流氷たちが呻く夜(標津抒情4)

 流氷が標津に接岸したのは、一月下旬の、とある真夜中のことだった。
 その夜、僕は、遠くから響いてくる異様な地鳴りの音で目が覚めた。目を開けると、部屋の中は、まだ漆黒の闇に閉ざされていた。僕は息をひそめ、そっと耳をすましてみた。
 それは地鳴りの音なんかではなかった。初めて聞く流氷の呻き声だった。海上を揺れる流氷同士が、ゴリゴリとお互いの身を削りあっている音だった。
 布団の中に横たわったまま、僕は月光を浴びて、大海原に広がる流氷をイメージしてみた。波の上下に合わせて、ゆっくりと揺れる流氷群が、眼前に見えるような気がした。

 流氷が接岸した日から、標津の町は、一段と寒さが厳しくなった。まるで町全体が冷凍庫にでも入れられたようだった。太陽の光は弱々しく、建物の外壁には一日中霜が貼りついていた。日中でも零下十度以上に気温が上がることはなく、息を吐くと、そのまま氷の結晶に固まってしまった。

 帯広の母親から突然、中学校の職員室に電話がかかってきた。流氷が接岸して十日ほどが過ぎた土曜日の午前中のことだった。
「今、帯広駅から電話をしてるんだよ。お店に行こうと歩いている途中で、急にお前の顔が見たくなってさぁ、今から汽車に乗ろうと思ってね」
「なしたんだよ、急に……」と僕は、戸惑いながら答えた。
「お前に、会いたくなったんだよ……」
 母の声が、急に涙声に変わった。
「何かあったのかい?」初めて聞く母の涙声に、次の言葉が出てこなかった。
「何もないよ。別に何もないけど、お前に会いたくなったんだよ。何か理由がなかったら、お前に会いに行ったらダメなのかい?」
「……そんなことないけど」
 泣きながら話している母に、標津に来るなとは言えなかった。
「……うん、わかったよ。じゃあ、汽車の着く時間に駅で待ってるから……」
 今の時間に帯広駅から列車に乗り、釧路駅経由で来るとしたら、母は、夜の六時半過ぎに標津駅に着くだろう。
 受話器をおいた後も、母の涙声が、しばらく耳の奧から離れなかった。

  その日の午後、僕は、複雑な気持ちを抱えたまま、母が到着するまでの時間を過ごした。
 母は、僕が教員の仕事を辞めて、四月から東京に出ていこうとしてるのを止めにくるのだろうか。電話口での対応のように、涙声で、僕の決意を翻すつもりなのだろうか。
 でも、たとえそうだったとしても、僕の決心が変わることはないだろう。
 実は、僕には東京に好きな女性がいた。一緒に食事をしたり、友達つき合いをしている相手だった。大学卒業間際に「好きだ」と告白すると、友達以上の関係は考えていないと断られた。
 その彼女のことを、僕はまだ完全には諦めきれていなかった。東京に戻れば、彼女とうまくいくチャンスだってあるかもしれない。 そんな諦めきれない恋の幻に、僕は必死にしがみつこうとしていたのだ。
 でも母親や父親には、彼女のことは一言も話していなかった。好きな女性がいるから、東京に戻りたいなんて、とても言えなかった。
 だから僕は「雑誌の編集の仕事がしたい。やりたい夢を叶えるために東京に戻りたいんだ」という表向きの口実を作った。そうすれば両親だって反対はできないだろう。
 そんな浅ましい魂胆だった。
 僕は、冬休みに東京に出かけ、十人ばかりの小さな編集プロダクションに転職する算段をつけた。
 教師を辞めて東京に行くと両親に告げたのは、一月末のことだった。 二人は、僕の予想通り、ただうろたえるばかりで、僕を引きとめるような言葉は何も言わなかった。

