君にささやかな愛の歌を

                  1

 病院の屋上は、強い風が吹いていた。
 見上げると、高く澄んだ秋空を、小さなちぎれ雲が見る見るうちに東へと吹き飛ばされていく。
  僕は、屋上に張りめぐらされた金網を両手で掴んだまま、大きなため息をついた。
 久しぶりにタバコがたまらなく吸いたかった。
 金網ごしに広がる薄汚れた都会の街並みを眺めながら、僕は、つい今しがたの医者との会話を、心の中で何度も反芻していた。

「奥さんの病気の進行具合なんですが、予想していたよりもずっと早いんです。このままの経過で病状が悪化していったとしたら、うまくもったとしても、あとひと月ぐらいじゃないかと思います。……断定はできないんですが、でもそれくらいのおつもりで、ご親戚の方への連絡を進めていただいたほうがいいかと思います……」
 三十すぎの若い医者は、カルテを眺めながら、口ごもるように言うと、チラリと横目で僕の顔を見た。彼の憂鬱そうな顔つきが、かえって僕自身の暗い表情を映しているように思えた。
「そうですか……」
 それ以上何も言えずに、僕はぼんやりと膝に組んだ手を見た。
 ずっと前から覚悟していたことだった。でも、いざ医者からこうもはっきりと断言されてしまうと、かえって医者の言葉が信じられなくなる。いや、信じたくないという強い感情がむくむくと湧き起こってくる。
 そんな不安定な気持ちだった。
「……もう、手の施しようがないってことなんですね」と、こんなことを言ってみても無駄だとは知りつつ僕はあえて訊いてみた。
 医者は、困惑した目つきを浮かべながら、僕の目を避けるようにふたたびカルテに視線を戻した。
「肝臓の方に転移していってる細胞の進行が思ったよりも早いんです。……ですから……」
 言葉を濁わせたまま、医者は次の言葉を探すようにカルテの上に視線を漂わせた。
「まだ奥様もお若いことですし、ご主人のなんとかしてほしいという切実なお気持ちはよくわかるんですが…」
 僕は、医者の苦しげな横顔を眺めたまま次の言葉を待ったが、彼はいつまでたっても口を開こうとはしなかった。
「わかりました。……ただ、何とかならないものかと思っただけです。とにかく、最後までアイツのこと、よろしくお願いします」
 そこまで喋って、次の言葉を言ってしまっていいものかどうなのか、僕はしばらく躊躇った。
「……それから、なるべく苦しまないようにしてやってほしいんですが……」
「ええ……それは、もちろんわかってます」とカルテを見たまま、医者がほっと安心した表情で答える。
 僕は丸いイスからおもむろに立ち上がり、「よろしくお願いします」と言って医者に頭を下げた。
 僕が診察室から出ようとしたとき、医者の小さなため息が背後から聞こえた。医者もまた、無力な人間の一人にすぎないということだ。
 混雑する廊下に出て、僕はしばらくの間、目の前を行き来する人の流れをぼんやりと眺めていた。
 このままどんな顔をして病室に戻ればいいのか見当もつかなかった。

 ひときわ強い風が波のように押し寄せてきて、僕の髪や服を激しく靡かせた。
「あとひと月か……」気がつくと、僕は口の中でそう呟いていた。
 まだ三十前だっていうのにと思うと、どうにもやりきれない怒りに似た悲哀の感情が腹の底から突き上がってくる。
 それがアキの薄命を嘆く思いやりの感情なのか、あるいは一人取り残されてしまう自分を哀れむ気持ちなのかはわからなかった。
 僕は、やるせない気持ちを抑えたまま、金網越しに広がる眼下の家並みをぼんやりと眺めた。
 金網を強く握りしめていた指を一本ずつ引き剥がし、両掌を目の前にかざしてみると、金網の模様の形に、白い痕がくっきりと残っていた。

  病室に戻ると、アキは窓の方に体を向けたまま眠っていた。
 僕は、丸イスにそっと音をたてないように腰を下ろし、彼女の寝顔を眺めた。
 ふっくらと丸顔だった彼女の顔は、今ではすっかり痩せて頬が落ち、眼窩は深く窪み、頬骨も飛び出している。死相というのだろうか。顔色も黒ずみ、以前とは別人のようだ。
 ちょうど彼女の首筋のあたりに午後の柔らかな陽が当たっていて、青い静脈が浮き上がって見えた。
 タオルケットから飛び出している左腕は、入院する前と比べるとすっかり肉が落ちて、骨と皮ばかりになっている。以前は、ふっくらと肉付きのよい柔らかな腕だったのに。
 入院する前の夜に、彼女の体を抱いたことが、まるでずっと遠い記憶のかけらのような気がした。
  しばらくの間、アキの寝姿をぼんやりと見ていた。
 点滴の残量が気になって、立ち上がろうとした時だった。
「ずいぶんと遅かったのね。どこに行ってたの?」と、アキの細いしわがれた声が聞こえた。
  薄く目を見開いて、アキが僕を見上げていた。落ち窪んだ眼窩の奥の瞳には、ほんの燃えかすほどの弱々しい精気しか宿っていない。まるで生ける屍になってしまったアキを見ているのがつらくて、僕は彼女から視線をそらした。
「あんまり遅かったから、うとうと眠っちゃったじゃない」と不満そうにアキが呟く。
 僕はできるだけ何気ない表情を取りつくろい、イスに腰を下ろした。
「……うん、喉が渇いてたからさ、下の待合室に行って、ジュースを飲んでたんだ」
「ふうん」と、アキが気のない相づちを打つ。
「君にも何か飲み物を買ってきてあげればよかったかな?」
「ううん。私は、そこに番茶があるから何もいらないわ……ねえ、それより私、今変な夢を見てたの」
「へえ、どんな夢だよ」
「あのね、夢の中で、私は、まだ大学生なの。それで、キャンパスの中を友達とお喋りをしながら歩いているの。講堂の横の道をね。そしたら、学生会館の方から黒い乗用車が走ってきて、私たちの目の前で急に止まるの。そして、黒いスーツ姿の男たちが車から下りてきたかと思うと、私を無理やり車の中に連れ込もうとするのよ。私、誰かに助けを呼ぼうとするんだけど、気がつくとあたりには誰もいないの。人っ子一人誰もいないのよ。一緒に歩いていた筈の友達の姿も見えないの。それで、私、大声で助けを呼ぼうとするんだけど、喉が詰まったようで声が全然出ないの……とっても怖かったわ」
  そこまでいっきに話し終えると、アキは息を整えるように、何度か大きな呼吸を繰り返した。それから何かを訴える目つきで僕を凝視めた。
「ふうん」
「……ふうんって、それだけ? 私、とっても怖かったのよ、知らない男たちに車に連れ込まれそうになって」
「ただの夢だよ。そんなの気にすることなんてないさ」
「ただの夢かしら……」と呟いて、アキはしばらくの間、天井をぼんやりと眺めていた。
 僕は、アキが言おうとしていることにまったく気がつかないふりを装いながら、病室のドアの方へと視線を移した。廊下に開け放たれた入口からは、人の話し声や、若い看護婦が足早に歩く足音や、金属の触れ合う音などが微かに聞こえた。
「……ねえ、私、あなたにずっと隠していたことがあるの」と、唐突にアキが口を開いた。
「私、あなたのこと、ずっと騙してたのよ」
 思いがけないアキの言葉に、どのように応えていいのかわからないまま、僕はアキの真剣そうな顔を眺めた。
「ふうん……でも、僕だって、君に隠していることの二つや三つくらいはあるよ」
 アキは、いやいやをするように首を左右に振った。
「些細なことじゃないの。とっても大事なこと」
 僕は、アキの態度に困惑を覚えながら、次に答えるべき言葉を探した。
「今、こんなところで急に打ち明けなくてもいいんだよ。退院してから、ゆっくりと話してくれたらいいさ」
「だって、あなたに隠したまま死んじゃうわけにはいかないじゃない」と、アキが声を押し殺して言う。
「なに言ってるんだよ。君が死ぬわけないだろう」と、僕はアキの言葉を嘲弄する笑みを取りつくろって応える。
 いつまで僕は、こうやってウソをつき通さなくてはならないのだろうか。そう思うと、言ったそばから暗澹とした気持ちに襲われる。
「私、もう治らないわ。自分の体のことだからよくわかるの」
 背筋を悪寒のようなものがザワザワと走り抜ける。アキは自分の病状をどこまで知っているのだろうか。
「何、バカなこと言ってるんだよ。すぐによくなるって。退院したらさ、また一緒に映画でも観に行こうよ。ほら、君の好きだって言ってたディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』って小説あるだろう。あれが『ブレード・ランナー』って映画になって、もうじきやってくるんだよ……それが主演は、あの『スター・ウォーズ』のハリソン・フォードだっていうんだから、お笑いだよな」と、僕はできるだけ明るい口調で話した。
 アキは、再び大きくいやいやをするように首を左右に振った。
「ねえ、お願いだから、黙って私の話を聞いて」と低い声で囁くと、アキはまた何度か大きな呼吸を繰り返した。目が必死に何かを訴えようとしていた。
「……ねえサナダ君のこと、まだ覚えている?」
『サナダ』という言葉を聞いた途端に、長髪の髪や神経質そうな顔つきが色鮮やかに記憶の底から蘇ってきた。やっぱりあの男の話だったのかと複雑な気持ちで、僕は小さく頷いた。
 口許に浮かべようとしている笑みが強ばっているのが、自分でもよくわかった。

