この世の果て

              1

「タオル、落としたわよ」
 やや前屈みの姿勢のまま、左手で手術の傷口のあたりを押さえ、右手で点滴のキャリアーを押して歩いている時だった。歳若い女の子の冷やかで固い声が、僕の後頭部に突き刺さってきた。
 僕はゆっくりと首を傾け、足元の床を眺める。くの字型に力なく折れ曲がった白いタオルが、一メートルほど背後に横たわっていた。それから改めて、僕は声の飛んできた方角へと首を捩じった。見ると、十五、六歳くらいの女の子が、睨みつけるような鋭い目つきで僕を凝視めている。そんな彼女の強い視線への戸惑いと、気がついたのなら拾ってくれてもいいのにという軽い不満とを同時に覚えながら、僕は、その時点で浮かべられる最大限の笑顔を作って、「どうもありがとう」と答えることにした。
 僕は、大きく溜め息を吐きだしてから、ゆっくりと百八十度方向転換し、タオルの地点まで移動して、静かに呼吸を整えた。そしてできるだけ腹筋に負担がかからないように足の爪先に力を入れ、へっぴり腰の姿勢で屈み込んだ。瞬間、右横腹の手術痕に、ナイフでも突き刺さるような痛みが走った。
 僕は、じっと床にしゃがみ込んだまま、痛みの波が引いていくの待った。
 見上げると、その女の子は、まるで敵に向かって銃を構えている若い兵士のような怯えた表情で、僕を凝視めていた。
 そんな所で突っ立っているのなら、手伝ってくれてもいいじゃないかと舌打ちしたい気持ちで、僕は自分より二十歳ちかくも年下に見えるその女の子を睨み返していた。
 それが、ぼくとヒカルの出会いだった。
 ヒカルは、三つ編みの髪を左肩に垂らし、大きな花柄模様のダブダブのピンクのパジャマを着て、まるで空から突き落とされてきた天使のように不意に僕の前に立っていた。でも、その天使の顔色は、いかにも長期の病人らしく透明で青白く、生まれてから一度も陽光を浴びたことがないドラキュラのようだった。
 その後、ヒカルと親しくなって、その時のことを話す機会が何度かあった。
「私ね、できれば杉山さんのタオル、すぐにでも拾ってあげたかったの。本当によ。でもね、お医者さんや看護婦さんから、病人にとって何でも自分でやることが一番のリハビリなんだっていつも言い聞かされていたから、ここで手伝ったら杉山さんのためにならないんだって我慢していたの。でも屈み込んで、とっても痛そうにしていた時、私、可哀相で涙が出そうになっちゃったわ」
 彼女の話を聞いていると、羽根をもぎとられた天使が、我々の住むこの薄汚れた世界で生きてゆくために、泥まみれになって悪戦苦闘しているイメージが、僕の脳裏に鮮やかに浮かんできた。

 その日、ヒカルに初めて出会ったのは、右側の腎臓の摘出手術を受けて、まだ一週間ほどしか経っていない頃のことだった。
 手術の傷口からは二本のチューブが飛び出し、鎖骨下には輸滴用のゴム管が挿入されたままだった。そして、起きている間も眠っている間も、僕の体にはいつも点滴の液体が注ぎ込まれていた。歩く時は老人のように腰をくの字に曲げ、トイレに行く以外はベッドに力無く横たわっているしかなかった。
 そもそも腎臓の摘出手術などという思いもかけない出来事は、定期健康診断の尿検査で、出血が認められたことから始まった。市内の病院で精密検診を受けてみると、小さな白い突起が、空豆大の腎臓の中にぼんやりと浮かんで見えた。
「何か、腫瘍のようなものがあるみたいですね」と、まだ三十代そこそこの年下の医者に軽い口調で言われた時、まるで南極の氷山の上に立たされたような寒々とした気持ちになった。
「良性か悪性か調べてみなくては分かりませんが、まだ小さいし、そんなに心配することはありません」という医者の言葉に、僕は必死にしがみついていた。
 その後、幾つかの検査を繰り返した後、「このままでは腎臓の機能にも影響を与えてくると思いますので、とりあえず開腹手術をして、最悪の場合は右側の腎臓を取ってしまったほうがいいですね」と医者に告げられ、『最悪の場合』とは何を指すのかも納得できないまま、僕は手術台に乗ることになった。
 手術までの数週間、眠れない夜が幾度も訪れた。もしも腫瘍が悪性だったら……残された人生があと僅かだとしたら……。ふと、そんな不安が心をかすめた。
 僕は、まるで闇の中を手探りするような心細さで、改めて自分の人生を振り返ってみた。
 小学校時代から高校時代まで、成績はずっと人並み。さして個性のある方でもなかったから、クラスの中ではほとんど目立つこともなかった。そして、勉強ができたり、スポーツが得意だったり、女の子にモテたりする男達に対して、いつも羨望の気持ちを抱き、自分に自信が持てたことはほとんどなかった。大学時代に知り合った今の妻と恋愛結婚したものの、子どもには恵まれなかったし、その妻とも今は別居中だった。
 仕事は、二度ほど転職して、現在は小さな広告会社でデザインの仕事をしていたが、生きがいというほどのものを仕事の中に見出せたことはない。
 他人に自慢したり、これが自分の生の証だと指し示すことができるような物を、僕は何一つ持っていないような気がしてならなかった。もしこのまま死んでしまえば、自分の名前も、生きていた痕跡も、あっさりとこの世から消えていってしまうに違いなかった。自分なりには、悪戦苦闘を乗り越えてなんとか生き抜いてきたつもりだったが、そんな些細な人生しか、僕は送ってこなかったのだ。でも、そう思うと、泣きたいほどの寂しさに僕は激しく胸を突かれて仕方がなかった。僕は、まだ三十五歳という若さで、病院の一室で独り寂しく死んでいくには早すぎた。まだ自分には可能性があり、なすべき沢山の事があり、もしかしたら人生の成功が待っているのかもしれなかった。それらの無限の未来を捨て、この世を離れていくなんて残酷すぎると思った。
 不安な気持ちのまま、ついに手術の日がきた。
 手術が行われ、麻酔から目醒めて二晩、傷口が激しく痛んだ。朦朧とした意識のなかで、いろんな人達が夢の中に現れ、意味の分からない言葉を喋り、次々と消えていった。大学時代に自殺した友人や、ガンで死んだ祖父や祖母もやって来たような気がした。その人達の言葉と、脇腹の疼痛とが溶け合って、打ち寄せる波のように僕を襲い、意識の奥で激しい渦を巻いた。
 三日目に痛みが引き、意識がはっきりしてきた。とりあえず生き延びたんだという実感が湧いてきたのはその頃だ。

 

 

