夢のかけら

              1

「いったい、何時になったら鴨川君の写真が届くんだ?」
『ヤング・シティ』副編集長の南雲さんの苛立った声音が、狭い校正室に鋭く反響した。その言葉が僕に向けられたものではないことを知っていながらも、自分の胃袋がギュッと鷲掴みにされるような鈍い傷みを、僕は惨めな気持ちで味わっていた。
 僕は、四色アニメ・ページの見本刷から、ゆっくり顔を上げた。見ると、僕達のプロダクションのデスクの佐伯さんが、南雲さんに向かって下卑たうすら笑いを口許に浮かべながら頭を下げている。「いやあ、本当に、どこに行っちゃったんでしょうねえ。文化ラジオに着いたら、必ず電話をくれるようにって伝言しておいたんですけどねえ……」
「そんな事、もう何度も聞いて分かってるよ!」
 冷たく突き放すような南雲さんの声だ。
「ええっと……それじゃあ、もう一回電話して確認してみます」
 佐伯さんは「鴨川の奴、ホントにどうしちゃったんだろうなあ」と独りごちるように呟くと、空き巣に入った家でも出ていくみたいに、そっと静かにドアを開けて廊下に姿を消した。
 一瞬、佐伯さんもこのまま戻って来ないのではないだろうかという予感が、不吉な影のように僕の心を通り過ぎた。
 この大東京印刷・板橋工場の校正室で、『ヤング・シティ』四月号の校了作業を始めたのが午前十時頃だ。僕たちは、そこで工場から送られてくる見本刷の最終チェックを行っていた。まず最初に、そのページを担当したプロダクションの編集者が目を通す。次にそれを出版社の副編集長の南雲さんが確認し、編集長の滝本さんが最後の『間違い探し』をして校了作業は終わりとなる。
 語句に間違いはないか。写真とキャプションは一致しているか。写真の表裏はあっているか。指定通りの色が使われているか。まるで重箱の隅をつつくような瑣末な疑問が、校了作業が終わるまでの十七、八時間あまり、次々と編集長と副編集長の口から飛び出してくる。僕たちは、落ちこぼれ生徒のような気分で、彼らのそんな質問を怯えながら待ち、山のような資料の束をあわててめくって、自信なげに答えるのだった。
 そんな拷問のような時間が、翌日の明け方まで延々と続く。校了作業が終わると、僕たちは呪わしい牢獄から解放された奴隷のような気分で、それぞれのねぐらへと、寝るためだけに帰っていく。
 鴨川さんの担当した「ラジオ・ディスクジョッキー」の特集ページに、まだ顔写真の入っていない空白のスペースがあることが分かったのは、午後二時を過ぎた頃だった。
「どうなってんだよ、この写真は?」
 副編集長の南雲さんの低く、くぐもった、どこか感情が欠落したような声に、逆に異様なものを感じて僕は作業の手を止めた。
 すぐに椅子がずれる音が響き、鴨川さんが弁解の言葉を呟きながら南雲さんに向かって歩いていく姿が視界の片隅に見えた。
「えーと、先程、文化ラジオに連絡を入れて、三時過ぎに取りに行くことになってるんですが…」
 鴨川さんの、緊張感のない間延びした声が、南雲さんの神経を逆撫でするのではないかという僕の一瞬の予感は的中した。
「何をのんびりした事、言ってんだ! 工場では校了になるのを今か今かと待ってるんだよ。アンタは、いったい何年編集者やってんだ。写真の用意なんか,前もって済ませておくべきじゃないか!」 心の奥底で燻っていた苛立ちが、どす黒い吹き出物のように露わになった声音だった。
 鴨川さんは、左手で頭を掻きながら何度か頭を下げた。
「とにかく、今やってる仕事は人に頼んで、すぐに写真を取りに行ってきなさい」
 鴨川さんは、やや力なげに謝りの言葉を述べたあと、寂しそうな薄ら笑いを口許に浮かべ、「じゃあ、文化ラジオまで行ってきます」という言葉を残して部屋を出ていった。
 それでなくても静かな部屋の中に、押し潰されたような不気味な静寂が充満していた。ボールペンが紙の上を走る音だけがカサカサと不気味に響く。
 鴨川さんからは、それっきり連絡がなかった。
 夕方の六時に佐伯さんが、文化ラジオと自分の会社に電話を入れたが、どこにも鴨川さんは姿を現していなかった。
 誰も、そうとは口に出さないものの、鴨川さんが二度と戻って来ないのではないかと、心のどこかで考えている雰囲気が、タバコの煙のように部屋の中を濃密に漂っていた。
 夜の八時を回った今、再び佐伯さんが文化ラジオに電話を掛けるため廊下に姿を消した。
 編集長と副編集長の苛立ちは、僕の肌を通してそのまま胃壁に突き刺さってくるほど露わだった。いくら彼らの不機嫌に慣らされているとはいえ、この狭い部屋で面と向かっていると、窒息寸前の息苦しさがあった。
 なかなか部屋に戻ってこない佐伯さんのことが気になって、僕はトイレにでも行くような何気ない素振りで部屋のドアを開けた。
 同じプロダクションの池田が、盗むような視線で僕を見ている。僕は彼に目で合図を送ってドアを閉めた。
 廊下は、静けさが壁に染みついたように暗く深閑としていた。建物の中のどの校正室からも、物音ひとつ聞こえてこない。我々以外に誰もいないのかもしれない。僕は、静寂の底を玄関に向かって歩いた。玄関脇の電話ボックスを覗いたが人影はなかった。
 あたりを見回してから、僕は玄関のドアを押して外に出た。春先の生暖かい風が僕の体を包む。緊張感で凍りついていた僕の心が、ゆっくりと融けていくような安堵感があった。門の横の暗がりに煙草を吸っている人影を認め、僕はゆっくりと近づいていく。
 佐伯さんは門に寄り掛かり、ぼんやりと青白い光を含んだ都会の夜空を眺めながら立っていた。
 彼の横に立ち、僕も煙草を取り出して火を点ける。
「時々さ、自分がいったい何をやってるんだろうって、ふっと思うことがあるよ。」彼は僕の方を見ようともせず、闇に向かって呟くように言った。「今やってる仕事が馬鹿らしいという事を言ってるんじゃない。そんな事は前から分かりきってることだ。そうじゃなくて、本来自分がなすべきこともせずに、全然別の事で人生をすり減らしているんじゃないかって無性に不安になるんだ」
 僕は、どう応えてよいか分からず、「ええ」とだけ答えた。
「このまま何もしないで、歳ばっかり喰って、爺さんになって、そしてくたばってしまうんじゃないだろうか。そんなふうに考えていると、夜中に布団の中で呻き声を上げてしまう事があるんだ。まるで気違いのようにね……馬鹿みたいだろ?」と彼は、自嘲的で乾いた笑いを漏らした。
「多かれ少なかれ、誰でもそんなジレンマは持ってるんじゃないですか?」と僕は、やや俯いたまま小さく答えた。
「君はまだ独身だろう。いつでもやり直しがきくじゃないか。でも俺は、カミさんやガキどもを喰わしていかなきゃならん。だから無闇に仕事を変えるわけにもいかない。結局、他に技術があるわけでもないし、きっと俺は死ぬまで、不満を胸一杯に抱えたまま今のようなくだらん雑誌の仕事を続けて行くんだろうと思うよ」
 彼は大きく煙草を吸うと、腹の中から絞り出すように溜め息を吐いた。沈黙がそっと降りてきて、二人を包む闇が、その重みを増したような気がした。僕の力では容易に押し返せないほど濃密な重い闇。そのコールタールのように重い闇が僕を押しつぶそうとする。 長い沈黙が続いた。でもそれは、ほんの三秒ほどだったかもしれない。
「鴨川さん、どこにもいないんでしょう?」
 彼は返事をしなかった。
 四方から押し寄せてくる都会のさざめきが、二人の間を、風のように通りすぎていった。
「もう、鴨川には限界だったんだよ」と彼は思い出したようにポツリと呟いた。「アイツが会社に入って来たのが、俺の二年後だ。まだ十年も昔のことさ。社長を入れても五人ほどの小さい会社だった。あの頃は、仕事ものんびりしていて、徹夜なんて月に一、二回しかなかった。夜の八時を過ぎたら、近くで缶ビールを買ってきて、よく終電までみんなで飲んだものさ。社長も儲けようなんて気がなかったし、オレ達もメシが喰えるだけ金が入ればいいとう気楽な気持ちだった。でも今は違う。取引先も変わったし忙しさも倍以上になった。社員も増えて、会社の体質も変わった。……結局、アイツはそんな会社の変化について来れなくなった。そういう事なんだ」 佐伯さんは、再び深く煙草を吸うと、指に挟んでいた煙草を弾き飛ばした。赤い炎が、微かな航跡を描いて闇の奥に消えて行った。「戻るか」と佐伯さんが言う。
「ええ……写真、どうします?」
「あんなもの、写真がなくたって誰も困る人間なんていやしないさ。編集長と副編以外はな」
「そうですね」と答えて、僕は口のなかで軽く笑ってみた。でも、僕の笑い声は、まるで泣き声のように弱々しく闇の中に立ち消えてゆくだけだった。