                   2

 アキと出会ったのは、僕が大学二年になったばかりの春のことだった。
 一九七四年、南こうせつとかぐや姫の『神田川』が、僕ら大学生のコンパでは、必ずと言っていいくらい口ずさまれていた平和でのんびりとした時代のことだ。
 その頃、僕は何の目的意識も持てないまま、どちらかというと孤独で怠惰な大学生活を送っていた。東京で一人暮らしを始めて一年あまりが過ぎていたが、大学の講義は幻滅そのものだったし、都会の人混みにもなかなか馴染めないでいた。
 でも心の一方では、そんな無目的で自堕落な生活を送っている自分自身に、やりきれない苛立ちと自己嫌悪も感じていた。
 今から振り返ると、ただ単に誰にでも訪れるそういう年代だっただけのことなのかもしれない。
  アキは、その頃僕のアパートから歩いて二十分ばかり離れた駅裏の『ATOM』という名のロック喫茶でウエイトレスのバイトをしていた。
  僕は、家庭教師の行き帰りにたまたまその店の前を通りかかってから、頻繁にその店に出入りするようになった。
 『ATOM』の暗く狭い店内で、床や壁を激しく震わせる音楽に身を委ねていると、つかの間僕は自分の孤独を忘れることができた。僕は、都会の雑踏の中で自分が安心して座っていることができる場所をようやく見つけたような気がしていた。
 初めて『ATOM』でアキを見たとき、目鼻立ちのはっきりした可愛いらしい娘だという印象を抱いた。小柄でほっそりとした体躯の彼女は、いつもきびきびとした動作で狭い店内を歩き回り、お客の注文を聞いたり、水や飲み物を運んでいた。
 でも、ただ単にそれだけのことだったら僕は彼女に特別な感情を抱くことはなかったかもしれない。
 『ATOM』に通い初めて二週間くらいが過ぎた頃のことだった。僕は彼女の歩いている動作に、どことなく不自然なものを感じた。よく見ていると、彼女は右足をかすかに引きずるような歩き方をしていた。右の足を前へ出すたびに彼女の右肩が左肩よりもわずかに下がった。もしかすると彼女は右足に、何らかのハンディを持っているのかもしれなかった。
 しかし、彼女の立ち居振る舞いからは、障害を背負っているという暗さはまったく感じられなかった。そう思って彼女の活発な動きを目で追っていると、その落差の故に、なお一層彼女が光り輝いて見えてくるのだった。
 僕が彼女と言葉を交わすのは、飲み物を注文する時と、レコードのリクエストをする時くらいだけだった。顔を近づけてきて、じっと人の目の奥を覗き込むような仕草だとか、鈴のように軽やかに通る細い声などが、いつの間にか僕の心に漣のような感情の揺れを引き起こすようになっていた。
 いつか二人きりで話をしてみたいという憧れに似た想いがなかったわけではない。でも、それはただ単なる憧れでしかなく、思い切って声をかけてみようというほどの勇気はなかった。