              2

「生きていくことは、そんなに辛いことではないけれど、お医者さん達から自分の体が、まるで物か何かのように扱われるのが、とってもやり切れないの……自分でも、とっても歯がゆいし……」
 ヒカルは、時折そんなセリフを、大人のような分別臭い顔つきで呟くことがあった。
 抜糸が過ぎ、点滴も一日に二本ほどに減ってから、僕は毎日病院の階段を登ったり降りたりして体力作りを始めることにした。一階から五階までの階段を一歩ずつ踏みしめながら登り降りしていると、どこからともなくヒカルが現れて僕に声をかけてくる。
 どうして二人がそんな風に親しくなってしまったのか、正直のところ僕にも分からない。タオルの一件があってから、廊下ですれ違えば何となく挨拶を交わすようになり、ちょとした雑談から、いつの間にか僕とヒカルはよい話し相手になっていた。ただ一つの難点と言えば、年が二十も離れていて、傍から見ると、まるで親子に見えるということくらいだった。
 階段を登り下りしながら二人の話が弾んでくると、僕たちは手近な場所に腰掛けることにした。それは大抵、外来用の待合室か患者用の食堂の中だった。
 ヒカルは、いつも両足をイスの端に載せて両腕で膝を抱えながら、まるで小鳥の囀りのように軽やかに言葉を発した。
「なんて言ったらいいのかしら、本当の私は、この胸の中に、心の中に住んでいるのよ。男の子のように活発で明るくって、でも実は繊細で傷つきやすくって、すぐに落ち込んじゃうごくごく普通の夢見がちな女の子なの。でも私の身体も生活も、外側はなーんにも女の子らしくなんかないわ。おしっこは毎日検査され、看護婦さん達には何百回も注射を打たれて腕はブス色だらけ。まわりは病気を持ったオジンや年寄りばっかり。年頃の男の子はどこにもいない。朝目が醒めた時から、夜寝るまで、白い壁のコンクリートの建物の中に閉じ込められたまま。これじゃ刑務所の囚人よりひどいわ」
 そう言うと、彼女は諦めたような目つきで天井を見上げた。
「君は、どこから見ても元気で明るく、チャーミングで素敵な女の子だよ。たまたま体のどこかに、正常じゃない部分があるだけさ。でも九十九パーセントは普通の女の子と全く同じだ」
「どうして、たった一パーセントの違いで、こんな受刑者みたいな暗い人生を送らなくちゃならないのかしら?」
 僕は、喉元まで出かかった言葉を飲み込む。「それが、君の運命だからさ」でも、十五の女の子には、あまりに酷な言葉だ。
 何も言えずに、口ごもったまま唸っていると
「ごめんなさい。何か八つ当たりしているみたいね。時々、誰かに愚痴ってみたくなるの」と、ため息まじりにヒカルが呟く。
「分かってる。三十五になっても、毎日一回くらいは人に愚痴りたくなるんだ。君なら五回くらいは当たり前だ」
 彼女は、真っ直ぐ前の壁を見たまま口の中で笑った。
「私、物心ついた時から、入退院の繰り返しだったの。まだ小さくて、外で思いっきり体を動かしたい年頃に、ベッドから降りることも許されず、絵本を読んだりテレビを見たりゲームをしたりの窮屈な毎日で、いつもお家に帰りたいって泣いていたわ。『もう治ったからお家に帰れるわよ』って退院するでしょう。でも、ひと月もしないうちに風邪をこじらせて、また再入院。そんな事の繰り返しだったの。小学校に通う歳頃になっても、ひと月やふた月の学校生活では友達なんてほとんどできなかった。顔と名前を覚えるくらいね。また入院するでしょ。症状が安定してきて再び学校に通う頃には、もうクラス替えが終わっているって具合。また最初からやり直しよ。小学校の三年生の時だけは、札幌の病院に入院していたの。病院と小学校が廊下で繋がっているやつね。私、色々と勉強してみたい年頃だったから親と離れて暮らすことは淋しかったけれど、病室の友達も多かったし、けっこう満足していたの。でも、たまに親が病院に顔を出した時に『人を見る目つきが悪くなった』とか言われて、四年生の時にまた帯広に戻されてきてしまったの。それからも入退院の繰り返し。一度、自分の病気の事を知りたくって近くの図書館で医学の専門書を読み漁ったこともあるの。だから、自分の病気のことは、医者並みによく知っているつもりよ。一万人に一人くらいの確率で発生する珍しい病気だってことや、原因がハッキリしていないってことや、今の治療の様子から、私の病状がどのような状態で、これから病気がどのように進行していくかってこともね」 ヒカルはそこまで一気に話すと、深いため息を吐きだした。
 ほんの十四、五で自分の人生を見限ってしまった女の子に、どのような言葉をかけるべきなのか、僕には見当もつかなかった。僕は、何も言えずに、壁に掛かった日高山脈の油絵をぼんやりと眺めた。廊下からは、忙しそうに歩くスリッパの足音や、どこかの病室のテレビの音や、苦しそうに呻く声や、廊下の片隅でひそひそと囁く話し声や、金属の触れ合う音などが聞こえてきた。
 僕は、戸惑いながらも励ましの言葉を口に出してみた。
「必ずしも本の通りに病気が進むっていうこともないんじゃないかな。医学だってどんどん進歩しているし、君の病気が今よりもずっとよくなって普通の女の子のように恋をしたり、結婚したりすることだって、できるようになるかもしれない」
「ありがとう、そんな風に慰めてもらえるのは嬉しいんだけれど、でも、間違いなく、そうはならないわ」
 彼女は、風でも切り落とすような鋭さで言い切った。
 彼女の病気のことも詳しく知らず、ましてや医療のことなど全く無知な僕は、それ以上言葉を継ぐことができなかった。でも、ヒカルがこの若さで、すでに人生を諦めていることがやり切れなくて、僕は突き動かされるような気持ちで口を開いた。
「病気をしているからって、自分の生き方や夢を変える必要なんてないんだ。ナンセンスだよ。生命が尽きるその日まで、自分のやりたいことをやり通せばいいんだ。明日死ぬのか、一年後に死ぬのか、それとも十年後なのか、三十年後なのか、そんなことは神様しか知らないことだ。病人だろうが健康な人だろうが同じことさ。とにかく生きてる限り、やりたい事をやり続けるだけだよ。途中で投げ出すことになってもいいじゃないか。そのツケは、生き残った者が払ってくれるさ。それくらいは甘えてもいいんじゃないのかな、特に君の場合は」
 ヒカルはしばらく何も言わず、自分の細い指先を眺めていた。そして、ポツリと「かもしれない」とだけ呟いた。
「自分から、自分の人生に見切りをつけないでほしいんだ。そんな人生、淋しいじゃないか」
 ヒカルは「うん」と呟きながら、こくりと頷いた。
 それから彼女は、三つ編みの髪を意味もなく弄んだ後で、
「夢がないわけじゃないのよ。でも入退院の繰り返しでしょう。とっても夢なんて叶えられる状態じゃないのよ。だから、淡い夢を抱いている自分自身が哀れになってくるの。最初から叶わないのなら、もう夢なんて持たない方がいいって何度も思った」
「分かるよ」
「うそ。杉山さんには分からないわ。お父さんにもお母さんにも、誰にも私の苦しみなんて分かりはしないわ」と彼女は、吐き捨てるような口調で呟いた。
 彼女の言うとおりだった。僕には彼女の苦しみなど分かりはしない。結局、僕は黙ったまま、しばらく薄汚れた壁を眺めた。それから、自分自身に語りかけるような気持ちで口を開いた。
「高校時代から、何か文章を書くことを職業にしたいと思っていて、大学を卒業してから、そのまま東京で三年ほど雑誌の編集者をやっていたことがあるんだ。とはいっても下請けの小さな編集プロダクションにすぎなかったけれどね。憧れの職業についたものの、編集プロダクションの編集者というのは、実際のところ消しゴムのような消耗品にすぎないんだ。つまり才能や体力が擦り切れてしまったら、その場でポイ捨てってことさ。徹夜と残業の連続で体が続かなくて、それに自分には文章を書く才能もないんだという事に気づいて、要するに夢破れて帯広に戻ってきたんだ」
 そこまで喋ってから、時々そうするように僕は目の前に掌を広げて、じっと手の皺を凝視めた。
「しばらくの間、文章を書くどころか、本屋に行って雑誌の棚を見るのさえ嫌だった。活字なんか見たくもなかった。そんな状態が五年くらい続いてね、でも最近になって、もう一度文章を書いてみたいって気持ちになってきた。下手でもいいから、楽しい気持ちで原稿用紙に向かいたいって思えるようになってきたんだ。それで最近はエッセイ教室に通ったりしている。できれば書き溜めたエッセイを、いつか本にまとめて出版できればと考えているんだ。死ぬまでに一冊でいい。それが今の僕のささやかな夢だ」
 ヒカルは返事をしなかった。
「健康な人間でも年をとるにしたがって、だんだんと夢は萎んでゆくものなんだ。でも夢がなくては人は生きていけない。どんなにちっぽけな夢であろうとね。それが、いざという時に心の強い支えになってくれるんだ。確かに、君の苦しみや悲しみは分からない。その通りだ。でも、これだけは言える。他人に甘ったれるな。ちっぽけな夢でもしがみつけ。夢をなくしたら死んだも同然だってね」
 それから五分くらい、僕たちは黙ったまま正面の壁を眺めた。
「私、透析があるの。もう行かなくっちゃ」と小声で言って、ヒカルは立ち上がった。
「ごめんなさい。心配してもらってるのは分かるの。ありがとう」 ヒカルは、弱々しい笑みを顔一杯に広げてから、さみしそうな背中を見せて歩きはじめた。
 床を滑るような彼女のスリッパの足音が、食堂から消え去った後も、僕はそのまま食堂のイスに座っていた。
 自分が、何かとても偉そうなことをヒカルに向かって口走ってしまったような気がして、僕は激しい自己嫌悪に陥っていた。
 まわりの親や医者から夢を持たされ、そして裏切られるという苦い経験を何度も繰り返して育ってきたのがヒカルなのだ。『誰にも私の苦しみなんて分かりはしないわ』と言えるのが、彼女の最後の砦なのだ。それさえも崩されたら、彼女は自ら命を絶って今の人生をやめるしか、他に逃げ道は残されていない。
 もう二度と、虚しい励ましなど止めよう。じっとヒカルの言葉に耳を傾けよう。彼女の哀しさを、黙って抱きしめてあげよう。
 それが、いちばんヒカルの望んでいることなのだ。
 そんな決心をしながら、僕はテーブルの上のガラスの花瓶が、太陽の光にキラキラと輝くのを眺めていた。