 

              2

 雑誌の校了が終わり、翌日から再び次の号の取材が始まる。
 テレビ局、撮影スタジオ、ロケ現場、映画配給会社、アニメ制作会社、声優プロダクション、とにかく自分の担当したページに関係ある場所であれば、都内、近県を問わず駆けずり回った。
 一人当たり二十ページから三十ページの分担で、それもページによって進行状況がずれてくるので、忙しい時には、最後の取材をしながら、別な入稿作業を行い、先に印刷所に入れた原稿の校正をする、というような事態が度々起きてくる。入稿作業のピークになると、一週間程ほとんど徹夜の連続となる。床の上で薄汚れた毛布にくるまって二時間ほど仮眠を取ることもあったが、目が醒めた後は、後頭部に鉛でも詰め込まれたような頭痛と眩暈で気分は最悪だった。日ごとに、黒いヘドロのような疲れが体中に充満していく。絶え絶えに息を切らしながら、自分の分担したページをひとつひとつ印刷所に入れていく。さながら終着点をめざすマラソランナーのような気分だ。ひっきりになしに出版社の編集長、副編から進行状況を確認する電話が掛かってきた。電話のベルが鳴るたびに、胃袋が万力で締めつけられるように痛んだ。
 そんなふうにして僕たちは体いっぱいにドス黒い疲労を溜め込み、誰にも不満をぶつけることもできず、囚人のように無言で働き続けた。
 季節の移り変わりを楽しむ余裕など微塵もなかったが、気がつくと街には鮮やかな緑が溢れていた。新緑の葉陰を揺らせながら通りすぎる風にも春の香りが漂っていた。輪郭の鋭い陽光が、街中に乱反射していて、目が痛いほどだった。
 浮き立つような気持ちで、何か新しい事が起きそうだという期待感が湧き上がる一方、事態は何も好転しないんだという暗い感情が、底なし沼のように心の奥深く沈んでいた。
 同じ『ヤング・シティ』班の池田と、お茶の水駅前の居酒屋で飲んだのは、『五月号』の校了明けの四月中旬のことだった。
 池田と僕とは同じ歳だったが、僕の個人的な理由で、会社では彼のほうが二年先輩だった。彼は、僕のような文学くずれの人間とは違って、大学時代から純粋に編集者を志してきた男だった。
 入口の前の小さなテーブルに向かい合ってビールを飲みながら、出版社の編集長と副編の悪口を言っている間は、お互い和やかな雰囲気だったが、プロダクション社長の永井さんへと話題が移っていくと、いつの間にか僕たちの意見が食い違ってきていた。
「俺たちが、睡眠時間を削って、それこそ死に物狂いで働いているというのに、何だよ永井さんは。ほとんど会社にも顔を出さず、珍しく来たと思ったら、ヘラヘラ笑いながら有名タレントと酒を飲んだ話しかしない。あんな奴の酒代のために働いているかと思うと、ヘドが出るほど情けなくなる」
 酔った勢いはあるが、それが僕の率直な感情だった。
「でも、ああやって社長がいろんな人にコネを広げてくれてるお陰で、ウチの会社も仕事が切れずにやってこれたんじゃないかなあ」 池田は、苦笑いを浮かべながら、ジョッキのビールを煽った。
「俺は、そうは思わない。あの酒代で一人でも二人でも社員が雇えるんだったら、その分を増やしてほしいと思う。ウチの『ヤング・シティ』班だけじゃないよ、こんな徹夜続きは。中学館の少女マンガ班も、毎晩、誰か彼か徹夜しているじゃないか。もうとっくに限界は越えてるんだよ。今の仕事の量を、この人員でやるのは無理なんだ。無理なのに、永井さんが仕事を請け負ってきているんだ」
「でも、仕方がない面もあるんだ。俺たちが給料の二倍以上の仕事をこなしていかなければ、プロダクションの経営って成り立たないんだ。だって俺たちの給料に始まって、社会保険料、部屋の賃貸料、電話代、電気代、水道代、それにコピー代とか深夜帰宅の際のタクシー代まで会社が負担しなくてはならないだろう。そういう維持費って結構かかるんだよな。その上で、一定の会社の利潤というものも必要だ。だから、今くらいの仕事の量は、編集プロダクションを維持していく上では当然の量だと思うな」
「だったら、会社の収支決算表のようなものを俺たち社員に、提示してくれりゃあいいんだ。そういうものも見せないで、これ以上社員は増やせないとは言えないだろう。会社は儲けてるよ」
「そりゃあ、儲けてもらわなくては困る」
 池田の、不満が籠もった断固とした言い切り方に、酔った心地にありながらも、一瞬、気分が醒めるほどの戸惑いがあった。
「儲けてもらわなくては困るって……そりゃ、どういう意味だよ」「いつまでも編集プロダクションとして、出版社のいいなりのままに仕事をしていくような会社じゃ困るってことさ」
「それと、儲けとはどういう関係があるんだ?」
 いつの間にか、自分の語気が荒くなっていた。池田の言うことに釈然としない腹立ちがあった。
「ゆくゆくはウチの会社から本を出せられるようになってほしいという事さ。そのためには資金が必要だ。取次ぎ会社とのコンタクトも取らなくちゃならない。印刷所とも直接取り引きしなくちゃならない。出版社になるためには金が莫大に掛かるんだ。だから会社には沢山儲けて貰わなくては困る。今は、ウチの会社がプロダクションから出版社へと脱皮する過渡期なんだ」
 彼の、まるで経営者のような言い方に、心の中で怒りが弾ける音が鋭く反響した。
「ちょっと待てよ。出版社になるためだから、過渡期だから、こんなに忙しくてもいいという理由にはならないだろう。徹夜続きで、みんな死ぬほどまいっている。このままじゃ会社が出版社になる前に、みんな体を壊して辞めてくよ。それだったら誰のための出版社か分からないじゃないか。そんなの結局、社長が一人で喜ぶだけのことじゃないのか」
 どうして池田は、こんな簡単なことも分からないんだと、体の内側に食い込んでくるような怒りと哀しみが、僕を激しく揺さぶっていた。
「だったら、杉本はさ、いつまでも出版社の言いなりのままに、ガキタレの尻を追っ掛けて取材したり、何度も頭を下げてアニメのセルの撮影をさせてもらったり、そんな事を永遠に続けていくつもりなのか? 出版社の編集長や副編に怒鳴られてもハイハイと謝ってばかりいられるのか? そんなことを一生続けて行くために今の会社に入ったのか?」
「いや、そうは思っていないが……」
「そうだろ? やっぱりさ、自分の企画した本を、自分で取材して、そして出版したいだろう? それが編集者の本望ってもんだ」
 僕は、何も言わずに、煙草に火を点けた。
 彼の言いたいことは痛いほどよく分かった。しかし、納得できない不満が、真っ赤な燠のように胸の隅で燻っていた。
「いいか、今の俺たちが編集者として本を出版したいと思ったら、二つしか方法はないんだ。ひとつは、今すぐプロダクションを辞めて、小さくても普通の出版社に入ること。二つめは、さっきから俺が言っているように、今のコンテンポラリィ企画を大きくして、本が出版できるまで力をつけること。この二つなんだ。だから……」「ちょっと待てよ。お前の言いたいことは分かった。お前は、要するにコンテンポラリィ企画を出版社にしたいってことなんだろう。でもよ、それを真剣に考えているのは、永井さんとお前くらいじゃないのか? 俺もそうだけど、みんなは、今の会社が出版社になればいいなんて考えていないよ。それよりも、この殺人的な忙しさを、なんとかしてほしいって望んでいるだけなんだ。それが何よりも先決問題なんだ。鴨川さんが、あんな風に辞めてったのも、もとはと言えば、この殺人的な忙しさが原因じゃないのか?」
「違うと思うな。あの人は、ひと昔前の編集者の体質から抜けきれなかったんだ。結局、落伍者なんだよ、あの人は」
「そんな冷たい言い方はないだろう……」とまで言いかけて、僕は、それ以上の言葉を継げなかった。内心、僕自身だって鴨川さんを敗残者と見ていたからだった。たとえ出版社の編集長や副編の命令口調に耐え切れなかったとしても、あんな風に忽然と辞めるべきではなかったのだ。『落伍者』と呼ばれるような辞め方を、鴨川さん自身が取ってしまったのだ。
「とにかく、彼を追い込んでしまったのは、この過酷な忙しさなんだ。こんな状態が長く続けば、遅かれ早かれ、みんなこの会社を辞めていってしまう」
 僕は、再び強く言い放つ。
 彼は、不満そうに眉毛を寄せ、ジッポのライターで煙草に火を付けた。そして横を向いたまま、しばらくの間、押し黙った。
「杉本も、辞めるつもりなのか?」
 そのまま店内を眺めるような目つきで、吐き出すように言う。
「分からない。……でも、今やってるような芸能雑誌に命を賭けようなんて気はさらさらない。同じ状態がずっと続くようだったら、いつかはそういう事になるだろうな」
「俺だって、あんな雑誌、好きじゃねえよ。でも俺は辞めない。永井さんに世話になったというのもあるけど、五年間働いてきた今の会社に執着もあるんだ。だから、できれば俺の長年の夢である、旅行のガイドブックを、今の会社から出版したいんだ。そのためには、多少の苦労は覚悟している」
 池田はそう言うと、ジョッキに残った三分の一ほどのビールをいっきに飲み干した。
 いっときの興奮は醒めて、僕は口を閉ざしたままカウンターの裏側で串を焼いている店員の姿をぼんやりと眺めた。
 池田への怒りが消えたわけではなかったが、『ヤング・シティ』班の中で、誰よりも熱心に身を粉にして働いている池田の姿を、僕はぼんやりと思い返していたのだ。「疲れている」と言えば、彼だってボロボロになるほど疲れ切っている筈だった。愚痴だって、ストレスだって、張り裂けるほど体いっぱいに詰まっているだろう。でも彼は、それを吐き出そうともせず、ひたすら自分の夢を追い求め、日々の仕事に邁進している。岩盤のように硬い現実を切り崩そうと試みている。
 それに比べ、俺はどうだろう。小説家になるという淡い夢が叶わず、それでも諦めきれずに編集者などという仕事について、夢の切れ端にしがみついている。そして編集者は忙しいと、不満を吐き出しているだけだ。
 池田は、現実に対して前向きだが、自分は後ろ向きのままだ。俺は、ただ現実の非情さに腹を立て、愚痴をこぼしているだけだ。
 店内の喧騒が、ふうっと意識から遠ざかり、僕だけが月の裏側の暗闇の中を彷徨っているような感覚があった。自分が、今どこにいて、これからどこに行こうとしているのか、本当は自分でもよく分からなかった。

