ポロシリ岳の麓にて

「なあ、ちょっと待てよ……」
 僕は、教室のドアを開けて、帰ろうとしているタカシの背中に声をかけた。
 タカシは、僕の声など聞こえないかのような素振りで、そのまま廊下に姿を消した。
 もう何回同じことを繰り返したらいいんだろう。そんなウンザリした気持ちだった。タカシを引き留めるなんて、もう諦めようかと思った。でも「教師」としての使命感が、僕の背中を押した。
 廊下に出て、ようやく追いついた彼の肩掛けカバンのひもをつかんだ。
「なあタカシ、これから掃除だって言ってるだろう」と、できるだけ優しい声で言った。
「……るっせいな!」
 激しい力で肩ひもが引っ張られ、一瞬のうちに僕の掌から抜けていた。痛みの感触だけが指先に残った。
「オレは忙しいんだよ。教室の掃除なんて、やりたいヤツだけで、やりゃあいいだろ!」
 太い声で怒鳴りながら、タカシは僕を横目で睨みつけてくる。 
 激しい気迫に、僕は一瞬たじろいでしまう。
「……でも、みんなで使ってる教室だろう。ちゃんと掃除をしなくちゃ……」
 タカシは返事もせずに僕を睨んでいる。僕とほとんど背丈は変わらないが、タカシが睨んでくると、かなりの威圧感がある。
 教室のドアから他の生徒達が顔を出し、僕とタカシのやりとりを興味深そうに眺めている。彼らの手前、なんとか教師としての威信を保たなくてはと思う。でも現実の僕は、威信もヘッタクレもないくらい悲惨な状況だ。
 無言で突っ立っている僕を置いて、タカシがおもむろに踵を返すと、再び悠々と胸を張って玄関に歩き始める。
「なあ……」そう声をかけただけで、玄関から彼の姿が消え去るまで、僕はほとんど動けずにいた。今日も、彼を引き止めることができなかった。そんな苦い想いだけが、口の奧から湧き上がってきた。
 
 タカシの転入以来、僕は彼のことでずっと悩んでいた。どんなふうに彼と接したらいいのか、どう指導したらいいのかわからずに、一人で落ち込んでいた。
 タカシは、ひと月前に帯広市内の大規模校から、ポロシリ岳の麓にある、この三十人足らずの僻地校に転校してきたのだった。
 転校は、彼の非行問題で手がつけられなくなり、仲間との関係を切るための措置だったという噂や、両親が離婚して、祖母の家に預けられたのだという噂もあったが、本当のところは誰にもわからなかった。
 タカシは、僕の学級に入ってきたその日から、すぐに身勝手な行動を始めた。制服は裾を長く伸ばした長ラン。授業中は、机に俯して眠ったまま教師の話など聞こうともしない。給食や掃除などの係活動も行わない。他の生徒の手伝いをするようにと言っても、返事もしなければ動こうともしない。
 それまで十人の生徒達との親密で家庭的な学級の雰囲気は、たちまち壊れてしまった。地元の生徒達は、彼の我が儘放題と威圧的な態度にすっかり怯えきり、それを止めることができないでいる担任の僕に、徐々に不信感を抱くようになっていた。
 そして僕は僕で、タカシが転校さえしてこなければ、以前通り楽しく学級経営ができたのにと、彼の存在を、ただ呪わしいものに考えるようになっていた。
 教師になって二年目の秋のことだった。