 

 

              3

「手術はうまくいったの?」と真澄は、僕の視線を避けるように、やや俯き加減のまま感情を抑えた声で呟いた。
「そうだと思う。今のところ経過も順調だしね。来週に、脊髄に腫瘍が転移していないかCTスキャナーで検査して、その結果がよければ、退院まで、そんなに長くはかからないないと思う」
「もし、脊髄に転移していたら?」と不安そうに真澄が訊く。
「腎臓と違って、脊髄ごと切り取るわけにはいかないだろう? つまり、お手あげってことじゃないか」と僕は、できるだけ軽い口調で答える。でも、その仮定は暗く、重すぎる。
 真澄は顔を上げ、険しい表情を浮かべて僕を見た。
「転移してなければいいわね」
「できればね」
 僕は、何気ない口ぶりで答えてから、彼女の背後の窓を眺めた。窓の外は、帯広の薄汚れた街並みの上に白く低い雲が垂れこめ、今にも雪の断片が舞い落ちてきそうな気配だった。空気が、重く冷やかに澱んでいるのが、室内からも感じ取れる。

 真澄の訪問は、午後遅くベッドの上で、うとうとと眠っている時のことだった。「杉山さん、お客さんだよ」と隣のベッドの男に声をかけられて目を開けるてみると、病室の入口付近に真澄がこわばった微笑を浮かべてこちらを見ていた。
 以前と比べるとまるで病人のように痩せこけて、顔色も透き通るような白さだった。でも幽霊のように壮絶で、消え入るような美しさが漂っていた。男のようなショートカットの髪を軽くウェーヴさせ、ほっそりしている真澄は、以前とはまるで別人のように若く見えた。茶色のニットのスーツも痩せた彼女によく似合っていた。
 僕の心の中では、今頃になって何しにやって来たんだという腹立ちと、やっと来てくれたかという嬉しさが同時に湧き起こった。どちらの表情を浮かべていいのか迷いながら、僕はぎこちなく笑みを作り、軽く頷いた。それから僕は真澄を誘って食堂に連れていった。
 テーブルを挟んで向かい合ったものの、口を開くきっかけが掴めず、しばらくお互いに黙っていた。
 やがて真澄が、テーブルの上に組んだ手の指先を凝視めながら、「腎臓、片方取ったんですってね?」
「まだ一つ残っているから、生活上は特に困ることはないんだ。問題と言えば、右半分の体重が左半分の体重より軽くなったことくらいかな。ただし、ほんの一〇〇グラムほどだけれどね」
 真澄は、口の中で小さく笑った。
「右側の腎臓に腫瘍ができてたんだ。まだほんの初期で小さかったから片方の腎臓だけで済んだ。左側が残っているだけ、ありがたいと思わなくちゃならない」と、僕は自分にい言い聞かすつもりで言った。
 それから僕は、定期健康診断の結果から始まり、右側の腎臓の摘出手術までの経過をかいつまんで説明することにした。真澄は、ほとんど口を挟むことなく、軽く相づちを打って聞いていた。
「連絡してくれれば、付添いくらいしてあげたのに」
 僕は黙ったまま、テーブルの上を眺めた。
 やや暫くしてから、真澄が、自嘲気味に微笑みながら「別な男のもとへ去っていった妻に、そんなこと頼めるわけ、ないわよね……」
 僕は、大きくため息を吐きだした。
「まだ君に対する憎しみが、完全に消え去った訳ではないんだ。……それだけじゃないけどね」
 口に出してしまってから、僕は言うべきではない言葉を話してしまったことに気づく。
「いえ、あなたの言う通りだわ」という真澄の低い呟きが、まるで彼女の足元から立ちのぼるように聞こえてきた。
 窓の外へ視線を動かすと、白い花びらのような雪が、暗い街を漂っていた。それは、ほんの試しに雪片を振りまいてみたといった感じの、わずかな雪の影にすぎなかった。
 いつしか僕は、一年前の同じ季節を思い返していた。