 

 

              3

 五月になった。
  副編の南雲さんとの間でちょっとしたトラブルがあったのは、八日から九日にかけてのことだった。
『六月号』の担当の中で、僕は『猿飛佐助』の五ページの企画物を持っていた。『猿飛佐助』は、日本テレビで四月から始まったばかりの特撮アクションドラマだったが、この特集を僕が担当することになっていたのだ。この企画のために、僕は、小田急線の成城学園にある時代劇撮影所に二度カメラマンと一緒に取材に出掛け、台本も二か月分先まで手に入れていた。
 すでにデザイナーに頼んで、五ページ分のレイアウトは七日の夜に出来上がっていた。僕は八日の朝、原稿用紙にレイアウト通りの字数を赤エンピツで囲んで準備を整えた。五ページ全部で、ざっと原稿用紙に三十枚以上はあった。それを、僕はその日のうちに仕上げなくてはならないのだった。
 朝九時に、さっそく出版社の南雲さんから僕に電話が入った。
「編集長の滝本さんが、印刷所に原稿を入れる前に、目を通しておけって言うからさあ、申し訳ないけど、原稿が仕上がったらウチの方へ持ってきていただけませんか」
 南雲さんにしては、気味の悪いほど機嫌のいい声だった。でも僕は、自分の気持ちが氷のように冷たく萎縮するのを感じた。いつもは出版社を通さずに直接印刷所に原稿を入れているのが、副編の目を通させるというのは、このような企画物を初めて担当する僕が、まだ編集長や副編に信頼されてないということなのだ。心臓に漬物石でも乗せられたような重圧感が覆いかぶさってきた。でも逃げることはできない。立ち向かうだけだった。
「はい、分かりました」僕は簡潔に答える。
「今日中に印刷所に入れると言ってあるので、申し訳ありませんが、夕方までに、こちらへ持って来てください」
「はい」
「じゃあ、お手数掛けますが、よろしくお願いしますね」
 明るい余韻を残して、電話は切れる。彼の言葉は軽いが、僕の心は重い。ホッチキスで綴じた原稿用紙の厚い束を何度かめくってみる。はたして夕方までに仕上がるだろうか、という微かな不安が心を暗くよぎる。不安を振り落とすように、僕は深く息を吸って気持ちを整える。取材した内容が、僕の言葉にピタリと乗って、次から次へと文章に定着されることを祈りながら、最初の文字を原稿用紙の枡目に刻んだ。
 でも、その微かな不安は、やがて黒々とした岩山のように僕の眼前に立ち塞がることになった。
 昼過ぎに、副編の南雲さんから進行状況を確認する電話が入った時には、まだ五枚ほどしか原稿が仕上がっていなかった。
 資料と取材したノートと写真を眺めながら、文章を練るのだが、思うように書けなかった。二、三行書いては読み直して消し、また別な文を書く。しかし、納得できずに再び消す。そんなことばかり続いていた。必死になって、ザルで砂を掬っているような焦りと徒労感だけが心にのしかかってくる。
「なんとか夕方までに頑張ります」と答えておいたものの、消え入る寸前のロウソクの炎のような自信しか湧いてこなかった。
 昼食を食べに出掛ける余裕もなくて、同僚に弁当を買ってきてもらい、食べながら文章を練った。それでも、原稿は進まなかった。 鉛筆を握る指先が、ピリピリと細かく震えるようになったのは四時頃だった。不思議に思って、目の前で両手を広げてみたが何の異常もない。再び鉛筆を持って文字を書こうとすると、力の入った親指と人指し指、そして中指の先が細かく震え始める。鉛筆の先も、原稿用紙の表面で不吉な震えを示している。過度な緊張感のために自律神経が少しおかしくなっているのかもしれなかった。
 だからといって、どうしようもなかった。僕は、鉛筆の先を強く紙の表面に押しつけ、字が震えないようにした。
 目の前の電話が鳴る度に、背筋にピリッと電流が走った。
 焦れば焦るほど、簡潔でリズムのある文章が書けない。読み返すと、要点がまとまらずに、まるでヘビが悶え苦しんでいるような文章だ。目の前が暗然としてくる。時間が凝縮して、肩に重くのしかかってくるような焦燥感にかられる。袋小路に追い詰められて必死にあがきいている哀れな自分の姿があった。
「ちょっと、どうしたんだよ? 原稿、まだか」という、南雲さの不機嫌な電話が掛かってきたのは、夕方の六時前だった。
 やっと半分の十五枚ほどができたところだった。でも、そんなことは言えない。
「もうちょっと二、三時間待って下さい。なんとか、仕上げます」「ほんとか?……頼むよ、今日中に入れるって印刷所にも言ってあるんだから。急いで仕上げてくれよ」
「はい、遅れて申し訳ありません。できるだけ頑張ります」
 僕は、それ以上言えなかった。電話はすぐに切れる。無意識のうちに、深い溜め息が何度も漏れる。
 とにかく、やるしかないんだ。そう自分に言い聞かせ、僕は再び鉛筆を掴む。
 たかが芸能雑誌の記事が書けなくて、僕はワナに捕まったウサギのように、侘しく狂おしい気分に陥っていた。
 悲壮な思いが、腹の底からじわじわと湧き上がってくる。指の震えは止まらず、そして文章も、相変わらず進まなかった。
 誰かに手伝ってもらいたいと思って部屋の中を見回すが、誰もがブルドーザーにでも追われてるような必死な眼差しで、自分の仕事に没頭していた。
 自分でやるしかない。他に方法はないのだ。
 泣きたいような思いで、文を練る。何度書いても気に入らない。消しゴムの滓ばかりが、原稿用紙の上に散らばってゆく。まるで時の淀みの中で、手足をもがれて溺れていくような気分だ。
 時間の流れだけが気にかかる。二、三行の文章を書き進めるのに三十分以上もかかる。
 夜の十時に、再び南雲さんから電話がかかってきた。
「何やってんだよ! いったい何時になったと思ってんだ。冗談じゃないよ。もうこっちは、自分の仕事も終わって、アンタの原稿が届くのを待ってるだけなんだ。とにかく、どんなんでもいいから、早く持ってこいよ!」
 僕が「本当にすみません。急いで、仕上げて持って行きます」と答えている途中で、電話は甲高い音を立てて切れた。
 胸の中も、鋭く抉り取られたような気がした。
 原稿用紙は、まだ八枚ほど残っていたが、もうじっくりと文を練ってはいられなかった。読み返してみて、気に入らなくても書き直すことはやめた。それでも全部書き終えるのに、それから一時間あまりかかった。次に、製版指定用紙を仕上げ、写真の確認をして袋につめると、もう夜中の十二時を回っていた。
 僕は、ショルダーバッグと大きな紙袋を抱え、会社の狭い階段を降りて外に出る。
 誰も人影のないビル街の通りは、SF映画の廃墟の街のように不気味な静けさに沈んでいた。濃密な闇の重みに押しつぶされるような不安を感じる。その闇の底を、僕は広い通りに向かって歩いた。自分の立てる足音が、まるで幽霊の足音のようにひっそりと後ろから追いかけてくる。
 幾重にも重なった都会のざわめきが遙か天空の彼方から、まるで死霊の呻き声のように降りてくる。そっと耳を澄ますと、それは囁きのようにも、笑い声のようにも聞こえる。
 僕の乗ったタクシーは、真夜中の街を、馬込の出版社めざして走る。暗いシートにじっと息をひそめ、身じろぎひとつせず僕は座っていた。自分の体が、暗闇にそのまま同化してくれればいいと、ふと願う。母体の中の胎児のように永遠にこの暗闇の中に抱かれていたいと渇望する。誰からも見られず、誰にも侵されない闇の奥底にひっそりと身を隠し、自分だけの温もりに閉じ籠もっていたい。
 僕は、じっと目を閉じ、南雲さんから頭ごなしに罵倒される時が近づいてくるのを、ひたすら待った。
 馬込にある出版社の建物は真っ暗だった。だが、タクシーから降りてよく見ると、『ヤング・シティ』の編集部のあたりだけに、ぼんやりと明かりが灯って見えた。暗い廊下を抜けて雑誌編集部の広い部屋に入っていくと、北西角の『ヤング・シティ』編集部の天井だけに青白い蛍光灯が点いていた。その下で、南雲さんが、机にうつ伏して眠っている。
「申し訳ありません。遅くなりました」と僕は、彼の机に近づきながら静かに声を掛ける。
 彼は、ゆっくりと顔を挙げ、寝ぼけた顔つきのまま、まるで物でも眺めるような冷たい視線で僕を見る。何も返事をしない。僕は、彼の隣の机の上に、持参してきた袋を置き、その中から、レイアウト用紙と原稿用紙と写真の入った小さな紙袋を彼に手渡した。
「遅くなって、本当にすみませんでした」と僕は、深く頭を下げる。彼は、黙ったまま、僕の差し出した物をひったくるように取り上げる。そして机の中から赤鉛筆を取り出し、チェックを入れながら原稿を読み始める。
 僕は、まるで教師に指導されている生徒のように、彼の横にじっと立ち、僕が原稿を読むのを黙って眺める。赤鉛筆の擦れる音と原稿用紙をめくる音だけが明瞭に伝わってくる。何時間も、そうしてじっと立たされているような気がした。でも、まだ二、三枚しか進んでいない。
「ひでえなあ、なんだよ、この文章。何を言ってるか、よくわからないじゃねえか」と言いながら、レイアウト用紙と写真を持ち上げて原稿用紙と照合する。
 背中を、焼けつくような羞恥の火照りが駆け上がってきて、頭に達する。後頭部がカッと熱くなり、冷や汗が、身体中の毛穴から吹き出してきて、じっとりと濡れる。
「変なところがあったら、言って下さい。書き直しますから」と、僕は本当に書き直すつもりで言う。言いながら、自分の声が緊張感で微かに震えているのを感じる。
「こんなに遅くなって、今さら書き直してなんかいられないだろう。朝までかかって書き直すっていうのかよ?」と、まるで僕の返事など待っていない、鋭く叩きつけるような口ぶりだ。
 惨めな思いが、喉元に熱く突き上げてくる。僕は、ぐっと唇を噛みしめて、感情が溢れるのを必死で抑える。
 それから二時間あまり、僕は、南雲さんの作業が終わるのをひたすら待ち続けた。身を焼き尽くすほどの羞恥と口惜しさに耐えながら。