 事件が起きたのは、翌週のことだった。
 放課後、職員室の僕のところに、クラスの女子が息せき切ってやってきた。ダイスケとヒロシが、タカシに呼び出されて体育館の裏手へ連れて行かれたのだという。たまたま職員室に、他の教師は誰もいなかった。自分一人で対応するのは心配だったけれど、仕方がなかった。心の中で揺れる不安を振り払って、僕はすぐに職員玄関から外に飛び出した。
 走っていくと、体育館の裏手の木々が茂ったあたりに黒い人影が見えた。
「おい、そこで何をやってるんだ!」
 大きな声を張り上げて近づいていった。くっついていた人影があわてて離れる。
 その場に着くと、ダイスケが地面の上に座り込み、タカシのすぐ横にヒロシが俯くように佇んでいた。
「こんなところで何やってるんだよ?」と言いながら、ゆっくりと三人を見回した。
 タカシがニタニタと不敵な笑いを口元に浮かべている。
「俺たち別に何もしてないよなあ。ちょっと話してただけだよなあ?」とヒロシとダイスケの顔をチラリと眺める。
 ヒロシとダイスケは何も答えない。僕と目を合わさないようにじっと下を向いている。
「何もしていないのなら、なんでこんな人目のつかない場所でコソコソしてるんだ?」
「何もコソコソなんてしてねえよ。ちょっと内緒の話をしてただけじゃねえか!」と、タカシがふて腐れたように答える。
 よく見ると、座り込んでいるダイスケの頬が赤く腫れているのがわかった。タカシに殴られた痕に違いない。そんな直感があった。
「ダイスケ、ヒロシ、ここで何をやってたんだ?先生に本当のことを話してくれ……」
 二人は俯いたまま、何も答えようとしない。
「じゃあ、俺は先に帰ってるからな……」とタカシが立ち去りかけた。
「おい待てよ!まだ話は終わってないぞ!」
 タカシの不遜な態度に、これまでずっと押さえてきた感情が、一気に弾けようとしていた。今日だけは、このまま済ますわけにはいかない。そんな決心めいたものが僕の中で熱く沸騰しかけていた。
「ダイスケ、その頬はどうしたんだ?どうして、赤く腫れてるんだ?」
 ダイスケは何も答えない。正直に話して後からタカシに仕返しされるのが怖いのだ。
「ヒロシ、おまえは知ってるんだろう?先生にちゃんと話してくれよ……」
 訊いたが、ヒロシも答えない。
 タカシ自身の口から、事実を言わせるしかないようだった。
「なあ、何でダイスケが、頬を赤くして地面に座り込んでるんだ?その理由を、ちゃんと俺に説明してくれ」
「知らねえよ、そんなこと! 転んで、どっかにぶつけたんじゃねえのか?」
「俺を甘く見るなよ!」と怒鳴ってから僕はタカシの胸ぐらをつかんだ。
「新米の教師だと思って、俺をバカにしてるのか。今日は、このままでは済まさないぞ!」
 怒鳴りながら、自分の声が緊張で震えているのが自分でもわかった。実はこんな行動に出たのは、教師になって初めてのことだった。心臓がドキドキと激しく打っていた。
「お前が、二人を呼びだして、ここに連れてきたってことは、クラスの女子だって、ちゃんと見てるんだからな。ここで、何をしてたか、俺に全部話せ。話さなかったら、ここからは帰さないぞ!」
 タカシは、表情ひとつ変えずに僕を睨んでいる。僕も意地になって彼を睨み返した。
「いったい二人に、何をしてたんだ?」
 襟首をつかんだ手に力を入れた。
 その時だった。タカシの肘が振り上がったと思った瞬間、視界がひっくり返った。気がつくと僕は地面から木々に覆われた青い空を見上げていた。顔面の痛みよりも、予想外の進展に激しく動揺していた。僕は、あわてて立ち上がった。
「こんなもんで、俺がまいると思うなよ。さあ、殴れるもんなら、もう一度殴ってみろよ」と、僕は再びタカシの胸ぐらをつかんだ。
「離せよ!」と喚きながら、タカシは僕の腕を引き離そうとする。でも、僕は手をほどかなかった。
「離せったら!」
「うるさい!全部正直に話すまで、離さないからな!」感情が沸騰して、僕は完全に我を忘れていた。
 間もなく駆けつけてきた他の教師達によって二人が引き離されるまで、僕は彼をつかんだ手を決してほどかなかった。

「なあ、杉山先生。あんたは、タカシを一方的に悪者だと決めつけてないか……」
 事件の後、校長室に呼ばれた。タカシが転校してきてからひと月間の様子を全て話した後で、髭面の校長先生が僕に向かって話し始めたのは、そんな内容のことだった。
「確かにあの子は、授業も聞かないし、係活動もしない。あんたが、せっかく作ってきたクラスのいい雰囲気をぶち壊してしまった。担任のあんたにとって、彼は悪者でしかないのかもしれない。でも、それはあんたが彼の陰の面しか見ようとしていないからじゃないのか?人間誰だって他人より優れてる面もあれば、劣っている面だってある。大人の我々だってそうなんだから、中学二年生の子供はなおさらのことだ。それを、大人のあんたが彼の陰の面しか見ないとしたら、彼の立つ瀬がないじゃないか。
 子供っていうのは、誰だって、自分の存在を他人から認めてもらいたいと望んでる筈だ。あんたは、そんなタカシの気持ちを理解しようとしたり、彼の立場でものを考えたり、そんな努力はしてきたかな?
 親と離れて、おばあちゃんと二人暮らしだという。そんな中学二年生の寂しい気持ちというものを、あんたは教師として理解しようとしたことがあるだろうか?
 タカシを、どのように指導しようかと考える前に、まずは、彼を理解するところから始めた方がいいんじゃないかのな?……」