 夕方から雪が降り始めた。
 降り積もるような激しい降り方っではなかった。花片がゆらゆらと天空から散ってくるような静かな雪だった。
 すっかり暗くなった夕闇の底を、僕は教員の独身寮から駅舎までゆっくりと歩いた。雪がまわりの音を閉じこめてしまって、あたりからは何の音も聞こえてこない。流氷の呻き声さえも、聞こえてはこなかった。
 駅に着いて十分もしないうちに、雪まみれの列車が静かに駅構内に入ってきた。
  改札口から降りてきた乗客は、年寄りが二、三人と制服を着た高校生の十人ばかりだった。その最後に、普段着のアノラック姿に手提げカバン一つだけを下げた母親が待合室に入ってきた。住宅から自営の食料品店まで歩いていく途中で、急に思い立って駅から列車に乗ったという話は本当のようだった。
 入り口ドアの横で立っている僕を見つけて、母は安心したように笑顔を浮かべた。
「思ったより標津は遠いねえ」と、母は照れたように呟いた。
「腹減ってるだろう? 晩メシ、どんなものが食べたい?」
「……ああ、晩ごはんかい? なんでもいいよ、お前の食べたいもので……」
 僕は新鮮なネタで評判の駅前の寿司屋に母を連れて行くことにした。
 雪の中を歩きながら、母親は突然の来訪をしきりに僕に詫びた。  
「ゴメンね、急に来ちゃってさ。何か会議とか集まりとか、夜の予定はなかったのかい?」
 昼間の涙声だった時のような感情的な様子は少しも見られなかった。僕は、少しだけ安心した。
「大丈夫だよ、何もない」
「明日は、部活とか何かあるのかい?」
「ああ、午前中にバレーボールの練習が入ってる。でも、部屋にいていいよ、三時間くらいで終わるから」
「ああ、それだったら心配ないよ。朝起きたら、七時過ぎの一番の汽車ですぐに帰るから。それに乗ったら、昼頃には帯広に着くからね。お父さん一人に二日間もお店を任しっぱなしにしたら悪いだろう」
  寿司屋では、母は自分が注文した寿司を、お腹が減っていないからと言って、半分以上を僕に残してくれた。
 母は、学校の様子だとか、僕の仕事の内容などを、時折思い出したように尋ねた。
 たいして話が弾むこともないまま食事は終わり、僕らは雪の中を歩いて寮に戻った。
  三十分ほど部屋で休んでから、近くの銭湯へ出かけた。部屋に帰ってくると夜の十時を回っていた。
  八畳間の狭い部屋に布団を二枚並べ、その上に座り込んだら、ようやく人心地がついた。
 そろそろ僕の東京行きのことが話題になるのだろうかと思っていたら、母が口にしたのは、それとは全然別のことだった。
「お前さあ、お母さんとお祖母ちゃんの仲が、あんまりよくなかったの、知ってるよね……」
 掛け布団を膝上までかけたまま、母が僕の顔を斜めから見た。
「うん、なんとなく……」と僕は答えた。
 祖母は、僕が中学生の時に家を出たきり、帯広市内のアパートで一人暮らしをしていた。祖母が出ていった原因は、母との仲違いだったと聞いたことがある。でも誰かに詳しい話を聞いたわけではなかった。
「お祖母ちゃんが家から出てったことで、お母さんは周りの親戚の人たちから、『姑を家からいびり出した悪い嫁』だって、ずっと陰口を言われ続けてる。
 でも、決してお母さんが、一方的にお祖母ちゃんに意地悪したり、辛くあたって追い出したわけじゃないんだ……」
 母は、そこまで一気に喋ると、小さくため息をついた。そして両手をゆっくりと揉むような仕草をした。
「ゴメンね、こんな退屈な話……」
「いや、そんなことないよ……」
「知ってると思うけど、お母さんが、この家に嫁いできた頃、まだ一家は新得の田舎で大きな農家をやってたんだ。住み込みで手伝ってくれる人が五、六人もいるような大きな農家だった。
 お母さんの実家も豊頃の農家だったけど、畑仕事はあんまり手伝っていなかったもんだから、慣れない畑仕事で体を壊してしまって、夏が終わる頃に、一週間ほど寝込んでしまったことがあるんだ。
 そしたら実家の豊頃のお祖母ちゃんが心配して、わざわざ新得の家まで泊まりがけで看病に来てくれたことがある。
 その時、こっちの家のお祖母ちゃんが、箒を逆さまに立て、それに手ぬぐいで頬かむりさせたものを、廊下の隅に置いたんだ。
 昔は、嫌な客が来て、早く帰ってほしい時には、そういう『まじない』をしたもんなんだよ。
 あの箒を廊下の隅に見た時には、お母さん、背筋が凍るくらいびっくりした。とても信じられなくて足が震えるくらいだった。
 実家の母親が、嫁に出した娘の病気のことを心配して、わざわざ遠くからやってきたっていうのに、普通の人だったら、そんな嫌味なことをことをするんだろうかって。
 あの時から、こっちの家のお祖母ちゃんのことが信用できなくなった。
 あの事が、すべての始まりだったんだ。
 農家をやめて、帯広に出てきて、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんと一緒に住んでいた頃も、色んなことがあった。