「ねえ、こんなところで何してるの?」と、背中から女の子の声が聞こえた時、僕は大学の中庭のベンチに腰かけ、ぼんやりとした気分で膝に乗せた本をめくっているところだった。
  その日、東京の空は、前日まで降りつづいていた雨のおかげでスモッグがきれいに取り払われ、梅雨にしては気が遠くなるくらい真っ青に晴れ渡っていた。
 あたりには楡の木が疎らに生えていて、暇そうな学生たちが久しぶりの陽光を楽しむかのようにぶらぶらと散歩をしたり、楡の木陰のベンチにすわって本を読んだりしていた。初夏めいた爽やかな風が吹くたびに楡の葉が小さく揺れ、陽光を反射してキラキラと輝いた。
 背中から聞こえた声に、自分に対してかけられているのかどうか戸惑いながら、僕は本から顔を上げて、おもむろに振り返った。
 太ももまで露わになった白いミニスカートに、下着が透けて見えそうなほど薄いピンク色のシャツを着たアキが、驚いた顔つきで僕を見ていた。
  すらりと伸びているアキのきれいな足のラインにしばらく見とれてしまってから、僕はあわてて顔を上げた。
「……やあ、こんにちわ」と答えてから、なんと間抜けなセリフしか言えないんだろうかと自分が嫌になった。
「……君こそ、こんなところで何してるんだよ」と、僕はあわてて言葉をつぎ足した。
「何してるって、ここ私の大学よ」
「君も……? 僕だって、ここの学生だよ」
 アキは、五秒くらい、じっと無言のまま僕を凝視めた後で、
「ほんとに……どこの学部?」
「外国学部、フランス学科だよ。君は?」
「文学部、英米学科」
「……ということは、もしかすると僕らは毎日このあたりですれ違っていたってことになるのかな」
「どうもそうみたいね。……ねえ、ここ座っていい?」と言うと、僕の返事も聞かずにアキは僕の隣に腰を下ろした。
「とってもいい天気。暗い教室の中でじっと退屈な講義を聞いてるのがバカみたい」とアキが青い空を見上げながら呟いた。
「うん」と相づちを打って、僕もまわりの景色を眺めた。
「ところで、何読んでるの?」
 僕は、膝の上に載っていた本を彼女に差し出した。
「石原吉郎……『望郷の海』。知らない人だわ。この本、おもしろい?」
「終戦後シベリアのラーゲリーで何年も強制労働をさせられてから日本に帰ってきた人の話だよ。まあ、おもしろいというより、とても深刻で切実な内容だったけどね」
 僕は、その本の内容を手短かに説明した。
「ふうん、なんか面白そうな本ね。ねえ、この本読み終わったら、私に貸してくれない?」
「別にかまわないけど……」
「ねえ、あなたって本読むの好きよね。店でもいつも本読んでるし」
「だって音楽聞きながら、他にすることなんてないだろう?」
「でも、よくもあんなうるさいところで本なんて読めるわね。私だったら気が散って、とても文字に集中なんてできやしないわ」
「慣れてきたら、音楽なんてそれほど気にならなくなるさ」
「でもそうだったら、何しにあの店に行ってるの。音楽聴くためじゃないの?」
「そりゃもちろん音楽聴くためだよ」
 彼女は、大きくぷっと吹き出すと、「あなたの言ってること、ぜんぜん辻つまがあってないじゃない。音楽を聴くためだとか言いながら、音楽なんて気にならないっていうし……」と腹を抱えて笑いこけた。
「でも、好きなメロディがスピーカーから流れてくると、本を読んでても自然と耳から入ってくるんだよ」と弁解しながら、僕はアキの笑う様子を眺めた。
 それから一時間ばかり、僕らは好きな曲やミュージシャンの話に始まり、お互いのことなどについて話を交わした。彼女が長崎出身で、僕と同じ学年ではあるけれど、浪人しているせいで一つ年上だということはその時に知った。
 二人で話をするのは初めてのことだったけれど、僕らの間には、まるでずっと以前から知り合いだったような親密な空気が漂っていた。
 明るく弾む口調で、表情豊かに生き生きと話すアキを見ていて、僕はますます彼女に惹かれていく自分を意識していた。
 気がつくと、彼女はバイトに行く時間だったし、僕は最後の講義に出なければならなかった。
「じゃあ、また今度ね。本、読み終わったら必ず貸してよ」と言い残し、右足を引きずるように歩いていくアキの後ろ姿を眺めながら、アキとの出会いはやっぱり運命的なものだったんだなどと勝手なことを考えていた。
 
  その翌日、家庭教師のバイトの帰りに僕は『ATOM』に寄った。
 アキがコップを持って僕のところに注文を訊きにきた時、僕は思い切って彼女の耳許に向かって囁いた。
「例の本、読み終わったんだ。君に渡したいんだけど、今日店が終わってから会えないかな」
  そう言ってる間じゅう、心臓が口から飛び出しそうなくらいドキドキしていた。
 アキは僕の顔をチラリと見ると、小さな笑みを浮かべて、僕の耳許に口を寄せると、
「いいわよ。今夜は九時に仕事が終わるから、その十分前くらいにこの店を出て、外で待っててくれない?」
  僕は、ほっと胸をなで下ろしながら頷いた。
 アキは「コーヒー?」と唇だけを動かすと、カウンターのところに戻っていった。

  その夜、アキの仕事が終わってから、僕らは駅前にある小さな喫茶店まで歩いていった。僕の隣を、肩を上下に揺らせながら右足を引きずって歩くアキのことがずっと頭の片隅にあった。でもそのことにはまったく気づかない振りを僕は装い続けた。
 その喫茶店で僕らは、また二時間ばかり、とりとめもない話で楽しいひと時を過ごした。二人の会話は、どちらかというと彼女が一方的に喋りまくり、僕が相づちを打ちながら聞いているといった感じだった。
 店を出てから、僕は彼女をアパートまで送っていった。人通りの途絶えた暗い道を、僕らは肩を接してゆっくりと歩いた。生温かい初夏の夜風がゆるやかに吹いてきて、頬をなでて通りすぎていった。
「ねえ、話があるんだ」と、僕は意を決して目の前の闇に向かって囁いた。
「どんなこと?」
「あのさ、もしもよかったら、僕とつきあってくれないかな」
 自分の声が闇の奥に吸い込まれていった瞬間、アキが息をそっとひそめる気配が伝わってきた。
「ねえ、それ本気で言ってるの? それとも冗談のつもり?」と怒った口調でアキが尋ねた。
「冗談でなんか、こんなこと言えないよ」と、彼女の怒りに戸惑いを覚えながら僕は答えた。
「……ねえあなた、気がついてたんでしょう?」
「気がついていたって……?」
「私の右足のこと」
 街灯の明かりをうけて右半分だけが青白く浮かんでいる彼女の顔の中で、黒い両瞳が喰い入るような鋭さで真正面から僕を凝視めていた。
 僕は仕方がなく小さく頷いた。
「今までもね、私の右足のことを気遣って、そんなふうに私に声をかけてくれた男の人たちがいたの。でもその人たち、しばらくすると自分の勘違いに気づいたわ。憐憫の情と恋愛感情は、似てるかもしれないけど、全然別なものだってことに」
 そこまでいっきに喋ると、彼女は軽いため息を洩らした。
「結局、その人たち、何も言わずに私の前から去っていったわ。でも、私にはわかっていたの。あの人たちが自分の勘違いにようやく気がついたんだって。
 でもその度に、私がどれだけ傷ついたか、あなたにわかる?」
 僕は何も言えないまま、彼女の悲痛なまでに哀しげな目を見ていた。自分の安易な気持ちや言葉が、彼女の心をひどく傷つけてしまったことだけはわかったが、いったいどうすればいいのか見当もつかなかった。
「……だから、あなたのさっきの言葉は聞かなかったことにするわ。その方がお互いにいいんじゃない? これからも友達として気軽にお話ができるし」
 アキの静かな呼吸の音が聞こえた。彼女は押し黙ったまま何も言わなかった。
 しばらくしてアキは僕から視線を逸らすと、闇の奥に向かってゆっくりと歩きはじめた。僕も彼女の後を追って歩いた。いつになく、彼女の肩が左右に大きく揺れているような気がした。
 しばらく歩いたところで、アキがふと立ち止まる気配を感じて、僕も足をとめた。
「私のアパート、ここなの」
 そう言いながら、彼女は道路に面した二階建ての古びた建物を指さした。
「もうここでいいわ。わざわざ送ってくれてありがとう」
 僕は小さく頷いてから、遠くの街灯を受けて闇の中に仄明るく浮かんだアキの顔を凝視めた。アキの瞳の中で、光の粒子がゆるやかに揺れていた。
「誤解しないでもらいたいんだけど、さっきの言葉、君への憐憫とか同情なんかじゃないよ。僕の素直な気持ちなんだ……じゃあ、また明日『ATOM』に行くよ」
 そう言ってから、僕は思いきってきびすを返すと、駅に向かって歩きはじめた。
 しばらく行ってから振り返ったときには、もうアキの姿はどこにも見えなかった。
 