 事件から二日間、タカシは学校を休んだ。
 二日目の夕方、僕は迷ったあげく彼の家を訪れることにした。
 そこは、集落のはずれにある、やや傾きかけた古い板壁の家屋だった。狭い玄関に入ると靴や小物が乱雑に散らかっていた。開け放した引き戸から部屋の中を覗く。薄暗い茶の間の真ん中に薪ストーブが勢いよく燃えていて、その横で子猫が三匹気持ちよさそうに寝ていた。
 何度か声をかけると、奥の部屋から顔を出してきたのは、ミケの子猫を胸に抱いたタカシだった。
 彼は僕の姿を見ると、一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに僕を睨みつける険しい顔つきに変わった。
「やあ、昨日と今日はどうした? 連絡がなかったもんだからさ、心配でちょっと様子を見に来てみたんだ」
 できるだけ明るい口調を装って言った。内心、彼がどんな対応に出てくるか、とても不安だった。でも彼は何も言わなかった。
「おばあちゃんはいないのか?」
「……いねえよ」と無愛想に答える。
「そっか……」
 やっぱり、このまま帰ろうかと思った。でも、そうしたらタカシとの関係は今までと何も変わらない。思い切って心を決めた。
「ちょっと入ってもいいかな?」
 彼の返事を待たずに、靴を脱いで茶の間に入っていった。
「いやあ、こういう家、懐かしいなぁ。俺の死んだ爺ちゃんもさ、鹿追の田舎でこんな家に住んで畑を耕してたんだ」
 そう言いながら、ストーブの横に座った。
「猫、たくさんいるんだなぁ」と、ストーブの横の猫を一匹、膝の上に乗せた。
 タカシは突っ立ったまま、相変わらず険しい目つきで僕を見下ろしている。
「猫、好きか?」
 とにかく何か喋り続けていなければ、不安でしようがなかった。
「猫ってさ、子猫の時は可愛いけど、大きくなったら生意気になってさ、俺はあんまり好きじゃないんだ。まだ犬の方が従順で、俺は好きだな……これって、人間の側の我が儘なのかな?」
  僕は、膝の上の子猫の首を撫でながらタカシの顔を見上げた。彼は、相変わらず表情のない顔で僕を見ている。僕は、心に湧いてくる言葉のままに話し続けた。
「……タカシがここに来るまでのクラスってさ、教師としては、とっても指導しやすい学級だったんだ。たいした苦労もなかったしさ。
 ……でも、タカシが来てから、前のようには思い通りにいかなくなった。
 ……今から考えると、オレの指導が良かったからうまくいってたんじゃなくて、田舎の生徒って、みんな従順だから、それでうまくいってただけなんだよな。最近、やっとそいういうことに気がついたよ」
 そう言って、僕は口の中で小さく笑った。
「帯広と比べたらさ、ここの生活は寂しいだろう?俺も、帯広育ちだからさ、田舎の生活に慣れるのに半年以上もかかったよ。でも慣れてくると、ここもいいもんだって思えるようになってきたよ。それに、クラスの連中だってさ、帯広の中学生なんかに比べたら、みんな真面目で、嘘なんかつかないし、気持ちだってずっと優しいだろう? そうは思わないか……?」
  タカシの顔を見ると、彼の目から険しさが消えていた。今こそ、この二日間ずっと考えてきた自分の想いを、彼に伝えるチャンスなのかもしれないと感じた。
「……あのさ、実は俺、今日タカシに謝りに来たんだ。タカシが転校してきてからさ、俺はお前にずいぶんと厳しいことばかり言ってきたような気がするんだ。
 きっとお前なりに頑張ろうという気持ちはあったと思うんだけど、ついつい他の生徒と見比べちゃうもんだからさ、お前の努力が見えなかったんだろうな。それで、お前の気持ちを傷つけるようなことも、色々と言ってきたんじゃないかなと思ってさ……そうだったら、謝るよ。悪かったな……
 これからさ、お前にも協力してもらって、みんなでいいクラス、作って行きたいんだ。だからさ、頼むよ。俺も頑張るしさ……」
 そのまま、しばらく膝の上の子猫の頭を撫でていた。タカシが何か言ってくれるのではないかと、彼の反応を待っていた。三十秒くらいが重苦しく過ぎていった。でもタカシは黙ったまま何も言おうとはしなかった。
「……じゃあ、言いたいことは言っちゃったしさ、俺はそろそろ帰ることにするよ」
 僕は膝の上の子猫をストーブの横に下ろしてから、ゆっくりと立ち上がった。
「おばあちゃんによろしく伝えておいてくれな。……学校、来いよ。待ってるからさ」そう言って、最後にもう一度タカシの顔を見た。彼は、考え事をしているような表情で、僕の足元のあたりを眺めていた。
  靴を履いて、家の外に出ると、夕暮れ特有の濃紺の空を背景に、ポロシリ岳の暗いシルエットが眼前に迫って見えた。ひんやりとした冷気を僕は胸の奥まで吸い込んだ。久しぶりに清々しい気分が僕を包んだ。

 翌週の月曜日、打ち合わせの前に教室を覗くと、タカシが自分のイスに座っていた。
 一瞬の躊躇を振り捨てて「おはよう!」と、威勢よく声をかけた。でも、タカシはそっぽを向いたまま返事をしようともしない。
 『金八先生』じゃあるまいし、たった一度の家庭訪問くらいで急に彼が変貌する訳がないと、落ち込みかけた気持を奮い立たせた。
 たった今、新しい闘いが始まったばかりなんだ。そう自分に言い聞かせて、僕はタカシの机に近づいていった。

【十勝毎日新聞 2003年(平成15年)6月15日 掲載】