デイ・ドリーマー

 このエッセーは、「市民文藝」第37号(1997年11月8日発行)の「特集・創作ノート」に掲載したものです。

 編集委員会から、創作に関するアイディアだとか考え方などについて、好きに書いていいと言われ、思いつくままにパチパチとキーを打って一気に書き上げました。市民文藝賞を取るまでの経緯だとか、自分の作品の成立までの内輪話を気ままに綴っています。

 今回ここに再録するためにデータ原稿を捜したのですが、見つからず、当時の文芸誌を見ながら打ち直しました。

 


 「五嶋さんの小説、とっても面白かったですよ。私、普段からあんまり小説なんて読むほうじゃないんだけど、あの小説、あんまり面白くって、いっきに読んじゃいました」

 もしも彼女の、その言葉がなかったら、「市民文藝賞」を受賞するまで、そして今でもなお小説などというものをかいていたかどうか、自分でも自信がない。

 彼女というのは、僕の息子が通っていた保育所の保母さんで、彼女はその年、「鹿追文藝」の編集委員になり、どういう理由でだか、この僕に何か載せられる原稿がないかと訊いてきたのだった。

 僕は本棚の隅から、何年か前に書いた「貝の哀しみ」という原稿用紙で20数枚の短編小説を探し出し、彼女に手渡すことにした。それから1週間ほどして、冒頭に書いたような彼女の言葉を僕は受け取ったというわけだ。

 自分が書いた小説に、他人からの賞賛の言葉をもらうなんて生まれて初めての経験だった。正直言って、天にも舞い上がりそうなほど嬉しかった。

 

 24歳の時、僕は根室管内にある海辺の中学校教員の仕事を1年間で辞めて、東京に出て行った。

 それから3年ばかり、僕は東京で編集者として働き続けることになった。その間、仕事先は3つ変わった。

 1つめは、小学館と学研の下請けをしている編集プロダクションで、そこで僕は1年半ほど働いた。しかし過酷とも言える仕事の忙しさに嫌気がさして辞めてしまった。

 2つめは「奇想天外社」というSF専門の小さな出版社だった。しかしそこは、僕が編集者としての能力に欠けるという理由で、半年後に馘にされてしまった。

 3つめは、湘南の藤沢に事務所を構えるミニコミ誌の編集の手伝いだった。仕事はあまり忙しくはなく、事務所の人間関係も円満そのものだった。

 ところが、正月に帯広に帰省していたとき、たまたま腸閉塞になり、小腸を50センチばかり切除する開腹手術を受け、それを機に僕は東京での生活に見切りをつけることにした。正直言って、もう東京での生活にすっかり嫌気がさしていたのだった。

 しばらくの間、活字を見るのも嫌なくらいで、二度と文章など書きたくないと考えていた。でも、再び教員の仕事に就き、結婚もしたりして生活が落ち着いてくると、また小説に対する熱い気持ちがむくむくと湧き上がってきた。東京での編集者時代の「恨みつらみ」といった形容しようのない感情を、どうにかして小説という形で表現したいと強く思うようになってきたのだ。

 原稿用紙に向かって文字を刻むなんていうのは、編集者を辞めてから本当に5年ぶりくらいのことだった。僕は、毎日少しずつ楽しみながら小説を書き進めた。

 その小説は、編集プロダクション時代の話から奇想天外社に移るくらいまでを書いたところで、原稿用紙に110枚くらいになってしまった。いっこうに話の結末は見えてこないし、登場人物の動きはバラバラ、その上、物語としての統一感にも欠けていた。

 これじゃとても人に読ませられるような代物ではないと、僕はすっかり自信を失い、途中で筆を折ってしまった。やっぱり僕には小説を書く才能なんて最初からなかったんだと自分に言い聞かせ、僕は小説のことなど頭から追い払うことにした。

 村上春樹の「ノルウェイの森」が出たのは、それからしばらく後のことだ。一読して感動し、僕だって、僕なりのレベルで頑張らなくちゃならないんだ、と気持ちを新たにして再度小説に取り組むことにした。

 今度は、編集プロダクション時代のことにテーマを絞りこみ、二ヶ月くらいかかって100枚くらいの作品を書き上げた。読み返しても自分なりに満足できる出来で、僕はさっそく東京でライターをしている友人に送って感想を聞くことにした。