                   3

 その翌日も、僕は『ATOM』に出かけていった。彼女は、まるで僕らのあいだに何事もなかったかのように、あくまでウェイトレスとしてお客の僕に接してきた。
 僕は、前日と同じように彼女のバイトが終わる時間を聞いて、店の外で彼女を待った。そして、また彼女をアパートまで送っていった。
 そんなふうにして二、三日がすぎた頃、アパートの前まで行くと、アキは部屋に寄っていかないかと僕を誘ってくれた。
 六畳ほどの部屋の中は、ベッドや机や本棚やファンシーケースやステレオやらが立ち並び、床はほとんど隠れて見えないくらいだった。
  僕は、彼女に促されるままにベッドに腰を下ろした。
 彼女はステレオのスイッチを入れると、「最近はこればっかり聴いてるのよ」と言いながら、ロッド・スチュワートの『アトランティック・クロッシング』をかけた。それから手早くお湯を沸かしてコーヒーを淹れると、カップを二つ手に持って僕の隣に腰を下ろした。
「ねえ、私の右足、交通事故のせいなの」とさり気ない口調でアキが話し始めた。
 僕は、彼女からコーヒーカップを受け取りながら、アキの横顔を間近から眺めた。長い睫が濡れたように光っていた。
「私が三つの時のことよ。オートバイにはじき飛ばされたんですって。私の右の大腿骨がグチャグチャに潰れてしまったらしいの。
 物心がついた頃には、私はいつも右足を引きずるようにして歩いていたわ。駆けっこするといつもビリで、運動会は嫌いだった。大勢の人前で右足を引きずって走ってると、『ガンバレ』って声援があちこちから聞こえてくるの。でも、あれを聞いていると、励まされてるって気がしなくて、とても悲しくて涙が出てきて止まらなかったわ。自分が哀れみの対象でしかないってことに我慢ができなかったのね、きっと」
  そこまで話すと、アキは小さなため息をついてから、コーヒーを一口啜った。
「中学生の頃が、いちばんひどかったわ。普通に歩いている女の子たちが羨ましくて仕方がなかった。『羨ましい』ってよりも『妬ましい』って言った方がいいくらいね。自分の右足のせいで、自分がひどく醜い女に思えてならなかった。私みたいなビッコの女なんて、男の子から好かれることなんて一生ないだろうって暗い気持ちで毎日暮らしてたわ。今から考えると、きっと足よりも心の方がねじ曲がっていたのね」と、アキは口元に微かな笑みを浮かべた。
「私が変わったのは、高校の時のことよ。友達に誘われて軽音楽部に入ってね、そこでロックバンドのボーカルをすることになったの。文化祭のステージで三曲ほど歌ったら、ボロな体育館が割れんばかりの拍手喝采でね。あの時、私わかったの。他の女の子が誰でも普通に持っているものを私は持っていないかもしれない。でも他の女の子は持っていないけど、私だけが持っているものがあるのかもしれないんだって。そう考えると、心がほんの少しだけ軽くなったのを覚えてるわ。
 それからも、この右足のせいでいろんな嫌な目にあってきたけど、決して物事を後ろ向きにだけは考えないように自分を励ますことにしたの。嫌なことがあれば、それと同じ数だけ、きっといいことがある筈なんだって自分を励ましてね」
「……君は輝いてるよ、他の女の子よりもずっと。『ATOM』で君を初めて見たときに、そう思った。なんて生き生きとしている子なんだろうって」
「あんまりおだてないでよ、すぐその気になっちゃうんだから」
「うそじゃないよ、ホント」
  気がつくと、レコードは終わっていた。
「ねえ、次はどんなのが聴きたい? 好きなレコード選んでいいわよ」
 イーグルスやニール・ヤングなどのレコードを聴いて、僕は十二時前に彼女の部屋を出た。
  アキの心に少しだけ近づくことができたような満足感を覚えながら、僕は自分のアパートに向かって夜の道を歩いていった。
 
  その翌日も僕は、アキが『ATOM』のバイトが終わる時間に店の外で彼女を待ち、アパートまで送っていった。
 そんなふうに一週間ばかりが過ぎた頃、思いがけないトラブルが僕を待ち受けていた。

  その夜、家庭教師の仕事が終わり、九時過ぎに僕は『ATOM』に寄った。
 水を持って僕のところにオーダーを聞きにきたアキの表情が、いくぶん強ばっているのに、僕はすぐに気づいた。
 アキは、僕の耳元に口を近づけると、
「今日は、外で待たないで、そのまますぐに帰って」と不機嫌そうな声で呟いた。
「どうして?」と僕が訊くと、
「いいから、お願い」と答えるなり、彼女はカウンターへと戻っていってしまう。
 カウンターに寄りかかったまま壁に向かってタバコをふかしているアキの姿を、僕は横目でずっと凝視めていた。でも、彼女はチラリとも僕の方など見ようともしない。コーヒーを持ってきた時も、ひとことも口をきかないで僕の前からすぐに立ち去っていってしまう。
  その夜、スピーカーから炸裂してくる大音響のサウンドは、僕の耳にはまったく聴こえてこなかった。
  アキの言うとおり、まっすぐ帰ってしまおうか、あるいは店を出てから道路の陰にでも隠れて、アキが帰る様子を密かに窺うことにしようかと、そんなことばかり考えていた。
 一時間ほどたち、とりあえず『ATOM』を出ることにしようと、僕はレシートとお金を手に持ってカウンターに近づいていった。
 カウンターの中にいたアキは、相変わらず僕の顔など見ようともしない。彼女は、黙ったまま僕からお金を受け取ると、釣り銭を僕に渡そうとした。その時、小銭といっしょに、小さな紙切れが僕の掌に押しつけられた。
 僕は店のドアを出ると、すぐにその紙切れを開いて、街灯の明かりにかざして読んでみた。
 そこには、小さな丸っこい字で『怒ってる? 今日は本当にゴメンなさい。明日十二時に、大学のベンチのところで待ってる。大事な話があるの』と走り書きされていた。
  彼女の文字を確かめるように何度も読み返しながら、まだ僕は、このまま帰ろうかどうしようか迷っていた。
 僕は、ゆっくりと道路を渡り、『ATOM』から二十メートルほど離れたところの電柱に寄りかかって、タバコに火をつけた。
 僕は、これからどうしたらいいのかわからず、星の見えない都会の夜空を眺めながら、タバコの煙を胸一杯に吸い込んだ。時折、僕の横を車が激しいスピードで走り抜けていった。
 もしかしたら僕は、この一週間ばかり楽しい夢を見ていただけなのかもしれない。そんなことを考えていた。
  『ATOM』のドアが開く鈴の音が、ふいにあたりの闇に響いた。
 ゆったりとした足音が、店のあたりから僕の立っている方へと移動してきた。僕は、あえて身を隠そうともせずにたばこを吸いながらその場所に立っていた。
 通りの向かいを、男女の二人連れが、何か小声で話しながらゆっくりとした歩調で駅の方へと通り過ぎていった。その時、女の子の方が、たまたま僕の姿を見つけ、また何も見なかったような目つきで、視線をもとに戻した。
 僕を見ていた女の子はアキだった。
 肩まで髪の毛を伸ばした長身の男とアキの二人の後姿が、遠く闇にまぎれて見えなくなるまで、僕はじっと身じろぎもせず、電柱に寄りかかったまま立ちつくしていた。
 僕は、アキから手渡された紙切れをおもむろにポケットから取り出し、二つに引きちぎって足下に放り捨てた。