 

              4

 梅雨になった。曇天の空から雨が小刻みに降り続け、衣服が汗でねっとりと体に纏いついて離れない。むうっとする熱気が街の底に籠もり、胸の中までにも黴が生えてきそうな気がした。
 北海道で生まれ育った僕にとって、何度経験しても、この梅雨とうやつだけには慣れることができなかった。
 池田が、体の調子が悪いので病院に診てもらいに行ったのは六月中旬のことだった。検診の結果、腎盂炎と診断され、疲労と睡眠不足だけは避けるようにと医者に言われてきたことを、彼は、何かにじっと耐えるように静かな口調で話した。
 今後、彼については体調が回復するまで、九時半から五時半までの定時勤務で仕事をするということになった。当然、彼の担当するページ数は以前よりも減り、残りの者の分担が少しずつ増えることになった。でも、そのことに不満を言う者は、誰もいなかった。
 彼は、同じ班のみんなに何度も申し訳ないと言って、力のない笑いを口許に浮かべた。「まったく、やになっちゃうよ」と呟きながら、彼は落ち窪んだ細い目を掌でゴシゴシと擦った。

「アニメの声優で、誰か可愛い娘はいないか」という編集長の質問に「宮崎里美って子、最近、売れてきていますよ」と答えたのは、八月号の編集会議の席でだった。彼女は、その頃急に人気が出てきた魔女アニメのヒロインの声をしていたのだ。アニメ専門雑誌の彼女のインタビュー記事を、僕はつい前の月に読んだばかりだった。丸顔で、笑うと三日月の形に目が細くなる。柔らかい温もりが、その笑い顔から仄かに漂ってくる。そんな印象の女の子だった。
 結局モノクロ・オフセットの二ページ企画ではあったが、彼女の取材をすることになった。
 六月下旬の、やはり雨模様の午後、僕は中央線の信濃町駅から、閑静な住宅街の路地裏を北に向かって歩いていた。体は、相変わらず雑巾のように疲弊し切っていたが、スケジュールは時間刻みで詰まっていた。彼女の取材が終わり次第、新宿のフジテレビに寄って写真を貰い、それから赤坂のTBSに行って学園ドラマのスタジオ撮影を取材しなくてはならなかった。夜にはデザイナーからレイアイトを受け取り、原稿書きが始まる。休むひまなど微塵もない。
 彼女の取材は、手持ちのニコンで写真を何枚か撮り、三十分くらいも話を聞けば充分だろう。どうせ宮崎里美なんて声優は、たぶん他の大勢の声優と同じように、タレントくずれでプライドが高く、自己顕示欲の強い、この業界でよく見かけるタイプの女性に違いないんだ。そんな相手に、長い時間をかける必要などない。そんなふうに僕は勝手に考えていた。
『信濃町スタジオ』という白い三階建てのビルの玄関を入って、僕は狭いホールで取材の相手を待った。
 ところが約束の時間を過ぎても彼女は現れなかった。二十分、三十分と時間が過ぎる。何かの手違いがあったか、それとも僕自身の勘違いで取材は別の時だったのか。不安な気持ちが、だんだんと心の中で明確な輪郭を形作ろうとしていた。僕は、ホールの片隅にある赤電話の受話器を掴み、宮崎里美が所属しているプロダクションに電話を掛けようとした。
 その時だった。ドアの開く音と「ごめんなさーい!」と叫ぶ声が、遠く廊下の奥から反響してきた。続いて廊下を駈ける足音。
 僕は振り返った。
 オレンジ色のタンクトップに、洗い晒しのジーンズ姿の女の子が廊下の奥から僕の方へ駈けてくる。
 肩までのストレート・ヘアが波を打って揺れていた。
「ごめんなさーい!」女の子は、もう一度叫んだ。
 彼女が廊下の床に転がったのは、その直後のことだった。彼女は仰向くような恰好で、両腕を高く掲げ、虚空を掴むように振り動かしながら、後ろ向きに倒れ込んだ。
 僕は、あわてて彼女に近づいていった。
「大丈夫?」
 僕は、彼女の横に立って、彼女を見下ろしながら訊いた。
 彼女は床の上に座り、左足首をさすりながら僕を見上げた。両目いっぱいに涙を浮かべ、眉間に縦皺を寄せながら彼女は無理に笑顔を作ろうとしていた。
「ごめんなさい、遅くなっちゃって。録音が予定よりもずっとかかっちゃって……」
「それはいいけど、足首、大丈夫?」
 彼女は、うんと頷いてから、僕の目の前に細い棒のような物を突き出した。よく見ると、それはパンプスの踵だった。
「根元から、ポッキリいっちゃったみたい。けっこうダイエットしてるつもりだったけど、まだ足りないみたいね」
 彼女は、涙の溜まった右目でウィンクしてみせた。瞬いた目から涙がひとすじ流れ落ちた。
 後から振り返ってみると、僕が、彼女に恋をしたのは、たぶんその瞬間だったと思う。痛みを押さえながら、他人には天真爛漫に振る舞ってみせようとする彼女の素振りに、僕はどこか心魅かれ始めていた。
 彼女は左足のパンプスを脱ぎ、折れた踵を靴底に当てながら、
「それとも、もう寿命だったのかしら」と哀しそうない表情を浮かべた。「ねえ、もしよかったら、そこにぶら下がっている右手か左手を、貸してくれないかしら」
「うん」と口ごもりながら、僕は慌てて右手を差し出した。
 彼女は、僕の右手に掴まって立ち上がると、ビッコを引きながら二、三歩、歩いてみた。
「足首、大丈夫? 痛くない?」
「ええ、足首は大丈夫みたい。実を言えば、お尻のほうがずっと痛くて、さっきから我慢してるの」と、笑い顔を作る。眩しいくらいの白い歯が零れる。
「でも、ちょっと歩きにくいわね」
「君さえよかったら、近くの靴屋さんまで僕の肩につかまって歩いて行ったらいいよ」
「ええ、悪いけど、そうさせてもらおうかしら。なんか悪いわね、三十分も待たせたあげく、よけいな迷惑までかけちゃって」
 僕と里美は、結局近くの道路でタクシーを拾って、いつも彼女が靴を買っているという新宿の靴屋さんまで行くことになった。