 しかし僕の甘い予想を大きく裏切り、彼の批評はさんざん辛辣なものだった。僕の作品は、要するに小説としての体をなしていないというのだ。

 風船にように大きく膨らんでいた僕の自信は、またもやあっけなく萎んでしまい、もう本当に小説なんてものから足を洗ってしまおうと決心した。

 「鹿追文藝」の編集委員をしている保母さんから、僕の小説に対する賞賛の言葉を受け取ったのは、実はそんな頃のことだった。

 彼女の言葉に励まされて、もう一度書いてみようと思った。

 「市民文藝」に応募しようと考えた経緯はよく覚えていないが、作品が仕上がったら「市民文藝」に送ってみようと、書き始めたときには決めていた。

 とりあえず編集プロダクション時代のことを書いた前作の続編として、奇想天外社時代のことにテーマを絞ることにし、12月の中旬に書き始めた。最初の1章を書くのにひと月くらいかかった。書き直しても書き直しても思うようにな文章が書けず、原稿用紙1枚分進むのに4日も5日もかかることがあった。我ながら、まるで真っ暗なトンネルの中を手探りで進んでいるようなじれったさだった。

 小説に行き詰まると、僕は村上春樹の「風の歌を聴け」だとか「1973年のピンボール」だとか「ノルウェイの森」などを本棚から抜き出してきて、気に入った文章を何度も噛みしめるようにして読んだ。

 はたしてこんな小説で「市民文藝」に入選するんだろうかと途中自信が揺らぐことが何度もあった。でも、とにかく自分の力を信じて書き進むしかないんだと自分を励ましながら、僕はダイニングテーブル上のワープロに向かって文字を打ち続けた。

 そうやって「レフト・アローン」(市民文藝第31号)が完成したのは、3月も中旬になってからのことだった。

 僕は、すぐにそれを帯広市図書館に送付した。ところが、ひと月ほど経って、その原稿は僕の手元にそのまま送り返されてきた。規定の枚数を大幅に超えているので、受け付けられないということだった。実は、僕が最初に完成させた「レフト・アローン」は、原稿用紙で120枚もあったのだ。

 その年の秋、新聞紙上に「市民文藝」の入選者として自分の名前を見つけたときは本当に嬉しかった。その後、市民文藝賞なども戴いたが、あの時の喜びにはとうてい及ばない。

 「風のいたみに」(市民文藝第32号)は、同じ歳の夏過ぎに書き始めた。「レフト・アローン」の続編で、僕がミニコミの仕事をしていた湘南を舞台にするという構想は、すでに頭の中に出来上がっていた。「レフト・アローン」に対する自信もあったせいか、筆が淀むということはあまりなかった。書きたいことはいっぱいあったし、ただそれを表現することだけに集中すればよかった。

 途中で前作の入選を知り、自分の書き方は間違っていなかったんだという確信を得て、「風のいたみに」は、ふた月ばかりで一気に書き上げることができた。

 この作品でもっとも気に入っている場面は、鎌倉で主人公と里美が再会するところだ。雨の中を二人が歩くシーンはあまりに僕の心にしっくりと馴染んで、まるで僕自身が、その場面に一緒に立ち会っているような錯覚を覚えたほどだった。

 話は少し前後してしまうけれど、「レフト・アローン」の載った市民文藝が発行されて、僕の作品にたいするいくつかの感想をいただくことができた。好意的な意見もあったし、こうするべきだという厳しい意見もあった。それぞれの意見が、それぞれの論理の上に立っていて、もっともな内容だと思った。

 でも結局のところ、小説という実に個人的な表現活動においては、他人のアドバイスに従って書くなんてことは、少なくともこの僕にはできない。僕は、自分自身がもっとも興味のあるあることにこだわり続け、それを表現することしかできない人間なのだと思う。

 「夢のかけら」(市民文藝第34号)は、「風のいたみに」が完成して、すぐに取りかかった。物語の順序からいえば、「夢のかけら」、「レフト・アローン」、「風のいたみに」という流れなのだが、執筆の順序も発表の順序も、このように逆転してしまったのは、すでに書いてきたような理由による。