                   4

 翌日は、朝から霧のような細かい雨が灰色の街に降りそそいでいた。都会の空をおおう雲は低く、あたりはどんよりと薄暗かった。
 アパートを出た時から、僕はアキとの待ち合わせ場所に行かない決心をしていた。
 でも、大学にむかう電車の中でも、講義を聞いている最中も、アキから手渡されたメモ書きのことがずっと気になっていた。
  僕は午前中の講義が終わると、すぐに友達二人と連れだって、お茶の水駅近くの喫茶店へ昼食をとりに出かけた。
 食事をしている間中、雨に濡れたベンチのそばで、傘をさして僕を待っているアキの姿が頭から離れようとはしなかった。
 昨日のことがあったんだ、きっと彼女の方だって来てはいないさと自分に言い聞かせながらも、そんなふうに考えている自分がなおさら忌々しかった。
  一時少し前に大学まで戻ってきた僕は、そのまま午後の講義の教室にむかった。机にショルダーバッグを置き、いったんイスに腰かけたものの、気持ちはやはり落ち着かなかった。
 白髪の年老いた教授がゆっくりと教室のドアを開けた時になって、ようやく僕は心を決めた。僕は教授に頭を軽く下げてドアを飛び出した。
  雨の中をベンチのある中庭にむかって歩きながら、嫌になるくらいあきらめの悪い男だと自分に腹が立った。
 建物の途切れた角のところから、遠く楡の木陰にオレンジ色の傘をさして一人ぽつねんと立っているアキの姿を見つけた時は、嬉しさよりも、このまま知らない振りをして逃げてしまおうかと咄嗟に思ってしまった。アキの話を聞くことで、自分が一層苦しむことになるのではないかという不安があった。
  思い切って心を決め、僕は彼女に近づいていった。
 アキは俯いたまま、僕のことなど素知らぬふうを装って佇んでいた。
 僕も黙ったまま、アキのそばまで行って足をとめた。
 アキは、僕の方を見るでもなく、相変わらず足許に視線を落として、
「来ないと思ってたわ」と独り言のように呟いた。
「ついさっきまで、そのつもりだった」と僕も正直に答えた。
 僕は、雨に濡れてしっとりと輝いている楡の葉をぼんやりと見上げた。
 アキは、足下の水たまりを爪先でかき回すような仕草をした後で、哀しそうな目で僕を見た。
「あの人のこと、早くあなたに言わなくちゃって思ってたの。でも、なかなか言い出せなくって」
 アキは、ふたたび足下の水たまりに視線を落とした。
「別に無理して話す必要なんてないさ。だって本当は喋りたくなかったんだろう?」
「ねえ、お願いだから、そんな言い方しないでよ」と恨めしそうにアキは僕を睨んだ。
「僕もバカだったよ。君の返事も聞かないで、勝手に恋人気分でいたんだから」
 アキは、何かを訴えるようにチラリと横目で僕を見た。
「……あの人、サナダ君っていうんだけど、私の高校時代のクラスメートなの。高校時代は別に何でもなかったんだけど、こっちに来て再会してから、何となくつきあい始めたの。向こうからつきあってくれって言われてね。
 彼、高校時代からバンド組んでて、今でもやってるんだけど、詞を書いたり作曲もしたりしているの。大学には顔も出さないで、家からの仕送りはほとんどバンドにつぎ込んで、いつもお金がなくてピーピーしてるの。
 だから私、彼にお金貸してあげたり、いろいろと面倒をみてあげたりしてたんだけど、なかなかバンドの方が思いどおりにいかなくて、面白くないことがあると、すぐに私に八つ当たりして暴力をふるったりするの。
 だから、もうこれ以上つきあっていてもしょうがないって思って、私、別れたいって彼に言ったの。まだ、あなたと知り合う前のことよ。でも彼、なかなか別れるって言ってくれなくて、そんな状態がずっと続いてるの。
 昨日もね、あれからいろいろ話をして、実はあなたのことも喋っちゃったの。そしたら、他に男を作ったんだなって急に怒りだして、私、思いっきりあの人に殴られちゃった」
  そこまで話すと、アキは頬のあたりを撫でる仕草をしながら、深いため息を洩らした。
「どうして、そんなこと僕に話すんだよ」
「別に理由なんてないわ。ただ、ありのままの事実をあなたに知ってもらいたいだけの話よ。二股かけるような卑怯な女だって誤解されたくないだけよ。ただそれだけ」
 アキは、吐き捨てるように呟くと、
「大事な話って、これでおしまい。あなたの心を弄ぶようなことになっちゃって本当に悪いと思ってるわ。ごめんなさい」
 アキは、しばらく僕の返事を待つような仕草をしていたが、僕は何も言わなかった。
 足許の水たまりに雨の波紋が広がっていた。
「……それじゃあ、私、もうこれで帰る」と言ってから、アキは振り返り、右足を引きずりながらおもむろに歩きはじめた。
 アキが肩を揺らせ、目の前から立ち去っていこうとするのを眺めながら、僕は絶望的なほど自分自身に苛立ちを感じていた。なんて自分は、負け犬根性の染みついた、嫌な男なんだろうと腹が立った。
 アキの後ろ姿が、雨の中を少しずつ遠ざかろうとしている。背中が、痛々しいほど淋しげだった。
「ねえ、ちょっと待ってくれないか」
 アキは二、三歩進んでから足をとめた。それから戸惑うようにして、ゆっくりと振り返った。
「なに?」
「もしかして……今の僕が、君のためにできることって何かあるのかな」と僕は思いきって言った。言い終わった途端、温かい感情が胸の中にゆっくりと溢れてきた。
 しばらくの間、アキは何も言わなかった。
「私みたいな女、もう嫌気がさしたんでしょう?」
 僕は、小さく首を横に振った。
「この前、君につきあってほしいって言っただろう。その返事、まだ聞いてないよ」
「あなた、まだ本当に私とつきあいたいって思ってるの?」
「そうしたいって思ってるから、わざわざここまで来たんじゃないか」
「でもサナダ君とのこと、まだ決着がついてないのよ」
「君の気持ちはもう決まってるんだろう?」
 アキはゆっくりと頷いた。
「……時々ね、自分のやってることに嫌気がさしてきて、とことん自分のことが嫌いになることがあるの。でも、自分に腹を立てているもう一人の自分が、とっても愛しく思えたりしてね。……私ってほんとバカみたいでしょ?」
 アキは、口許に笑いを含んだまま僕を見た。
「僕なんて、朝から晩まで自己嫌悪の連続だよ。……ねえ、どこか喫茶店にでも入って、温かいコーヒーでも飲もうよ」
 彼女は小さく微笑むと、自分の傘を閉じて、僕の傘の下に入ってきた。

                   5

 それからまた、アキを『ATOM』の外で待ち、アパートまで送っていくといった関係に僕らは戻った。表面的には、僕らは元の状態に戻ったように見えた。でも、僕の心の隅では、あのサナダという男とアキとの関係が今後どんなふうになっていくんだろうといった不安が、心の中でいつも小さな黒い渦を巻いていた。
  もしかしたら、サナダという男と直接会って、アキのことについて話をつけなくてはならないのではないかという漠然とした予感もあった。
 でも、その予感は、意外にも早く現実のものとなって現れることになった。

