンで、表面が鏡のように光っていた。でも、たいして気にもせずスピードを上げたまま、僕は峠をめざした。
 四合目あたりだった。僕の前を行く車のブレーキランプが灯ったような気がして、僕は慌ててブレーキを踏んだ。その瞬間、車のタイヤがツーッと氷の上を滑り始めていた。フロントが路肩側を向いていく。そのまま進めば、前は急な崖だった。あわてて右側にハンドルを切ったが、車体の向きは戻ろうとしない。だんだんと崖に向かって滑っていく。そうするうちに、今度は、ゆっくりとフロントが右に向かって回転を始めた。崖に落ちないですむと安心したのも束の間だった。車は、逆に対抗車線側に向かって移動を始めた。見ると、トラックらしい大型の車が、坂を降りて、だんだんと近づいてくる。
 再び、ハンドルを崖側に回そうとした時だ。時間が静止してしまった世界に僕はいた。車の移動も、外の景色も、何もかもが止まっていた。
 僕は、ふと思った。このまま、あのトラックに衝突すれば、僕も美穂も死んでしまうかもしれない。でもこれは、もしかすると僕と美穂が永遠に結ばれる、最後の機会なのかもしれない。僕は、美穂を永久に自分のものにすることができるのだ。
 いや、そんなことをしては駄目だ。僕にも、彼女にも、それぞれが選択すべき未来というものがある筈だ。
 そんな迷いの空間を、僕は漂っていた。
 次の瞬間、僕は崖側に思い切りハンドルを回していたが、もう遅かった。そのまま状態で、僕等の車は助手席側からトラックの正面にぶつかっていった。
 車の中に、美穂の絶叫が響いた。

 

「明日は日曜日じゃない。あわてて札幌に戻らないで、帯広に泊まっていってもいいんじゃないの?」と、帯広駅前の道路に車を寄せて、美穂が訊いた。
 その言葉の裏に、どんな意味が含まれているのか、僕は、知りたいとは思わなかった。 あたりは、すっかり夕闇に包まれ、駅前の西二条通りは、色とりどりのネオンやら街灯の眩い光に縁取られていた。
「明日は、仕事先の接待で、ゴルフをすることになってるんだ。約束をすっぽかすわけにはいかない。それに今日は、君が昔と変わらずに元気でやってるということを知っただけで満足な気持ちなんだ……少しは、罪の意識も解消されたような気がするし」と、僕は自分の気持ちをごまかしながら答える。
 ごまかしながら、ごまかしながら、もうすぐ四十になろうとしている。このまま僕は、東京に帰り、再びごまかしの幸せを装って生きていくのだろうと思う。
「……私は、私なりの人生を送っているわ。私なりに納得しながら」
「うん……」
「じゃあ、私、見送るっての苦手だから、ここで帰る」と、美穂が右手を差し出す。僕は、彼女の柔らかい手を握り返した。
 助手席のドアから降りると、美穂のロードスターは、短くクラクションを響かせて、夜の街へ姿を消していった。