 タクシーの中で、僕はありきたりの質問を幾つかした。彼女は、実に要領よく簡潔に僕の質問に答えてくれた。新宿に着くまでの間に、二ページ分の取材が終わってしまった。
「あなた、雑誌の編集者の仕事していて楽しい?」と里美が、唐突に僕に訊いてきたのは、まもなく新宿に着くという頃だった。
「どうして?」と僕は不思議に感じて訊き返した。
「だって、あなたって、今にも窒息しそうな重苦しい顔して、質問してるんですもの。私を取材してるのが、全然楽しくないみたい。まるで、自分の頭上に、ビルでも倒れてくるんじゃないかって暗い顔してるわよ」
「そんなに暗い顔してる?」
「そうよ。最初にあなたの顔、見た時から、私ピンときたもの。真面目ひとすじに、くらーく生きて来た人なんだろうなあって」
「転びながら?」
「そう、両手をバタバタ振りながら、そう感じた」
 僕と彼女の口から同時に笑い声が湧き起こった。その時、僕と里美の間にある、取材する者とされる者という垣根が取り払われたような気がした。
「小さい頃からね、真面目にだけは生きろって親に育てられてきたんだ。だから、今でもそれを守っている」
「でも、悲壮感が漂うほど真面目なのって、逆に不真面目なのよね。まわりの人を不愉快にしてしまうもの。私もそうだったら、よく分かる」と彼女は強く断言した。「自分も真面目だと思い、まわりからも真面目な人だなんて言われて、だんだんと性格が暗くなってゆくのよね。大胆なことが、何もできなくなってゆく。ほんと、悲劇よ」
「君も、そうだった?」
「そう、声優になったのも、それが理由なの。自分の殻を打ち破りたかったのよ。普通のOLの方が、自分にはずっと楽だと思った。でも暗い性格は直らないでしょう。だから常に自分を乗り越えていかなくちゃならない仕事に就こうって決心したの。別に声優でなくても何でもよかったんだけれどね。たまたま声優になってしまったというわけ。……あなた、編集者の仕事やってて楽しい?」
「まさか。こんなガキ相手の芸能雑誌やってて、楽しいわけないだろう。馬鹿らしくて、それにつまらないよ」
「だったら、どうして我慢して続けてるの?」
「今は、まだ力を蓄えてるんだ。編集者として通用する技術が身につくまでは、じっと耐えることにしてるるんだ」
「ビルの下敷きになりそうな暗い顔しながら?」
「もう精神的には完全にペチャンコになってるよ。スルメみたいなものさ」
「本当は、どんな仕事がしたいの?」と彼女が訊く。
「自分に才能があれば、小説を書いてメシを喰っていきたいと思っていたんだ。でも編集の仕事に就いて、東京には自分より才能のある人間が山ほどいるってことが分かった。石を投げれば、僕より賢い人間にぶつかるんだ。だからその夢は諦めた」
 そこまで言ってから僕は口を閉じ、やや沈黙を置いて、再び口を開いた。
「……ねえ、これじゃ逆だ。君が僕を取材しているみたいだよ」と僕は笑いながら言う。
 彼女も、ニコリと嬉しそうに微笑んでから「でも、楽しいじゃない。さっきの退屈な話よりは、ずっとマシよ」
 彼女のリスのような目が、くりくりと動いて僕を凝視める。
「じゃあ、君の夢は? 声優という今の仕事に、本心から満足してやってるのかい?」
「私、本当はミュージカルやってみたいの。歌って、踊って、人間の喜びや悲しみや怒りを表現できるパフォーマーになりたいと思ってる。それが、今の夢よ」
 彼女は、遙か遠くを眺めるような目をして、やさしい声で囁くように言う。
「どうして、すぐにチャレンジしない?」
「力を蓄えてるのよ。あなたと同じ。それにチャンスもなかったしね。……分かるでしょ、あなたもそうだと思うけれど、そうやすやすと夢なんて叶わないわ」
 そう言って、彼女は静かに窓の外を向く。焦点の定まらない視線が、車の振動に合わせて宙を彷徨う。
「ねえ、映画館の中にいるような暗い顔してる」と声を掛ける。
 彼女は、はっと我に返ったような顔をして振り向く。
「ちょっと『シェルヴールの雨傘』を想い出していたのよ」と呟く彼女の顔には、再び弾むような笑いが戻っている。
 僕と彼女は、まるで以前からの知り合いだったように、次から次へと会話が弾む。どうしてこんなに気易く話せるのだろうと、自分でも不思議になるくらいだった。気がつくと、僕たちの乗ったタクシーは新宿に着いていた。僕と彼女は、再び恋人同志のように寄り添って、伊勢丹の裏の小さな靴屋まで歩いた。そこで、彼女は目にも鮮やかな赤いパンプスを買い、持ってきた靴を修理に出した。
 僕は、薄日の射してきた新宿の街を背景に、彼女のいくつかのポーズを写真に撮った。
 別れ際に「ねえ、その雑誌は、私には、どうやって手に入るのかしら」と彼女が訊いた。
 丸の内線へ降りてゆく階段の入り口だった。
「六本木の君の事務所に届けておくよ。それでいいだろう」
「ええ、ありがとう。どんなページになるか、楽しみだわ」
「不満があれば、送り返してくれればいい」
「着払いでね。それじゃあ、今日は楽しかった。あなたの夢が、早く叶うことを願っているわ。小説家としてデビューできる日を期待しているわ」
「ありがとう。君も、早くミュージカルの俳優になれるといい」
 彼女は、「お互い、頑張りましょう」と言ってから、軽く頷き、左手を肩のあたりで振ると、くるりと振り返って階段をスキップでもするような軽い足取りで降りて行った。
 僕は、突然、一人取り残されたような寂しさを感じていた。自分の隣にいるべき筈の人が、去って行ってしまったような寂しさ。
 この孤独感は、いったい何だろうと僕は考えかけて、思考を切断する。これ以上考えるのは止めよう。寂しさが募るだけだ。彼女は、僕にとってただの通りすがりの女性に過ぎないんだ。これまでの数限りない取材相手と同じように、もう再び会うことはないんだ。 そう自分に言い聞かせると、僕は、彼女の面影を振り切るように、舗道を行き交う人混みの中へと突き進んだ。