 アキと雨の中で話をしてから三日後の夜、僕はいつものように『ATOM』で本を読みながら、彼女の仕事が終わるのを待っていた。
 その時、前の席に誰かが座る気配を感じて、僕は読んでいた本からチラリと目を上げた。痩せた長髪の男が、うつむき加減でテーブルに座る姿が見えた。時折この店で見かける常連客の一人だった。そんな程度の意識のまま、また僕は読みかけの本に視線を戻した。
 アキらしい人影が近づいてきて、水の入ったグラスがテーブルの上に勢いよく置かれたときになって、ようやく僕は目の前の男が、例のサナダという男らしいということに気づいた。
 本を開いたままテーブルの上に置き、僕はあらためて顔を上げた。
 テーブルの横に突っ立ったまま、アキは困惑をあらわにした表情で、その男に向かって何か喋りかけていた。
 アキがどんなことを言っているのか、スピーカーの音のせいで僕の耳にまでは届かなかった。
 男は、どうでもいいといった投げやりな視線でアキを見上げながら、何も言わずに時折首を横に振った。
 アキが、今にも泣き出しそうな顔つきを浮かべ、カウンターへ戻っていってから、その男は神経質そうな視線でしばらく僕を正面から凝視めていた。それから、おもむろにテーブルから身を乗りだすと、僕にむかって声をかけてきた。
「あの、スギモトさんですか……?」
 僕は背もたれに寄りかかったまま、できるだけ何気ない態度を装って彼の顔を見た。でも本当は心臓が喉元からせり上がってきそうなほど不安な気持ちだった。
「そうだけど、あんた、誰?」と、僕は低い声で訊いた。
「ごめん、オレ、サナダっていう者なんだけど、ちょっと二人だけで話をしたいんだ。悪いんだけど、どこか別な場所へ行けないかな」
「……何の話?」と僕は、わざととぼけて訊き返した。
 男は、かすかに口ごもる様子を見せてから、
「……ちょっとアキのことなんだけどさ」と、男はカウンターのところに立っているアキを横目で眺めた。
 断ってやろうかという考えも一瞬脳裏を横切った。でもそうすることは、相手に自分の背中を見せて逃げるようなものだ。
「……いいよ」と無造作に答えてから、僕はレシートを握りしめてイスから立ち上がった。ひるむような態度を、男には絶対に見せたくなかった。
 男は僕の前を、チラリとアキを横目で見てから、店の外へと出ていった。
 お金を払いにカウンターに寄った僕に、
「ここにいてよ。あなたが、アイツと話す必要なんて全然ないんだから。これは私とアイツのことなのよ」と訴える口調でアキが言った。
「それはわかってる。ちょっと話をしてくるだけだよ」 僕は、心配げなアキの顔を振りきって、すぐに店を出た。
 もしかしたら、ドアを出た途端、男が僕に殴りかかってくるのではないかと身構える気持ちもあった。でも、舗道に出てみると、男はうなだれた様子で 仄明るい街灯の下に佇んでいるだけだった。
  拍子抜けした気持ちで、僕は男のそばに近づいていった。僕らはお互い押し黙ったまま、なんとなく駅へ通じる道を歩きはじめた。男は、ずっと足下へ視線を落としたまま力なさそうに歩いていた。

 僕らは、駅の手前にある居酒屋に入って、小さなテーブルに向かいあわせに腰を下ろした。店の中は、ジーンズをはいた学生風の男女や、仕事帰りのサラリーマンたちで混みあっていた。
 ビールとつまみをバイトの店員に注文したところで、僕ははじめて男の顔を正面からまじまじと凝視めた。
 頬骨が飛び出るほど痩せた顔の中で、細めた目の下瞼が、神経質そうにピクピクと震えていた。への字型につり上がった眉の間には、深い縦皺が刻まれている。
 この男のどんなところにアキは惹かれたんだろうかと、そんなことを僕はぼんやりと思った。
 男はしばらくテーブルの上に視線を漂わせた後で、意を決するような顔つきを浮かべ、僕を見た。
「アキとは、うまくいきそうかい?」
 男は無理に笑顔を作ろうとしたようだが、僕には腹痛でも我慢しているような苦悶の表情にしか見えなかった。
 僕は、彼の目から視線をはずさないで、
「さあ、どうだろう」と曖昧に答えた。
「いい娘だよ、アキは。素直だし、やさしいし、顔も可愛いし。……ただ、ちょっと気が強いところがあるけどな」と言ってから、男はふたたび視線をテーブルに落とした。
 その姿勢のまま、男は何かを思案するようにしばらく口を閉ざしていた。
 それから不意に顔を上げると、下卑た薄笑いを口元に浮かべた。
「もうアイツを抱いたのかい?」
 一瞬、目の前の男に激しい憎悪の感情を覚えたが、無表情を装ったまま僕は黙っていた。
「……アイツが、俺の前にどんな男とつきあっていたか知ってるかい?」
 僕は、ゆっくりと首を横に振った。
「高校時代に、演劇部に入っていた一つ年上の男さ……その男って、授業中は、セン公の話なんか聞きもしないで、本を読んだり劇の脚本を書いたりしてるような風変わりなヤツでさ、アキはそいつが卒業するまでずっとつきあっていたんだ。
 それが、アイツの最初の男ってわけさ」
 男は胸ポケットからタバコを取り出して火をつけた。そして、大きく煙を吐くと再び口を開いた。
「……オレとは、こっちに来てからつきあうようになったんだ。
 同じクラスから東京に出てきた連中でたまたま集まる機会があってね、それからだよ。もう二年くらいになるかな」
  男は、ふたたび黙り込むと何か考えるような目つきになった。
 僕は、その男の顔を見るともなく見ていた。
 ふいに、また男が僕を見て、口を開いた。
「もうアンタにもわかってると思うけど、アイツのテクニック、すごいだろう?
 二年前につきあい始めて、最初にアイツを抱いた時からセックスは上手かったよ。恥ずかしい話なんだけどさ、じつはオレ、アイツが最初の女でね。セックスのことはわからなくて、全部リードしてやってもらったんだ。
 アイツ、高校時代にあの演劇野郎から色々と教えてもらっていたんだ。
 でも、それからはオレも毎晩アイツとやりまくったよ」
  男は、テーブルのグラスを掴むと、ひと口水を啜った。
「……それにしても、よくよく考えたら、オレみたいなぐうたらな男と、よく二年ももったと思うよ。
 最近は、会うたびに別れる別れないでケンカばかりしてたけどな。
 でも本当を言えばさ、オレはまだアイツとは別れたくないんだ。未練があるんだよ。もう一度最初からやり直したいくらいなんだ」
 そう呟くと、男は深くうなだれたまま声を押し殺して泣き始めた。
 店員がやってきて、威勢のいい声とともにビールのジョッキを二つ置いていった。
 それからさらに二十分ばかりビールを飲みながら僕は男のグチめいた告白を聞き続けた。

 店の前で男と別れてから、僕は、黒い塊の心を抱いて自分のアパートにむかって歩いた。激しく高ぶった気持ちを静めるために、僕は何度も深く息を吸った。
  暗闇を歩いていると、男の喋っていた言葉が、くり返し僕の耳許に鮮やかに蘇ってきた。
『……オレも毎晩アイツとやりまくったよ』 
  あの男が、裸のアキと交わっているイメージが、鮮烈な映像となって目の前に浮かび上がってきた。
 後頭部のあたりを、血がドクドクと脈打っていた。体中の血が逆流して、眩暈がしそうだった。