 お母さんはお父さんと一緒にお店をやっていたから、ゆっくりと家のご飯の準備なんてできなかった。でも、夜にはできるだけ料理を作ろうと頑張ったんだ。
 ところが、お祖母ちゃんは、お母さんの作るおかずは、味が濃いとかいって、ほとんど箸をつけてくれなかった。自分で作ったおかずしか食べなかったんだ。
 そんなことも、お母さんには、嫁として、とても辛いことだった。
 ……ゴメンね。こんなこと、しゃべり出すと、全部お祖母ちゃんの悪口になっちゃうよね。お前も、聞いてて嫌だろうからから、もうこれ以上話さないけど、他にももっと色んなことがあったんだよ。
 お祖父ちゃんが死んだ後、お母さんとお祖母ちゃんの大げんかが原因で、お祖母ちゃんが家から出ていってしまった。
 あの大げんかも、きっかけはほんの些細なことだったんだ。
 家の中で、お母さんの掃除の場所と、お祖母ちゃんの掃除の場所とがなんとなく決まっていたんだけど、お母さんの掃除が雑だから、家の中がいつも薄汚いって言われたんだ。
「ごめんなさい」ってお母さんが謝れば、それで済んだことだったんだ。でも、お母さんも、心の中に積もりに積もっている感情があるから素直に謝れなかった。
 それで、つい『お祖母ちゃんのように、ずっと家にいれば、暇つぶしに掃除でもしてられるんだろうけど、私は、一日中外で働いているから、これ以上きれいにはできません』って言い返しちゃったんだ。
 今から考えると、冷や汗が流れるような言葉だけど、あの時は意地でも負けられないと思ってた。
 そのまま売り言葉に買い言葉で、口げんかがどんどんエスカレートしてった。そしたら、お祖母ちゃんが『こんな口答えするような嫁なんて見たことも聞いたこともない!』って怒鳴って、そのまま玄関から飛び出して行っちゃったんだ。
 あの後、親戚の人から、色々と言われたよ。嫁として失格だとか、最低だとか、家を出てくのは嫁の方なんじゃないのかとか。
 とにかく自分が悪かったと頭を下げて、お祖母ちゃんに家に帰ってきてもらえって言われて、一度だけ謝りにも行ったこともあるんだ。でも玄関から部屋の中にも入れてもらえなかった。……それっきり、お祖母ちゃんとは会っていない……」  
  母は、自嘲気味の笑みを浮かべたまま、ぼんやりの僕の膝のあたりを眺めていた。
 初めて聞いた母の胸の内に、僕は何も言えないまま母の横顔を見ていた。
 祖母と母が、そんなドロドロとした感情の対立を抱えたまま、一つ屋根の下で長い年月を過ごしていたなんて、僕には考えてもいないことだった。
「馬鹿な母親だと思ってるでしょう? もっと賢い女だったら、お祖母ちゃんとケンカすることもなければ、お祖母ちゃんを家から追い出すこともなかったろうにって……」
「……そんなことは、ないけど……」
「いや、そうなんだよ。お母さんがもっと心が広くて、もっと強い人間であれば、こんなことにならずにすんだんだ。そう思って、ずっと後悔はしてるんだ……
 でもね、今の時代じゃ考えられないだろうけど、お母さんの時代は、嫁っていうのは、半分その家の家族であるようで、半分は女中のようなものだったんだ。まだ、そんな封建的な雰囲気が残っている時代だったんだ。
 ……お母さんなりに、精一杯頑張ったんだけど、でも、お母さんの力ではどうしてもうまくいかなかった……」
 母は、弱々しい笑みを浮かべると、大きくため息をついた。
「……この話、いつかお前が大人になったら言おうって、ずっと思ってたんだ。それが、今日やっと叶ったよ……」
 自らに言い聞かすように呟くと、母はゆっくりと頷いた。
 母は、自分の半生を語るために、はるばる帯広から標津までやってきたのだ。そう思うと、胸の中が訳もわからず熱く揺れた。
「……母さん……オレさ、じ、じつは……」
 じつは雑誌の編集がしたくて、東京に行くなんていうのは真っ赤なウソなんだ。本当は、好きな女の子がいて、だから東京に行きたいんだ。自分の夢を叶えるためなんて、そんな高尚な理由なんかじゃないんだ。オレは、嘘つきで、自分のことしか考えてない我が儘な男なんだ……。
 僕は心の中で、そう呟いていた。
 でも、やっぱり声に出して言うことはできなかった。
「どうしたの……?」
 母が、僕を見つめていた。
「いや、なんでもない。……母さんも、それなりに苦労してるんだなぁって思ってさ、……それだけだよ」と僕はごまかした。
 母は、嬉しそうに微笑むと、
「お前から、まだそんなセリフは言われたくないね」と僕の肩を小突いた。
 
 話が一段落し、部屋の電気を消して布団に入ると、すでに真夜中を回っていた。
 目をつむっても、頭が妙に冴えていて、すぐに寝付くことはできなかった。幼い頃の母親との思い出だとか祖母との思い出だとかが、入れ替わり立ち替わりに脳裏に蘇ってきた。 
  僕は、暗闇に目を開けて、そっと耳を澄ましてみた。
 雪降る闇夜の彼方から、流氷の呻き声が微かに聞こえてきたような気がした。

【十勝毎日新聞 2004年(平成16年)7月18日 掲載】