 

 

 

              5

 池田が、会社を辞める決心を僕に教えてくれたのは『八月号』の入稿が終わった翌日に、居酒屋で飲んでいる時のことだった。
「今すぐ編集の仕事を辞めなければならないほど腎臓が悪いってわけでもないんだ。でも回復の様子がみられなくてな。医者からはさ、できればもっと負担の少ない仕事の方がいいとは言われてるんだ。でも、それよりもカミさんから、今の雑誌の仕事が、体を壊してまで続けなくてはならないほど大切なのかって、くどくどと愚痴られてさ。この前は、離婚話まで持ち出されて、その時はまいったよ。腎盂炎なんて、そんな大層な病気じゃないって説明しても、女っていうのは一度こうと思い込んだらテコでも動かないんだ。やっと歩き始めた一歳の息子がいるというのに、俺に倒れられたら、これからどうやって生活していくんだって嘆くんだ。だから……まあ、とりあえず戦士の休息っていうところさ」と、暗い居酒屋の片隅で、池田は寂しそうな笑いを浮かべながら僕に語った。
「……それから、この前、一緒に飲んだ時、俺なんか偉そうなこと言っちゃって」と池田が嗄れ声で言う。
「別に気にしてないよ。それに池田の言う通り、コンテンポラリィは、今のままの下請けじゃダメなのかもしれない」
「いや、お前の方が正しいのさ。だって俺を見ろよ。いくら大きな夢を持ってたって、体を壊しちゃお終いだよ。ナッシングさ」
 彼の口調には、闘いに負けた敗残者の挫折感しか漂っていなかった。彼の話を聞いていると、胸の中でくすぶる怒りと哀しみが、僕の皮膚を突き破り、あたり一面に飛び散っていくような気がした。 出版社が悪いのか、プロダクションの社長のやり方が悪いのか、それともこんな会社に就職した僕たちが悪いのか。そういう運命だったから、諦めて受け入れればいいのか?
 その日のビールは、いつまでもホップの苦みが喉の奥から消えることはなかった。
 八月下旬の暑い日に、池田の姿は、まるで幽霊が姿を消すように、ひっそりと会社からいなくなった。

 容赦のない強い陽射しが、都会を焼き焦がす勢いで頭上から降り注いでいた。蒸せるような暑さはいっこうに衰えを見せず、九月に入っても三十度以上の日が続いていた。
 徹夜続きの疲労に夏バテが重なって、時折、貧血のような眩暈に襲われた。朝の満員電車でぎゅうぎゅう詰めに押し込まれ、熱気の籠もる車内に揺られていると、そのまま昏倒しそうになることが二度ほどあった。僕は、近くの駅で電車から降り立ち、ホームのベンチに座って、眩暈と吐き気にじっと耐えた。
 夏が終われば、この悪夢のように忌まわしい現実も終わるような気がした。目が醒めると、僕は静かな世界に住んでいて、時計職人のように規則正しい生活を送り、農夫のように落ちついた幸福感に心満たされている。そんな静謐な世界が、すぐ目前で僕を待っているような気がしてならなかった。
 目を開く。心を引き裂くような轟音を響かせて突入してくる電車。開いたドアへ群がる人波の渦。怒鳴り続けるスピーカーと耳をつんざくベルの音。
 それが、僕の住んでいる世界だった。まぎれもない現実。そこからは、逃れようもない日常。

 九月の最初の社内ミーティングで、社長の永井さんが、今日は大事が話があるんだと深刻な顔で話しはじめた時、僕の心の中で、もしやしてという不吉な予感がざわめいた。
 社長と佐伯さんを含めた3人のデスク、それに我々平社員十一名が、部屋の片隅に、それぞれ自分のイスを持ち寄るなどして集まっていた。
「実は、『ヤング・シティ』のことなんだが……」
 彼は、軽い咳払いをしてから、顔に貼りついたような笑顔を浮かべ、あたりの社員をなんとなく眺め回した。
「今年いっぱいで、ウチは手を引くことになったんだ……」
 それまで、なんとなく騒めいていた雰囲気が、息を呑むような驚きの沈黙で静まり返った。
 やっぱり、と思いながら僕は無意識に佐伯さんの顔を眺める。彼は、特に驚いたようすも見せず、能面のような顔つきでじっとテーブルの上を凝視めている。彼は、もう以前からこの事を知っていたのかもしれない。
「編集長の滝本さんが、来年一月から部長待遇に昇進することが決まってね、それで副編の南雲さんが編集長に上がることになったんだ。今後のことについて、先週の金曜日に呼ばれて話し合いをしてきたんだけれど、南雲さんの今後の意向としては、以前からあの人と付き合いのあった別のプロダクションに『ヤング・シティ』を頼みたいということなんだ」
 彼はそこまで言うと、再び社員の顔色を窺うようにあたりを見回した。彼の表情には、仕事を打ち切られることに対する不満や怒りの表情は影も形もなく、それよりも妙におどおどとした自信のなさが、落ちつきない目の動きに見え隠れしていた。
「僕たちの仕事はどうなるんですか?」と不安そうな声で、四月から同じ班で働いている松本が、すぐに訊いた。
「いやあ、それは心配ないんだよ」と、不自然に力強く明るい声で永井さんが応える。
「あの出版社の学習雑誌の芸能ページを、ウチが担当することになるんだ。ただ、その仕事には二名もいれば十分だから、残りの二名は中学館の少女マンガ班と入門百科班とに移ってもらってもらうことにする。誰が、どこに移るかは、また後日話をするよ」
 永井さんは、大袈裟なくらいに一言一言に力を込め、売れないコメディアンのような暗い笑いを顔全体に広げ、じっと松本を凝視めて言った。松本は、社長の言葉ひとつひとつ頷き、安心したような笑顔を浮かべる。
「でも…」と僕が、やや低い声で言う。あたりの視線が僕に集中するのが分かる。
「……編集長が交代するからと言って、どうしてウチが『ヤング・シティ』から手を引かなくちゃならないんですか? 編集長の交代と、プロダクションの交代が、どうして関わりあるんですか? ちょっと、そのあたりがよく分からないんですが」
 押さえ切れない不満で、声がやや震えている。
 永井さんが、相変わらず自信のなさそうな笑みを浮かべ、僕の質問が終わるのを待って口を開く。
「いやあ杉本君、出版社の人事に、下請けプロダクションが振り回されるなんて、この世界ではよくあることさ。編集長の滝本さんとウチとは以前から付き合いがあって、『ヤング・シティ』の創刊の時に声が掛けられた。でも、副編の南雲さんにも、あの人が以前から親しくしているプロダクションというのがあってさ、そちらの方が、彼として使いやすいということなんだろう」
 僕は、じっと永井さんの目を睨んでいる。松本のように、たやすくは頷かない。どうしても納得できないという気持ちがある。
「だとしても、これまでウチが上げてきた『ヤング・シティ』の創刊以来の実績は、どのように向こうで評価されているんですか?
これじゃ、今まで僕たちが重ねてきた苦労は、まるで全部無駄だったみたいじゃないですか」
「いや、そんなことはないさ。ちゃんと滝本さんも南雲さんも評価はしてくれている。だから、学習雑誌の芸能ページという仕事も、代わりとして用意してくれたんじゃないか」
「でも僕たちは、そんな学習雑誌の芸能ページをやるために、これまで『ヤング・シティ』を必死に頑張ってきたわけじゃないでしょう。僕たちは、この雑誌の編集を創刊から二年間やってきたし、これからも続けるつもりでした。そんな、向こうの一方的な意向で簡単に変えられるなんて、僕には納得できません」
 話しているうちに、だんだんと胸が炙られるような怒りと悲しみが胸に充満してきた。
『ヤング・シティ』の仕事は呪いたくなるほど嫌悪していたし、やり続けたいなどとは夢にも望んではいない。でも、黙って姿を消していった鴨川さんのことや、身体を壊し、淋しげな後ろ姿を残して会社を辞めていった池田のことを考えると、たやすく了解することなど絶対にできなかった。
 僕は、昂ってくる感情をじっと抑えた。
「いやねえ、鴨川の失踪だとか、池田の退職だとかで、どんどんメンバーが新人に替わってきただろう。実は、そういうのって出版社にとっちゃ、あまり気持ちのいいもんじゃないんだよねえ、ぶっちゃけた話をすればさ」と永井さんが、力なく言う。
 そんなことは、別に誰かが望んで行ったことでも何でもない。仕事量のわりに人員が少ないから、そういうことが起きてしまったのだ。その責任の一端は、社長にもある筈だ。
「でも、ですよ……」と僕が、口を開こうとした時だった。
「杉本……」じっとテーブルを睨んでいた佐伯さんの、地底から湧き上がってきたような太い声が、突然割って入った。
「お前の気持ちは分かる。俺も同じ気持ちだ。歯ぎしりするほど悔しいし、許せないという怒りもある。……でも、もう決まったことなんだ。残念だけど、どうしようもないんだ。だから、今は、こらえることにしよう」
 無表情な顔の奥で、激しく燃える両目が僕を見据えている。
 こんな、人を馬鹿にしたようなことを一流出版社が行っていいものなのか。俺たちを人とも思っていない、こんな詐欺同然の仕打ちを……。でも、僕は何も言い返せない。僕の何倍もの心労に耐えてきた佐伯さんの言葉に、僕は、何も反論する術を持たない。
 僕は、永井さんの顔を睨んだまま、張り裂けそうな怒りと悲しみにじっと耐えて「はい」とだけ、小さな掠れ声で答えた。