                   6

 都会の夜空を渡って遙か遠くから救急車のサイレン音が伝わってきた。それにあわせて近所の犬たちが哀しげな遠吠えをくり返し響かせた。
 電車のレール音が、闇の彼方をガタガタと通り抜けていった。
 なまあたたかい風が、そっと流れてきて、僕の髪を揺らせて通りすぎていった。
 どれくらいの間、僕は闇の中に佇んでいただろう。
 僕は、このまま自分の部屋に帰ってしまおうか、それともアキのアパートに行こうか、ずっと迷っていた。
 部屋に帰り、思いっきりビールでも煽って、このまま布団をかぶって眠ってしまいたかった。でも心の一方では、今すぐアキのところに行き、男の言っていた言葉の真偽をひとつひとつ確かめてみたいという狂おしい想いが僕を激しく揺さぶっていた。
 いや、真偽なんて確かめる必要などない。何も言わずに、アキをベッドに押し倒し、衣服を剥ぎ取って、無理矢理にでも彼女の体を犯してしまいたかった。
 僕は、自分のアパートに向かって力なく二、三歩進みかけた。
 でも、もう一度立ちどまり、迷ったあげく今度はアキのアパートへと足の向きを変えた。
 いったん歩きはじめると、もう迷いは消えていた。

 途中『ATOM』に寄ってアキの姿がないことを確かめた。
 アキの部屋のドアをノックすると、彼女は僕をずっと待っていたかのように、すぐにドアを開けた。
 入り口に立ったまま、彼女は不安げな目つきで僕をじっと凝視めていた。僕も黙ったまま彼女の瞳を見た。
 しばらくして彼女は、何も言わずに僕を部屋の中に招き入れた。
 僕は、靴を脱いで中に入ると、すぐにベッドの端に腰を下ろした。
 このベッドの上で、アキはあの男に抱かれていたのだろうか。そういう疑念が、ふっと僕の胸をよぎった。その疑念は、鋭い痛みを伴って僕の心の奥まで突き刺さってきた。
 僕は、ぼんやりと部屋の中を見回した。
 こんな苛々した心を抱いたまま、なぜこんなところにいなければならないのか、自分でもわけがわからなかった。
 僕の隣にアキが腰を下ろす気配が伝わってきた。
「……なに喋ってきたの?」と、戸惑いがちのアキの声が聞こえた。
「べつに」
「あの人、どんなこと言ってた?」
「……いろいろだよ」
「たとえばどんなこと?」
「……さあ、忘れた」
「あなたは何か喋ったの?」
「いや。あいつの話を聞いて、それで帰ってきただけだよ」
「ねえ、あの人どんなこと言ってたの? 本当は覚えてるんでしょう? 私にも教えてよ」
「まだ君とは別れたくないって泣いてたよ。それだけさ」
 アキは、納得できないといった目つきで僕を見た。僕は黙ったまま、玄関のドアのあたりを眺めていた。
 胸の中で、様々な想いが激しくぶつかり合っていた。
 僕は横を向き、右手でアキの頬を寄せて、彼女の唇にキスしようとした。
「やめて、今はそんな気分じゃないわ」と、アキは顔をそむけようとした。
「僕とキスするのは嫌かい」
「そんなこと言ってないでしょ。今はそんな気分じゃないのよ」
 アキの言葉を無視して、僕はもう一度彼女の頬を、僕の方へ引き寄せた。
 彼女は抗おうともせず、仕方なさそうに顔を僕の方へ向けた。
 彼女の唇に、僕は自分の唇をかさねた。でもそれは、まるで乾いた砂でも舐めているような気のない口づけだった。
「ねえ、君が抱きたいんだ。いいだろう?」と僕は彼女の耳許で囁いた。
 彼女は何も言わずに小さく首を横に振った。
「どうしてダメなんだよ」
「ごめんなさい。まだそこまでは嫌なの」
「頼むよ」
 ふたたび彼女は首を横に振った。
〈あのサナダという男には、毎晩抱かれていたんだろう?〉という言葉が、つい喉元までこみ上げてきた。
 僕はふたたび彼女に口づけしながら、彼女の体を両腕で強く抱きしめた。それからゆっくりとベッドに押し倒した。
「やめてよ!」
 僕はアキの声を無視して、Tシャツの上から彼女の胸をまさぐった。ふくよかな感触が、掌の下で柔らかく揺れた。
「ねえ、やめてったら!」とアキは、強い力で僕の手の動きをとめようとした。
 でも僕はやめなかった。
「ねえ、スギモト君、いったいどうしちゃったのよ!?」
 アキの手から、だんだんと力が抜けていった。
 どれくらいの間、彼女の胸をまさぐり続けていたのかわからない。
 ふと気がつくと、アキはまるで能面のような無表情を貼りつかせたまま、焦点の合わない目で僕を見上げていた。それは、どこか遠い景色でも眺めているような哀しげな視線だった。
「……満足した?」
 しばらくして、感情の欠けたアキの声が聞こえた。
 僕は、何も答えなかった。
「あなたって、こんなことする人だったの?」
「君が好きなんだ」と、僕はようやくの思いで、それだけ言った。
 アキは、少しの間何も言わなかった。
「……サナダ君なんでしょう?」
 アキの目が、じっと僕を凝視めた。
「あの人、私とのセックスのこと、ぜんぶ話しちゃったんでしょう? そうなんでしょう? だからあなた、私を無理矢理抱こうとしたんでしょう?」
 僕は、仕方がなく小さく頷いた。
「あの人、私とのことを、全部あなたにバラしてやるって私を脅かしてたの。でも、まさか本当に喋っちゃうとは思ってなかったわ」
 アキは小さく息を呑んでから、ゆっくりとため息を洩らした。彼女の瞳に見る見る涙が溢れてきた。涙は大きく山盛りになり、不意に堰を切って頬を流れ落ちていった。
「私のこと、淫乱な女だって思ったんでしょう? そうなんでしょう?」とアキは泣きながら訊いた。
「……いや」と、僕は首を横に振った。 
「うそ。あの人の話を聞いて、私なんてすぐにセックスさせるような女だって思ったんでしょう? そうなんでしょう、違う? 本当のこと言いなさいよ」
 アキは、流れ落ちる涙を拭いもせず、哀しげな視線で僕を睨みつけた。
「そんなことないよ」
「だったら、私が嫌だっていうのに、どうして無理矢理こんなことしたのよ?」
「君が好きなんだ。だから前から抱きたいって思ってた」
「ウソ言わないでよ!」
「ウソじゃない。君が好きなんだ」
 涙に濡れたアキの瞳の奥で、切羽詰まった哀切な炎がギラギラと燃えていた。
「だったら、どうして私が好きなの?」
「そんなの説明できないよ。ただ好きなだけなんだ」
「私って、右足も普通じゃないし、高校時代からセックスしてたような淫乱な女なのよ。それでも私のこと好きなの?」
 僕は彼女の目を見たまま小さく頷いた。
 アキは、黙って僕の顔を凝視めていた。
「……あなたの前に、二人の男とつきあっていたのよ」
「知ってるよ。でも、もう終わってしまったことなんだろう?」
 彼女は、小さく頷いた。
「……でも、本当にいいの?」
「君が好きなんだ」
 アキは、黙ったまま僕の顔をじっと見ていた。
「……ねえ、わかってほしいの。右足の悪い女の子が、男の子から好きだって言われて、どんなふうに思うか。もしかしたら、こんなチャンス、もう二度とやって来ないんじゃないかって、とっても不安になるの。だから、その男の子に必死にすがりついちゃうのよ。その男の子に嫌われないようにするために、普通の女の子以上になんでも尽くしちゃうの。それくらい不安になるのよ。ねえ、わかる?」
「……わかったよ、もう何も言わなくていい」
 しばらくしてから彼女の手がゆっくりと伸びてきて、僕の顔をやさしい仕草で触れた。
「……私のこと本当に好きなんだったら、もっと大切にして。さっきみたいに、私のこと、物か何かのように乱暴に扱わないでほしいの」
「ゴメン、悪かった。もう二度としない」
「お願いよ。私もあなたのこと、できるだけ大切にするから」
 アキの腕が首に絡みついてきて、僕を強く抱きしめた。
「ねえ、中に入れたい?」
「うん、もちろん」と僕は頷いた。
 僕はアキの唇にゆっくりと自分の唇を重ねた。
 彼女の唇は、塩っぽい味がした。
   