 真澄の様子が変だという事を感じはじめたのはいつ頃からだっただろう。時折遠くから僕を眺めるような目つき、夜の営みを誘った時の戸惑いの表情、帰宅した僕を迎える弱々しい笑み。彼女の心が僕から少しずつ離れていっているのではないかという疑惑が、小さな汚点のように胸の中に滲んでいた。まるで透明な氷のガラスが、僕と真澄の間を遮っているような気がしてならなかった。それは、単に夫婦の倦怠期だとか、僕の考えすぎというような事ではなかった。明らかに真澄の心が僕から離れはじめている兆候だった。
 だからある夜、真澄が「大事な話があるの」と、暗い表情で口に出した時も、どんな内容の話か、だいたい予想がついていたような気がする。
 僕と真澄は、小さな食卓テーブルに座り、薄い水割りを啜りながら向かい合った。
 風が強い夜で、窓ガラスと時折カタカタと揺れていた。
「今、付き合っている人がいるの」と、真澄はグラスを揺らしながら、何気ない口調で呟いた。それ以外、どんな言い方があるか戸惑っているかのように。
「相手は誰なんだ?」と僕も、できるだけ平静を装って訊く。薄氷の上をそっと歩いているような心もとない気分だ。氷の下のは、漆黒の闇を濁流の水が激しくうねっている。
「絵描きよ、沢田って。東京から郊外の農家の廃屋に移り住んで来て、油絵を描いている人なの」
 まるでロボットのような抑揚のない静かな声だ。
 僕は、しばらくサワダという名前を頭の中で思い巡らしてみる。ふと微かな記憶が蘇る。そう言えば、真澄が手伝っているタウン誌で、一年ほど前に載っていたようだ。確か、真澄が取材したとか言っていた。僕は、なんとなく納得する。
「いつ頃から付き合っているんだ?」
「付き合いはじめたのは、半年くらい前からかしら」
 その男の前で体を開き、僕にも体を開いていた、この半年間の真澄を想うと、やり切れない嫉妬心が湧いてくる。
 どんな事を考えながら、真澄は、同時に二人の男に抱かれていたのだろうか?
「それで、これからどうしたい?」
「今は、彼と一緒に住みたいと思っているわ。あなたには申し訳ないけれど」
「その男のほうが、魅力があるんだ」と僕は意地悪く訊く。
 彼女は、何かを訴えるような切ない瞳で、僕を凝視める。その時、僕は、改めて真澄を心から愛していることに気づく。そして、そんな自分に激しく落胆する。
「彼には、誰か手助けてあげる人が必要なの」
「その手助ける人は、君でなくてはならないのかい?」
「そうだと信じているわ、今は」
「その男のこと、愛しているんだな」
 彼女は、何も言わず、微かに頷く。
「……どっちみち、止めたって、家を出る決心をしていたんだろう?」と僕は投げやりに言う。「出てけ行けばいいじゃないか」
 僕は大きくため息をつきながら、グラスのウィスキーを呷った。「どっちみみ納得なんてできやしないさ。浮気をしたのも、家を出ていくのも君の一方的な判断なんだから」と僕は強い口調で言って、そのまま自分の部屋へ立ち去った。
 裏切られた自分が情けなく、侘しかった。
 その夜の話し合いから二日後に、真澄は自分の家財道具とともに家を出ていった。
 帰宅した僕は、がらんどうの家に入り、まるで知らない他人の家に紛れ込んだような戸惑いを覚えたものだ。
 十年あまりの結婚生活も、終わってみれば、まるで夢のようにあっけないものだという事を僕は知った。

「CT検査の結果、きっと大丈夫よ。そんな気がする。それに、あなた、まだ三十五じゃない。若いもの」
「今まで健康だったから知らなかっただけで、僕より若くても病気で死んでいく人間はたくさんいるんだ。つい二、三日前も、奥の個室で僕より若い男が死んだ。まだ二十八だ。奥さんと二人の子どもを残してだよ。どんな気持ちで死んで行ったのだろうと思うと、いくら他人事でも気持ちが暗くなる」
「かわいそうね」
「でも誰も助けることはできなかった。きっとそういう運命だったんだ」
「あなたは、大丈夫だわ」
「それは誰にも分からない」
「……私に何か手伝えることがあったら言ってね」
「手術は済んだし、今のところは特にないんだ、本当に」
 僕は、再び窓へ視線を移した。
 無数の雪の粉が、暗い街を背景に、静かに降っていた。そのまま静止してしまいそうなくらいゆっくりと、白い空から次々と舞い落ちてくる。
 何度か喉元まで出かかりながら言えなかった言葉。それを、僕はようやくの思いで口に出してみる。
「あの沢田という男とは、まだうまくいってるのかい?」
 真澄は、しばらく考え事をするような素振りを見せた後、弱々しい微笑を口許に浮かべた。
「今、東京の病院に入院してるわ」
「東京の病院? いつから?」
「もうひと月以上になるわ。最初は帯広の病院に入院してたんだけれど、東京から親がやって来て、向こうの病院に連れていってしまったの」
「どこか体が悪いのか?」
 真澄は、疲れた表情で小さく頭を横に振った。
「悩みすぎたのね。どんな絵を描くか、悩みすぎたんだわ」
 僕は、以前タウン誌で見た彼の顔写真を思い浮かべていた。黒縁のメガネをかけ、やや吊り上がった神経質そうな目が、正面を睨み付けていた。
「ひどかったのかい?」と僕は、真澄を慰めるように温かい口調で言った。
 彼女は三十秒ほど、息をつめるような真剣な目つきで、じっと僕の手のあたりを凝視めていた。それから、ホウッと息をつき、僕を見上げた。
「あの人が入院する頃は、夜も眠れなかったわ。殺されるような気がして……」そこまで言うと、彼女は大きく息を吸い込んだ。目には涙が溢れるほどに揺れている。胸の中に満ちてくる様々な思いを、必死になって堰き止めている激しさだ。
 真澄を慰める言葉を探してみたが、気軽に言えるセリフは何も浮かんでこなかった。僕は、じっと真澄を見ていた。
「もう今は、落ちついたのかい?」と、真澄の気持ちがおさまってきた頃を見計らって、僕は声をかけた。
 真澄は、「なんとかね」とかすれる声で囁いた。
 十年あまりの結婚生活にピリオドを打ち、新しい男の所へ飛び込んで行ったものの、一年も経ずに破綻してしまったことを、この女はどんなふうに受け止めているのだろうと、僕はふと考えてみた。哀れだとも言えるし、当然の報いだとも言える。
「これからどうする?」
「分からない」
「僕に何かできることがあったら言ってくれ……と言っても、こちらも、この先どうなるか分からないけどね」
「ありがとう」と呟いてから「今日は、あなたのお見舞いに来た筈だったのに」
「腎臓を一つ切り取られたばかりの病み上がりの男と、新しい生活に破綻した別れた妻とが、お互いに慰め合っている図というのは、もう救いようがなく哀れだな」
 僕と真澄は、囁くような笑い声をたてて微笑んでみる。
 お互い、人生最悪の事態にしては和やかな風景だ。
 それから僕と真澄は、二十分ほど、お互いの近況について話をした。
「それじゃ、仕事の途中だから、このへんで失礼するわ」と言いながら、真澄はイスから立ち上がった。
「CT検査の結果が出たら連絡するよ」と僕も立ち上がって、二、三歩足を踏みだす。その時、僕と真澄はは息がかかるほどの距離で、なんとなく静かに向かい合った。真澄の褐色の大きな瞳が、すぐ目の前で、僕を見つめていた。
 突然、真澄を抱きしめたい強い衝動が、流れ星のように鮮明に僕の胸を横切って消えていった。一瞬の激しい欲望だった。
 真澄も、そうされるのを待っていたのだろうか。
 永遠のような二秒か三秒間、僕たちは、まるで氷の像のように身動きもせず、凝視めあっていた。
 やがて、空気の粒子のようなものが二人の間を通りすぎ、僕は真澄から離れ、彼女の先になって食堂を出た。
 外は、本格的な雪降りになっていた。夕暮れのせまった薄暗い空から、大粒の雪が激しく落ちてくる。通りの両側にはオレンジ色の水銀灯が灯り、降っている雪の粒が、そのあたりだけ丸くオレンジ色に発光していた。遠い街の景色も、雪に霞んでいる。
 真澄は、玄関のガラス戸のところでふり返ると、哀しそうな作り笑いを浮かべ、右手を小さく振ってから、雪の中へ出ていった。
 寒そうに肩をすぼめて歩く真澄の後姿は、激しく降り続く雪に掻き消され、まもなく白い世界の彼方へと去っていった。

 

 

