また逢う日まで

 私が、たまたま札幌駅横にある大きな書店に立ち寄ったのは、京都方面の旅行ガイドブックを買おうと思いたったからだった。
 エスカレーターの乗り口に向かってゆっくりと歩いている時、視界の横を通り過ぎたシルエットが、不意に心の隅に引っかかった。
 あらためて、その人影を目で追ってみる。ややうつむき加減に歩く三十前くらいの男の後姿は、間違いなく隆史だった。最後に彼と別れてから、もう八年くらいになる。
 彼は、雑誌が並んでいる棚の方へとゆっくりした足取りで歩いていくところだった。
 私は、一瞬の迷いを振り切り、隆史の方へと急ぎ足で近づいていくと、その背中に思い切って声をかけた。
「岡本くん……じゃない?」

 

 思いもかけない場所で自分の名前を呼ばれて、僕は、あわてて声の方へと振り返った。
 一目で、自分を見ている女性が「怜子」だとわかった。でも、まるで夢でも見ているようで、実感を伴って確信するまでに、しばらく時間がかかった。
 彼女と最後に会ったのは、大学を卒業する直前の春のことだ。電話で呼び出して、大学近くの喫茶店で二時間ほど話をした。
「……やあ、久しぶり」と、僕はやっとの思いで応えながら、改めて怜子の顔を見た。
 ショートカットだった髪型が、OL風に肩のあたりできちんと切りそろえられている。化粧の仕方が昔と変わったせいか、全体的に艶っぽい印象がある。でも、他は何も変わっていない。リスのようにくりっとした目許も、ツンとすまし気味の鼻も、強い意志を感じさせる唇も、何もかもが以前のままだ。
「……元気そうね」
「うん、まあ、なんとかやってる……」
「……ねえ、今、時間ある? よかったらコーヒーでも飲みながら話さない?」
 彼女の誘いで、僕らは書店の二階にある喫茶店に入った。そして、窓向きのカウンター席に並んで腰掛けた。
「確か、市立図書館で司書の仕事をしてるんだったよね」と、先に僕の方から訊いた。
「ええ、今も同じところで働いてるわ……岡本君は、根室管内の中学校だったわよね」
「うん。大学を卒業して根室管内の薫別っていう小さな中学校に赴任したんだけど、五年前に、転勤で十勝に戻ってきた。今は日高山脈の麓にある中学校で働いてる」
「ふうん、そうだったの」と怜子が相づちを打ってから、再び僕らの間にちょっとした沈黙が漂った。

 

 ふと心の中に、八年前の喫茶店での情景が、色鮮やかに蘇ってきた。

 あの日、喫茶店で会った時、隆史は今にも泣き出しそうな目で私を見つめていた。
「本気で君のことが好きなんだ。できれば君と結婚したいと思ってる」
 正直、嬉しいと思った。隆史のことは、以前から嫌いではなかったし、男友達としては好意を抱いていたからだ。
「……ありがとう。私のこと、そんな風に思ってくれてるなんて嬉しいわ。ホントに。……でも、あなたも知ってるように、私には、今つきあっている人がいるの……」
「松崎だろう。それはわかってる。それを承知の上で、自分の気持ちを伝えてるんだ」
 黙ったまま、私はテーブルの上を見ていた。
「……私、松崎君を支えてあげたいの。あの人、才能もあるし、強がりで我がままだけど、本当は寂しがり屋で、心の弱い人なの……」
「あいつと一緒になったって、君は幸せにはなれないよ。あいつは、文学的な才能はあるかもしれないけど、生活能力は、まるでない奴だから」
 隆史の言うとおりだと思った。それは私の方が痛いほどわかってる。
「ねえ、僕と一緒に根室に行かないか。海辺の小さな中学校らしいんだけれど、君には、きちんとした暮らしはさせてあげられると思う。君の幸せは保証するよ」
 隆史の力強い言葉に心が揺れた。
 隆史は、松崎とは違って、何か特別な才能に秀でたというタイプではない。堅実で真面目だけが取り柄のような男だ。でも、家庭を持つとなると、隆史のような平凡な男の方がいいのかもしれない。本気で、そう思った。
「岡本君。あなたはとっても真面目で、心のやさしい、いい人だと思うわ」
「そんな言い方、やめてくれ。……いい人だなんて言われても、ちっとも嬉しくなんかないよ」と隆史が駄々っ子のように声を荒げる。
「……私、あなたのことバカになんかしてないわ。あなたのこと、いい人だって心の底から思ってる。あなたと一緒になれば、きっと幸せになれるだろうなって」
「だったら、一緒に行こう」
(いいわよ)という言葉が喉元まで出かかってきた。心の揺れが激しくなる。様々な思いが頭の中でぐるぐると回っていて、眩暈がしそうなほどだった。
「……でも、何も言わずに松崎君と別れるなんてできないわ。……ねえ、こういうことではどうかしら。今ここで、あなたから聞いた言葉を、そのまま松崎君に伝える。そして、彼から私と別れてもいいって返答をもらったら、私、あなたの所に行くことにするわ」
 一瞬、隆史の目に、疑り深そうな光が宿った。私の言葉を信じていいのかどうなのか、隆史は明らかに迷っていた。
 そんな隆史の表情を眺めながら、私は自分を狡い女だと思った。自らの手を汚さないで、私の未来を、二人の男に決めさせようとしている。そんな身勝手で無責任な自分の言葉に、微かな自己嫌悪を覚えた。
「はっきりした結論が出るまでに、しばらく時間がかかるかもしれないけれど、待っていてくれるかしら?」
 じっと私を見つめていた隆史が、ゆっくりと頷いた。他に選択の道はないという、半ば諦めの表情だった。
 隆史は、軽く溜め息をつくと、力を込めるようにして喋り始めた。
「ここに、帯広の僕の実家の電話番号と住所が書いてある。何かあったら、ここに問い合わせてほしい。僕の連絡先が分かるようにしておくから。これから一年間、僕は君のことをずっと待つ。……でも、一年たっても何の連絡もないときは、それが君と松崎の間の結論だと思って諦めることにする」
 隆史は、五分ほど押し黙った後、「じゃあ、いい返事を待ってるよ」と言い置いて喫茶店から出ていった。
 ドアを閉める瞬間、隆史は振り返って私を見つめた。あの時の、不安と疑念と期待とに激しく揺れ動く彼の目つきを、私は忘れることができない。