                   7

「……ねえサナダ君のこと、まだ覚えている?」という言葉で、アキと出会った頃の様々な出来事が一瞬のうちに僕の脳裏を駆け抜けていった。
 あの頃、本当に色々なことがあった。
 でも、その後一緒に生活するようになってから、僕らは本当にいいパートナーだったと思う。だからこそ、あの頃のことを多少は懐かしい気持ちで想い出すことができるのだろう。
 アキはじっと僕の顔を凝視めたまま、荒い息を整えるように何度か深い呼吸を繰り返した。
 僕はアキにむかって小さく頷いてから、いったいサナダのどんな話なんだろうかと訝る気持ちで、彼女の目を凝視めた。
 彼女の瞳には、まだ決心がつきかねている戸惑いの光が微かに揺れていた。
 アキは、僕からそっと目をそらすと、天井の方をぼんやりと眺めながら、おもむろに口を開いた。
「あのね……私、彼とつき合っていた頃、じつは妊娠しちゃったことがあるの……それも一回だけじゃなくて、二回……」
 そこまで喋ると、アキは僕の表情の変化を気にするようにチラリと横目で僕を見た。
  僕は黙ったまま、アキを見ていた。心の中の動揺をできるだけ押し隠すように無表情の仮面を装ったまま。
「……それで、お腹の子どもは二回とも堕ろしちゃったの。二人目の子どもを堕ろす手術を受けた時にね、じつはお医者さんから、もう二度と子どもはできないかもしれないって言われたの。手術があまりうまくいかなくてね、その後遺症が出るかもしれないって。
 ……私たちに子どもができなかったのは、きっとそのせいなんだって思うの。
 あなた、とっても子どもをほしがっていたでしょう。だから、何度も言おうとしたんだけど、このことだけはやっぱり言えなかった。ほんとよ、何度も言おうとしたのよ。でも言えなかった」
 上を向いて喋っているアキの瞳に、涙がみるみる溢れてきた。盛り上がった涙が、窓の明かりを映して宝石のように光り輝いて見えた。山なりに盛り上がった涙は、ふいに目尻から溢れ出ると、耳許へと流れ落ちていった。
 目に残った涙の粒で、長い睫が濡れていた。 
「あなたのこと騙してるなって、ずっと思ってた」
 途中から、アキは涙声になっていた。
「……ねえ、私って本当にひどい女でしょう……」
 僕は、アキの泣き顔を見ながら、首を大きく横に振った。
「……そのことだったら前から知ってたよ」と、僕はできるだけ軽い口調で言った。
 アキが、信じられないといった目で僕を見た。
「ほら、サナダって男と『ATOM』から出てって二人だけで話をしたことがあっただろう。君には黙ってたんだけど、あの時アイツ、君に二回子どもを堕ろさせたんだって話をしてたんだ。だから、そのことはあの時からずっと知ってた」
「……どうして、私に黙ってたの?」
「……だって、そんなこと言ってもしょうがないだろう。もう終わってしまったことだし、それに、君の過去にいちいち振り回されたくなかったんだ」
 見ると、アキはじっと僕から目を離さずに、喰い入るような視線で僕の話に耳を傾けていた。
  僕は、アキを安心させるようにできるだけ柔らかい微笑を顔一杯に浮かべた。
「だからさ、もうそんなこと気にするなよ。それに子どもなんかできなくたっていいじゃないか。それよりも、君が元気でいてくれればそれで充分なんだよ」
「私、あなたのことずっと騙してきたひどい女なのよ」
「だから、もうそんなことはどうでもいいんだ。それよりも、早く君に元気になってもらいたいんだ」
 アキは、しばらくの間、大きく見開いた目で、じっと僕の顔を睨みつけていた。それから、ほっと大きな溜息を洩らすと、骨と皮だけの痩せた右手を僕に向かって差し出した。
 僕は黙ったまま、両手で彼女の右掌をやさしく包みこんだ。
「ねえ、さっき言ってた『ブレードランナー』って映画、いつ封切りになるの?」
「来月だよ」
「退院したら一緒に観に行きましょうね」
「うん、もちろん」
「約束よ」
 僕は大きく頷いた。
 アキは微かな笑みを浮かべてから、ゆっくりと目を閉じた。
 しばらくすると、アキは小さな寝息をたてはじめた。
 僕は彼女が眠っているのを確かめてから、彼女の右手をベッドの上に戻し、胸までタオルケットを引き上げて、そっと病室を抜け出た。

  病院の屋上は、相変わらず強い風が吹いていた。
 僕は、一階の売店で買ってきたばかりのタバコの封を引きちぎって、中から一本抜き出した。
 タバコを吸うなんて、アキと結婚してから本当に五年ぶりくらいのことだった。
  僕はタバコを口に銜えたまま、ぼんやりとした気持ちで金網の外の景色を眺めていた。
  アキは、僕のついた嘘に気づいただろうか。
 サナダからアキの堕胎について、すでに聞いて知っていたなんて、じつはアキを安心させるために咄嗟に思いついた作り話だった。
  でも、感受性の鋭いアキのことだから、きっと僕の嘘を見抜いていながら、わざと騙されたふりをしていたのかもしれない。
 そんなことを考えながら、僕は口に銜えていたタバコに火をつけようとした。
 でもその時になって初めて、僕はマッチを買い忘れてきたことに気づいた。
 僕は、仕方がなく口に銜えていたタバコを屋上の床に放り捨てた。それから右手に持っていたタバコの箱を強く握りしめてから、強風の吹きつける空に向かって力いっぱい投げつけた。
 もうこの東京の街には何の未練もない。温もりも何もない都会の生活にはうんざりだ。もしもアキが死んでしまったら、彼女の遺骨を抱いて故郷の北海道に帰ろう。そう思った。
 僕の投げたタバコの箱は、風下へと押し流されながらも、ゆるやかな曲線を描いて、都会の薄汚れた街の中へと吸い込まれていった。

 

【帯広市図書館「市民文藝」第39号1999年発行 掲載】