              4

「ねえ、昨日、食堂で話していた人、だれ? とってもきれいな人だったわね」
 階段を登り降りしていると、いつものようにヒカルが現れて、悪戯っぽく微笑みながら訊いてきた。
 僕は、黙ったまま階段を登り続けた。何か、その質問にすぐに答える気になれなかったのだ。
「ねえ誰? 杉山さんの奥さん? それとも彼女?」
 相変わらず好奇心に溢れた声音だった。
「まるで別れ話をしているみたいに深刻そうな顔してたわよ」
 僕は、足を止めて、ため息をついた。
「人には、あんまり他人に立ち入ってもらいたくない問題だってあるんだ」
「そんな冷たいこと言わないで、教えてくれたっていいじゃない? ねえ、誰だったの、あの人?」
「大人の事に、口出しするもんじゃない」と強い口調で言って、二秒も経たないうちに、僕は激しく後悔していた。
 僕は、ひと呼吸おいてから振り返ってヒカルを見下ろした。彼女の顔から表情が消えていた。爬虫類のように冷やかな目でしばらく僕を凝視めてから、無言のままクルリと体の向きを変え、ヒカルは静かに階段を降りはじめた。
 どうしようかと迷った。声を掛けようかと、喉元まで言葉が出かかった。でも三十五の中年男が、十五の女の子のご機嫌をとるために尻を追いかけるのが躊躇われて、そのまま僕は彼女の後姿を見送ることにした。
 多分ヒカルは、二度と僕のそばにさえ寄ってこないだろう。そう考えるとちょっと憂鬱だった。でも、もう仕方がないことだ。
 彼女の姿が消え去ってから、再び僕は階段を登りはじめた。五階まで登り、また一階まで降りてくる。その往復を三回繰り返したところで、僕は、方針の変更を決心した。
 最初に彼女の病室を覗いてみたが、ベッドに人影はなかった。食堂にも彼女の姿はなかった。どこだろうと思い巡らしながら階段を降りて一階の外来用の待合室に入って行った。人影のない閑散としたホールの東壁のイスに、膝を抱えた格好のピンクのパジャマが、じっと身動きもせずガラス窓の外を眺めていた。
 僕は、彼女から一つおいたイスに腰を下ろした。ちょうど正面の窓から、道路向かいの市役所や駐車場などを見渡すことができた。昨日降った雪は、朝からの晴天でほとんど融けてしまっていて、日陰にわずかに残っているだけだった。窓一杯に広がる澄んだ青空には、刷毛ではいたような絹雲がところどころに浮かんでいた。外は実に申し分のない天気だった。
「一年ほど前に、僕の奥さんが別の男とできてしまって、それで家を出ていってしまったんだ。それでずっと音信がなかったんだけれど、昨日突然、僕のところに顔を出してね……」
 ヒカルは、相変わらず銅像のように身動きひとつせず、じっと前方を睨みつけたままだ。呼吸までも止めているようだった。
「それで久しぶりに彼女と話をしていたんだ。アイツ、色々と事情があって、今は一人で生活しているらしいんだけれど、そんな話なんかをね……それが昨日のデートの全容ってわけさ。何もそんな面白い話じゃないだろう? 大人の世界って多かれ少なかれ、そんなくだらない事で溢れているのさ」
 僕は、ヒカルを横目で窺った。彼女は俯いて、目を閉じていた。「というわけで、君に尋ねられても、あんまり喜んで答えるような話題ではなかったんだ……最初からちゃんと答えればよかったんだけれど」
 まるで馬の吐くような、大きなため息が聞こえた。
「ごめんなさい、余計なこと訊いて」
 感情を抑えた冷たい声だった。
「別に、君が悪いわけじゃない。僕が、すぐに説明すればよかったんだ。でも、さっきはそんな気持ちになれなかった」
 ヒカルが両膝の間に顔を埋める。僕も、肺活量いっぱいのため息を吐く。目の前を、カルテを持った看護婦が通り過ぎる。
「まだ愛しているんでしょ?」
「え……?」
「奥さんのこと」
 僕は、五秒ほど絶句する。十五歳の女の子の思考回路には追いていけないものがある。
「どうしてそう思う?」
「だって、奥さんを凝視めてる時の目の輝きが、私と話している時と全然違っていたもの」
 僕は、ヒカルの言葉に苦笑してしまう。
「昔は、愛していた……彼女とは、同じ大学だったんだ。一目惚れでね。出合った頃の彼女って、まるで五月の新緑のようにキラキラと輝いていた。人混みの中でも、彼女の姿だけはハッとするくらい目立ってた。頭も切れたし、かなりの美人だったしね。でも、決して鼻にかけるようなタイプではなかった。カミソリの刃のように、自分も他人も傷つけながら、純粋そのものに生きようとしていた。そんなところに魅かれたんだ」
「きっと魅力的な人だったんでしょうね」
 そうだ、とっても魅力的だったんだと、僕は心の中で呟いた。
 よく真澄と喫茶店に入っては、高橋和己、坂口安吾、石原吉郎、ヘミングウエイ、ドストエフスキー、ボールドウインと、読んだばかりの作家の小説の感想を交流しながら、僕たちは人生の意味について何時間も語り合った。僕と真澄は喫茶店のテーブルに向かい合い、いつまで話していても飽きることがなかった。
 それから大学三年の夏に、初めて真澄を抱いた夜、僕はどんなに幸せだったことだろう。僕は、まるで世界を手に入れたような喜びを覚えた。できれば世界中の人々に向かって、自分の幸せな気持ちを大声で知らせてあげたいほどだった。『真澄が、今夜、僕のものになったんだ!』と。
 大学を卒業して二年後に僕たちは結婚した。結婚してしばらくは、小説の話とか、一緒に見に行った映画の話などを熱心に交わしていたのが、いつ頃からか僕と真澄は日常の出来事しか話さなくなっていた。かつて喫茶店で何時間話していても話題が尽きなかったのに、いつしか僕と真澄の間では話す事柄がなくなってきていた。
 そして、初めて真澄を抱いた夜に覚えたセックスの感動も、まるでブラウン管の向こう側のテレビドラマのように、色褪せたものになってきていた。それが結婚生活というものなのだろうか。
 でも彼女に男ができた話を聞いた時、僕は激しく嫉妬した。彼女を失いたくないと強く渇望した。日常の生活に押し流されていただけで、僕の真澄を愛する気持ちは、きっと地下水のように暗闇の奥底深く流れ続けていたのだ。
 でもその事に気づいた時は、もう手遅れだった。
「今は愛してないの?」というヒカルの言葉で、僕は我に返った。「彼女が家を出る時は、激しい嫉妬と落胆を感じたから、きっと愛してはいたんだろうと思う」
「今、奥さんのこと、抱きたいって思う?」
 僕は、ヒカルが冗談で訊いているのかと思って、彼女の横顔を凝視めた。でも彼女の瞳は真剣だった。
「抱きたくないって言えば嘘になるかな」
「じゃあ、私のこと抱いてみたいって思う?」
 僕は、内心驚いて、改めてヒカルの横顔を凝視めた。
「冗談よ」と、ヒカルは何気ない口調で呟いただけだった。
 窓の外を見上げると、真っ青な空を背景に、十数羽の鳩が、白い羽を輝かせて駆け抜けてゆくところだった。
 僕は、十五歳の少女の内側で、狂おしく蠢いている鬱屈したエネルギーの激しさを感じながら、素知らぬ振りで外の景色を眺め続けていた。

 

 

              5

 CTスキャナーで脊椎を検査するという前夜、僕はなかなか寝つけなかった。
 病室の空気は乾燥しきっていて鼻や喉がカラカラに乾き、水を飲むために何度も起きなければならなかった。ベッドに横になっていても背中のマットがいつもより硬く感じられ、繰り返し寝返りをうった。その上、体が妙に火照って、タオルケットを掛けているだけで暑苦しかった。
 もしも脊椎に腫瘍の細胞が見つかったらどうしよう。そうなったとしたら、あと何年くらい生きていられるのだろうか。ベッドの上で苦しみもがいて、死んでいくことになるのだろうか。
 そんなことを考えていると、病室に漂う暗闇の重みが、得体のしれない生き物ように僕の上にのしかかり、喉元を圧迫してくるような気がしてくる。だんだんと鼓動は早まり、呼吸をするのも苦しくなる。脇のあたりは、冷や汗でべっとりと濡れている。