 この「夢のかけら」は、以前から僕がもっとも書きたかったテーマでありながら、すでに2度も失敗しているものでもあった。でも今度は、なんとしてでも完成させたかった。僕は、それこそ武者震いでもしたくなるような緊張感を覚えながら、この作品に取りかかった。

 思ってたよりも執筆は順調だった。それこそ前作の勢いを駆って、力任せに一気に書き上げたという感じだった。そのせいか、後に指摘を受けたように、ずいぶんと大仰な形容詞が使われている。それは、たぶん力がこもりすぎていたせいではないかと、今になって思う。でも、書いていた時は、どれだけ大袈裟な表現を使ってもなお、東京時代の、あの雰囲気だとか気持ちだとかいったものは十分に表現しきれないような気がしていた。

 かねてから念願の3つの作品をようやく完成することができた後の脱力感と、転勤によって仕事が忙しくなったことが重なって、次の「ムーンライト・セレナーデ」(市民文藝第33号)には、ずいぶんと苦労した。テーマ自体が、僕には重すぎたということもあったし、この作品の大部分の要素が、僕自身の私的体験に負っているということもあったからだ。

 他の人のことは分からないが、僕の場合、小説を書くときに、原体験の小説に占める割合は、だいたい三割から五割くらいの間で、イマジネーションに頼る部分が多い。そのほうが、却って自由に想像力を働かせることができて、スムーズに筆が進む。しかし、この作品は、あまりに原体験の占める割合が高すぎた。

 ワープロに向かうのに、気が重たいという経験を、僕はこの作品で初めて味わった。この小説を書いている間中、僕は、あの陰鬱な大学時代をもう一度過ごしているような暗い気持ちを味わい続けていた。

 半年ほどかかって、ようやく書き上げた後も充実感など湧いてこなかった。ああ、やっと書き上げたんだなという程度のものでしかなかった。それに追い打ちをかけるように、編集委員の方々からも全体的に否定的な批評が寄せられた。以来、この作品だけは、二度と読み返すことがなかった。

 ところが、昨年、僕の小説をずっと読んでくれてる人から、この「ムーンライト・セレナーデ」だけは気に入っていて、何度も読み返したという話を聞かされて、僕自身改めて読み直してみた。そして、僕なりに納得するところがあった。ありのままの自分を真正面から見据え、飾ることなく真摯に書いたところが、この小説の良さなのだ。もし、この小説が人の心を惹きつけるのだとしら、多分そういう点なのだろうと思う。それにしても僕は、なんて暗い大学生活を送っていたんだろう。

 さて、市民文藝佳作賞を戴いた「君の声が聴こえる場所」(市民文藝第35号)だが、この小説は、100パーセント想像の産物である。そういった意味で、前作とは対局をなす作品だ。狂った妻と、若い斜視の娘、その間で心揺れる中年の男という設定を立てて書き始めた。他人からの評価が高かった割には、自分としては、あまり納得している作品ではない。それは多分、小説のコアとなる自分自身の体験が欠如しているからだろう。

 ただ一つこの小説で気に入ってるとすれば、主人公の男と妻が、病院の庭で雪だるまを作るシーンくらいだ。この場面だけは、まるで映画でも観ているかのように色鮮やかに僕の目の前に浮かんできた。

 この作品も前作と同様に、春に書き始め、秋までかかってようやく完成させた。

 「永遠色の夏」(市民文藝第36号)は、すでにどこかでも喋ったと思うが、アメリカの作家ロバート・R・マキャモンの「少年時代」を読んだのが執筆のきっかけだった。僕にだって、懐かしく、楽しく、面白く、切ない少年時代があったはずだと、半ば衝動的な気分で筆を執った。 

 これから先、主人公の少年がどんなふうになっていくんだろうと期待するような気分で最後まで書き進めることができた。小説を書きながら、こんなふうに興奮したり楽しんだりすることができたなんて、本当に初めての経験だった。

 作品が完成した後も、すがすがしく爽やかな充実感に満たされていた。その上、市民文藝賞までいただくことができて、僕にとっては本当に最初から最後までラッキー・チャームのような作品だ。

 さて、最新作の「波の気配、風の囁き」(市民文藝第37号)についてである。これは、吉本ばななの「アムリタ」を読んだ後、彼女独特のパワーに影響を受けたまま一気に書き上げた。良きにつけ悪しきにつけ、実に自分らしい小説だとは思っているのだけれど…。