 南雲さんから、話があるので編集部まで来てほしいと電話があったのは、その翌週のことだった。僕は、打合せがてら出版社を訪れた。彼はすぐに僕を小さな会議室へ連れていった。
「今後の『ヤング・シティ』の話は、もう社長さんから聞いたかい?」と、彼はイスに座るなり、僕に訊いた。
 僕は、いったいどんな話なんだろうと訝る気持ちで「ええ」とだけ答える。でも、話の流れ次第では、不満のひとつやふたつくらいを披露してやろうかと身構える。
「コンテンポラリィ企画さんには、本当に色々とお世話になっていながら、申し訳ないとは思っているんだ」
 僕は何も答えない。本当に世話になっていると思うのであれば、それを実際の行動で示してほしいもんだと、心の中で呟く。
「でも、僕個人としては、不満もあった」
 僕は、なんとなくテーブルの上を漂わせていた視線を、彼の方へ向ける。彼は、じっと僕を直視していた。
「鴨川さんの一件にしてもそうだ。校了の段階で写真が用意されていなかった上に、取りに行ったまま帰ってこないなんて、編集者としてというより、社会人として失格だ」
 南雲さんの言う通り、確かにあれは失格の烙印を押されても止むを得ない行為だったかもしれない。でも、そこまで鴨川さんを追い込んでしまったのは、あなたと滝本さんではないのか。
「それに、池田君だって甘いと思う。腎盂炎なんて、ちょっとした病気だ。それくらいの病気を乗り越えて働き続けない限り、この厳しい社会では生き延びてはいけないよ。僕だって、実は八年前に池田君と同じ腎盂炎を患って、多少は仕事も減らしてもらったけど、病気を直そうと思って必死に頑張った。そして、なんとか今の役職にまでになった。別に威張るわけではないけれど、コンテンポラリィで働く人達は、そのあたりの根性というか気迫に欠けると思う。だから、甘いんだ」
 冗談じゃない、と僕は心の中で呟く。あなたにプロダクションの厳しさなんて分からないんだ。あなた達は、減らした仕事を下請けに回せば、それで済むかもしれない。でも僕たちは、いったいどこに仕事を回せばいいというんだ。その上僕たちは、たとえ病気に乗り越えて頑張り続けたとしても、しょせん下請けという厚い壁を突き破ることはできない。どこまで行っても、永遠に太陽を見ることのない土中のモグラのようなものだ。僕たちは、退職するまで出版社の人間にぺこぺこと頭を下げ続け、遣り切れない憤怒と諦めを身体中に溜め込んだまま、この出版界の谷底をさまよい歩かなくてはならない。そういう基本的な事実を、あなたは何も分かってはいない。あなたは結局、出版社の立場でしか物を見ることができない人間なんだ。だから、そんな立派なことが言える。
「ところで、これからが本題なんだけどさ」と南雲さんの表情が、やや緩む。「来年から『ヤング・シティ』を別なプロダクションに頼む予定なんだけどね、実は経験もあって信頼できる人に手伝ってもらいたいと考えているんだ。……いや、もっと端的に言うとさ、杉本君に、これからも『ヤング・シティ』を手伝っていってもらいたいんだ。取り敢えずは、ウチの嘱託という形でね。でも嘱託とはいっても、ゆくゆくはウチの正社員になってもらいたいと考えている。まあ、最低二、三年は頑張ってもらって、それなりの実績を挙げてもらわなくては困るけどね。ねえ、どうだろう?」
 彼は、実にやさしそうに目を細めて僕を見ている。
 つい今しがたまでの憤懣は消え去り、喜びと驚きの入り交じった感情が、足元からじわりと湧き上がってきた。
「いや、編集長の滝本さんとも話していてね、君は、まだまだ編集者としては未熟だけれど、仕事に対する真面目さと熱意だけは光っていて、これからが期待できる人物だから、ぜひ、ウチで面倒をみたいということになったんだ」
 自分の仕事振りが評価されたという、胸が弾けるほどの素朴な喜びが心を震わせた。たとえ、それが滝本さんや南雲さんの評価であってたとしても。でも、どうしようかと、迷う。
 この話に乗れば、出版界のどん底から這い上がれるかもしれない。一流出版社の社員でさえ夢ではないのだ。それは嬉しい。でも、と思う。そうすると、鴨川さんや池田、そしてコンテンポラリィのみんなを裏切ることになりはしないのか。出版界のどん底で、共に励まし合って困難を乗り越えてきた仲間を置いて、自分だけが抜けがけするなんてできるだろうか。
「ねえ、どうだろう?」と、相変わらず、今まで見たこともないような微笑みを顔全体に広げて、南雲さんが言う。
「実は、お宅の社長の永井さんには、それとなく内諾は取ってあるんだ。だから、そちらの方の心配はいらないんだよ」
 嬉しくはあるが、この場ですぐに結論は出せそうになかった。
「しばらく、考えさせてくれませんか?」
「そりゃ構わないさ。でも、そうだなあ、ひと月くらいの間に、結論を出してもらえないかな? こっちにも予定があるしさ」
「ええ」と、僕は軽く頷いた。

 

 

 

              6

 南雲さんからの話は、なかなか決心がつかないでいた。自分一人だけが、仲間を置いて牢獄から逃げていくような罪の意識が、僕の心に憑りついていた。一度、そんな思いに囚われると、身動きの取れない泥沼に両足から沈み込んでいくようで、さらに迷いが深まるばかりだった。