 『脊椎は、麻酔が効きにくい場所なので、ガンが転移すると、苦しみ抜いた挙げ句に死ぬことになるんですよ』と語っていた同じ病室の近藤という初老の男の事を僕は思い返していた。
 それは、その日の午後のことだった。
「ちょっと、こっちに来てご覧なさいよ」
 彼は、僕にというよりも同室の患者や付添いに向けて誘いの声をかけた。たまたま病室にいた患者やら付添いやらで、お互いの病気について話を交わしている時だった。近藤老人が、自分の手術の痕を見せてあげると言ってベッドに横になり、パジャマのズボンを股のあたりまで下げた。僕を含めて何人かが、彼のベッドのまわりにおそるおそる集まった。
 覗き込んだ僕の視線が、目の前に蠢く物体に釘付けになった。
 ピンク色の円筒形をした臓器が、腹の中から外側に三センチほど突出して、ピクピクと蠕動運動していた。ちょうど、臍とペニスの中間あたりの場所だ。円筒形の筒の内側は細かな突起が無数に並んでいて、濡れたように輝いていた。そして、その臓器と腹部の一部を、半透明なゴム状のカバーが覆っている。カバーからは細いビニール管がベッドサイドのビニール袋へと通じていた。
「この飛び出ているものが、今の私の膀胱でもあり、オチンチンでもあるという訳です。私の、ホントの膀胱は摘出されていて、もうこの世には存在しません。このピンク色に飛びだしているヤツ、これは、実は私の小腸の一部を切り取ったものなんです。これに腎臓からの尿管をくっつけて、今は膀胱とおちんちんを兼ねて使っているという訳なんです。そして、ここから排泄された尿は、このビニール管を通って、こちらの袋に集まります」
 そこまで丁寧に説明すると、彼は、再び傷口のあたりにガーゼを被せ、ゆっくりとズボンを引き上げた。
 彼の傷痕を見た者すべてが、異様な緊張の表情を頬に張りつけたまま、動くこともできず突っ立っていた。
「私の場合、ガンが見つかった時には、もう膀胱全体に広がっていて、こうするより仕方がなかったんです。もう二年前になります。今は見慣れましたが、手術後に初めてこの傷口を見た時には、我ながらおぞましくてショックでした。自分でも、凝視することができなかったほどです。これが自分の体の一部なのかって、我ながら情けなくて泣けてきました」
 近藤老人は、ベッドに腰掛けると、銀色の髪をなでつけながら、あたりの顔を見回した。彼の顔つきは笑っていたが、目の奥には、人生を諦めたような淋しさが漂っていた。
「もう今じゃ、残された短い人生を、自分なりに満足のいくように生きていければいいと考えてますが、手術してから一年くらいは、すっかり気持ちも塞いで、じっと家に閉じこもっているだけでしたね。外出しようなんて気も起きなかった。それこそ大きな棺桶の中で、半分死人のような気分で、かろうじて生きているだけでした。でも、これではイカン。まだ生きているのに、こんな死んだような気持ちになってたらイカン、と思えるようになったのが手術して一年くらい過ぎてからでした」
 彼は、やや顔を天井の方へ上げ、遠くを見つめるような視線のまま、口許に微かな笑いを浮かべた。
「少しでも気持ちを外に向けなければならないと考えて、妻と九州旅行に出掛けたんですよ。……あの頃が、いちばん体調がよかったなあ。もう、今じゃダメです。また体力が落ちてきた」
 彼は、ため息をついてから再び弱々しい作り笑いを浮かべ、あたりを見回した。
「……妻や子ども達には言ってあるんです。もうダメだと判断した時は、絶対に延命措置はするなってね。それは、俺を苦しめるだけだって。助からん時は自然に死なせてくれってね。特に脊椎は麻酔が効きにくい場所なんで、ガンが転移すると苦しみ抜いた挙げ句に死ぬことになるんですよ。私の場合、膀胱がガンにやられていたでしょ。膀胱とか腎臓のガンというのは比較的、脊椎に転移しやすいんですよ。だから、脊椎にガンが転移していたら早く死なせてくれって、妻には言い含めてあるんです。延命措置だけは絶対にするなってね」
 しばらく、誰も何も言わなかった。彼の腹部の生々しい傷痕と今の言葉を聞いた後では、とても軽々しく励ましやら慰めの言葉などを言える気持ちにはならなかった。
「そんな事言わないで、できるだけ頑張ってくださいよ」と、不自然に明るい声を掛けたのは、腎臓結石の手術で入院している四十過ぎの男の妻だった。彼女は、少しでも近藤老人を励まそうと思ったのに違いない。
「そんな安っぽい励ましは、正直言って、ただ腹立たしいだけなんです。お宅さんの気持ちは嬉しいが、でもそんな犬にでも放り投げるような軽々しい言葉で、私のような死の病と闘っている者を慰めることはできません。お宅さんだって、私と同じ立場だったら、そんな口先だけの安っぽい励ましには腹が立つと思いますよ」
 近藤老人の、思いもよらない断固とした言葉が、鋼に激突したボール玉のように跳ね返ってきた。その女性は、急に表情を強張らせて下を俯いてしまった。あたりの患者も付添いも近藤老人に掛ける言葉もなく、ただ黙っているしかなかった。

 病室の薄暗闇の中で、じっと耳を澄ましていると、近藤老人のベッドのあたりからも軽い鼾が伝わってきた。起きている間中は死の恐怖と対峙しなくてはならなくても、眠っている間は何の心配もありはしない。そんな安らかな鼾の音だった。
 でも、眠れない僕にとっては、どんな鼾の音も苛立ちの原因でしかなかった。何度も何度も寝返りを繰り返した末に、僕は再びベッドを降りて廊下に出ていった。
 非常灯の緑色の表示ランプに照らされ、所々ぼんやりと明るい廊下に沿って僕はゆっくりと歩いた。スリッパの音が、まるで他人の足音のように遠く背後から反響してきた。トイレの前を通り過ぎ、僕は廊下の突き当たりの暗闇の奥に立ち止まる。
 窓の外には、帯広の夜景が広がっていた。夜空にネオンサインが反映して、赤や青い光の余韻が漂っていた。
 自分が、あのネオンの下で同僚たちと酔っぱらって歩いていた事が、もう遙か遠い昔のような気がしてならなかった。明日の検査結果次第では、もう二度と、あの世界に戻れないのかもしれないのだ。そう思うと、形容のできない不安や恐怖や悲哀が入り混じった感情が僕の胸を激しく揺り動かした。
 ふと真澄の顔が、夜空の背後から浮かび上がってきて目の前にゆらめいた。真澄から別れの言葉を聞いた時の、彼女に対する憎悪や嫉妬の感情が心の中に呼び起こされた後、すぐにその感情は引き潮のように消えていった。そして、真澄を愛しく思う恋情が激しく湧き上がってきて、僕の心をいっぱいに満たした。
 突然、僕は真澄の豊満な乳房に顔を埋めて、思いきり泣いてみたいと思った。真澄の乳房にしゃぶりつきながら、大声を上げて泣きたいと思った。
 気がつくと、僕の頬を、一筋の涙が静かに流れ落ちていくところだった。

 

 