 

「松崎は、元気なのかい?……小説家としてすぐに活躍するかと思っていたけど、まだそんな様子も見られないし」
「松崎君とは、この三年くらいずっと会っていないから、最近のことは私もよくわからないわ」 
「……そうか」と呟きながら、僕は、松崎の神経質そうな目つきを思い返していた。
「結局、アイツとは結婚しなかったんだな」 僕は、怜子の左手の薬指をチラリと眺め、それからおもむろに自分の左手の薬指へと視線を移した。そのどちらにも指輪は見えない。
「……あれから色々とあったのよ」と答えながら、怜子は額にかかっている前髪をゆっくりと耳の後へと掻き上げた。
「僕も、色々とあったよ……」
「お互い、紆余曲折の八年間を過ごしてきたってわけね」
 気がつくと、喫茶店に入ってから、三十分以上が過ぎていた。
「もうこんな時間だ。友達と駅で待ち合わせをしてるんだ。そろそろ行かなくちゃ」と僕は、腕時計の時刻を確認しながら言った。
「ねえ、岡本君……」と、怜子が改まった口調で、僕の方を向いた。
「八年前のことは、その後、何も連絡をしなくて悪かったと思ってるわ」
「そのことはもういい。それが、君と松崎の間の結論だと受け取ってるから」
「……私、どういう結論にせよ、きちんと岡本君に返事をすべきだと思ってた。喫茶店で別れてから約束の一年間、きっと岡本君は、毎日毎日私からの連絡を待っているんだろうなって思ってた。何も連絡しないことで、岡本君を苦しめているんだろうって」
「それは……もう、過ぎたことだよ」
「ごめんなさい、私、この場を借りて、あなたに謝るわ」
 怜子の謝罪に、どんなふうに応えればいいのかわからないまま、僕は怜子のほっそりとした指を見つめた。あの時、この美しい指は、僕の手を握ってはくれなかった。
「でも、あの時、岡本君が私に言ってくれた言葉を忘れたことは一度もなかったわ。実は、その後、岡本君に連絡を取ろうかって、真剣に考えたことがあったの。でも、約束の一年を過ぎた後になってから連絡を取るなんて卑怯だと思って諦めてたの。
 今日、こうやってあなたに再会できたのは、何かの巡り合わせなんだわ……今日は、私の方から、あなたに告白するわ。この八年間、ずっとあなたことを考えてた。あなたと結婚すれば、私はきっと幸せになれるだろうって」
 怜子は、ハンドバッグから手帳を取り出すと、メモを走り書きしてから、そのページを切り裂いて僕の方に差し出した。
「これ、私の携帯番号。もしも、あなたが、今からでも私と一緒になってもいいって考えてくれるのなら、ここに電話をちょうだい。あの時のあなたと同じように、これから一年間、私も、あなたの返事をずっと待つわ。もしも何の連絡もなかったら、それがあなたの結論だと受け取ることにする」
 僕は、黙ったまま、そのメモを受け取った。
「じゃあ、今日は私が先に喫茶店を出るわね」と言い置いて、怜子が席を立った。
 喫茶店から立ち去る怜子の顔つきは、とても寂しげで哀れだった。

 