 六本木のテレビ朝日の番組宣伝部に『ヤング・シティ』を二冊置き、ついでにアニメ番組の資料を貰って外に出ると、西の空が真っ赤に燃えていた。うろこ雲が夕陽の朱色に染まり、鮮血が飛び散ったような壮絶な赤が空全体を覆っていた。まるで都会に憑依した怨念が、陰惨に燃え上がっているような毒々しさだった。夕焼けを映して、あたりの街路や建物の壁面までが、にぶい血の色に染まって見えた。
 僕は、こんな激しい夕焼けが東京にもあったことに驚き、空を見上げながら、地下鉄の入り口に向かって歩いていた。
「……本さんじゃない?」
 騒がしい街のざわめきの彼方から、微かに自分の名前が呼ばれたような気がして、僕はゆっくりとあたりを見回した。
 どこかで見たことのある女の子に視線が止まった。一瞬の間を置いてドキリと大きく心臓が収縮した。自分のすぐ近くに立っている人が実物とは信じられなかった。僕は「ああ」と素っ頓狂に高い声を出していた(と彼女が、後から僕に笑いながら教えてくれた。) 宮崎里美が、弾けるような笑みを顔いっぱいに浮かべて、僕を凝視めていた。それから通行人を避けるようなしぐさで僕に近づいてきて、軽く頷いた。
 足元から嬉しさが立ち登ってきて、身体がふわりと浮くような感覚があった。
「何してるの? こんなところで」と彼女が先に口を開いた。
「何って、テレ朝に寄ってきたんだ。……君こそ、どうして?」
「私、事務所からの帰り。ちょっと打合せがあってね」それから西の方を指さし「……すごい夕焼けね」
 彼女は、軽く空を仰いでから、感激した素振りで目を大きく見開いて、ヒューと掠れた口笛を吹いた。
「うん」と僕は相槌を打つ。
「まるで世界が火の玉に覆われちゃったみたい。地球最後の日ってこんな風なのかしら……」
「さあ」と、僕もわざとらしく空を見上げる。
「ところで私の記事、読まして貰ったわ。文章がとっても素敵だった。さすが小説家希望だけのことはあるわね」
「ありがとう。褒められると嬉しいよ」
「それから街灯に寄り掛かっている写真も気に入っちゃった。」
「よかったら、引き伸ばしてプレゼントしてあげるよ」
「ほんと? ありがとう、ぜひ欲しい。……ねえ、私にコーヒーおごらせて。お礼としてはちょっと足りないけれど。今忙しい?」
「別に忙しくはないよ」と僕は答えた。
 僕と里美は近くの『ラ・セーヌ』という喫茶店に入った。
「ねえ、さっき、気がついた?」と里美。
「気がついたって、何を」
「ほら、さっきの火の玉のような夕焼け。ぼんやりと見上げながら歩いていたの、あなただけよ。あとは、だーれも空なんて見上げていなかった。みんな、ただひたすら前だけを凝視めて必死に歩いていたわ。それで私、夕焼けなんて眺めている、あの田舎モンは誰かなあって、よく見たら杉本さんだったってわけ」
「今日は、たまたま空を見上げる心の余裕があったんだ。いつもは僕も自分の足元しか見て歩いていない。それで精一杯だよ」
「ほらほら、またその顔。空が焼け落ちて、焼死しそうなくらーい顔してる。……なんか悩み?」
「ちょっとね。いろいろ迷ってるんだ」
「ねえ、聞かせてよ。この前は、私が取材される側だったから、今日は、あなたの話を聞かせて?」
「楽しい話だったら聞いていて面白いけかもしれないけれど、他人の悩みなんて実につまらないもんだよ」
「私、そーいうのとっても好きなの。ねえ、私相談に乗ってあげるから、ぜひ聞かせてよ」
 結局僕は、彼女の軽妙な誘導に乗せられて、自分の境遇やら、今回の一件について彼女に話すことになった。
 話し終わり、心が二、三キロ軽くなったような爽やかさを、僕は何年か振りくらいに味わった。
「あなたは要するに、その南雲さんという副編集長さんに、利用されようとしてるのよ」と、僕の話が終わるのと同時に、彼女は、いともさり気なく断言した。
「どうして、そう思う?」
「だって、そうでしょう。南雲さんは、もっと自分の自由になるプロダクションを使いたい。でも、そこに全面的に任すには不安がある。だから経験者としてのあなたを、正社員というエサで釣り上げて、自分の手先として使おうとしてるのよ」
「エサ……?」
「そうよ。あなたを、編集者として本当に評価してるのなら、最初から正社員という条件で引き抜いてもいいでしょ。でも、そうは言ってないわ。二、三年実績を上げたら正社員にしてやるということは、実績を上げなければ、正社員にしなくてもいいってことでしょ。だからエサなのよ」
「確かに、君の言う通りかもしれない」
 僕の熱心さを評価しているなどという南雲さんの言葉で、完全に浮足立っていた僕は、そんな簡単な事も見抜けなかったのかもしれない。心の中で、腑に落ちなかったひっかかりが、彼女の言葉で氷が溶けるように消えていった。
「それと、もう一つ問題があるわ。あなたは今の芸能雑誌を心から望んでやっているわけじゃない。だから、たとえ出版社に移ったとしても、結局あなたはいつかは辞めてしまう人だと思うわ」
「それも、君の言う通りかもしれない」
 結論が出た。それも、たった二度しか会っていない女の子が、僕の迷いに結論を出した。
 喫茶店を出ると、原色のネオンが色とりどりに輝く夜の六本木には、昼間とは違った暗闇の奥で陰鬱に燃え上がるような熱気がこもっていた。人の流れも昼間以上の賑わいがあった。頻繁に行き交う車の間から、時折、甲高いクラクションが狂人のような叫び声を上げる。
 地下鉄への階段を降り、改札口を抜けて僕達は立ち止まった。そこから僕は日比谷方面のホームへ、彼女は恵比寿方面へのホームへと、別の階段を降りなくてはならない。
「また、あなたの話を聞かせてほしいわ。編集者もけっこう大変だってことが分かって、面白かった」
「本人は、何も面白がってはいないんだけれどね」
「それじゃあ、また、お会いすることがあったら」
「うん、またいつか」
 彼女の柔らかい微笑みが、僕の心を魅きつけて離そうとしない。一瞬たまらなく彼女を愛しいと思う。僕のそばから立ち去らないでほしいと心から願う。
 彼女は、片手を肩のあたりでひらひらと振ると、くるりと振り返って、向こうの階段へと姿を消した。
 僕の胸を、引き裂かれるような痛みが走る。
 僕の身体の内側が、虚空のがらんどうになって、そこを木枯らしが吹き抜けていくような淋しさだ。
 このまま別れれば、これっきりになるかもしれない。いや人の渦巻く都会の底では、二度と会わない可能性のほうが遙かに高いのだ。だから今日の再会は、本当に奇蹟的だったのだ。
 でも僕の足は動かない。彼女の姿が、僕の心の中からだんだんと遠ざかってゆく。彼女は名の知れた声優で、僕は出版界の底辺を彷徨う使い捨ての編集者にすぎない。僕と彼女の組み合わせなんて、あまりにも落差が大きすぎる。所詮、僕なんて彼女に相手にされるような男じゃないんだ、と自分に強く言い聞かせる。
 でも、本当にこのままでいいのかと、僕は自問自答する。時の淀みの中で、僕の心は揺れ惑う。
 僕は意を決して足を出す。最初はゆっくりと、やがてだんだん速くなる。階段の上までくると、まだ里美の姿は五メートル程しか離れていなかった。
「ちょっと話があるんだ」と、僕は思い切って声を掛ける。
 里美の姿が二歩ほど進んでから止まり、僕を振り返って見上げる。驚いたように目を大きく見開き、口だけは笑いながら「どうしたの?」と頭を微かに傾ける。
 心臓が口から飛び出そうなほど激しく打っている。
 僕は、彼女のいるところまで、ゆっくりと降りていく。
「また、会ってもらいたいんだ」と、僕は言う。声がうわずっているのが自分でも分かる。
「取材なの?」
「いや、そうじゃなくて……個人的に」
「個人的に?……どうして?」
「どうしてって……とにかく、君と会って話がしたいんだ」
 僕は必死の思いで、彼女の質問に答える。
 彼女が、やや思案深げに僕を凝視める。笑っていた口許が、だんだんと一文字にきつく閉じてゆく。彼女は、無表情な顔つきのまま、しばらく沈黙の中に閉じこもっている。
「私、つきあっている人がいるの。それでも私と会って話がしたい?」
 一瞬、目の前が暗くなる。諦めようかと思う。
 僕は唾をゴクリと飲み込もうとする。でも口の中が乾いていて、うまく飲み込めない。
「それでもいい」
 彼女は、睨むように僕を凝視めている。
「変な人ね……」
 僕は何も言わず、彼女の目をじっと見る。
「……嘘よ、今つきあっている人はいないわ」
 ほんの一瞬、彼女の目に投げやりな笑いが浮かぶ。
「私みたいな女とつきあったって、何もいいことなんてないわよ」 僕は、「そんなことはない」と軽く首を横に振る。
「私、男性経験、結構あるわよ」
 彼女の両目は異常に険しい。まるで、僕に喰いつくような激しさだ。瞳の奥が、真っ赤に燃えているような気がする。
「関係ないよ、そんなこと」
「それに私、我儘だし、プライド高いし、自分勝手だし、ずるいし、……そんな女よ」
 僕は、彼女の目を凝視めたまま「君がいいんだ」とだけ呟く。
 怒ったような真剣な目つきのまま、彼女は僕の方を見ている。
 僕は、彼女の次の言葉をじっと待つ。永遠のような長い沈黙が二人の間に横たわっている。
「いいわよ。でも……」と彼女の囁きが、だんだんと強くなってきた電車の響きの向こう側から、微かに聞こえたような気がした。
 階段の下から、排気ガスの籠もった熱風が吹き上げてくる。都会の腐臭と人間の汚物の臭いが混じったような熱風だ。地下の暗闇に閉じ込められ、電車の動きによって迷路を行き来するうちに、だんだんと腐敗していく澱んだ空気。出口のない都会の墓場で、しだいに死んでゆく空気の重みが、僕たちの身体に纏いつく。
 どこまで行けるのだろうと僕は思う。里美と共に、この都会の迷路の底で、僕は、どこまで行けるのだろうと思う。

 

 

【帯広市図書館「市民文藝」第34号1994年発行 掲載】