              6

「今回の検査では、脊椎に腫瘍の細胞は見られませんでした」と、僕の主治医になっている三十五過ぎの髭面の医者は、CTの画像を僕に示しながら、やや表情を和ませて言った。
 半ば死の宣告を覚悟して緊張し切っていた僕の心は、糸の切れた凧のように安堵の大地へと舞い落ちた。正直言って、命拾いをした気分だった。でも、それはほんの一時の気休めに過ぎなかった。
 医者の話は、まだ続いた。
「ただし絶対大丈夫とは断言できません。CTの検査は決して完璧ではありませんし、それに腎臓とか膀胱は腫瘍が再発しやすい器官なんです。ですから、これからも半年に一回くらいの割合で検査は受け続けてもらいます」
 とりあえず、目前の死は避けられたという事だった。安心などできないのだ。いつ、再び僕の前に死の影が、そっとその姿を現すのか分からないのだ。
 医者に礼を言って、僕は診察室を出た。今回の検査の結果を単純に喜んでいいのか、それとも、これからの長い持久戦への心の準備をするべきなのか、気持ちは複雑だった。階段を登っているところで、いつものようにヒカルがどこからともなく姿を現した。
「おめでとう」と、はにかんだような笑いを浮かべて僕を見る。
「ん?」と僕は、ヒカルに微笑みかける。
「検査の結果、よかったんでしょ?」
「とりあえず、今のところはね……どうして分かった?」
「だって、顔にバカでっかく書いてあるもの。鏡で見せてあげましょうか?」
「そうかな。でも、十五の女の子に、心が簡単に読まれるようじゃ浮気もできやしないな」と反撃に出てみる。
「イヤだ、中年の男って。浮気したいの?」
「男は、誰だってそういう願望は持っているものなんだ」
「そうやって、自分の気持ちを一般化するところが、なおさら中年のイヤラシサだわ……ねえ、奥さんに連絡しないの? 検査の結果、きっと待ってるわよ」
「待ってなんかいないさ」
「そんな事ないわ。きっと待ってると思うわ」
「聞きたければ、向こうから電話が来るさ」
「素直じゃない人ね」とヒカルは怒った口調で答える。
 階段を登ったところで、ヒカルは回診があるからと、スリッパの音を響かせながら颯爽と立ち去って行った。
 まったく風のように現れて、風のように去ってゆく女の子だと、感心するような呆れるような気持ちで、僕はピンク色のパジャマの後姿を見送る。でも心の一方で、ヒカルの声とか表情とかちょっとしたしぐさなどが、妙に僕の心に鮮烈に焼き付けられてきていることに、僕は今更のように気がついていた。
 廊下の角を曲がる時、ヒカルは僕の方を振り向き、小さく手を振った。僕は、自分の気持ちに戸惑いを覚えながら、外国人がするように親指を立てて『グッド』のサインを送った。

 真澄に電話をするかどうかは、随分と迷った。別居中の妻にCTの検査結果を知らせることが、果してどういう意味のあることなのか、僕は繰り返し考えてみた。これから真澄との関係をどのように持ってゆくか。迷ってばかりで結論が出ないまま、僕はベッドの上に寝そべっていた。
 近藤老人が、何種類かの薬を持って僕のベッドの所まで来たのは、そんな時だった。
「薬の包装アルミの感触が、指にピリピリと突き刺さるようで、とても痛いんですよ」と、彼は弱々しい声で呟いた。
 僕は、すぐに薬を包装パックから押し出して彼に手渡した。彼は自分のベッドに戻ると何度も呻き声を漏らしながら、それらの薬を飲み込んだ。それから、大きくため息をついた。
「実は手術を受けて、もう死のうかと考えたことがあるんです。もう、こんな体で生きていても、なんの意味のないと何日間も思い詰めたあげく、うちの婆さんに一緒に死んでくれないかって頼んだんです」と、近藤老人が独り言のように口を開いた。
「そうしたら、うちのヤツ、なんて言ったと思います?」
 僕は「さあ」と首を傾げた。
 彼は、やや顔を上げて天井のあたりへ焦点の合わない視線を送っていた。
「『いいですよ、もう心の準備はとっくにできてますから』って言うんだ。それを聞いて安心した途端に、心中しようなんて気持ちは吹き飛んでいた。こいつに全てを委ねようってね」
  それから近藤老人は、急に恥ずかしそうな笑顔を浮かべると、「いやあ、こんな話、若い人には面白くとも何ともないですよねえ」と頭を撫ぜる仕種をしてからベッドに横になった。
 僕には、近藤老人のような心優しい妻がいない事実を、久しぶりに痛いほど淋しく感じた。

 真澄が仕事を終えて帰宅する時間をみはからって僕は彼女に電話を入れることにした。でも呼び出し音が続くばかりで真澄は不在だった。病院の消灯時間の9時前に再び電話をした時に、やっと真澄が出てきた。
「仕事、忙しそうなんだな」
「まあね。月末だから」
「今日CTの検査があったんだ。それで一応、検査の結果だけでも知らせておいた方がいいと思って」
「わざわざありがとう。……それで結果は?」
「今のところ脊椎への転移は見られないということなんだ。再発の可能性もあるけれど、とりあえず生き延びたよ」
「それはおめでとう。私が言ったとおり、あなたって案外長生きするタイプかもしれないわよ、きっと」
「別に、人よりも長生きしたいとは思っていないさ」
「身勝手な人ね。じゃあ早くガンで死んでしまいなさい」
「随分と冷たいんだな」
「冷たいのは、今始まったことではないでしょう?」
 僕は、どう答えてよいか分からず、言葉に詰まった。
「……ねえ、もしもあと一週間の命だと言われたら、何をしてみたいと思う?」と僕は訊いてみた。
「何よ、唐突に?」
「もし、今日のCTの結果が悪かったら、何をしようかって色々と考えてたんだ」
「じゃあ、あなたは何をしてみたいと思ったの?」
「君とセックスしまくるんだ」
 一呼吸の静寂があってから真澄の声が返ってきた。
「あなたが、望むなら付き合ってあげてもいいわよ。でも、そんな事して、満足して死ねる?」
「どっちみち人間は何をしたって、満足して死ぬことはできやしないんだ。どんなに偉大な作家だって画家だって、きっと死ぬときは不満や哀しさで胸がいっぱいだと思うな。だから死ぬと分かった時に、したい事をしまくるしかないんだ。それが僕の結論だよ」
「私とセックスしたいの?」
「したいよ、猛烈に」
 ちょっとした静寂が、受話器から伝わってきた後で
「いいわよ……いつでも」
 それから、彼女のため息の音が聞こえた。
「私のこと、まだ憎んでる?」
 僕は、すぐには答えられず、しばらく黙っていた。
「君のことはまだ心の底から憎んでいるし、とても許せるような気持ちでもない。でも、君のことは、初めて出会った頃と同じくらい愛していると思う。君の心も体も、僕は昔と同じくらい強く求めているんだと思う。毎日、自分の死ばかり考えてきて、どこにも救いはなかった。どんな本を読んだって、何を考えたってだめだった。そして思ったんだ。僕の心は渇いていて、それを潤すことができるのは、君しかいなんだいって。たとえ、ほんの一時であってもいい、君の体を貪っている瞬間だけでいい、僕は慰められたいんだ。そして生きているっていう実感がほしいんだ。そう思った」
 僕は本当に久しぶりに、真澄に対して、なりふり構わず裸になって言葉をぶつけていた。
「君が抱きたいんだ」

 

 

              7

「ねえ、退院する前に私とデートしてくれない?」とヒカルが声を掛けてきたのは、退院を翌々日に控えた午前のことだった。
「私のお気に入りの場所があるの。そこに連れていってあげたいの」
 オレンジ色のミッキーマウスのパジャマに、三つ編みという姿で、ヒカルは少し照れたように微笑んでいた。
「こんな中年男でいいのかい?」と僕は訊いた。
「大丈夫。恋愛対象年齢を遙かにオーバーしてるから、余計な心配はいらないわ、残念だけど」と片目でウィンクする。
「ところで、デートって病院の外かい?」
「何言ってるの、中に決まってるでしょ。私、外出禁止だもの」
「なるほど」
 彼女は一方的に、4時に食堂まで来るように告げると、昼食の時間が近いからと病室に戻って行った。