 薄暗くなりかけた駅前通りを、大通公園に向かってゆっくりと歩いた。私の脇を、大勢の人が早足に通り過ぎてゆく。
 ふと舗道沿いの街路樹を見上げる。淡い紫色の蕾を持ったライラックの枝が頭上に広がっている。
 八年前、隆史の言葉を松崎に伝えた時、松崎は、涙をポロポロと流しながら『オレを見捨てないでくれ』と土下座をして私に懇願した。そんな哀れな松崎を見ていて、私は、とても松崎を捨てることなんてできないと改めて思った。松崎が別れてもいいと答えるなんて、実は最初から予想はしていなかった。
 その後、隆史に何も連絡しなかったのは、松崎と私の関係が破綻した時に、いつでも私を迎え入れてくれる避難場所として、隆史を確保しておきたいというエゴイスティックな判断からだった。
 大学を卒業してからしばらくの間は、松崎と二人で幸せな生活を送ることができた。作家になるという松崎の夢も、いつか叶うのではないかと、そんな甘い思いに二人浸っていられる時期もあった。
 でも実際に、そんなに簡単に夢がかなうことはなかった。松崎の小説は、いつまでたっても新人賞を獲得することも、出版されることもなかった。それどころか、スランプに陥って、だんだんと何も書けなくなっていった。
 そんなある日、突然、暴力が始まった。
 普段とは別人のような底冷たい目で私を睨み、「部屋が片付いていない」とか「口の利き方が生意気だ」とか、時には「オレに隠れて岡本に会っているんだろう」などと怒鳴り、私の髪を鷲づかみにして部屋の中を引きずり回した。そして顔面や胸や腹部など、ところかまわず殴りつけてきた。時には、足で蹴り上げられることもあった。一時の感情の高ぶりが収まると、泣きながら「ゴメン。オレを許してくれ」と涙を流して謝るのだが、また二、三日もしないうちに狂気が吹き荒れた。
 松崎の暴力には二年ほど耐えたが、最後は実家に逃げ帰った。
 一週間ほどして、松崎が、突然実家にやって来た。呼び鈴で玄関のドアを開けると、目の前に松崎が立っていた。
「オマエは、オレから逃げて、岡本と一緒になるつもりなんだろう!」と指を差され、鬼のような形相で睨まれた。恐怖で足が竦み、身動きひとつできなかった。
 松崎との件が落ち着いて、ようやく三年ほどになる。
 これから一年間、隆史からどのような返事がくるかわからないけれど、とにかく待つことにしよう。そう心に決めながら、私はライラックの枝を見上げた。

 

 僕が、札幌駅正面のドアを入ると、白い石のモニュメントの前に立っていた妻が、すぐに僕に気づいて片手を上げた。妻の仕草で、娘も僕に気がつき、「パパ!」と大声を上げながら駆け寄ってくる。
 僕は、娘の手を握ると、ゆっくりとした足取りで妻のところへと近づいていった。
「ゴメン、遅くなっちゃった。しばらく待っただろう?」
「いいの。私たちも今来たところだから」
「それはよかった。実は、そこの本屋さんで、大学時代の友達にあってさ」
「そうだったの……あら、あなた、結婚指輪は?」と妻が、僕の左手を眺めながら訊いた。
「え?」と答えて、僕は自分の左手を見た。
 そういえば、書店で怜子に声をかけられた時、そっと結婚指輪をはずしたのだった。
 あの時、僕の心を暗い欲望の陰が横切っていった。
「さっき、急に左手全体が鈍く痛んでね。それで指輪をはずしてみたんだ。もう大丈夫、治ったから」と呟きながら、僕は上着の左ポケットから結婚指輪を取り出し、薬指に押し込んだ。
「パパ、お腹空いたよ」と娘が大声を上げた。
「よし、何が食べたい?」
「ラーメン!」
「わかった。ラーメンにしよう!」と言いながら、娘の手を引いて歩き始める。
  今の、この生活が、自分には最高の幸せだと、僕は改めてしみじみと思う。
 大学を卒業してからの一年間、本当に苦しい日々だった。来る日も来る日も怜子からの連絡を待ち続けた。でも結局、何の返事も貰えなかった。松崎と話し合って結論を出すなんていう怜子の言葉に、うまく騙されたのかもしれないと彼女を疑うこともあった。それでも、やはり怜子のことが忘れられなかった。
 今の妻とは、そんな頃に出会った。彼女は、隣の小学校の教員だった。怜子のことを忘れるためにつきあい始め、妊娠を機に、そのまま結婚してしまった。決して妻には言えないが、それが正直なところだ。
 でも、今となってみると、本当にいい相手と巡りあったと思う。寛容で、心やさしく、知的でユーモアにも長けている。自分には過ぎた妻だ。今の、この幸せな家庭を手放すなんて夢にも考えられない。
 さっき怜子から渡された携帯番号のメモは、書店を出る時にゴミ箱に捨ててしまった。そのことに何の躊躇も感じなかった。
「お昼もラーメンだったじゃないの?」と妻の声が背中から聞こえてきたが、僕は娘とつないだ手を大きく振りながら歩き続けた。