 四時五分前に、僕は食堂に行った。食事用のイスに座っていると、まもなくヒカルが現れて僕を手招きした。
「よくよく考えてみると、デートというのは男の人が、女の子を誘うものよね。でも、まあ今日は許してあげるわ」と、僕はいつの間にかヒカルに許される身分となり、彼女の後ろを黙って追いて行くことになった。
 彼女は、廊下沿いに西棟へ行くと、エレベーターのドアの前で止まった。
「いつもは階段を登るんだけれど、ちょっと風邪を引いたみたいで体がだるいから、エレベーターに乗るわね」
 エレベーターで最上階の八階まで登る。ボックスの中で、彼女は二回コホンと咳をした。エレベータを降りてから、ナースセンターの脇を通り、北側に向かって広い窓のある休憩コーナーのソファに真澄は腰を下ろした。
「到着よ。……気持ちがむしゃくしゃしている時に、よくここに来て外の景色を眺めてるの。この広い十勝平野を見ていると、自分という人間の存在がどれほどちっぽけか、自分の苦しみがどれほど些細なことにすぎないか分かって、慰められるの」
 僕は、ヒカルの横に座りながら窓の外の風景を眺めた。
 眼下には、日没寸前の夕陽を受けて淡いオレンジ色に映えている帯広の市街が広がっていた。そのオレンジ色の光がいかにも寒さげで、ガラスの向こう側で吹いている冷たい風の細い唸り声が聞こえてくるようだった。市街地の彼方には、枯れた色の山や畑の帯が重なりながら続いている。そして、その縞模様の平野がぼやけてゆくあたりで、大雪山の南端が、まるで巨人の力こぶのように丸く盛り上がっていた。その力こぶの塊は、すでに白い雪に覆われて、西側は夕陽を浴びてピンク色に光り輝いていた。山の上には、深く沈んだ藍色の空が、まるで影絵の背景のような透明に澄んだ色合いで広がっていた。
「ねえ、あっち見て」とヒカルの指さす東の方へ視線を移動すると、地平線に近い暗闇に丸く穴を開けたような満月が、ひっそりと浮かんでいた。
「どう? 私の選んだデート場所の感想は」と、僕の顔色に満足したような笑いを浮かべる。
「申し分ない」
「まだ、誰にも教えたことはないの。あなたが最初よ」
「それは光栄だな」
「陽が山の向こう側に沈む頃がいちばん素敵なの。もうちょっとよ、あと五分か十分くらい」
「どんなふうにお礼をしたらいい?」と僕は訊いてみた。
「お礼って?」
「ここに招待してくれたお礼さ」
「……高いわよ」
「かまわないよ」
「じゃあ、もしも私の病気が治って、ここを退院できたら、私と一緒に暮らしてくれる?」
「いいよ。でも君の親が許してくれるかな?」
「気にしないわ、そんな事。それより、奥さん、離婚してくれるかな?」
「大丈夫さ。自分から家を出ていった女だ」
「うそ。まだ奥さんを愛しているくせに」と拗ねたように言う。
 ヒカルは、再びコホンと咳をした。
 二人は黙ったまま、少しずつ陰影を深めていく外の風景を眺めていた。
「いいの。全部冗談よ」と、ヒカルが強い口調で呟く。
 僕は何も言わなかった。
「きっと私は、誰にも愛されることなく、このまま病院の中でバージンのまま死んでいく運命なんだわ」
「諦めたらだめだって言っただろう」と僕が静かに囁く。
「もう励ましも、慰めも、何も聞きたくないわ」
 僕は、もうそれ以上、何も言わなかった。
 二人が話している間も、窓の外の景色は秒刻みに変幻し続けていた。夕陽が山脈の稜線に沈むにしたがって、残り火のように輝いていた眼下の街も茶色の平野も、一瞬の後には暗闇の底に横たわっていた。そして黒い大地と藍色の空の間で、遙か大雪山の山だけが、背景から抜け出すような眩ゆいオレンジ色に光り輝いていた。
 やがて西の太陽は姿を消し、東には淡い月が浮かんでいた。
 それから再び、ヒカルがコホンと咳をした。

 

 

              8

 僕が退院する日、真澄が病院まで迎えにやって来た。
 世話になった看護婦さん達や、近藤老人をはじめ同室の人に別れの挨拶をしてから、僕はヒカルを探して病室や食堂、一階の待合室などを歩いてみた。でも彼女の姿はどこにもなかった。
 何か忘れ物しているような中途半端な気持ちのまま、僕は病院の玄関を出た。
 外は、路面の雪が陽光を乱反射して目が開けられないくらい眩しかった。僕は、目を細めて、背中の病院の建物を見上げた。
 自分自身が退院できることは嬉しかったが、ヒカルや近藤老人をはじめ、多くの人が病気との苦しい闘いを続けているこの場所を離れることに、どことなく後ろめたい気持ちもあった。

 その後、通院するたびに、以前の病室に寄っては近藤老人たちと話を交わした。それから僕は必ずヒカルの病室の前を通って、彼女のベッドを眺めるのだが、彼女がそこにいることは一度もなかった。そしてある日、彼女の名札も病室の入口から消えていることに僕は気がついた。
 ヒカルから手紙が届いたのは、僕が退院してから半年も過ぎた頃のことだ。

 その後、体の調子はどーですか? 奥さんとは仲良くやっていますか? エッセーは書き進んでいますか?
 私の方は、相変わらずで、よくも悪くもありません。(そういう病気なんです) 杉山さんに何度も言われたように、『よし、よくなってやすゾ!』と、ときおり自分に言い聞かせるのですが、なかなか念力が通じないみたい。
 そうそう、実は父親の転勤の関係で、今は札幌の病院に入院してます。(帯広の病院だったら、いつでも会えたのにね)
 最近、私も杉山さんのまねをして、エッセーのような小説のようなものを書きなぐっています。小説も、たくさん読むようになりました。この前、吉本ばななの『TUGUMI』を読んで、思い切り泣いてしまいました。病気に負けない“つぐみ”って、つくづく偉いなって思いました。それから私も、入院の経験を生かして、あんな小説に挑戦しよーって決心しました。(以前よりも、前向きになったでしょ? 杉山さんよりも、先に本を出してみせるからね)
 この病院には、杉山さんのような話し相手がいなくて、ちょっとだけ淋しいです。(私、中年の男が好きなのかもしれないな。ここだけの話、杉山さんには、私のバージン、あげてもいいと思ったこと、あるんですよ、ホント。でも、もう無理ね、残念でした)
 でも、正直を言えば、杉山さんと出会った頃の私って、自分でも自分の気持ちが分からなくなるくらい、一分ごとに天国から地獄まで行ったり来たりしてたと思う。自殺してしまいたいって、一日に何度も思った。
 そんなもんで、きっと杉山さんにはいろいろと心配をかけたんじゃないかなあーって、多少は反省して手紙を書いているってわけなんです。まあ、今もそんなに落ちついたってわけじゃないけどね。 でも、死ぬまでにやってみたいことは見つかりました。(小説を書くことだよ、もち)そんなふうに前向きに考えられるって、きっと素晴らしいことなんだよね。
 杉山さんも、気合をいれてこれからの人生と、奥さんを大切にして行ってくださいね。それじゃあ、また。
                           ヒカル

 

【「北方文藝」1994年(平成6年)5月号 掲載】